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孫崎享氏については、名前はさすがに知っていたが、著書もふくめてその文章を読んだことはこれまでたぶん一度もなかったと思う。ただ最近出版された「戦後史の正体」という本が話題を呼び、よく売れていること、その一部(100ページ分)がネットで読めるということを知り、それを読んでみた。
http://www.sogensha.co.jp/pdf/preview_sengoshi_ust.pdf

これは他の人の感想にもあったのだが、この本の文章は最初のページから何か一種異様な心持ちにさせられるもので、この印象は100ページを読み終わるまで変わらなかった。孫崎氏によると、そもそもこの本を書いたきっかけは、出版社から「日米関係を高校生でも読めるように書いてみませんか。とくに冷戦後の日米関係を書いてほしいのです」と「相談され」たことだったそうだ。「「高校生でも読める本」という言葉は魅力的です」とは著者の弁だが、申しわけないが、できれば高校生にこういう本は読んでほしくないものである。「日本のみなさんは、戦後の日米関係においては強固な同盟関係がずっと維持されてきたと思っているでしょう。そして日本はつねに米国から利益を得てきたと。とんでもありません。米国の世界戦略の変化によって、日米関係はつねに大きく揺らいでいるのです。おそらくみなさんもこの本をお読みになることで、日米関係の本当の姿がおわかりになると思います。」というが、日本に「戦後の日米関係においては強固な同盟関係がずっと維持されてきた」「 日本はつねに米国から利益を得てきた 」と思っている人間はそうそういないだろうし、「おそらくみなさんもこの本をお読みになることで、日米関係の本当の姿がおわかりになると思います。」などという言葉は、厚かましすぎるだろう。100ページを読んだだけでその本に対する結論を出すのは早計だという指摘もあるだろうが、歴史を語るというのに、100ページもの長い文章中に実証精神がどこにもまったく感じられないこのような本は、やはり「珍書」「トンデモ本」といわれても仕方がないように思う。

この本の後半では岸信介に対する驚くべき新たな評価がなされているようだが、私はここで岸信介が首相に就任した年の57年、および日米安全保障条約が国会で審議中の60年初めに岸について書かれた中野重治の文章を紹介したい。中野はこれにかぎらず岸信介という政治家について、またその政策について幾度も言及しているが、私はその指摘は全体的に岸の核心を衝いた信頼のおけるものだと思っている。注目したいのは、中野重治は吉田茂についてもきわめて批判的だが、この吉田より岸はずっと悪質だと述べていることである。中野は1947~50年の3年間にわたり日本共産党の参議院議員として活動しているので、吉田茂の首相ぶりは身近で見ていたことになる。すこし話が脱線気味になるが、いろいろな人の発言をみると、中野は実は国会議員として大変優秀だったようである。この点については機会があれば、また取り上げたいと思うが、中野重治が国会質問や演説に立つ日には、「傍聴席におおぜいの人がつめかけて、せまい委員会室などは身うごきならぬくらいだったという。このことは、当時の関係者たちが口をそろえて語っている。同僚議員だった社会党の木村禧八郎もそう言っている(「ほんものの人間としての中野重治さん」)。そのころの参議院議長は松平恒雄で、この人は会津藩主松平容保の子息で、共産党ぎらいだったが、中野議員の演説だけは聞くのを楽しみにしていたという。」「中野重治の国会演説は、論理が平明で、叙述が具体的で、言葉が厳密だった。そうして言葉だけでなく、演説それ自体が簡潔だった。」「中野重治の演説が藝術的で、心をうつものがあり、彼が当時の参議院で一、二をあらそう演説家だったことはまちがいない。」(「[増訂]評伝中野重治」松下裕(平凡社2011年))。松下氏によると、中野には、「自分が国会議員だったころのことをまとまった一つの小説に書くつもりがあった」そうである。松下氏も「中野重治のような観察力と表現力をそなえた文学者で、国会議員としてこれほどの活動をした人はその後も出ていないので、そういう作品のできあがらなかったことは残念なことだった。」と述べているが、こうして中野重治にそういう小説の意図があったことを聞かされると、私なども今さらのように残念に思う。ちなみに、中野の議員生活が3年間という中途半端な期間だったのは、彼が当選した第1回の参議院議員選挙では当選者のうち半数の上位当選者は6年間、残りの下位当選者は3年間任期という規則があらかじめ定められていたのだそうである。これも後になって振り返ってみると本当に残念なことだったと思う。せめて6年間くらいはやってもらいたかった、と思わずにいられない。それでは、以下に「どうして岸に書ける」「岸グループと天皇グループ」の2本の文章を引用する。


 どうして岸に書ける (『アカハタ』1957年8月・全集第23巻)
 西太平洋のなかのぽつんとした島、目にもはいらぬようなあのウェーク島が、アメリカ陸海軍の重要基地になつたのは1936、7年ころのことだつたろう。
 41年年末、ハワイの真珠湾へ不意討ちをかけた日本海軍は、たちまちここを占領して軍政をしいた。ウェークはその名も大鳥島と日本風にあらためられた。日本の兵隊はここで悪戦し苦闘した。
 とくにしまいのころがひどかつた。形勢逆転して、アメリカ海軍のほうが攻撃をかけてくる。アメリカ軍飛行隊がものすごい量の爆弾を投げおろす。それを風のように、浪のようにくりかえす。
 日本陸海軍はそのウェークに食糧をとどけなかつた。兵器をとどけなかつた。援軍を送らなかつた。とどけようにも送ろうにも、しかけが無理だつただけに、いまとなっては手も足も出ないというのが事の真相だつただろう。
 日本の兵隊は非常にたくさん死んだ。武器なし食いものなしで、彼らはにぎりこぶしひとつで戦つてたおれて行つた。生き残つたわずかの人が、1945年9月に降伏した。
 それは、降伏しようにもしきれぬ心持ちだつたにちがいない。まして死んだもの、殺されたものは、死ぬに死にきれぬ気持ちで仕方なしに死んで行つたにちがいない。成仏しかねるところ、たましいが中有に迷うといったところだつたにちがいない。
 彼らの亡霊が出る。それがあすこを通る日本飛行機にはたらきかける。そこで日本飛行機の事故が後を絶たぬ。こんなうわさが出たにしても、出るには出るだけの根拠があったといつたところだつたにちがいない。
 そこへ今度岸がアメリカヘ行った。話が岸の耳にはいった。遺族方面からもいろいろと要求がある。そこで岸が、このウェークに戦役者の慰霊碑を建てよう、その文字は、墓碑銘は、自分岸が筆をとつて書こうと言いだした。
 いや、いや、慰霊碑を建てるのは悪くあるまい。だが、字を岸が書いて、それで慰霊になるものかならぬものか。
 満州国産業部長、日本政府商工次官、東条内閣の商工大臣、同じく軍需次官(長官は東条)、何よりもあの開戦宣言の署名人、ウェークに兵隊をおくつて、ほとんどこれを見殺しにした男の字でウェークにそれが建つのを黙つて見ているものがあろうとは私には思えない。

 岸グループと天皇グループ (『アカハタ』1960年2月16日号・全集第14巻)
 ――安保特別委を前にして――
 戦後のある時期に「パンパン」という言葉が出来た。これはある事実が生じてそこで言葉が出来た。言葉は出来たが、宮本百合子はそれを使うことができなかった。彼女は、なんだか、「カタカナ言葉を二つ重ねた呼び方」とかいつた書き方でやっとそれを指していた。一人の日本人女として、その女きようだいたちにたいし、このカタカナ言葉を自分のペンで書くのに耐えなかつたのだろう。
 その後「オンリー」という言葉が出来た。これも事実が生じてそれから言葉が出来た。さて、「パンパン」ががさつで開けつぴろげなのにたいして、「オンリー」はじめついて内攻的に響いてくる気がするが、岸と岸グループを見ていると極く自然にこの「オンリー」が頭に浮ぶ。
 その直接の元祖は吉田茂とそのグループとだつた。「マッカーサー元帥にじかに会えるのは私だけなのだから、ぐずぐずいうな。」というのが取っておきの彼のせりふだった。それが今度は、一直線に、「事前協議について、私とアイク大統領とがこう共同宣言にいつてるのだから、日本の人民も、国会の野党も、ソ連政府、中国政府も、ぐずぐずいうな。」というところへ出てきた。オンリーぶりも極まつたというところだろう。
 けれども、吉田は頑固ものだといわれた。岸はそつがないといわれている。そこはどうなるか。しかし実をいえば、あのときの吉田には押しつけられた形があつた。今度の岸はすすんで買つて出ている。少なくとも、対等なのだと、すすんで買って出てるのだと自分で言っている。吉田が頑固ものと見せた軟骨漢だつたとすれば、岸はもみ手をした暴力団ということを基本性格としているだろう。卑俗にいっても岸の方がひどく卑しい。いまに始まったことでもないらしく、『世界大百科辞典』に「つねに時流に乗ずるのに敏で、政界のかけ引きもうまく、官僚出身政治家の筆頭にあげられている。」とかねて書かれている。
 ただ現実の「オンリー」たちは権力の座にはいない。彼女たちはさんざんに侮辱され、踏みつけにされたうえに捨てられ、まかりまちがつて殺されてさえいる。その悲しい荒かせぎのなかから彼女たちは税金を出している。それが日本にいるアメリカ軍の費用の半分、百十一億の部分にあてられ、岸の食いぶちをまかない、彼のアメリカ往復の旅費の一部をまかなつている。ひもつきということでどれだけオンリーめいて見えるにしろ、岸をオンリー呼ばわりするのは彼女たちを直接にも侮辱することであるだろう。
「極東」とはどこだかということが問題になつて、すべったの転んだのと岸が言っている。国会での問答はそれとして、この「極東」には全く限定がない。それは限定のないこと、無限定ということをこそ前提としている。現にアメリカ政府が、これは限定されてはならぬのだといつて日本政府の尻をたたいている。岸は、ただ簡単に、「東洋平和のためならば、何の……」といった歌、彼がさきに立つて歌わせた歌のあの「東洋」を思い出せばいい。もつと直接に、彼自身になかなかに関係の深かった、1946年5月からの「極東国際軍事裁判」の「極東」を思い出せばいい。核兵器をかついでなぐりこみをかけようとしている本人が、なぐりこみをかける当の場所をこれこれと指定して、その線からは一歩も踏みこみませんと約束して「事前」に自分をしばる馬鹿があるだろうか。
「極東」の限定が猫の目のように変るのは、それを無限定のままに固定させようという本来の目的のための手つづきを出ない。岸本人がそのさきへ出てしまつている。岸本人が金門島、馬祖島まで持ちだしてしまつている。
 ハボマイ、シコタンの問題でとうとう岸は「国民感情」を持ちだした。特に岸は、2月10日の国会答弁で「シナ」と「シナ大陸」とを持ちだした。(テレビ放送の限りでは、このとき「シナとは何だ。」というような声が誰からも出なかつた。また新聞は全然これにふれなかつた。) 国民感情、国民感情、この言葉が出るときこそ気をつけろ、という気持ちを忘れさせられるほど日本人一般が馬鹿で、岸がわるがしこくて、このわるがしこい岸が成功するだろうと岸と岸グループとは信じているのだろうか。
 調印を追つて出した新日本文学会の声明は、調印によつて問題が「新しい段階」にのぼつたことを認め、日本政府が、中国、朝鮮、ソ連などにたいする「敵視」態度から「敵対」態度に移ったこと、直接の挑発へと乗りだしたことを認めた。中国を「侵略国家」だとしてきた岸政府が、当の「侵略国家」へ侵略者として「自主的に」乗りこむことを声明して中国が「静観」すると考えるほどわれわれは盲だろうか。中国政府、ソ連政府の内政干渉をうんぬんする岸グループは、彼らの日本政府の仕事が、アメリカにとつては内政問題であるのに近いことを告白しているだろう。
 だからまた新日本文学会の声明は、アメリカ政府が日本「政府の意志に反して行動する意図のないことを保証する」といつているのは、日本「国民の意志に反して行動する意図のあることを保証する」というのに「近い」といっている。安保特別委はどうこのへんをしぼるだろうか。
 しかし別の問題もある。つまり天皇の問題がある。憲法でいえば、第七条本文とその第一項との問題というのになるのだろう。
 天皇の「人間宣言」が何を目論んで出されたかははつきりしている。さつきの「極東国際軍事裁判」との関係で、天皇が何を目的にどう取りあつかわれてきたかもはつきりしている。共産党が初めて合法化されての国会選挙のとき、天皇が何を目あてに国内旅行をさせられたか、憲法がメーデーの日取りとどう組み合わせた日取りで出されたかもはつきりしている。皇太子のいいなずけ決定、結婚が、警職法、選挙違反大量特赦とどう結びついていたか、皇太子夫妻のアメリカ行きが、何を目標に、本人に事前に話すことなしに取り決められたかもはつきりしている。こんど調印された新安保条約案が、どれほど日本と日本人民とを直接に侮辱してるか、どれほど大速度で日本を侵略戦争のお相伴に引きこもうとしているかは言うまでもない。そこで、万に一つもこれが国会を通つたとなつたらどうなるか。批准されたら――というのはそれだけで誤った先走りだと誰かが言うとしてもかまわない。
 先走りであつてもなくつても、批准もされ、公布もされてからでもかまわない。そうなつたあとででもこれはぶち破らなければならぬのだから。
 ところで憲法は、「条約を公布すること」を、天皇の、「内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。」のなかに入れている。そこで、岸グループの「助言と承認により」、天皇は、「国民のために」ほんとにこれを「公布する」のだろうか。そこまでも、天皇には、「国民のために」の正反対に出る肚が自覚的にあるのだろうか。
 私は天皇に憲法違反をやれというのではない。けれども、この天皇は「人間宣言」をしただろう。私は日本国憲法に従う。これを尊重する。私は天皇にひとかけらの政治的権能でもを返してやろうというのではない。けれども、人間として、また一人の日本人として、これを「国民のために」公布することが天皇にできるかできないか。
(略)
 ただし私はこれを直接天皇に問おうとは思わない。しかし憲法学者たちはここをどう解釈するか。もつとも、国会が批准しなければこのたび限りここは一応きりぬけられる。 」

「天皇グループ」ということについては、中野重治は、死の年(1979年)に、「分割された領土――沖繩、千島、そして安保――」」(進藤栄一『世界』1979年4月号)という文章を読んだ感想を次のように述べている。

「……しかしここで、私などがどこまで何も知らずに、また知るための工夫について考えることなしにやつてきていたかも明けすけに見えてくると思う。天皇を含む日本政府側が、どれほど露骨に、どれほど言葉のないところまで卑しくアメリカ政治上層部また軍部に、国と国民とを差し出すばかりにしていたか、それをどこまで私たちが――と言って言いすぎならば私自身一個として知らずにやつてきていたか、それが今となって恥じている暇なくじかに責められてくる事実について一言だけ書いておきたい。」(『わが生涯と文学』筑摩書房1979年)

「分割された領土」のなかで中野重治に特に衝撃をあたえたのは、寺崎英成をとおしてシーボルトに伝えられた「天皇は、アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。」という内容の「天皇メッセージ」だったことは間違いないと思われる。
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2012.10.13 Sat l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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