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このところ2回にわたってブログに長嶋茂雄選手のことを書いてきたが、例の「統一球」をめぐる問題に進展があったようだ。6月27日、労組・日本プロ野球選手会(楽天・嶋基宏会長)は、NPBと第三者委員会あてに「統一球問題に関する当会の要望と見解」を提出した。選手会は加藤コミッショナーには責任をとって辞めてもらい、「ビジョンと責任を持った強いリーダーシップを発揮できる」人物を新コミッショナーに登用して野球界を具体的に改善すべきだと述べている。

「 選手会は、問題を生み出した大きな要因にNPBの構造を挙げ、さらに、統一球が加藤良三コミッショナー主導で導入されたにもかかわらず、「コミッショナーが知らないうちに(調整が)行われたと説明していること自体が問題点のあらわれ」として、同コミッショナーの姿勢を厳しく追及する見解を示している。
 問題の経緯や事実関係を調査する第三者委は28日に初会合を開くが、「選手、選手会を含む幅広い関係者の意見聴取が行われるべきだ」とし、NPBから第三者委に要望書などが出された場合は公開することも要望した。」

第三者委員会の委員はいずれも弁護士で、元最高裁判事の那須弘平氏(委員長)、元京都地検検事正の佐々木善三氏、元一橋大大学院国際企業戦略研究科講師の米正剛氏。また元巨人の桑田真澄氏が専門的な立場からアドバイスするアドバイザーとして第三者委に加わるそうだ。パ・リーグの村山良雄理事長(オリックス球団本部長)が発表した。
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加藤コミッショナーは恥を知らない人だ。6月11日、NPBの下田邦夫事務局長が統一球を今季から変更していたことを認めた際、「製造しているミズノ社に昨夏に修正を指示し、今季開幕から新球を使用していた。公式球の扱いはNPBに一任されていたため、12球団には報告していなかったが、加藤良三コミッショナーと相談しながら対応を進めていた」とはっきり述べていた。

下田事務局長が「加藤良三コミッショナーと相談しながら対応を進め」たと明言したのは、統一球の使用を決定し、球に名前を刻んでいる加藤コミッショナーが変更問題に関与していないという言い分が選手やプロ野球ファンを初めとした世の中に通用するとは思いもよらなかったからだろう。これは当然のことで、その時点で加藤コミッショナーには辞任の道しかなかったはずだ。ところが、加藤氏は翌日、驚くべきことに「自分は変更を知らなかった」と言いだした。そう言えば辞任しなくてもすむと思ったようだが、これではますますコミッショナー不信を高める結果にしかなりようがない。

そもそもこの人は駐米大使を務めていたときから、外務官僚のなかでも特に悪質といえる人であった。公務員でありながら、憲法に従う意向をもっていないことを新聞で堂々開陳していたのだ。そういう人であればこそ、自分が率先して決定した統一球に対して肝心要の球団・選手・プロ野球ファンに隠れてこっそり新たな変更を加えた上、それを隠しきれなくなると、部下に全責任を負わせて、「自分は知らなかった」などとしらを切ることができるのだろう。ダルビッシュ有選手がツイッターで加藤氏の「知らなかった」発言に対して、「知らない事はないでしょう。てか知らない方が問題でしょ」「名前まで入れて中身知りませんはなぁ」と述べたそうだが、これはすべての選手・プロ野球ファンの一致した認識であろう。選手にとっては自分の成績に具体的に影響することであり、コミッショナーの解任を求めることは当然である。これに対して巨人の渡辺恒雄会長は26日、都内で報道陣の取材に対し、統一球の問題が発覚してから初めて下記のように話したそうだ。

「 渡辺会長 加藤Cは「責任ない」「誰が責任あるか知らん」
 加藤良三コミッショナーの進退を問う声が上がっているが「責任はないでしょ。進退を言う必要は一つもない。大臣が1人不祥事でクビになったら総理大臣辞めろっていうことになるか」と即答。「コミッショナーは関係ない。誰が責任あるか知らん」と繰り返した。統一球の仕様が変わっていたことにも「俺が野球について知っているのは野球協約だけ。知らんことは、知らんのだよ」と話した。NPBの対応が批判を招いているが「事実関係を知らないから」と述べるにとどまった。 」 

「大臣が1人不祥事でクビになったら総理大臣辞めろっていうことになるか」「コミッショナーは関係ない。」なんて何てバカな発言なのだろう。今回の不祥事は、「大臣」がおこしたのではなく、「総理大臣」=現在のコミッショナーがおこしたのだ。このコミッショナー選任にはきっと渡辺氏が関わっていて、それで上のような子どもにも通用しない妙チクリンな理屈を捏ねているのだろう。「俺が野球について知っているのは野球協約だけ」というのもゾッとする話である。この年代の人には珍しいことではないかと思うが、この人はキャッチボールもやったことがないそうだ。野球の楽しさを何も知らないのだろう。それでいてしょっちゅう球場に行っているようだが、よく退屈しないものである。いずれにせよ、今回選手会が加藤コミッショナーの退任を要求したのは選手会として当然やらなければならないことをやったまでのことで、一プロ野球ファン(最近はどうもファン意識が希薄になってしまっているが)として断然支持する。
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2013.06.30 Sun l スポーツ l コメント (0) トラックバック (0) l top
『月刊 長嶋茂雄』には「マンスリー長嶋」というコーナーがある。1号では、58年2月の明石キャンプから始まってオープン戦、公式戦、西鉄ライオンズと対決した日本シリーズ、来日したカージナルスとの日米野球(ルーキーながら長嶋は16試合中15試合に出場し、結果、大リーガーたちによって最優秀選手に選出されている。この日米野球には全盛期の中西太選手も参加し3ホーマーを放つなど活躍しているので、その中西選手をさしおいて選出された長嶋選手の最優秀選手賞には価値があると思う)まで、長嶋選手のルーキー年の活躍ぶりが月ごとにかなり詳細に描写されている。驚かされたのは、9月20日の阪神戦(後楽園)、長嶋選手が川上哲治選手の打席でホームスチールを試みていたことだ。惜しくも(?)、川上選手がファールを打ってこの試みは記録に残らないことになったが、写真を見ると、長嶋選手はホームのすぐ手前まで来ている。

ホームスチール
「一塁踏み忘れ事件」の翌日、9月20日の阪神戦では、川上哲治の打席で果敢にもホームスチール。結局ファウルを打った“神様”も驚きの表情?

この本盗について、キャプションが、「無謀にも」とではなく、「果敢にも」と表現していることにホントにホッとする。長嶋選手の表情にご注意あれ。この顔はホームスチールが成功しなかったことをひたすら無念がっていて、打席に入っているのが誰であるか、などにはまるで頓着していないように見える。「打撃の神様」とまで言われていた大打者川上の打席に本盗など敢行したら、その権威やプライドを傷つける由々しきことだなんて考えは長嶋選手の意識には露ほども浮かんでいないのだろう。それにしてもこのときの球場のどよめきはどんなだっただろうか。

ついこんなことを思うのは、もちろん、後に広岡達朗選手の打席に長嶋選手が本盗を敢行して、これが広岡選手と川上巨人との間を決定的に引き裂く事件に発展するという出来事があったからだ。1964年8月6日の国鉄戦。相手投手は金田。スコア0-2と2点リードされて迎えた7回、1死3塁でバッター・ボックスに入った広岡選手、カウント2-0の場面。

「3球目で3塁走者の長嶋茂雄が猛然と本塁へ突っ込んできた。外野フライでも1点入る場面。セオリー無視のホームスチールである。タッチアウトとなった長嶋を、私は呆然と見つめていた。」(日経新聞「私の履歴書・広岡達朗」から)

その後2-2から「見逃しの三振」に倒れた広岡選手は、次のように語る。

「私の怒りはベンチに向かった。『やめた、こんなばかな野球ができるか』とバットを持ってロッカールームに直行、そのまま家に帰ってしまった」

この本盗はベンチのサインによるものだったのか、それとも長嶋の独断だったのか。当時広岡さん自身は「私の怒りはベンチに向かった」と述べているように、川上監督のサインと思っていたようだが、じつは当時から諸説あった。ただ最近では、長嶋独断説が優勢のようである(こちらこちらのサイトを参照)。そして私もこの説に賛成である。1988年、たしか長嶋さんの野球殿堂入りが決定した時だったと思うが、NHKテレビで詩人のねじめ正一さんと長嶋さんとの対談番組が放映された。ねじめさんは長嶋さんに「ホームスチール」について質問した。これはとても珍しいことで、長嶋さんに対して「ホームスチール」を話題にするなんてほとんど最初で最後のことだったのではないだろうか。ねじめさんが、自分は長嶋さんのホームスチールを見ている。失敗も見たが、成功も見ている。最近プロ野球でホームスチールはほとんど見られないが、あれはおもしろいので復活してほしい、というような話をふると、長嶋さんは、即座に次のように答えた。

「観るほうからすると、攻撃で一番きれいなのは、2塁を蹴って果敢に3塁に走る、あの姿なんですが、しかしそれよりももっと人の心を打つものは、ホームスチールでしょうねぇ。」

これに対してねじめさんが、おそらくは過去の広岡選手のケースを念頭に置いてのことだろう、「ただ、ホームスチールというのは、打席に立っている人のプライドを傷つけるという側面がありますね。」と訊いた。これに対しても長嶋さんはキッパリとした口調ですぐにこう応じた。

「ええ、でも、お客さんが喜びますよ。」 そして「ですから、今の選手たちにも機会があれば、ホームスチール、どんどん挑戦してもらいたいですねぇ。」

上の会話は記憶で書いているので、言い回しは必ずしも正確ではないと思うが、話の趣旨に誤りはないと思う。また走ることに対する長嶋選手の異様なまでのつよい意欲については、立教時代のチームメイトで4番長嶋の前で3番を打っていた浅井精(きよし)氏(この浅井選手も長嶋選手ほどではないにしろ、かなり駿足だったようである。)の次のような証言もある。

「 …4年生の頃、浅井が出塁してつぎの〈4番・長島〉がヒットで出ると、2塁の塁上にいる浅井は困ったそうだ。
 長島茂雄はしきりに眼くばせしたり動作で示したりして、スチールをうながしてくる。
「失敗は許されぬから、こちらは慎重になる。ところが、シゲは走りたくて仕方がないんだな。1点差でせっているような試合はべつにして、ほかのときはほとんどダブルスチールのサインを送ってくる。私はあわてて“待て”のサインを返す。それでもまたサインを送ってきて、シゲはぱあっと走る。2塁にいた私は、そうなると否が応でも走らざるを得ない。私は幾度か、3塁で憤死しましたよ。だから私は、シゲとコンビで塁上に出たときは、なるべく視線を合わせないようにした。眼が合うと、シゲは走ってくる。ところが眼をそらしていると、1塁のほうから“キヨシ(精)ッ!”とか、“セカンドランナー!”とか叫んでくる。思わず、はっとしてシゲのほうを見ると、もうおしまいだ。ぱっとダブルスチールのサインを出して、一目散に走ってくる。スタートが遅れながら私も走ってしまう。
 シゲは前へ走りたくてしかたがないのだ。たまらず私が“タイム”をかけて1塁のシゲのところへ駆け寄ると、私の言葉に耳をかすどころか、“ダメだよ、キヨシ、走れ”と興奮してささやく。走る場面ではないのにダブルスチールをやって2、3回成功しています。相手のチームやピッチャーも面くらったことでしょう。シゲには、たえず前の塁へ進もうとする動物的な本能のようなものがある。これは野球選手として、かけがえのない適性だった」
 と、浅井精氏は苦笑しながら賞めたたえている。 」(岩川隆「キミは長嶋を見たか」集英社文庫1982年)

ちなみに、立大時代の長嶋選手の盗塁数は、「月刊 長嶋茂雄」によると、1、2年時はゼロ、3年の春以降4・7・6・5と量産しているそうだ。このなかにホールスチールが含まれているかどうかは判らないが…。

上述のように、ルーキー時代に川上選手の打席で本盗を敢行したことや、本盗に対するそもそもの長嶋さんの考えや、立大時代のチームメイト・浅井精氏の発言などを長々と紹介したのは、64年の広岡選手の打席における長嶋選手の本盗の意図について考えてみたかったからだ。というのも、長嶋のこの本盗については広岡を排斥しようとする川上監督の思惑に沿って行われたものだという意見も稀に散見されるからである。たとえば、1985年、阪神大フィーバーの年になされた大岡昇平の次の発言がそうである。

「 顧れば、大正末にラジオ大学野球の実況放送始まってより、春秋シーズン欠かさず聞く。戦時中の中断をのけて、50年野球と共に生きたり。ラグビー、アイスホッケーを知ってよりは、中断せぬ動きのダイナミズムに魅せられたが、時期冬季に限らる。野球の方が時間的に長い。野球は投手交代があったり、ファウルばかりするバッターいたり、退屈なスポーツだが、50年見たり、聞いたりでつぶした時間の累計は厖大なものに上るべし。
 (略)
 われもともと大鵬、巨人、玉子焼にて、極めて健全なる趣味を有せり。立教時代より長嶋のファンなり。引続き巨人ファンなりしも、川上に媚びて、広岡バッターの時、本盗失敗を演じてより英雄失墜す。同時に巨人という球団自体がいやになってしまった。(このころからひがみっぽくなった)。江川問題あってより、ますますアンチ・巨人となり、一時読売新聞を取るのをやめていたことがある。
却って広岡のファンになりて、ヤクルト-西武と変転して、今日に到る。しかし今年の打の阪神に再び英雄を感じ勝たしてやりたい気がして来た。常になく力入る。逆転勝ち多く、うさ晴し効果あり。放送延長につき合い、解説もよく聞き、テレビ視聴時間3時間を越ゆ(7時から放送始まるから、ニュースは6時30分のTBSから見る)。眼に悪し。睡眠時間ずれて生活のリズム狂う。本も読む時間ますます少なくなる。 」(「成城だより Ⅲ」野球人生)

大岡昇平のいう、「川上に媚びて、広岡バッターの時、本盗失敗を演じてより英雄失墜す。」という長嶋選手に対する見方には、今回川上選手を打席においての本盗の試みを紹介したことで実質的にはちゃんと反駁できたと思うのだが、どうだろうか。ただ大岡昇平がそれまで長嶋選手のプレイにつよく反応し、心惹かれていたことは「作家の日記」(1958年3月19日の項)にもよく出ている。

「 小説は依然として進まない。
 春場所は珍しく上位陣が勝っているし、オープン戦には、長嶋なんて選手が出て来るし、オール・ブラックスは破壊的なラグビーを見せてくれるという有様で、朝から一日テレビの前へ坐っている始末だ。(略)
 朝、寝床の中で真先に開けるのは各紙の運動欄で、長嶋と若乃花の勝利の記録を三度も読み返せば、一時間は軽く経ってしまう。『報知新聞』を隅から隅まで読むなんてことが、日課になろうとは思わなかった。
 それにしても、長嶋なんてテレビで観るだけでも、胸がすくような選手が出て来たとは、意外なことになったものである。僕は職業選手のこづら憎いプレーが嫌いで、原則として六大学野球贔屓なのだが、長嶋が学生野球の空気を職業野球に持ち込んでくれたのはありがたい。ただし時間潰しで困る。
 野球評論家の解説というのが、また困ったものである。浜崎とか南村なんて連中は、批評すればいいと思っている。長嶋が本塁打をうってこっちがいい気持になってるところを、聞えてくるのは、いまの投手の球がいけなかったという批評である。
 彼等が野球はもうあきあきするほど見ていて、目前の変化がさして珍しいものでないことはよくわかる。解説も御苦労様だ。しかし折角お客がよろこんでるところへ、水をぶっかけるようなことを言って、よろこんでるのは、どういうわけだ。
 そこへ行くと中沢とか小西とか苦労人は違う、お客といっしょに野球を楽しんでいるように、少くとも、おもてむきはそう見える。これが同時解説の秘訣じゃないのか。
――と憤憑やる方ない思いのうちに、文学の方にも似たようなことがあるのに気がついた。(略) 」

近年の長嶋さんの振舞いに対する反感や批判によって、選手時代の長嶋さんのプレイが邪念あるもののように受けとられることがあるとしたら、それは間違いであり、グラウンドでの彼の動きは何よりもゲーム展開と自分の野球観とそれに基づいて湧きあがる意欲によって決断されていたというように私には思える。だから、敢行されたホームスチールもすべて支持するし、球場でスリル満点のホームスチールをまた見てみたいとも思う。ちなみに、58年8月20日にも長嶋選手はホームスチールを試みている。残念ながらタッチの差で失敗に終わっているが、このとき打席に立っていたのは藤尾捕手だった。

2013.06.26 Wed l スポーツ l コメント (2) トラックバック (0) l top
 1958年 ゴールデン・ボーイ 鮮烈デビュー
去る6月3日にベースボール・マガジン社からムック本『月刊 長嶋茂雄』が創刊された。1号は、国鉄スワローズの金田正一投手に4連続三振を奪われてプロデビューしたルーキー・イヤーを取り上げている。サブタイトルは「1958年 ゴールデン・ボーイ 鮮烈デビュー」。今後の刊行は、月イチで12号までつづくそうだが、5月半ばにちょっと薄手ながら(その分価格も安い)0号も発行されているので、全13巻になるようだ。0号、1号ともに私は購入したのだが、どちらも写真がすばらしいと思った。スピード感に充ちあふれ、しかも一挙手一投足の動きが空間にくっきり鮮やかだった長嶋選手のプレイの特性がよくとらえられていて、その現役時代に『週刊ベースボール』を見たことがなく初見のものばかりだったせいか、ほとんど陶然としてしまった。白黒の写真の各ショットが、迫力があると同時にえも言われずチャーミングである。キャプションや記事本文も多くは当時のものを忠実に写しとっているのだろう、長嶋選手のプレイの個性がかなり正確に叙述されているように思う。

『週刊ベースボール』は長嶋デビューの58年に創刊されたそうだが、それまで月刊誌『ベースボールマガジン』に掲載された分も合わせてベースボール・マガジン社には立教大学以後の長嶋選手の活躍の記録がすべて保存されていたのだろう。今回のムック刊行もその蓄積の賜物なのだろう。映像のほうは残念ながら残っているフィルムが少ないようで、日テレにしても毎度毎度デビュー戦の金田との対決シーンや天覧ホームランなど同じ場面を繰り返し垂れ流すばかり。私たち視聴者はもうとうから見飽きているというのに。

一塁踏み忘れ
  前代未聞の「ベース踏み忘れ」。 9月19日の広島戦(後楽園)。低い痛烈な打球は遊撃手の頭上を超えて外野を転々とするかのような当たりだった。あわよくば三塁打にしようと無我夢中で走っていたために、ベースを踏んだかどうか長嶋選手自身は覚えていなかったという。広島側からのアピールによって、哀れ、せっかくの本塁打は投手ゴロに。この失敗がなければ、新人にして3割30本30盗塁のトリプルスリーの記録が成ったのだが。

『月刊 長嶋茂雄』の刊行は5月の国民栄誉賞授賞騒ぎに便乗したものかと最初は思ったのだが、中身の充実度をみると、何かのきっかけさえあればいつでも出せるように、相当前から準備を整えてきていたのではないだろうか。とにかく見て感嘆し、なかなか余韻が消え去らないこともありたまにはこういうブログ記事も書いてみようかと思い立ったしだいである。

私が、長嶋選手のプレイを近所の家のテレビで初めて見たのは、彼の巨人入団3、4年目ころだったかと思う。『月刊 長嶋茂雄』1号で「時代の証言者」として本屋敷錦吾氏(立教時代のチームメイト。長嶋、杉浦忠投手とともに「立教三羽烏」と称された)が、長嶋が巨人に入団したことは、長嶋にとってもプロ野球界にとっても良い選択だったと思うと述べたあと、「やっぱり、川上さんの人気と、長嶋の人気では“明るさ”が違うんです。玄人が川上さんのバッティングを見て「うまいなあ」というのと、野球を知らない人でも長嶋の派手な動きを見て「すごい!」と思うのとでは、全然、違うでしょう。プロ野球自体の人気、認知度を高めましたからね。ホント、大したヤツやと、あらためて思いますよ。」と語っているのだが、私の場合はもう完全に、本屋敷氏の言う「野球を知らない人」が、偶然「長嶋の派手な動きを見て「すごい!」と思」った人間(子どもだったが)の一人である。といっても九州の奥の片田舎住まい、毎日テレビでプロ野球中継を見ていられる環境ではなかったので、その後長嶋選手のプレイを見たのは合計しても150~200ゲームくらいではなかっただろうか。それでも初めて見たときからずっと(おそらく今の今まで)、そのプレイは、心を晴れやかにしてくれるもの、無上に楽しくて面白いもの、無垢なもの、美しいものの象徴のごとくにして心のなかに棲みついてしまったことは疑いえない事実だったように思う。だから、本当のことをいうと、長嶋のプレイについてよく言われる(本屋敷氏もそう言っている)「派手」という形容はちょっとミもフタもない気がして違和感があり、「華麗」「輝かしい」のほうがピッタリしていると感じるのだが、まぁ分かりやすいし、たった2文字で言いやすいということもあるので、それでもいいことにしよう。

 「大きなストライドで飛ぶように走る」長嶋の走塁
あるとき、真夏のナイターだったと思うが、長嶋選手が攻守に大活躍してそのゲームは終わった。テレビは中継終了の前に、しばし満天の星空を映していたが、それを眺めていると、長嶋選手がゲームを終えて天に帰っていく幻影を見たような気がした。その印象はいまも心の奥にそのまま残っているのだが、当時多くの子どもが同じような印象をもっていたのではないだろうか。いや、子どもだけではなかっただろう。むしろ、長嶋選手より一廻り、二廻り、三廻り上の当時のおじさんたちこそ、よりつよくそのような印象をもったのではないかという気もする。別にこちらが長嶋選手のことを話さなくても、「長嶋」という単語はどこにいてもある調子をもって日常的に発せられ聞かれたのである。ではなぜ長嶋選手がそのように強烈なイメージを人にいだかせたかというと、攻守走のうちのいずれもが傑出してすばらしかったからということがひとまず言えるだろう。まず長嶋選手のプレイにはもの凄いスピード感があった。高い打撃技術を持った強打者である長嶋選手は当然のことながら一塁へ、また二塁、三塁へとグラウンドを走り回る機会が多い。塁間を大きな歩幅でビュンビュン疾走していた姿が今も記憶に鮮やかなのである。ルーキー時代のオープン戦で対戦した南海の三塁手・蔭山和夫選手は、「月刊 長嶋茂雄」1号をみると次のように語っている。

「長嶋の打球はスピードがあります。スイングは大振りですが、インパクトの時に集中力が加わるので、猛烈(な速さ)になる。大きなストライドで飛ぶように走る姿も目に入ります。捕球して一塁を見て、一生懸命走っているのを見ると、こちらも思わず肩に力が入ります」

脚力は、大学時代から折り紙付きだったようで、立大野球部で1学年下だった片岡宏雄氏も著書で下記のエピソードを紹介している。

「 …長嶋さん、杉浦さん、本屋敷さんらが最上級生になってからの立教は、無敵といっていいほど強かった。長嶋さんのリーグ戦通算8本塁打の新記録、杉浦さんの対早稲田戦完全試合など、輝かしい記録がリーグ戦春秋連続優勝をいっそう価値のあるものにした。
 しかしひと口に春秋連続優勝といっても、そう簡単に達成できるものではない。長嶋さんたちの身体能力がずば抜けていたからできたのだ。
 それを物語るエピソードがあるので、紹介したいと思う。
 当時の立教大体育祭の名物は、各部対抗のスウェーデン競走だった。第一走者が100メートル、第二走者が200メートル、第三走者が300メートル、アンカーが400メートルを走るリレー競走である。
 野球部の代表ランナーは、第一走者が本屋敷さん、第二走者が二塁を守っていた高橋孝夫さん、第三走者が長嶋さんで、アンカーが杉浦さんというそうそうたるメンバー。
 当時の立教大体育会はどこの部もトップレベルだった。野球部はもちろん、アメリカンフットボール部、バスケット部、陸上部など……。その腕自慢、いや足自慢たちが部のプライドをかけて戦う。
 とはいえ、やはり例年優勝するのは陸上部だ。走ることのスペシャリストがそろっているのだから、勝ってあたりまえである。
 しかし、この年に限っては別だった。野球部の豪華カルテットが陸上部を圧倒したのだ。
 長嶋さんは手のひらを開いて歯を食いしばる、プロ現役時代そのままのスタイルで陸上部員を追い抜き、長嶋さんからバトンを受けたアンカーの杉浦さんが、堂々1位でゴールを切ってしまった。
 得意満面、大喜びの野球部員とは逆に、気の毒なのは陸上部員だ。陸上部員は全員頭を丸刈りにするはめになった。
 後で聞いた話だが陸上部の監督が、
「長嶋が陸上をやっていたら、間違いなくオリンピックの選手になれるだろう。それほどの運動能力をもっている」
と話したらしい。」(片岡宏雄著「スカウト物語」健康ジャーナル社 2002年)

「手のひらを開いて歯を食いしばる」走り方は、確かにプロ野球での長嶋選手の姿そのものである。ただ、リレーでバトンをもちながら「手のひらを開いて」走るのでは、バトンを落っことさないかちょっと心配にはなる(笑)。オリンピックといえば、プロ入団後の長嶋の走りを見て、陸上連盟のあるコーチが「長嶋を預けてくれれば、三段跳びか走り幅跳びで金メダルを取らせてみせる」と言ったそうである。これは当時世間にかなり広く知られていた話なのだが、いつだったか、長嶋さん自身がこのコーチの名について「織田幹雄さん」だったと述べているのを何かで読んだことがある。長嶋さんが病に倒れながらもアテネ五輪出場に執拗にこだわったのは、立教時代からいだいていた大リーグ(国際舞台)への憧れももちろんだが、脚力に関する若いころの経験・逸話もオリンピックと結びついた忘れがたい記憶として影響していたのかも知れない。

ルーキーの年の西鉄ライオンズとの日本シリーズで、敗色濃厚な9回長嶋選手は稲尾投手からランニング・ホームランを打った。走りに走ってホームで強烈なスライディングをする映像が残っているので、見た人もいるかと思うが、当時の長嶋選手の脚力は、上述のように陸上の専門家からもピカ一の折り紙がつけられるほどのものだったのだ。それやこれやのさまざまな理由で、私たちが当時釘付けになるほどに彼のプレイに惹かれても不思議はなかったと言えるだろう。
2013.06.24 Mon l スポーツ l コメント (0) トラックバック (0) l top
 地裁および控訴審判決の恐るべき白々しさ
前回のブログでKさん殺害事件に対する風間さんの無実の訴えを紹介した。風間さんは法廷でも最初から一貫して同じ訴えをしてきたのだが、これに対して一審の裁判所が「風間は、何の根拠も示すことなく、ただひたすら「Kとの紛争は解決がついたと思っていた」などと述べるばかりなのであ」る、との判定を下したことも紹介した。この「風間は、何の根拠も示すことなく、……」という判示は、何回読んでも、いや繰り返し読めば読むほど、救いようもなく支離滅裂かつ悪質だと思うので、この問題についてもう少し書いておきたい。

風間さんは、「Kとの紛争は解決がついたと思っていた」からこそ、そしてKさん殺害の計画など何も知らなかったからこそ、Kさん用に注文したローデシアン(126万円を3月25日支払済)にかてて加えて、新たに受注したKWさん用のローデシアン(135万円)の支払手続きをしたのである。これは、Kさん殺害当日の4月20日の昼間であった。このことが無実の主張の「根拠」でないというのなら、一体何だというのだろう? 裁判所は風間さんが金銭に対して異様な執着をもつがゆえにKさんへのローデシアンの返金を惜しんでKさん殺害を計画し実行したと断定している。ならばその風間さんが無駄遣いになることがあらかじめ解っているローデシアンを新たに注文し支払いをした理由について明示するのは当然のことである。おそらく、その明示が不可能であるがために、裁判所は「風間は、何の根拠も示すことなく、ただひたすら「Kとの紛争は解決がついたと思っていた」などと述べるばかりなのであ」る、などとまったく意味不明のデタラメな判定を並べたのではないか?

Kさん殺害の翌日風間さんのペットショップにかかってきたKさんの妻からの電話の件も、上記の場合と同じく、風間さんがKさん殺害事件に関して無実を主張するに十分過ぎるほどの根拠をそなえたものである。

まず、4月20日――Kさんが殺害された日の風間さんの行動であるが、この日風間さんは愛人のMR氏と昼の12時30分から午後中を一緒に過ごし、午後4時半過ぎに熊谷駅でMR氏と別れた。ペットショップに戻ったのは午後5時過ぎ、帰宅したのは午後7時過ぎである。その後、午後11時頃、Y氏から電話がかかり、「これから東京まで車を置きに行きたいんだけれど一緒に行ってくれるかい。社長から聞いてる?」と言われた。風間さんはその前日か前々日に関根氏から「Yにはいろいろ世話になっているので、Yから用事を頼まれたらできるだけ応じてやってくれ」と言われていたことから、これに応ずることとし、Y氏と行動を共にした。このことはこれまで何度も述べてきたとおりである。

その翌日の4月21日、昼の12時頃、帰宅しない夫の身を案じたKさんの妻N子さんから風間さんのペットショップに「社長いますか、社長を出してちょうだい」との電話がかかってきた。Kさんの弟さんの法廷での証言によると、N子さんはその日の朝、勤務先(社長はKさんの実兄)に電話をかけて夫が出勤していないことを知ると、「犬屋にさらわれたのではないか、さらわれた…」と口にしていたそうである。風間さんは、N子さんとの面識はなく、ペットショップの社長は自分であることから「社長は私ですが…」と述べたが、とぼけないでよ、偽装離婚でしょ、などの応答で電話の主がKさんの妻であることを知ると、すぐに「関根は今、片品のYさんの家に住んでいるからそちらに連絡して下さい」と言って、片品のY方の電話番号を教えた。このことはN子さんの第31回公判の証言、風間さんの第60回公判の供述から明らかである。Y宅の電話番号を聞いたN子さんはその直後から何度もY宅に電話をかけたが誰も出なかった。そのうちKさんの弟さんが兄の安否を心配してN子さんを訪ねてきた。弟さんが、N子さんに代わってY宅に電話をかけると、ようやくY氏が出た。その時、弟さんが自分はKの弟である旨名乗ると、Y氏の対応は「はぁ?って、どちらの、さあっていうような感じで、とぼけて」(一審法廷証言)いたそうである。このあたりの経緯を、一審判決文から引用し、この判示の問題点を指摘したい。

「1 前記のとおり、被告人両名はKを佐谷田の車庫に誘き出して殺害したが、Kの妻や兄らは、4月20日夕方に勤務先を出たまま行方不明となったKの安否を気遣うとともに、同人が以前から被告人関根らと犬の売買等の話で揉めていたことから、被告人らがKに何らかの形で危害を加えたのではないかと疑い、Kの兄らが4月21日昼ころに片品村の前記Y方に電話を掛けて応対に出た被告人関根を追及したり、同日深夜には被告人関根らを問い詰めようとY方に車で赴いたり(ただし、Y方の近くに右車両を駐車させていたところ、万吉犬舎から車で戻って来た同被告人及びYがこれを見付けてY方に入ることなく逃げてしまったため、結局同被告人らに会うことはできなかった。)していた……」(「一審判決文」p42)

お分かりだと思うが、裁判官は判決において「Kの兄らが4月21日昼ころに片品村の前記Y方に電話を掛けて応対に出た被告人関根を追及したり」「関根らを問い詰めようとY方に車で赴いたり」とKさんの家族・親族の行動を正確に記していながら、肝心要の1点――すなわち、Kさんの家族にY宅の電話番号を教えたのは、他ならぬ風間さんであることを隠蔽しているのである。最初に取り上げた「2頭分のローデシアンの輸入代金振込み済み」の件を隠蔽したのと同じく、ここでは、風間さんがKさんの妻にY宅の電話番号を教えたことを隠蔽した上で、ぬけぬけと「風間は、何の根拠も示すことなく、ただひたすら「Kとの紛争は解決がついたと思っていた」などと述べるばかりなのであって」と判示しているのだ。こんな悪質な判示が許され、世の中に通用するのなら、私たちも運次第でいつ何どきどんな無実の罪を着せられるか分かったものではない。控訴審の公判において、被告・弁護側はもちろん一審のこの判示に抗議し、過ちを正すように求めた。その結果、控訴審の判示は、以下のようになった。

「(風間の弁護人及び風間)風間は,Kが殺害された翌日の昼ころ,Kの所在を探していたKの妻から電話で関根の所在を聞かれた際,片品村のY方の電話番号を教えているが,このことは風間がK殺害を知らなかった証左である,というのである。
しかしながら,風聞がKの妻に関根の所在を教えたころには,既にKの死体の始末は終わっていたのみならず,N子の検察官に対する供述調書によれば,風間は,Kの妻からの問い合わせに対して,当初,関根とは離婚しておりどこにいるかも分からないなどととぼけたものの,偽装離婚だろうなどと言って追及されるに及んで片品村のY方の電話番号を教えたのであって,このことはむしろ風間が関根の所在を隠そうとしていたことになりこそすれ,K殺害を知らなかった証左となるものではない。」(「控訴審判決文」p29~30)

裁判官は「風聞がKの妻に関根の所在を教えたころには,既にKの死体の始末は終わっていた」というが、N子さんが電話をかけてきたとき、Y宅での「死体の始末」が終わっていることをY宅に電話をかけてもいない風間さんがどうやって知ったというのだろうか? 判決はまた、「N子の検察官に対する供述調書によれば,風間は,……関根とは離婚しておりどこにいるかも分からないなどととぼけたものの,偽装離婚だろうなどと言って追及されるに及んで片品村のY方の電話番号を教えた」とも記述している。しかし、法廷でN子さんは、「離婚しておりどこにいるかも分からないなどと」風間さんが話したということを否定しているのだ。N子さんは、電話での風間さんとのやり取りについて一審の法廷で次のように証言している。


N子  社長は、社長、いますかと言ったら、自分が、私が社長だと言うので、いえ、偽装離婚のことは風間のほうから、そのときは風間と聞いていたので、風間さんからきいていますと、言いました。
――今言った、風間さんから聞いてるという風間さんは、
N子  関根です。 
――関根被告人のことですね。
N子  はい、そうです。
――聞いていますというように言われたわけですか。
N子  はい。
――そしたら、風間被告人は何と答えましたか。
N子  いえ、すんなり、何も言うも、言わないも、はい、分かりましたと、もうすぐに電話番号、教えてくれました。
――そのときに、いや、偽装離婚ではなくて、ちゃんと離婚しちゃってるんだと、だから、今、関根被告人はどこにいるか分からないというような話は、出ませんでしたか。
N子  出ませんでした。
――偽装離婚に対する、まあ否認というか。
N子  しませんでした。
――私は絶対、偽装離婚なんかしてませんというような反論は、なかったですか。
N子  ないです。
――で、当初は、関根被告人の居所については、どういう言い方で風間被告人は答えてましたか。
N子  ここにいると思うから、多分ここにいるからっていうことで、電話番号、教えてくれました。 」

N子さんはこのように明確に風間さんが偽装離婚について否認も反論もせず、「もうすぐに電話番号、教えてくれました」と述べている。私は残念ながらこの検察調書を確認していないのだが、おそらく法廷証言以前の検察官に対するN子さんの供述調書には、「風間は,Kの妻からの問い合わせに対して,当初,関根とは離婚しておりどこにいるかも分からないなどととぼけた」というように書かれていたのではないかと思われる。法廷でN子さんに対して執拗なほどに風間さんの電話での応対――風間さんから発せられた言葉がどうだったのか具体的に細かく問い質されているのはそのせいではないかと思われる。しかしその尋問に対して、N子さんは上記のように明確に、風間さんが「すんなり、何も言うも、言わないも、はい、分かりましたと、もうすぐに電話番号、教えてくれました。」と述べているし、「関根被告人はどこにいるか分からないというような話は、出ませんでしたか。」という問いにも「出ませんでした」とはっきり答えているのだ。にもかかわらず、控訴審の裁判官は、N子さんのこの法廷証言を完全に無視して、ここでN子さん自身によって明確に否定されたはずの「関根とは離婚しておりどこにいるかも分からないなどととぼけた」という、捜査段階における検察官調書を採用しているのである。まさしく裁判官による事実の歪曲、捏造であり、これでは被告人が救われる方法はないことになる。

そもそも、「偽装離婚だろうなどと言って追及されるに及んで片品村のY方の電話番号を教えた」という裁判官の上記の判示は、これ自体まったく意味をなしていない。「偽装離婚」という言葉を持ちだして追及されたからといって、「Y方の電話番号を教え」るという結果が導き出されるどんな理由があるのだろう?「偽装離婚」が税務署からの追及だったとでも言うのならともかく、関根氏の知人から発せられた「偽装離婚」の言葉に風間さんが動揺したり怯えたりする必要など全然ないはずではないか。「偽装離婚だろうなどと言って追及されるに及んでY方の電話番号を教えたのであって,このことはむしろ風間が関根の所在を隠そうとしていたことになりこそすれ,K殺害を知らなかった証左となるものではない。」という判示は、事の筋道・道理をまともに説明できない裁判官の恐るべき言いがかり、そして言い逃れであろう。

それから、Kさん殺害事件当日の昼間、風間さんが4時間余の長時間を愛人と一緒に過ごしていた事実に対して、裁判所が一審・二審ともに一言も触れることなく、完全黙殺していることにも深く留意すべきだと思う。
2013.06.15 Sat l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (0) トラックバック (0) l top
最近よいニュースにお目にかかることはまったくといっていいほどないのだが、先日はとりわけショッキングな報道があった。福島県民18歳以下の甲状腺がんの確定者が12人にのぼったというのだ。「東京電力福島第1原発事故による放射線の影響を調べている福島県の県民健康管理調査で、18歳以下で1次検査の結果が確定した約17万4千人のうち、甲状腺がんの診断が「確定」した人が新たに9人増え12人になったことが4日、関係者への取材で分かった。」(サンケイニュース・6月5日)という。ところが、調査主体の福島県立医大は、「放射線の影響は考えられない」と説明しているそうだ。理由は、「チェルノブイリ原発事故によるがんが見つかったのが事故の4~5年後以降だった」からだという。子ども騙しのような言い分である。では今回診断された「甲状腺がん」多発の原因は何だというのだろうか? 今後の成り行きを思うとほんとうに不気味である。

話題は変わって…。ここ一週間ほど、ブログ「スーパーゲームズワークショップエンターテイメント」がアクセス不能になっているのだが、どうしてなのだろう。どなたか理由をご存じの方がいらっしゃったら、教えていただきたいのだが…。

また次のような報道もあった。大阪府内の警察署で事件対応に関する自分たちの落ち度が明るみに出ることを恐れて虚偽調書を作成し、法廷でもその虚偽調書に沿った嘘の証言がなされていたことが判明したという。どうやら組織ぐるみの犯罪のようである。


 大阪 警察官がうその調書 裁判で偽証(6月9日)
 大阪府警察本部の複数の警察官が、警察署の留置場で起きた公務執行妨害事件への対応が適切だったと装うため、2回にわたってうその調書を作成したうえ、この事件の裁判で、警察官2人がうその調書に沿った証言をしていたことが関係者への取材で分かりました。
 関係者によりますと、去年12月、大阪・堺警察署に勾留されていた男性が、署内の保護室に収容される際、巡査長の顔を殴ったとして公務執行妨害の疑いで逮捕されました。
 保護室への収容は、巡査長が独断で決めていましたが、報告を受けた上司の警部補が巡査長の対応が適切だったように装うため、現場にいなかった別の警察官の指揮で行ったとするうその調書を作るよう指示したということです。
 その後の捜査で、調書の内容がうそだったことが発覚しましたが、今度は事件を引き継いだ別の警察官が警部補の指示だったことを隠し、「巡査長が独断で保護室に収容したことを上司に怒られるのが嫌で同僚と口裏を合わせた」とする2つ目のうその調書を作ったということです。」

ネットや新聞でニュースをみると警察・検察の不祥事や犯罪はほとんど毎日のように目に飛び込んでくる。今回の偽りの調書作成、裁判での偽証というのも事実にちがいないように思えるのだが、どうもこの手の犯罪行為はどこの警察・検察でも日常茶飯事のこととして大手を振って通用させているのではないかという疑いをもたずにはいられない。当ブログで取り上げている「埼玉愛犬家殺人事件」の風間博子さんへの死刑判決も、警察・検察が事件の共犯者を抱き込んでデタラメの調書をつくり、裁判でも数々の偽証がなされ、その上、裁判官の支離滅裂な判示によって意図的につくり出された判決とのつよい疑いをもたないわけにはいかない。風間さんは今年になって風間さんを支援する意図で発行されている冊子「ふうりん」誌上でご自身の無実を訴える文章を連載している。今回は「冤罪を訴える ~まやかしの判決書~3」をお届けしたい。多くの方にぜひ以下の風間さんの声に耳を傾けていただきたく思う。そうすれば、この判決がいかに欺瞞に満ちた不公正なものであるかがどなたにも解っていただけるものと信じる。(なお文中の「K事件」とは、「埼玉愛犬家連続殺人事件」において最初(93年4月20日)に起きたK氏殺害事件のことである。「S」は主犯関根氏、「Y」とはもちろん共犯Y氏のこと。)


 「冤罪を訴える」  ~まやかしの判決書~3 《K事件の共謀はあったのか?》 (「ふうりん」№15)
 SもYも認めている事実として、1993年(平成5年)4月19日にSとYは、K氏等とソープランドや寿司屋で遊興をしてK氏を油断させた上で、言葉巧みに嘘の売買代金返済話をし、K氏を翌20日の夜、佐谷田車庫に誘い出しました。
 そしてK氏を殺害し、SとYは、その遺体をY車ミラージュのトランクに入れて群馬県片品村のY宅に搬入して、解体・焼燬・投棄をしました。

偽りの「事件共謀の認識共有」の認定 
 確定判決では、
① 私は、K氏との紛議(キャンセル話)が続いていることを十分承知した上で金銭的解決を拒絶し、K氏殺害の認識をSと共有し
② 殺害後は、片品村のY宅に搬入して解体遺棄し証拠隠滅するとの謀議を遂げて、それを実行するに至った。
③ 何の根拠も示すことなく、ただひたすら「紛争は解決ついたと思ってた」と述べるばかりの私の供述内容は極めて不自然で信用し難い。一方、全ての事前共謀は成立していたというS供述は成り行きとして自然で、その信用性に疑いを差し挟む余地は乏しく、その限りにおいては十分信用できる。
として、SとYとで行われていた事件の内容・流れは全て私も共謀して容認・存知していたものであると認定しました。

裁判所のまやかし 
① K氏とSとの紛議や売買に関して私は、以下の通り供述しております。
 SからK氏へ販売するローデシアン・リッジバック(以下、ローデシアン)牡(オス)の輸入を頼まれた私は、1993年3月15日に注文をし、その代金(トレッカー分)を3月25日に送金しました。
 数日後、Sから、K氏からローデシアンのキャンセルを求められている旨の話を聞きましたが、すぐに、「K氏からのキャンセル話は解決した」との報告があり、更に、別口KW氏へのローデシアン牡(バード)の輸入注文手続きを進めるようSから頼まれました。
 ところで、当時のローデシアンの注文・送金状況は、以下の通りです。

 注文日    送金日 送金額 性別・名前
1993.1末頃  2.15   7,000US$ 86万0350円 牝 モカ、ルナ
1993.3.15  3.25   10,687US$ 126万9737円 牡 トレッカー
1993.4. 2  4.20  12,000US$ 135万1800円 牡 バード
1993.4.15   4.22   9,000US$ 101万4450円 牝 チャラ

 K氏とのキャンセル話は解決してると聞いていましたが、確認を再度Sにして私は、バードの注文を4月2日にし、そして事件当日の11時頃に銀行に出掛け、12時頃にバード分の送金手続きを済ませました。
 裁判所や検察によれば私は、金への執着心が強く、金銭に細かい人間であり、当時金銭的余裕がなく「金への強い執着心」が事件の動機である、と言います。
 その通りであったのなら、事件の事前共謀をしていたといわれる私が、必要のない犬の代金を、それも135万円余りもの無駄となると判っている金額を送金するという事があり得るでしょうか?
 事件が起きる事を知っていたのなら、トレッカーをKW氏の注文分へ代替すればよく、バードの送金は必要ない、ということになるのです。
 裁判所は、「風間は、何の根拠も示すことなく、ただひたすら「Kとの紛争は解決がついたと思っていた」などと述べるばかりなのであって、その供述内容は、極めて不自然というほかはない。」との認定をしていますが、事件当日の送金事実は、キチンとした『根拠』であり、事前共謀がなかった事の証拠でもありませんか?
 また、裁判所は、私が「そのような紛争自体を知らなかったなどと」供述したと判示していますが、上記の通り、紛争があった事は聞いたが、それは解決した旨聞かされていたのです。
 裁判所は、私を有罪へと導くために、ここでも事実を歪めた判示をしているのです。
 尚、捜査当局により、取引金融機関等、金銭の流れなどは徹底的に調べ上げられておりますが、事件への私の共謀を指し示すものは、K事件を含め一切出てきておりません。

② 事件当日にSと私とが連絡を取り合っていないことは、私はもちろんですがSもYも「そして、Yの家に着いてからも、博子には電話をしていません」(S検面調書)、「Sが博子と連絡を取り合った事はありませんでした」(Y検面調書)と供述しております。
 ですから、私が「謀議を遂げて」いたとされる解体遺棄の進捗状況等について知り得ていなかったことは証明され、裏付けられています
 さて、4月21日の昼ころ、熊谷市のペットショップに、K氏夫人から「Sの居場所を知りたい」旨の電話が私に架かって来ました。
 私は、K氏夫人に、群馬県片品村のY宅の電話番号を教え、「Sは現在、片品村のY宅で生活をしているので、Y宅へ連絡をして下さい」と伝えました。
 この時の電話のやりとりについて、K氏夫人は、次の様に証言しております。
「いえ、すんなり、何も言うも言わないも、はい、分かりました、と、もうすぐに電話番号、教えてくれました。」
 K氏の兄弟達は、直ちにY宅へ電話を架けてSやYと話をした結果、その空々しい惚けた受け答えに不信感を増大させ、すぐ様、疑いを募らせたSの名前を出して警察へ届出をし、Y宅へ向いました。
 このK氏の兄弟から受けた電話について、SとYは以下の様に供述をしています。
「 Yが最初に電話で話していたのですが、何か怒鳴り合いをしているような状態でした。―― 中略 ―― 私は、Yの家になぜKさんの弟が電話をしてきたのか分からず、なぜ私達がYの家にいるのが分かったのか、不思議に思うと共に、怖くなりました。」(S検面調書)
「 この時、私は、Kの身内は、私等がKさんをどうにかしただろうと疑いを持っている事が判かり、心配となったのです。」(Y員面調書)
 そして、Y宅近くで見張りを始めたK氏兄弟らが乗っていた車を見つけたSとYは、片品村のY宅から逃げ出したのです。
「 Kさんの兄弟などが私達を疑ってここまで来たと思ったので、もめ事になり、乱暴をされるかもしれないと思ったので、会わないまま逃げ出したのです。
 そして、その夜はYと一緒に本庄インターで降り、近くにある適当なモーテルに入って泊まりました。」(S検面調書)
《疑問》裁判所が認定した様に、私が事前共謀をしていて、この計画犯罪の主動的役割をはたしている人間であったのなら、今まさに、事件の事後処理中かも知れぬY宅の在処を、K氏夫人に教えるなんていう事をするでしょうか?
 教えるということは、解体遺棄の現場に踏み込まれて現行犯逮捕されることにも等しい位の行為であり、事前共謀のみならず、事後共謀をしていた共犯者であった場合でも、自らを窮地に追い込む行ないであったのです。
 つまり、この行為は、私がこの事件の計画を知らなかった事の証である、と思いませんか? これでもSと私が一心同体の共謀者と言えるのでしょうか?
 また、SとYは、K氏の兄弟らからの電話や訪れについて、全く予期せぬ出来事であり、なぜ知ったのか不思議に思い、怖くなったと供述しております。
 この件からも、私がSにK氏夫人からの電話を伝え注意を促す様な意思の疎通を図り合える関係ではなかったことが明白であります。
 この様な事実があっても、「全ての事前共謀が成立していたことに疑いを差し挟む余地はない」となぜ裁判所は断定できるのでしょうか?

 ひたすらに裁判所を信じ、自己の無実を私は真摯に訴えてきました。しかし、裁判所は、あまりに杜撰で、不実な認定をし、私に死刑判決を下しました。それでも私は裁判所の正義を信じ、闘い続けます。応援をよろしくお願い致します。 風間博子 」


今回風間さんが取り上げている問題については、当ブログでもこちらで俎上に上げて真相追求を試みている。合わせてお読みいただければ有難く思うが、風間さんの上記手記にあるように、もし風間さんが主犯S氏と一緒にK氏殺害を計画していたのなら、K氏とは別人のKW氏から依頼されたローデシアンをわざわざ新たに注文する必要はないのである。すでに注文を済ませていたK氏用のローデシアンがあるのだから、K氏殺害後にそれをKW氏に渡せば済むのだ。裁判所は風間さんが金銭に対する異常な執着心をもつがゆえにK氏殺害を主張し実行したと判示しておきながら、K氏殺害後には、(支払いのみ済ませて)宙に浮くことになるしかないローデシアンの新たなる注文については、その意図にも理由にも何の判断も示していない。示そうにも示しようがなかったからにちがいないのである。それでいて、裁判所は、「風間は、何の根拠も示すことなく、ただひたすら「Kとの紛争は解決がついたと思っていた」などと述べるばかりなのであって」と判示しているが、これは実体をごまかそうとする意図をもった「不正義」以外のなにものでもないだろう。

また、4月20日ついに帰宅しなかったK氏の身を案じてK氏の奥さんが翌日の昼頃風間さんのペットショップに電話をかけてきたとき、風間さんは電話の主がK氏の奥さんであることを理解すると、「Sはここにいるはずです」と言ってすぐにY宅の電話番号を教えている。このことも上の手記で風間さんが主張しているとおりなのである。風間さんは自分がK氏の奥さんに電話番号を教えたことをY宅にいるS氏に連絡していないし、S、Y氏ともなぜK氏の家族(弟さんやお兄さん)がY宅の電話番号を知ったのか、またその後Y宅を急襲してきたのか、その経緯も理由も分からず、「心配」し、「不思議に思うと共に、怖くなり」、Y宅を逃げだしてその夜は余所に泊まっている。風間さんと、SおよびYとの間にあるのは断絶のみなのだ。裁判所はそのことを重々承知していながら、「風間とSとの運命共同体」などという絵空事の物語をこしらえて、風間さんを殺人犯に仕立てあげたのではないか。どうもそうとしか考えようがないように疑われるのである。
2013.06.11 Tue l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (8) トラックバック (0) l top
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