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大分寄り道をしてしまったが、それでは、中野重治の「意義あり」(1956年4月16日号「アカハタ」・全集第13巻)を以下に引用する。


   一 どこに異議があるか
 だれかが意見をのべる。「異議ありませんか。」と議長がいう。だれも黙っていれば、異議なかったもの、その意見に、大体においてみなみな賛成したものと自然になつてしまう。
 ところで、私に異議がある。それは小さい。格別めくじら立ててさわがねばならぬほどのものではない。けれども、ちよつとしたことを黙つてほうつておいて、あとでそれが大きな損になつて帰つてきたことは日本でずいぶんあつたではないか。
『アカハタ』の文藝時評(3月6日号)で、小田切秀雄が、石原慎太郎の「処刑の部屋」のことを、「太陽の季節」とは「ちがうすぐれた作品」だといって、「流行しはじめたみじめな不良青年文学のなかで、この『処刑の部屋』だけは特別だ。」と書いている。ほんとうにもそうだろうか。私に異議がある。(略)

   二 文壇と安定
 作品「伸子」「によって、彼女〔宮本百合子〕の文壇における安定した地位が保障された。」――こういうことが、あつたとも、またありえるとも私には思えない。
「文壇」という言葉には、だれにもわかる一種の曖味さがある。それは、日本の文学世界を一面的に代表する。しかし全面的には代表しない。日本の文壇は、支配的な大資本の力で非常につよく動かされる。支配的な政治の力ではいつそうつよく動かされる。支配的な大資本の力と支配的な政治の力と、これをあわせて支配的なジャーナリズムの力といつてもいい。この資本の力と政治の力とはたえず動く。戦争のときの「文壇」を思い出せばいい。いまならば、『文藝』の審査会で、「『太陽の季節』なんて作文ですよ。あれはね。」と川端康成がいつて一座「笑」になつた石原慎太郎さわぎを考えてみていい。
 だからそこには、残酷なことがある。『新潮』の座談会で、「つまり文壇ジャーナリズムというものが段々藝能化してくるんだよ。その犠牲者なんだ。その藝能化してくるのは何も文藝春秋が悪いのでもなければ、芥川賞銓衡委員会が悪いのでもないけれど、何かそういう藝能化してくるときに彼〔石原〕はいいカモだったんだ。」と河上徹太郎がいっている。石原がもともと鴨だつたにしろ、これを鴨としてとらえたのは、芥川賞銓衡委員会、文藝春秋新社、その他あれこれだつた。河上流にいえば、「つまり文壇ジャーナリズム」の「段々藝能化して」きた傾向ないし事実だつた。そしてこのものは、文学からその本来の機能をうばおうとする日本最近の支配的大資本と支配的政治とに由来した。残酷さは若い作家にだけではない。『中央公論』は永井荷風の「男ごころ」を発表した。こういう目をそむけたくなるような出来そこないを発表する雑誌のむごさ、それが目をそむけたくさせる。
 それだから、「文壇」はしょっちゅう変る。相当の仕事をしながら、ジャーナリズムから捨てられて、その日をすごしかねて無残な死に方をした人には例がある。それだから、すくなくとも日本では、明治以来、「文壇における安心した地位」ということは、なかつたし、ありえなかつた。ある種の人間が、勲章、年金、恩給の老年期を迎えたのとはかなりにちがつている。
 むろん、「文壇」が文学なのではない。すぐれた作品、つよい作家は、「文壇ジャーナリズム」もこれを認めねばならなかつた。またこれを受け入れた。国会などに似ている。(略)

   三 「新しい世代」ということ
 つまり、文壇と文壇ジャーナリズムとは、支配的な大資本と支配的な政治との力で動かされる。この「文壇」に、日本文学そのものの求めている発展の航路へ舵をきらせるのは、支配的な大資本と支配的な政治とにたいしてたたかうものの仕事になる。この仕事は、いつも一本すじで行くとは限らない。それは、かちどきとして出ることも泣きごえとして現われることもある。しかし基本的に、抵抗、たたかいとして、ある程度の文学的出来ばえで登揚してきたときにそれが文学的新世代と呼ばれる。
 それだから、文学の上で新しい世代というときの第一条件は、作者の年の若さではない。樋口一葉が40で「たけくらべ」を書いても、宮本百合子が30で「貧しき人々の群」を書いても、彼女らは1895年の日本と1916年の日本とで文学の上の新世代だった。この点、石原慎太郎は古い古い世代ということになる。この青年は、23にもなりながら、大学まで出ながら、23までに死ぬほどの目をみさせられる男や女、大学からも高等学校からもしめだされている無数の才能、それが日本文学と正当にむすびつくことにたいする抵抗材料として、恰好な、日本文学藝能化のための「鴨」として支配的な大資本と支配的な政治との手でつまみあげられたことをよろこんでいる。いわばファシズムヘ行こうとする勢力のために政治の道具としてつつころがされながら、本人は、「若造が何を生意気なと言われるだろうが、その『生意気』を大切にしたい。」だの、「このむやみに積極的な行為の体系の中に生れた情操こそ」だの、「この、いわば、狂暴な思いあがりをなくすことなく動きながらぎらぎら生きて行きたい。」だのといって(『朝日』1月25日号)コップのなかでふんぞりかえつている。それだから、彼に芥川賞をあたえた人びと本人たちが、この「新人」に、愛情も、尊敬も、畏怖まじりの嫉妬も、石原に気の毒になるくらいあけすけに感じていない。
 無法、生意気、むやみに積極的、狂暴な思いあがり、こういう言葉は、支配的な社会・政治悪に組みうちをかけるときに生きてくる。つまんで打たれている将棋の駒の口から出ると滑稽になる。短篇「荒布橋」を書いたとき、おとなしい木下杢太郎は「無法」に美をあたえた。石原に出てくる青年の性交渉などは、たとえば野上弥生子の[迷路]の、ある金持ちの細君の仕かけ方にくらべてもありきたりすぎて古くさい。「処刑の部屋」が、基本的に浪花節から出ていないのはそこからきていると私は思う。小田切は、ああいう作品が「鴨」として取りだされたことの意味、またこの作家(?)、作品が鴨性格をもともと持つていたという事実、また今年の日本で、選者たちが、内部にいろいろ不ぞろいはありながら、結局だれもかれも低く値ぶみした作品をわざわざ取りだして芥川賞に立ててしまつたことの歴史的意味を、いわば年齢上の新世代にたいする一種の偏愛(?)のせいで見すごしたのだつたろうか。「処刑の部屋」を「すぐれた作品」とすることに私に異議がある。これ「だけは特別だ」とすることに私に異議がある。村上笹雄の「川の上の太陽」との差別待遇にも異議がある。ついでに、上林暁を「「老作家」とすることにも異議がある。上林と私とは同いどしで、われわれは現役第一線の兵卒だと私は考えている。
 ただし、『東京新聞』の「若い世代と日本の教育」という座談会(4月4日)をみると、安部能成、蝋山政道、上原千禄、高橋義孝などの教師をしている人たちが、「若い世代」になかなか寛容な態度に出ているのがわかる。大学生に接触の多い小田切にもあるいはその手の寛容があつただろうか。しかし文学ではむしろ厳格ということが望ましい。 」


小田切秀雄は中野重治に近い位置にいた人だったと思うが、このときは中野のこの批評に反論して二人の間にちょっとした論争があったとも聞いたが、それは私は読んでいない。中野重治が、 「支配的な大資本の力と支配的な政治の力と、これをあわせて支配的なジャーナリズムの力といつてもいい。この資本の力と政治の力とはたえず動く。」といって「戦争のときの「文壇」」を思い起こして注意を促していること 、石原慎太郎自身が口にしている「無法、生意気、むやみに積極的、狂暴な思いあがり」などの言葉を挙げて、「こういう言葉は、支配的な社会・政治悪に組みうちをかけるときに生きてくる。つまんで打たれている将棋の駒の口から出ると滑稽になる。」と述べていることなどは、その後の石原慎太郎が一貫して反動的政治家として世の表に出てきているところをみれば、中野重治は文壇の新人・石原慎太郎の作品と彼の当時の言動とから政治的・資本的支配的勢力との相性の良さ、類似の性格を見透していた、実に先見の明があったといえるように思う。ただ「滑稽になる」というより、「有害になる」といったほうがより相応しかったように思うけれども、これは後の話である。

これとよく似たことは、戦前1937(昭和12)年に近衛文麿が首相に就任したときの中野重治の行動にも見られる。1937年6月、中野重治は『都新聞』に「わたしは嘆かずにはいられない」という詩を発表している。韜晦の風を装ってはいるけれども、この詩はこの少し前に発足した近衛文麿体制を痛烈に批判したものであることは明らかで、この後、中野重治が執筆禁止という弾圧に曝されたのはこの詩の発表が直接の原因だったろうという見方をする人は多い。


   わたしは嘆かずにはいられない 
 しかしわたしは嘆かずにはいられない
 人がわたしを指してヒネクレモノといおうとも
 そしてそうではないと弁解したくならずにはいられない
 人が貴公子でありせめてもの慰めであるとするもの
 それが長袖にばけたサーベルである事実をわたしは人びとに隠せない
 わたしはただ訊ねる 彼の商売は何なのかと
 また鎌足以来一千年 彼の一家は何をして飯を食つてきたのかと
 ここに国があり 司法があり
 それが拷問をもつて人民に臨んでいるならば
 わたしは思惟の必然と学問上の仮定とに立つていう
 もしも人民が司法を逮捕して
 彼の耳もとで拷問のゴの字を鳴らすならば
 彼は涎をたらしてあることないこと申しLげるにちがわぬと
 みずから愛するものは愛をいつわるものを憎む
 うそつきを憎むのは正直であるものではないか
 しかし犬のしつぽのような人びとがあつてわたしをヒネクレという
 わたしは嘆いていう あれらはしつぽであると
 そしてわたしはいう ごみ箱のかげから往来へ出てこいと
 しかし彼らはいう おれは独立に振るのだと
 そしてそれらすべてがわたしを嘆かせる

 わたしは嘆きたくはない わたしは告発のために生まれたのでもない
 しかし行く手がすべて嘆きの種であるかぎり
 わたしは嘆かずにはいられない 告発せずにもいられない
 よしやヒネクレモノとなるまでも
 しかしわたしはいう わたしは決してヒネクレではないと 」(『都新聞』1937年6月13日号・全集第1巻)


中野重治が転向者として獄中から出てきたのは1934年で、この詩の発表の3年前のことになる。松下裕氏は「評伝中野重治」のなかでこの詩について、「全体の詩の調子は、いかにも情ない、つぶやき、ぼやき、ひとりごとでないとはいえない。プロレタリア文学時代の中野詩のさっそうとしたおもかげはどこにもない。」ことを指摘し、「「転向」者中野重治は、当時こういった調子でしか物を言うことができなかったのだ。世は準戦時体制だった。そのなかで彼はこういう調子で、近衛内閣の危険な本質を暴きたて、逼塞している詩人として、かなわぬまでも強権に一太刀浴びせたのだった。その苦渋にみちた立場が、詩の鬱屈した気分、くねくねした、思いきりの悪い、遠吠えのような調子にあらわれている。当時この詩が支配者側にどう受けとられ、どう当局の忌諱に触れたかという事実は明らかでないが、その年、1937年末の重治の執筆禁止の措置に悪く作用しただろうことは想像するに難くない。」と述べている。旧制高校時代からの友人である石堂清倫氏は中野重治の転向について、「中野は『転向』によって、一つの妥協と後退にふみ切った。彼は正面肉薄戦を断念して、迂回しながら敵の本陣に接近しようとした。彼は『転向』によっていくつかのものを棄てたが、目標を見失うことなく、それに到達する文学的手段は決して棄てなかった」(「中野重治と社会主義」勁草書房1991年)と述べているが、そういう判断の根拠の一つに詩「わたしは嘆かずにはいられない」の発表もあったのではないだろうか。

中野重治が「樋口一葉が40で「たけくらべ」を書いても、宮本百合子が30で「貧しき人々の群」を書いても、彼女らは1895年の日本と1916年の日本とで文学の上の新世代だった。」と述べているのは、実際に樋口一葉が「たけくらべ」を書いたのは23歳(24歳だったかも知れない)のとき、宮本百合子が「貧しき人々の群」を書いたときは17歳だったという事実を前提としている。「処刑の部屋」という作品には、エピローグとして「 抵抗だ、責任だ、モラルだと、他の奴等は勝手な御託を言うけれども、俺はそんなことは知っちゃいない。本当に自分のやりたいことをやるだけで精一杯だ。」という言葉が置かれている。「処刑の部屋」の主人公である大学生が「ほんとうに自分のやりたいことを」「精一杯」やるということの中身は何かといえば、暴力を使った喧嘩や女性との遊びのことなのだから、絵に描いたような典型的パターンであり、今読むとエピローグに表われている作者の力みようにはちょっと失笑を禁じえないところがある。不良とか、暴力とか、無頼、というようなものには多かれ少なかれそれ自体人を魅了するものがあり、私なども惹かれがちである。北野武監督の映画がほとんどみなヤクザを主人公にしているのも理由がないことではないのであって、そういう題材はそれだけで作者にとっては得なのだと思う。ということで、私は中野重治の見方に賛同する。

石原慎太郎は現在自分は何をやっても許されるといわんばかりの言動を好き放題、我が物顔で行なっているが、1995年にこの人が国会議員を引退すると発表したときには、別に誰もたいしてその退任を惜しんだりはしなかったように私は記憶している。彼は淋しくすごすごと引き下がっていったような印象さえある。ところが都知事就任後、石原慎太郎の野放図さが格段に度を増しているところを見れば、時代の流れ、風向きが10数年の間に格段に変わった、右傾化があからさまになったということを示しているのだろう。00年代に入ってからは佐藤優という、石原慎太郎と甲乙つけがたい右翼の論客が現れたが、そういう人物を岩波書店や週刊金曜日という世の中で良心的、左派系と思われている出版社が先頭に立ってその売り出しに貢献したという事実もある。自ら右翼と名乗りそのとおりの言動をしている人物を影に日にまるで「誠実で良心的な知識人」のごとくに喧伝していたのだから、これは異様としか言いようがない。こういうはどめのない流れのなかで、石原慎太郎には、「自分は特別な人間である」というもともと持っていた確信が今ではさらに増幅しているように見えるが、その根拠について遡って見てみるとやはり後にも先にもない大騒ぎのなかでの芥川賞受賞という過去の栄誉に拠るところが大であるように思う。

ちなみに、中野重治は、上記で『中央公論』が永井荷風の「男ごころ」という作品を掲載したことを批判している。「こういう目をそむけたくなるような出来そこないを発表する雑誌のむごさ」とも書いている。私はその作品を読んでいないが、これは出来がよほど悪かったのだろう、と私は思う。数々の名作を生みだした永井荷風の実績を汚すだけのよほどの愚作だったのではないか。そうでなければ中野重治は決してこんなことを公言しなかっただろうと思うのである。


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「 この詩はそのころ、『都新聞』に毎週日曜日、詩一篇ずつが掲載された「日曜詩」欄に発表された。詩人は18名で、窪川鶴次郎、三好達治、菊岡久利、津村信夫、小熊秀雄、中原中也、金子光晴、立原道遣ら、当時の代表的詩人を網羅している。そして、ほとんどの詩人が抒情詩を書いているなかで、重治だけが時事的な内容の詩を書いているのが目につく。この詩の発表された6月13日のわずか9日まえの4日には、第一次近衛内閣が成立していて、中野重治はそのことを正面から批判的に取りあげているのだ。
 1931年の「満洲事変」の勃発以来膠着した対中国政策の打開を期待されて登場した近衛内閣は、それに失敗し、かえって翌月の37年7月には全面的な日中戦争にまで突きすすんだ。以後、近衛は、軍部の政策をおおむね実行して、太平洋戦争開戦の尖兵の役割をはたしたのだった。
 わたしは、近衛内閣登場以後の新聞の紙面のあまりの変りようと荒廃ぶりを中野さんに言ったことがあった。中野さんは、「そうなんだよ、それまではまだ文藝欄などにも多少見るべき記事や論議もあったのに、近衛になってからは戦時一色になってしまったんだ」と言った。3ヵ月もつづいた「日曜詩」なども、新聞の文藝欄の最後の企画の一つだったのだろう。近衛文麿は国民的衆望を担って政局に登場してきたが、期待の根拠は天皇に最も近い古い公家の公爵という家柄とか、貴公子らしい風貌とかの、実体のない空疎なものだった。重治は、近衛の異常なほどの国民的人気の裏にひそむ政治的危険性に正面から挑んでこの詩を書いた。」(「評伝中野重治」松下裕)
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2012.11.13 Tue l 中野重治 l コメント (1) トラックバック (1) l top
いつのころからか私は現存作家の本はあまり読まなくなってしまったのだが、辺見庸さんの本は(本だけではないが)、わりあいによく読んでいる。このことは以前にも書いたことがある。読んで教えられたり、共感したりするところがあるからこそ買って読むわけだが、それでも作者と別の人間である以上、内容に違和感を持つこともある。たとえば、「永遠の不服従のために」(講談社文庫2005年、初出・毎日新聞社2002年)に収められている「不敬」という文章のなかの一節に対してがそうであった。この文章は、「不敬」という題が示すように、天皇制について述べられたものだが、まず中野重治の小説『五勺の酒』から、中学校長である主人公が天皇個人(特に裕仁天皇をイメージしてのことだと思われる)に対する感慨を綴った文章が引かれている。それは「……どこまで行っても政治的表現としてほかそれがないのだ。ほんとうに気の毒だ。/羞恥を失ったものとしてしか行動できぬこと、これが彼らの最大のかなしみだ。/個人が絶対に個人としてありえぬ。/つまり全体主義が個を純粋に犠牲にした最も純粋な場合だ。」(/は改行部分)というもので、次に作者が現在の天皇である昭仁天皇と街中で偶然遭遇したときのことが下記のように叙述されている。

「 たった一回だけれども、その人を、じかに見たことがある。何年も前に、横浜駅の西口近くで。銀行をでた私の前に、黒山の人だかりがあった。背中をぐいぐい押されて、私は結局、車道に面したコンクリートの大きな植栽ボックスの上に立つかっこうになった。眼の前に、黒塗りのリムジンの長い車列が、ゆっくりとやってきた。何台目かの車の後部座席の窓が開いていて、やや猫背ぎみの小柄の人物が、群衆に向かい、小刻みに手を振り、そうまでしなくてもと思われるほど丁寧に、首を上げ下げしている。政治家や芸能タレントたちの、いかにも悪ずれした愛想とはまったく異質の、こちらがたじろいでしまうほどの、痛々しい、剥きだしの善意のようなものを、彼の表情と所作は感じさせた。
 色浅黒いその横顔に見覚えがある、と思ったとき、彼と眼が合った。険、荒み、不逞、倣岸、倦怠、狡猾、強欲、猜疑、敵意、威圧、卑屈、皮肉、冷酷、癇癖、歓喜、暴力、磊落、邪曲……の、いずれも、かけらもなさそうな、これまでに見たことのない種類の、不思議な眼であった。ただ、孤独と虚無の陰りのいかんについては、なにしろ瞬時であったので、読むことはできなかった。天皇は、私から視線を移さずに、片手を軽くうち振り、「あっ、どうも」という調子で、首をこくりと小さく下げた。私も、つられて、こくりと会釈した。同時に、右手をズボンのポケットからそろりとだして、ベルトのあたりまでもちあげ、行きすぎる天皇の方向に、汗ばんだたなごころを開いて、ためらいつつ、一、二回左右に動かしてみたのであった。わざと曖昧に、お返しの挨拶を私はしようとしたようだ。だが、それに気づいて驚いて、右手を、まるで他人の手みたいに、こっそりとポケットに戻してしまった。なんにもなかったかのように。」
 と、たったこれだけのことを書くのに、いく度、胆嚢のあたりがヒリヒリしたことか。そう、これは、この国でこの種のことを描くときに避けられない、名状の難しいヒリヒリ感なのである。」

この後も文章はまだつづくのだが、私がちょっと違和感を持ったのは、「険、荒み、不逞、倣岸、倦怠、狡猾、強欲、猜疑、敵意、威圧、卑屈、皮肉、冷酷、癇癖、歓喜、暴力、磊落、邪曲……の、いずれも、かけらもなさそうな、これまでに見たことのない種類の、不思議な眼であった。」という箇所であった。険、荒み、不逞、倣岸、倦怠、狡猾、強欲――などの、どちらかといえば人間性にとってマイナスのものが現天皇にまったく備わっていない、もしくは欠けているかのように述べられている箇所は、類まれな無垢な人間を思わせるようでもあり、また人間離れした一種の怪物(?)のような人物像のようにも思われたが、ただそれは私にはいくら想像をめぐらしてみても現実的にはどうしてもピンとこないものだった。そのためだと思うが、こういう文章は日本国内のかなりの範囲に根強く存在しているように思える現天皇に対するある種の幻想を増幅させるだけのような気がしないでもなかった。

辺見さんの文章で違和感をもった例では上記のものが一番印象に残っているのだが、最近あるブログで偶然読んだ辺見さんの発言にもちょっと違和感をおぼえるところ、気になるところがあった。これは辺見さんのロング・インタビュー、「国策を問う ――沖縄と東北の40年」という題で2012年5月10日と11日に沖縄タイムスに掲載されたもののようだが、全体としては辺見さん特有の力のこもったインタビュー内容で、読みごたえのある文章であることは間違いないと思うのだが、気になったのは次の一節であった。

「僕には長かった近代の思想というのはもう終わりに来ているんだという自覚がある。主権国家体制、市民革命による市民社会の成立、産業革命による資本主義の発展とテクノロジー万能主義、国民国家の形成など、16世紀以降の欧州で誕生し、現代世界を価値づけてきた社会のあり方、枠組み、準則が崩れてきている。で、従来の帝国主義の実行主体の足場を奪う、新たな列強の覇権争奪が始まっている。何よりも中国。中国は革命の理想を完全にうち捨てた異様な軍事大国になった。途方もない貧富の格差、堕落した共産党の一党支配、公安警察の跋扈(ばっこ)と死刑の連発、人権弾圧…。一方でロシアの覇権主義、言論弾圧もますます露骨になった。チェチェンにはやりたい放題。そうした中で相対的に、米国の株が上がっていく。それと同時に、沖縄から発進して朝鮮、ベトナムであれほど人を殺した、あの米軍と今は違うんだみたいな錯覚がある。同じです。米軍は依然、世界最大の戦争マシーンです。アフガンでもイラクでも罪のない人をいっぱい殺している。 」

上のインタビューの内容に明確に指摘できる誤りがあると思ったわけではない。ここで指摘されていることはおそらく事実そのとおり存在することなのだろう。しかしそれでも、「現代世界を価値づけてきた社会のあり方、枠組み、準則が崩れてきている」なかで、「従来の帝国主義の実行主体の足場を奪う、新たな列強の覇権争奪が始まっている。何よりも中国。中国は革命の理想を完全にうち捨てた異様な軍事大国になった。」、その上「ロシアの覇権主義、言論弾圧」が拡大していくなかで、「相対的に、米国の株が上がっていく。それと同時に、沖縄から発進して朝鮮、ベトナムであれほど人を殺した、あの米軍と今は違うんだみたいな錯覚がある。同じです。米軍は依然、世界最大の戦争マシーンです。アフガンでもイラクでも罪のない人をいっぱい殺している。」という発言にはニュアンスもふくめてそのまま受けいれるのには躊躇をおぼえた。

辺見さんは中国、ソ連の堕落頽廃のなかで、「相対的に、米国の株が上がっていく」と述べているが、本当にそうなのだろうか。これでは、中国やロシアの内政・外交戦略があまりに酷いので、それに比べると米国はまだましだといろいろな国や個人がそのように考え、述べているかのように聞こえなくもないのだが、中国やロシアに比べるとアメリカという国はまだましであるという声がはたして現実にあるのだろうか? どうも私にはそうとは思えないのだが…。「米国の株が上がっていく」のではなく、日本や韓国を見れば分かると思うのだが、自分たちの思うがままに、あちこちに戦争をしかけて、あっさり一国を破滅させることのできるほどの超大国である米国と組み、その米国にしたがってさえいればまず安心だという幻想をもつ国や個人が数多く存在するということではないのだろうか。

「米軍は依然、世界最大の戦争マシーンです。アフガンでもイラクでも罪のない人をいっぱい殺している。」という発言にしても、その拠ってきたる発想のあり方のようなものに対して少し疑問がある。米国が「罪のない人をいっぱい殺している」のは、アフガンやイラクだけではない。そこで終わってはいない。昨年、リビア中を目茶苦茶に破壊した大規模な空爆は米国の単独行動ではなくNATO軍の仕業だったが、米国が加担しなければあんなことはできなかったのではないだろうか。見せしめのごときカダフィ惨殺ははたして米国の意思と無関係だったのだろうか? 現在の凄惨なシリア情勢にしても米国の息がかかっていることは間違いないことだ。これらの攻撃は私にはアフガンやイラクの延長線上の出来事のように思えるのだが、インタビューにはリビアの名もシリアの名も出てこないところをみると、辺見さんはそうは思っていないようでもある。国連安保理で中国とロシアはリビアへの介入に対して拒否権こそ行使しなかったが採決を棄権した。両国はシリアへの軍事介入に対しては明確に拒否権を行使している。このことについて辺見さんはどう思っているのだろう。また何にもまして不気味に恐ろしいのが、繰り返される米軍の無人爆撃機による暗殺であろう。これは卑劣、卑怯というのもすでに通り越しているだろう。

「中国は革命の理想を完全にうち捨てた異様な軍事大国になった。」という発言からは、中国はさしたる理由も原因もないのに、自発的に覇権国家を目指して軍事力増強に乗り出したかのようなニュアンスが感じられる。しかし、本当にそうなのかどうか疑問がある。80年代に外務省で中国課長を務めていた浅井基文氏は、「尖閣「国有化」後の中国の対日観(7)」という記事のなかで中国の軍事力増強について、次のように述べている。(以下、強調はすべて引用者による)

「最近、小さな集会でお話ししたときにつくづく感じたのですが、多くのマス・メディアの報道・論調によって対中イメージを膨らませるしかない国民のなかにも、中国に対してはマイナス・イメージしか抱けず、中国の増大する軍事力を前にしては、日本の安全をアメリカとの同盟関係に依拠ずる以外にない、と信じ込まされている人は決して少なくないのです。そのことが、数々の世論調査の結果で示されているように、憲法も日米安保もという考えの人が国民の2/3を占めるという現実を生んでいるのでしょう。しかし、私たちが忘れてはならない事実は、中国の軍事力強化努力は、優れて変質強化が進み、中国を狙い撃ちする性格をますます強めている日米軍事同盟に対抗するための防衛的な性格のものであるということです。中国の軍事的脅威を言う前に、まずは強者である日米軍事力の削減、軍事同盟の解消を私たちは考えるべきなのです。」

「中国の軍事力強化は、…日米軍事同盟に対抗するための防衛的な性格のものである」という浅井氏の上記の発言が緻密な分析の上になされたものであることは、米国のブッシュ政権時のブッシュ演説やシンクタンク・ランド研究所の報告、またアーミテージ報告などを丁寧に読み解いて記述されている「集団的自衛権と日本国憲法」(集英社2001年12月)を読むとよく理解できると思う。このような経緯をたどって浅井氏は中国の軍事力増強は防御的なものであると述べているわけだが、ノーム・チョムスキーの「破綻するアメリカ 壊れゆく世界」(集英社2008年)には、米国の戦略アナリストのジョン・スタインブルナーとナンシー・ギャラガーによる、国連安保理の核保有国のなかでもっとも抑制的に軍事力を展開しているのは中国である、との発言が出ている。

この本の冒頭では、1955年7月、パートランド・ラッセルやアルバート・アインシュタインたちが世界の人々に向けて行なった「核兵器による世界の破滅の危険」についてのアピール文が掲げられている。「私たち人類が抱えるさまざまな問題にたいして、もっともな意見はあるだろうが、いまはそれを、「いったん脇において、すばらしい歴史をもつ生物学上の種の一員であることだけ」を自覚するよう」にとの呼びかけの言葉である。そしてジョン・スタインブルナーとナンシー・ギャラガーという米国のアナリストが米国学士院の機関誌のなかで行なった「ブッシュ政権の軍事計画とその侵略的な姿勢は「最終的な破滅の危険をかなりともなう」」、「アメリカの政治システムがその危険を認識できず、その意味するところに対処できない」ならば、「アメリカの存続の可能性はきわめて疑わしくなるだろう」という警告が出てくる。

そのような警告につづいて、「アメリカ政府がみずからの国民と世界に脅しをかけても、平和を愛する諸国の連合がその脅しに対抗するだろう、とスタインブルナーとギャラガーは希望を表明する。その連合を率いるのは、なんと中国だ! 支配層の中枢がこのような考えを表明するのは、大変な事態である。」、「スタインブルナーとギャラガーが中国の名を挙げたのは、すべての核保有国のなかで、中国が「明らかに最も抑制のきいたやり方で軍事力を展開している」からだ。さらに、中国は宇宙の利用を平和目的に限定しようとする取り組みを、国連で率先して進めているから。この点で中国はアメリカと相いれない。アメリカは、イスラエルとともに、宇宙における軍拡競争を防ごうとする動きをことごとく邪魔をしているのだから。」とチョムスキーは記述している。

辺見さんのインタビュー記事が「沖縄タイムス」に載ったのは石原慎太郎東京都知事の尖閣諸島(釣魚島)購入事件の後である。そういう微妙なときに中国について「従来の帝国主義の実行主体の足場を奪う、新たな列強の覇権争奪が始まっている。何よりも中国。中国は革命の理想を完全にうち捨てた異様な軍事大国になった。」というような明白に否定的発言をする場合は、上述したようなまったく異なる中国についての見方も現実に存在するのだから(中国自身も、中国は決して覇権国家にはならない、宇宙の軍事利用には徹底して反対する、と明言している)、「異様な軍事大国になった」ことの背景についてもきちんと言及した上での発言であってほしかったと思う。辺見さんの講演(死刑の問題など)には、大勢の聴衆が集まることでも分かるように、発言に影響力があるのだから、いっそうそう思う。中国が発信する記事や学術論文を読むと(翻訳でではあるが)、無知・無学な私でも中国の人々の間に蓄積されている知性は相当なものだとしばしば感じずにいられないし、こういう人々に対しては、とりわけ相手の主張をよく聞き、こちらも必ず根拠をともなった発言をすることが個人の姿勢としても大切であり、また実際にあらゆる面で有効な働きをするとも思う。浅井基文氏が4月以来ずっと中国発表の文章を折にふれ翻訳して読者に披露されているのは、そのようなことを願ってのことでもあるのではないだろうか。
2012.11.10 Sat l 社会・政治一般 l コメント (2) トラックバック (0) l top
中野重治の批評眼は、石原慎太郎の作品がそれまでの新しい文学の出現とは全然異なった色合いを帯びて現れ、世間の大、大注視のなかで芥川賞が授賞されたことに文壇と出版界の頽廃というべきか、不吉なものを感じずにいられなかったようである。無視するのではなく、二度、三度と、石原作品に対して、というより周辺の大騒ぎと騒ぎの性質に対してきびしい批判を行なっている。前に「芥川賞について思い出」のなかから新芥川賞作家・石原慎太郎に関する部分を引用したが、今回は「異議あり」という文章のなかから、やはり石原慎太郎に関する箇所を引用しようと思っているのだが、その前に、つい先日文芸評論家の豊崎由美・栗原裕一郎両氏による「「太陽の季節」は本当に芥川賞にふさわしかったか!?」という対談がネット上に公開されているのを見たので、この対談の感想などを少し書いておきたい。


栗原 … そしていよいよ、石原慎太郎「太陽の季節」ですが。
豊崎 文句なしの◎です。当時の選考は、間違っていません。
栗原 おおっと、トヨザキさんが慎太郎に◎をーっ! 僕は〇です。藤枝静男「痩我慢の説」との二択。
豊崎 「太陽の季節」に芥川賞を与えた当時の選考委員を、時代の空気をよくぞ読んだと褒めてあげたい。この受賞によって、芥川賞も、出版界も、社会までも動きましたからね。「痩我慢の説」に授賞していたら、そうはならなかったでしょう。
栗原 藤枝は結局、芥川賞をとれなかったんですが、ここで藤枝に授賞していたら、後の文学史は愕然と違うものになったでしょうねえ。
豊崎 いずれ動く時期が来たとしても、慎太郎ほどの効果はなかったと思う。「太陽の季節」は若い世代からの支持と、上の世代からの非難が同時に爆発して、世代間闘争をあらわにする装置の役割も果たしましたね。
栗原 価値観のドラスチックな転換が、たぶんあらゆる人の意識下で予感されていたんだと思うんですよね。この回の候補作を見渡しても、ほとんどの作品が何かしら戦前と戦後の価値観の対立を描こうとしているし、藤枝なんかも一歩踏み出したつもりで「新しい価値観も受け入れていかなきゃいけないんじゃないか?」ってところを描いているわけですけど、旧世代がエイリアンみたいな新世代を頭で外から理解しようという線で止まっている。そんななか、慎太郎は新しい価値観を体現する側として、内側からそれを描いて見せたわけですね。このコントラストがけっこう、残酷なくらい鮮明に出てしまっている。
豊崎 若い世代を代弁しながら、前世代には非常に挑発的。たとえばこういう記述が、選考委員の逆鱗に触れたんだろうなあと想像します。

彼にとって大切なことは、自分が一番したいことを、したいように行なったかと言うことだった。何故と言う事に要はなかった。行為の後に反省があったとしても、成功したかしなかったと言うことだけである。自分が満足したか否か、その他の感情は取るに足らない。
 」(強調は引用者による)


豊崎氏は「太陽の季節」に芥川賞を与えた選考委員について、「時代の空気をよくぞ読んだと褒めてあげたい」と述べているが、これはもしかすると授賞を推した選考委員への痛烈な皮肉なのだろうか? 豊崎氏は「(石原慎太郎は)若い世代を代弁しながら、前世代には非常に挑発的。たとえばこういう記述が、選考委員の逆鱗に触れたんだろうなあと想像します。」とも述べて、その「逆鱗に触れた」らしき石原慎太郎の文章を引用しているが、しかし私はこれを読んだ選考委員はその内容があまりに幼稚かつ月並みに低次元なことに失笑するか、こういう文章の書き手を文春などの各出版業界の要請に応じて芥川賞作家として売り出すことに加担してよいものかどうかという迷いを深めたかのどちらかではなかったかと愚考する。

石原慎太郎の上記のような言葉は別に珍しくも何ともないもので、昔からそこらへんにいくらでもころがっていたのではないだろうか。今でも反抗期の生意気盛りの中学生はそういうことを本気で考えているかも知れないと思う。ただ自分は確かに新しいことを言っているのだというような衣装をまとう術は、石原慎太郎は最初から達者だったようである。上等なものとは思わないが、それも才能には違いないのだろう。この少し後のことになるが、正宗白鳥は、自分が地元にある公立高校に進学せずに私立の学校を選んだことについて、子どもの時分、公立高校の学寮で「太陽の季節」に描かれているようなことが日常茶飯事に行なわれているという話が岡山の街中にまで噂として広まっていて、それを聞いた自分はその高等学校に行く気を失くした。ああいうことはちっとも新しくもないありふれたことなのだと何だか噛んで捨てるような調子で書いているのを読んだことがある。「慎太郎は新しい価値観を体現する側」だなどとなぜ言えるのだろう。現在の石原慎太郎の言動を見ていれば、基本的に戦前からの日本の古い思考形式と行動を反復しているに過ぎないことが分かるだろう。萌芽はすでにこの発言のなかにもあったのではないだろうか。豊崎・栗原氏の対談では、さらに選考委員について、特に授賞に反対した委員について次のような言及がなされている。


豊崎 大賛成ではないけれど最終的には推しましたという立場の、中村光夫の言い方もなかなか。勢いを褒めたり、文章の稚拙さを批判したりしつつ、最後に改行して突然、「石原さん、しっかりして下さい」。
栗原 これはちょっと「うっ」となりますよね。授賞に賛成したことに「とりかえしのつかぬむごいことをしてしまったような、うしろめたさを一瞬感じました」とも言ってます。
豊崎 後の論争のほうでも明らかになっていきますけど、中村光夫は慎太郎のことを純粋でうぶな少年だと思い込んでた節があるんですよね。で、心のきれいな少年をこんな騒動の渦中に引っぱり出して良いものか、とちょっと心配してる風。まあ、結局のところ、そんな思いはまったくの杞憂だったわけですから、中村先生も心配して損しましたね(笑)。
栗原 しかし何より、この後、論争の口火を切ることになる佐藤春夫の酷評ですよね。

この作者の鋭敏げな時代感覚もジャナリストや興行者の域を出ず、決して文学者のものではないと思ったし、またこの作品から作者の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった。
 これでもかこれでもかと厚かましく押しつけ説き立てる作者の態度を卑しいと思ったものである。そうして僕は芸術にあっては巧拙よりも作品の品格の高下を重大視している。
 僕にとって何の取柄もない「太陽の季節」を人々が当選させるという多数決に対して、僕にはそれに反対する多くの理由はあってもこれを阻止する権限も能力もない。

豊崎 佐藤春夫と宇野浩二の二名は全否定。宇野浩二は、とにかく奇を衒っただけの通俗小説だとこきおろしてます。だけど、その批判より、選考会の内幕の書き方がおもしろいですよね。誰それが反対しただの、賛成しただのを以前書きすぎて怒られたなんてことまでバラしちゃって。あげく、これ以上書くとまた怒られるからこの辺でやめときます、だって(笑)。宇野先生、そんなんだから怒られるんだよっ!
栗原 川端康成は「多少のためらい」を感じつつも推すと。
豊崎 川端先生のここんとこ、言い得て妙ですよ~。「極論すれば若気のでたらめとも言えるかもしれない。このほかにもいろいろなんでも出来るというような若さだ。なんでも勝手にすればいいが、なにかは出来る人にはちがいないだろう」 
栗原 「なんでも勝手にすればいい」(笑)。川端はたまにこういうわかったようなわからないような選評を書きますね。
(略)
豊崎 佐藤春夫は、石原慎太郎なんて奴ァなにがなんでも認めない、っていうおじいちゃん世代の代表。選評じゃ、文句を言う字数が足りなかったと言わんばかりに「作品云々よりコイツの人間性が大っキライだ」っていう本音がひしひし伝わってくる内容になってます。まあ、気持ちはわからなくもないけど、自分だって品格を疑われるような作品書いてるじゃんねえ。
栗原 そうなんですよね。そこに舟橋聖一が、佐藤のプライバシーを伏字イニシャルで具体的に暴露しつつ、いやいや先輩だって「快楽主義的なたくましさ」と「やんちゃな無恥」で鳴らしてたもんじゃないですか、と突っ込んでいく(笑)。 」


佐藤春夫が、戦時中の太宰治のある小説(題名は今ちょっと思い出せないのだが、ストーリーは太宰らしき主人公が一家のなかから戦死者や出征者を何人も出しているある家を訪問したときの出来事を描いたものだったと記憶している)を批評している文章を昔読んだことがあるのだが、その批評は小説の内容に具体的に入っていって、小説のどの箇所、どの表現がどのようにすぐれていると佐藤春夫が感じているかが素人の読者にも明瞭に理解できるような書き方がされていた。そのとき何か新しい読書経験をしたような気がしたのだが、おそらくああいう批評のやり方というのは、詩や小説に読者の目を開かせる最もよい方法ではないかと今にして思う。また、中野重治の詩について述べていた佐藤春夫の言葉もとても印象的であった。中野重治の詩はそこらへんにありふれた卑近な言葉のみがつかわれている。新奇な言葉、難しい言葉などはまったく用いられない。それでいながらその詩には全体として高い品格が備わっている。これは大変なことなのだ、というようなことであった。これも私にはハッとする思いがけない言葉であったが、貴重なことを教えられた気がしたことは言うまでもなかった。私は佐藤春夫に特に何の思い入れも持っていないのだが、佐藤春夫は晩年自分で「門弟3000人」などと口にして、すっかり惚けているなどと悪評を被ったりしている。もともとアクが強い人でもあったのだろうが、それにしてもヘンなことを言ったものだと思うが、ただもし門弟が多かったのが事実とすれば、それは実際に佐藤春夫と接触することで門弟のほうに文学面の上達ということで利益があったからではないかと、私は自分の読者経験からしてそう思う。

そういう佐藤春夫が石原慎太郎を徹底して認めなかったのならそれは佐藤春夫が年をとっても文学者としての自己に忠実だった、正直だったというに過ぎないことで、他に意味はないように私には思える。そもそも「太陽の季節」への芥川賞授賞に賛成した川端康成にしても、中野重治の「異議あり」によると、「太陽の季節」が、文学界』の新人賞を授賞して話題になったとき、「『太陽の季節』なんて作文ですよ。あれはね。」ともらしたそうではないか。
(つづく)
2012.11.06 Tue l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
中野重治が、「中野重治全集」の編集を一手に担われた筑摩書房の松下裕氏に、「芥川については、中村真一郎の言っていることが一番よくあたっている」と何度も語ったという話は以前に書いたことがある。「中村真一郎の言っていること」とは、「今日、芥川の全作品を通して、ぼくらが感じるのは、実にこの懐しいばかりの人間的な優しさである。作者の機智や逆説は、忽ち古くなってしまった。しかし、ひとりの生きた人間としての彼が、心の奥に一生抱きつづけてゐた、無垢な少年のやうな、育ちのいい素直さは、今尚、ぼくらを郷愁に誘ふのである」という言葉のことで、中野は1954年に書いた「三つのこと 二「人間的」」という文章のなかで、「中村が芥川の「人間的」にふれて書いている言葉に私は賛成する」と述べている。

これに便乗して私も賛成するというのは調子がよすぎるようでちょっと気がひけるのだが、それでも芥川龍之介の文章を読んでいると、胸の奥のほうからその文章の書き手に対する愛情のようなものが自然に牽きだされる、そしてそれが作品を読み終えた後々まで消えずに残り保たれているということは事実なのである。私の場合、日本人作家のなかでこういう人が芥川の他にもう一人いて、それはかの夏目漱石である。漱石にも芥川がそうであるように、「実にこの懐かしいばかりの人間的な優しさ」があるように思う。また芥川に「無垢な少年のやうな、育ちのいい素直さ」があるとしたら、漱石には、「無垢な少年のやうな、潔癖一途な正義感」があったように思う。漱石、芥川が近代以後の文学者のなかで太宰治とともに最も人気が高い、よく読まれているというのは、私が感じているものと近い感じを持っている人が大勢いるということかも知れない。

ところが最近、私は中野重治に対して芥川や漱石に対するのと同じような気持ちを持つようになってきている。これはわれながら思いがけないことで、というのは、私は長い間中野重治について尊敬すべき立派な生き方をした人でありすぐれた作家でもあることは間違いないとしても、どうも今一つ親しみが湧かないというような先入観をもちつづけていたのだった。作品を丁寧に広く読むまえに、中野重治の政治的な立場やねちねちと相手を追いこんでいく執拗な論争のスタイルなどという、世の中で喧伝されているイメージを取り入れてある固定した作家像を自分で勝手につくり上げてしまっていたのだろう。

中野重治は詩人であり小説家であり批評家でもある一人の文学者である。中野自身は、自分は一箇の詩人である。他の人がどう見ようと、自分ではそう思っている、とどこかではっきりそう書いていた。高等学校に入学したばかりの時期の自分について、同窓生の桑原一治、大河良一、小木曾(おぎそ)三郎、望月荘郎、得田純朗などの名を挙げて、「来てみるとまわりはことごとく文学少年たちであった。(略)私は眼をみはり、うらやましさと詩作にたいするあこがれとで身うちをわななかせた。しかも私は与謝野晶子の『歌の作りやう』という本を春陽堂へ注文するほどにも全く無邪気であった」(「日本詩歌の思い出」)と書いている。

やがて彼は同人誌「裸像」「驢馬」に拠って「豪傑」「夜明け前のさよなら」「歌」などを書いて詩人としての出発をしたが、その詩は少し後の「雨の降る品川駅」もふくめて当時の文学者や文学青年に鮮烈な印象をあたえるものだったようだ。小説は「村の家」「汽車の罐焚き」「五勺の酒」「歌のわかれ」「むらぎも」「梨の花」「甲乙丙丁」など、傑作、問題作揃いで、現在もそれらの作品は何かにつけて語られている。詩人、小説家としての中野重治こそが最も重大であり貴重であることは間違いない。ただ、文藝批評家としての中野重治の力量、実績、功績もまたもの凄いと思う。24歳で書いた「啄木に関する断片」に始まって、戦時中の「斎藤茂吉ノート」「鴎外その側面」「「暗夜行路」雑談」など、文藝批評家としての中野重治の著述は、石川啄木、斎藤茂吉、森鴎外、志賀直哉という近代日本の重要な文学者を個別に論じる場合に絶対に除外することのできない作品群だろう。「斎藤茂吉ノート」などは、すべての茂吉論のなかで最もすぐれた作だと評する人が少なくない。松下裕氏の「評伝中野重治」によると、岡井隆は「『斎藤茂吉ノオト』は、おそらく、茂吉を文藝評論の対象にした最初の作品であった。そして、これを抜く批評文学は、茂告論に関するかぎり、その後もあらわれていない。」と述べているとのことだし、茂吉の次男である北杜夫も、「中野全集」の月報(1979年)に一文を寄せ「未だに茂吉論の中で「茂吉ノート」を凌駕するものは出ていないであろう。」と書いている。

 「 「斎藤茂吉ノート」は高校時代に読んだが、このたび再読してみた。そして、中野氏が思想も異なる茂吉にどれだけ打ちこんでくださつたかが更めて判り、胸が痛んだ。
 冒頭の「ノートをとる資格」からして、氏の謙譲ぶりがわかる。そのくせ、当時の資料の抜き書きからして、実に十全で適確であり、要を尽しておろそかでない。
 氏は、茂吉が自身や自分の仕事が「はかない」としきりに書いていることを指摘している。同時に、その論戦の文章など、たとえば「世間の人々よ。『真人間で居てえや』などと云つたつて駄目だ。今に見ろよ。じたばたしても駄目だぞよ」
 などという文章を克明に摘出されている。
 それは、「神々よ、僕をまもりたまへ」とか、「僕の此のあはれなる歌集に幸ひたまへ」とか「神々よ、僕の歌集を護りたまへ」などという初期歌集の後記に対応するものだ。
 氏は論戦の文章のあとで述べる。
「こういう言葉は、自身および自身の仕事を『はかない』などいつている人の口から出るもの、出ることのできるものではない。自分の仕事、自分の努力、自身の行く道に確信のあるもの、『南蛮鉄の如き覚悟』あるものでなければこうはいえぬであろう」
 同時に、
 「彼は気の強い人間である。しかも事あるごとに、神よ僕をまもりたまえとか、友よ僕のあわれな心をとがめるなとか、せめてもかすかな慰めであるとかいうことをいわずにはいぬ人間である。私はそういう人間ではない。私のあくは強くない。生まれてきた性質からして、私は、自分が茂吉を分析するのに十分には適していないことを知っている」
 あえて牽強付会にいえば、私は中野氏はある程度、茂吉に似た人間ではないかという思いがしきりとする。氏は気が弱いこともあつた。同時にあくもけつこう強かった。それが思想もまつたく別とした茂吉という人間に興味を惹かれた一因ではあるまいか。
 それゆえ、氏の茂吉に対する理解は、同時代の歌人などに比し格段のものがある。たとえば、
  家蟎(いえだに)に苦しめられしこと思(も)へば
    家蟎とわれは戦ひをしぬ
 というつまらぬ歌がある。これに対し、歌人たちはあれこれ論じているが、中野氏はきつぱりとこの歌を否定している。
 「茂吉にあるわかりにくいもの」は、もっとも中野氏の面目の表われている一章であろう。第一、中野氏自体、「わかりにくい」詩人であり作家であり評論家である。粘液質といつてもよい。ここにも私は中野氏と茂吉との近似をあげたくなる。茂吉に対する中野氏の評は、讃めるべきところは讃め、けなすべきところははつきりとけなしている。未だに茂吉論の中で「茂吉ノート」を凌駕するものは出ていないであろう。
 私事にわたれば、不肖の子である私は、この中野重治という立派なお方が本気になつて父を論じてくださつたことが、涙が出るほど嬉しいのである。 」(「「茂吉ノート」など」北杜夫)

これは、息子でありながら、中野重治と同じく茂吉の歌を心から敬愛していた北杜夫の心情が素直に表われたとてもよい文章ではないかと思う。けれども、批評家としての中野重治の面目が表われているのは茂吉論だけではないだろう。「「暗夜行路」雑談」はよく指摘されるように確かに作品の読みの勘違いなど明らかな欠点も挙げられるが、その着眼点からして中野重治以外の人には決して書けない充実した作品批評の文章であることは明らかだと思う。それから中野の啄木論について、堀田善衛は「啄木を論じるにあたって中野重治の「啄木に関する断片」を抜きにすれば何も語れないだろう、本当に不思議な人である」という趣旨のことをどこかで述べていた。「鴎外その側面」は、私は一部分しか読んでいないのだが、おそらく事情は同じではないかという気がする。漱石については、中野重治はまとまったものこそ書いていないが、断片的にまたついでのようにたびたびふれて書かれた漱石に関する文章は、たいていどちらかといえば漱石の弱点や否定的な面を取り上げているのだが、それにもかかわらず漱石に対する敬愛の念と理解の深さ、見方のユニークさは無類であって、私にはどれも一度読んだら決して忘れられないほど印象ふかいものであった。たとえば次の文章における漱石がそうである。

「 無限の挑発、無限の激励  ――私の明治――
 明治は45年つづいて終わった。私は明治35年に生まれた。だから「明治」は、私には10年間しか関係しなかったともいえる。しかし実際には、それはもっと長いもの、もっと大きなものとして、現に私にかぶさっているうえ、日に日にかぶさって来るものともなっている。
 明治から大正にかけて、私たち、あるいは私は、「明治」についてついにろくに教えられたことがなかった。自分でも学ばなかった。学ぶことを知らなかったというのが正しいかもしれない。
 中学校生徒のとき、私たちは年に一度橋本左内の墓まいりに学校から連れられて行った。左内の墓はあるかなしのちっぽけなもので、町の片隅ほどのところにうち捨てられたようにして建っていた。しかしいったい、そのころの墓というものすべてがそうだったように思う。遊覧バスがまわってきて、僧侶やバスガイドの娘が朗読調で何かを述べたてるということが一般になかった。法隆寺でさえ、昭和になってからさえ、法隆寺村の門前には前にもうひろにも人かげが見えなかった。だから私たち中学生は、えらかった左内の墓へ詣りはしたが、左内のことはろくすっぽ聞かなかった。横井小楠とのことなどはひと言も聞かされなかった。この左内が孝明天皇を見どころのある青年として見て、これを「政治的に使えるもの」と判断したことなどはこれっぽちも聞かなかった。小楠における共和思想の芽ばえのことなぞは聞きも読みもしなかった。左内の書いた二間も二間半もある長い長い手紙、つまりはそれが彼らの非合法文書で、それをあちこちにまわしてまた左内のところにもどってきたものだということなぞは高等学校へはいった年にようやく知ったことだつた。
 だから「明治」は、そもそもは幕末から来ているのだろう。あのころの人のことを考えると、諸外国ないし世界像のことについても、高野長英が小伝馬町の牢から脱獄してなかなかつかまらなかつた時、佐々木省吾という人が「何処へ奔り候や、定めてリュス[ロシア]などと察し候。御考へ如何……」といつた手紙を友人に書いていること――それはつまり、それに何とか返事を書いた――書いたにしろ書かなかったにしろ――友人がいたということでなければならなかつたが、私は無限の激励を受ける。「亡命」がどうのこうのと言っているきわではない。
 だからまた、明治政府をあんなふうなものとして露骨無惨な「実力」をもつてつくりあげた人びと、天皇に土地と金と軍隊とをあたえて、人民をにらみすえるものとして築造した人びとの見通しの確さから私は無限の挑発を受ける。尊敬し敬愛してやまぬ漱石にしても、明治天皇の死で明治が終わつたというふうに感じたのだつたと仮にもすれば、さすがに挫折などというきざつぽい言葉はつかわれなかつたが、その点は必ずしもそうでなかつたことをしたたかに考えさせる。
 山城屋和助事件ひとつ思い出してみてもそこは明らかなように私は思う。「明治」の国家権力の性格をあれは象徴していた。司法卿としての江藤新平は指揮発動のまっこう逆を行った。それが司法というものの当時における自然だったのだろう。これは吉田、池田、佐藤の線に比べて考えることができる。山城屋和助は、パリーから走って帰ってきて陸軍省のなかで、感服自殺して事件をもみ消した。明治天皇、大正天皇と来て現天皇は象徴・人間として残った。山城屋とはちがった方法、様式で事は運ばれている。こういう全体は、民主主義もへったくれもなく「明治百年」が生きている一面を照らしている。私は無限の挑発をうける。「明治」の克服としての日本発展ということがやはり最後のものなのだろう。羽田事件その他でマスコミは学生・青年側の「暴力」を書きたてた。あんなもののどこが暴力か。「明治」を見よと言いたい。」(1967年12月16日共同通信社配信・全集第15巻)
(つづく)
2012.11.03 Sat l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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