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中野重治が、「中野重治全集」の編集を一手に担われた筑摩書房の松下裕氏に、「芥川については、中村真一郎の言っていることが一番よくあたっている」と何度も語ったという話は以前に書いたことがある。「中村真一郎の言っていること」とは、「今日、芥川の全作品を通して、ぼくらが感じるのは、実にこの懐しいばかりの人間的な優しさである。作者の機智や逆説は、忽ち古くなってしまった。しかし、ひとりの生きた人間としての彼が、心の奥に一生抱きつづけてゐた、無垢な少年のやうな、育ちのいい素直さは、今尚、ぼくらを郷愁に誘ふのである」という言葉のことで、中野は1954年に書いた「三つのこと 二「人間的」」という文章のなかで、「中村が芥川の「人間的」にふれて書いている言葉に私は賛成する」と述べている。

これに便乗して私も賛成するというのは調子がよすぎるようでちょっと気がひけるのだが、それでも芥川龍之介の文章を読んでいると、胸の奥のほうからその文章の書き手に対する愛情のようなものが自然に牽きだされる、そしてそれが作品を読み終えた後々まで消えずに残り保たれているということは事実なのである。私の場合、日本人作家のなかでこういう人が芥川の他にもう一人いて、それはかの夏目漱石である。漱石にも芥川がそうであるように、「実にこの懐かしいばかりの人間的な優しさ」があるように思う。また芥川に「無垢な少年のやうな、育ちのいい素直さ」があるとしたら、漱石には、「無垢な少年のやうな、潔癖一途な正義感」があったように思う。漱石、芥川が近代以後の文学者のなかで太宰治とともに最も人気が高い、よく読まれているというのは、私が感じているものと近い感じを持っている人が大勢いるということかも知れない。

ところが最近、私は中野重治に対して芥川や漱石に対するのと同じような気持ちを持つようになってきている。これはわれながら思いがけないことで、というのは、私は長い間中野重治について尊敬すべき立派な生き方をした人でありすぐれた作家でもあることは間違いないとしても、どうも今一つ親しみが湧かないというような先入観をもちつづけていたのだった。作品を丁寧に広く読むまえに、中野重治の政治的な立場やねちねちと相手を追いこんでいく執拗な論争のスタイルなどという、世の中で喧伝されているイメージを取り入れてある固定した作家像を自分で勝手につくり上げてしまっていたのだろう。

中野重治は詩人であり小説家であり批評家でもある一人の文学者である。中野自身は、自分は一箇の詩人である。他の人がどう見ようと、自分ではそう思っている、とどこかではっきりそう書いていた。高等学校に入学したばかりの時期の自分について、同窓生の桑原一治、大河良一、小木曾(おぎそ)三郎、望月荘郎、得田純朗などの名を挙げて、「来てみるとまわりはことごとく文学少年たちであった。(略)私は眼をみはり、うらやましさと詩作にたいするあこがれとで身うちをわななかせた。しかも私は与謝野晶子の『歌の作りやう』という本を春陽堂へ注文するほどにも全く無邪気であった」(「日本詩歌の思い出」)と書いている。

やがて彼は同人誌「裸像」「驢馬」に拠って「豪傑」「夜明け前のさよなら」「歌」などを書いて詩人としての出発をしたが、その詩は少し後の「雨の降る品川駅」もふくめて当時の文学者や文学青年に鮮烈な印象をあたえるものだったようだ。小説は「村の家」「汽車の罐焚き」「五勺の酒」「歌のわかれ」「むらぎも」「梨の花」「甲乙丙丁」など、傑作、問題作揃いで、現在もそれらの作品は何かにつけて語られている。詩人、小説家としての中野重治こそが最も重大であり貴重であることは間違いない。ただ、文藝批評家としての中野重治の力量、実績、功績もまたもの凄いと思う。24歳で書いた「啄木に関する断片」に始まって、戦時中の「斎藤茂吉ノート」「鴎外その側面」「「暗夜行路」雑談」など、文藝批評家としての中野重治の著述は、石川啄木、斎藤茂吉、森鴎外、志賀直哉という近代日本の重要な文学者を個別に論じる場合に絶対に除外することのできない作品群だろう。「斎藤茂吉ノート」などは、すべての茂吉論のなかで最もすぐれた作だと評する人が少なくない。松下裕氏の「評伝中野重治」によると、岡井隆は「『斎藤茂吉ノオト』は、おそらく、茂吉を文藝評論の対象にした最初の作品であった。そして、これを抜く批評文学は、茂告論に関するかぎり、その後もあらわれていない。」と述べているとのことだし、茂吉の次男である北杜夫も、「中野全集」の月報(1979年)に一文を寄せ「未だに茂吉論の中で「茂吉ノート」を凌駕するものは出ていないであろう。」と書いている。

 「 「斎藤茂吉ノート」は高校時代に読んだが、このたび再読してみた。そして、中野氏が思想も異なる茂吉にどれだけ打ちこんでくださつたかが更めて判り、胸が痛んだ。
 冒頭の「ノートをとる資格」からして、氏の謙譲ぶりがわかる。そのくせ、当時の資料の抜き書きからして、実に十全で適確であり、要を尽しておろそかでない。
 氏は、茂吉が自身や自分の仕事が「はかない」としきりに書いていることを指摘している。同時に、その論戦の文章など、たとえば「世間の人々よ。『真人間で居てえや』などと云つたつて駄目だ。今に見ろよ。じたばたしても駄目だぞよ」
 などという文章を克明に摘出されている。
 それは、「神々よ、僕をまもりたまへ」とか、「僕の此のあはれなる歌集に幸ひたまへ」とか「神々よ、僕の歌集を護りたまへ」などという初期歌集の後記に対応するものだ。
 氏は論戦の文章のあとで述べる。
「こういう言葉は、自身および自身の仕事を『はかない』などいつている人の口から出るもの、出ることのできるものではない。自分の仕事、自分の努力、自身の行く道に確信のあるもの、『南蛮鉄の如き覚悟』あるものでなければこうはいえぬであろう」
 同時に、
 「彼は気の強い人間である。しかも事あるごとに、神よ僕をまもりたまえとか、友よ僕のあわれな心をとがめるなとか、せめてもかすかな慰めであるとかいうことをいわずにはいぬ人間である。私はそういう人間ではない。私のあくは強くない。生まれてきた性質からして、私は、自分が茂吉を分析するのに十分には適していないことを知っている」
 あえて牽強付会にいえば、私は中野氏はある程度、茂吉に似た人間ではないかという思いがしきりとする。氏は気が弱いこともあつた。同時にあくもけつこう強かった。それが思想もまつたく別とした茂吉という人間に興味を惹かれた一因ではあるまいか。
 それゆえ、氏の茂吉に対する理解は、同時代の歌人などに比し格段のものがある。たとえば、
  家蟎(いえだに)に苦しめられしこと思(も)へば
    家蟎とわれは戦ひをしぬ
 というつまらぬ歌がある。これに対し、歌人たちはあれこれ論じているが、中野氏はきつぱりとこの歌を否定している。
 「茂吉にあるわかりにくいもの」は、もっとも中野氏の面目の表われている一章であろう。第一、中野氏自体、「わかりにくい」詩人であり作家であり評論家である。粘液質といつてもよい。ここにも私は中野氏と茂吉との近似をあげたくなる。茂吉に対する中野氏の評は、讃めるべきところは讃め、けなすべきところははつきりとけなしている。未だに茂吉論の中で「茂吉ノート」を凌駕するものは出ていないであろう。
 私事にわたれば、不肖の子である私は、この中野重治という立派なお方が本気になつて父を論じてくださつたことが、涙が出るほど嬉しいのである。 」(「「茂吉ノート」など」北杜夫)

これは、息子でありながら、中野重治と同じく茂吉の歌を心から敬愛していた北杜夫の心情が素直に表われたとてもよい文章ではないかと思う。けれども、批評家としての中野重治の面目が表われているのは茂吉論だけではないだろう。「「暗夜行路」雑談」はよく指摘されるように確かに作品の読みの勘違いなど明らかな欠点も挙げられるが、その着眼点からして中野重治以外の人には決して書けない充実した作品批評の文章であることは明らかだと思う。それから中野の啄木論について、堀田善衛は「啄木を論じるにあたって中野重治の「啄木に関する断片」を抜きにすれば何も語れないだろう、本当に不思議な人である」という趣旨のことをどこかで述べていた。「鴎外その側面」は、私は一部分しか読んでいないのだが、おそらく事情は同じではないかという気がする。漱石については、中野重治はまとまったものこそ書いていないが、断片的にまたついでのようにたびたびふれて書かれた漱石に関する文章は、たいていどちらかといえば漱石の弱点や否定的な面を取り上げているのだが、それにもかかわらず漱石に対する敬愛の念と理解の深さ、見方のユニークさは無類であって、私にはどれも一度読んだら決して忘れられないほど印象ふかいものであった。たとえば次の文章における漱石がそうである。

「 無限の挑発、無限の激励  ――私の明治――
 明治は45年つづいて終わった。私は明治35年に生まれた。だから「明治」は、私には10年間しか関係しなかったともいえる。しかし実際には、それはもっと長いもの、もっと大きなものとして、現に私にかぶさっているうえ、日に日にかぶさって来るものともなっている。
 明治から大正にかけて、私たち、あるいは私は、「明治」についてついにろくに教えられたことがなかった。自分でも学ばなかった。学ぶことを知らなかったというのが正しいかもしれない。
 中学校生徒のとき、私たちは年に一度橋本左内の墓まいりに学校から連れられて行った。左内の墓はあるかなしのちっぽけなもので、町の片隅ほどのところにうち捨てられたようにして建っていた。しかしいったい、そのころの墓というものすべてがそうだったように思う。遊覧バスがまわってきて、僧侶やバスガイドの娘が朗読調で何かを述べたてるということが一般になかった。法隆寺でさえ、昭和になってからさえ、法隆寺村の門前には前にもうひろにも人かげが見えなかった。だから私たち中学生は、えらかった左内の墓へ詣りはしたが、左内のことはろくすっぽ聞かなかった。横井小楠とのことなどはひと言も聞かされなかった。この左内が孝明天皇を見どころのある青年として見て、これを「政治的に使えるもの」と判断したことなどはこれっぽちも聞かなかった。小楠における共和思想の芽ばえのことなぞは聞きも読みもしなかった。左内の書いた二間も二間半もある長い長い手紙、つまりはそれが彼らの非合法文書で、それをあちこちにまわしてまた左内のところにもどってきたものだということなぞは高等学校へはいった年にようやく知ったことだつた。
 だから「明治」は、そもそもは幕末から来ているのだろう。あのころの人のことを考えると、諸外国ないし世界像のことについても、高野長英が小伝馬町の牢から脱獄してなかなかつかまらなかつた時、佐々木省吾という人が「何処へ奔り候や、定めてリュス[ロシア]などと察し候。御考へ如何……」といつた手紙を友人に書いていること――それはつまり、それに何とか返事を書いた――書いたにしろ書かなかったにしろ――友人がいたということでなければならなかつたが、私は無限の激励を受ける。「亡命」がどうのこうのと言っているきわではない。
 だからまた、明治政府をあんなふうなものとして露骨無惨な「実力」をもつてつくりあげた人びと、天皇に土地と金と軍隊とをあたえて、人民をにらみすえるものとして築造した人びとの見通しの確さから私は無限の挑発を受ける。尊敬し敬愛してやまぬ漱石にしても、明治天皇の死で明治が終わつたというふうに感じたのだつたと仮にもすれば、さすがに挫折などというきざつぽい言葉はつかわれなかつたが、その点は必ずしもそうでなかつたことをしたたかに考えさせる。
 山城屋和助事件ひとつ思い出してみてもそこは明らかなように私は思う。「明治」の国家権力の性格をあれは象徴していた。司法卿としての江藤新平は指揮発動のまっこう逆を行った。それが司法というものの当時における自然だったのだろう。これは吉田、池田、佐藤の線に比べて考えることができる。山城屋和助は、パリーから走って帰ってきて陸軍省のなかで、感服自殺して事件をもみ消した。明治天皇、大正天皇と来て現天皇は象徴・人間として残った。山城屋とはちがった方法、様式で事は運ばれている。こういう全体は、民主主義もへったくれもなく「明治百年」が生きている一面を照らしている。私は無限の挑発をうける。「明治」の克服としての日本発展ということがやはり最後のものなのだろう。羽田事件その他でマスコミは学生・青年側の「暴力」を書きたてた。あんなもののどこが暴力か。「明治」を見よと言いたい。」(1967年12月16日共同通信社配信・全集第15巻)
(つづく)
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2012.11.03 Sat l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top
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