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こちらの記事を読んでくださった方から、次のコメントをいただいた。コメント欄に返信を書きかけたが、長くなりそうだったので、本文で書くことにした。コメントの全文は以下のとおりであった。

「漱石がロンドン大学の授業について行けなかった」というのは、佐藤氏がどういう意味で言ったのか分かりませんが、当たらずといえども遠からずでしょう。当時の英国では漱石が目指していたような「英文学の研究」はまだ行われていなかった。ジェイン・オースティンやメレディスなんぞはわざわざ研究する値打ちがあるものとはみなされていなかった。授業は中世英語などでしょう。これは現代(ヴィクトリア朝を含めて)の英語から見れば全くの外国語で、予備知識が無ければチンプンカンプンのはず。「授業について行けなかった」から漱石がだめだったということではないのです。」

このコメントを幾つかに区切った上で返信コメンを書くつもりだが、簡潔な書き方が苦手なほうなので話が要領をえなくなるのが心配だが、その点ご容を。コメントの最後のほうから答えていきたい。

① >「授業について行けなかった」から漱石がだめだったということではないのです。

については、まったく同感です。漱石がもしロンドン大学の授業について行けなかったとしたら、漱石のような優秀な人でも母国語を使えない本場で授業を受ければ初めはそんなこともあるのね、とか、どこに問題があったのだろう、と思うだけで、「漱石がだめだったから授業について行けなかった」などと思うことはありません。

② >授業は中世英語などでしょう。これは現代(ヴィクトリア朝を含めて)の英語から見れば全くの外国語で、予備知識が無ければチンプンカンプンのはず。

私は外国留学の経験がないのでよく分からないのですが、あなたがおっしゃっている「中世の英語」云々の意味は、当時、ロンドン大学の授業が一貫して中世英語で行われていたということですか? もしそのような趣旨ならば、そんなことはなかったかと思いますが…。それでしたら、英語を母国語としている英国の学生にも「チンプンカンプン」になるのではないですか? 中世の文学をテキストとした授業の場合は、もちろん中世英語が出てくるのは当然ですが、それならば大抵の人にとって新規なことのはずで、日本人である漱石だけではなく、英国の他の学生にとっても同じ条件のはずですから、漱石が「授業についていけなかった」という話とは質がちがうことですね。シェイクスピアは中世の人とはいえないでしょうが、それに近いですね。漱石の蔵書にはシェイクスピア全集が7揃いもあったと言います。学生時代からよく読み込んではいたようですよ。

一番肝心なのは、本人が「授業を受けるのを止めたこと」についてどう言っているかだと思いますが、通学を中止した理由について漱石は知人に、次のような手紙を書いています。(2通ともロンドン到着後およそ3、4ケ月後)

「僕は書物を買うより外にはこの地において楽(たのしみ)なしだ。僕の下宿などと来たら凰が通る暖炉が少し破損している憐れ憫然(びんぜん)なものだね。こういう所に辛防しないと本などは一冊も買えないからな-。(略)大学もこの正月から御免蒙った。往復の時間と待合せの時間と教師のいう事と三つを合して考えて見ると行くのは愚だよ。それに月謝などを払うならなおなお愚だ。それで書物を買う方が好い。然もそのProf.がいけすかない奴と来たらなおなお愚だよ。君はよく6時間なんて出席するね。感心の至だ。僕のコーチ(引用者注:個人教授を依頼したシェイクスピア研究者のクレーグ博士)も頗る愚だが少しは取る処ありで、これだけはよさずに通学している。」(藤代禎輔宛。1901年2月5日)

「 宿はそれで一段落が付た。それから学校の方を話そう。University Collegeへ行って英文学の講義を聞たが第一時の配合が悪い。むやみに待たせられる恐がある。講義その物は多少面白い節もあるが日本の大学の講義とさして変った事もない。汽車へ乗って時間を損して聴に行くよりもその費用で本を買って読む方が早道だという気になる。尤も普通の学生になって交際もしたり図書館へも這入たり討論会へも傍聴に出たり教師の家へも遊びに行たりしたら少しは利益があろう。しかし高い月謝を払わねばならぬ。入らぬ会費を徴収されねばならぬ。それのみならずそんな事をしていれば二年間は烟のように立ってしまう。時間の浪費が恐いからして大学の方は傍聴生として二月ばかり出席してその後やめてしまった。同時にProf. Kerの周旋で大学へ通学すると同時にGraigという人の家へ教わりに行く。この人は英詩及シエクスビヤーの方では専門家で、(略)余り西洋人と縁が絶ても困るからこの先生の所へは逗留中は行くつもりだ。」(狩野亨吉・大塚保治・菅虎雄・山川信次郎宛。1901年2月9日)

漱石という人は、自分ができもしないことを虚栄心のためにさもできるかのように話したり、ごまかしや嘘で自他を欺いたりすることを「愚」なこととして最も嫌う人のように思います。「私の個人主義」のなかに「世界に共通な正直という徳義」なんて言葉も使っているくらいです(笑)。漱石の美点はそういうところにもあり、上で引用した書簡には何の誇張も偽りもないと思いますよ。漱石の英語が卓抜であったことは日本在住の英国人の間でも有名だったらしく、五高で漱石に英語を教わった野間真綱によれば、五高の外国人教師H・ファーデルは生徒に対して「君等は英語に熟するには外国へ行く必要はない、日本丈けで充分熟達することが出来る。その証拠は夏目教授だ」と語ったという(『英語教師 夏目漱石』川島幸希(新潮選書2000年))し、英国留学に向かう船中でも英国婦人から同じような賞賛を受け、漱石自身日記に、「誰にも我英語巧ミナリトテ賞賛セラル赤面ノ至ナリ」と書いています。自分では決してそうは思っていなかったからこその「赤面」だったのでしょうが、そういう漱石のことですから、もしロンドン大学の授業内容が自分にとって重荷だったのなら、正直にそのように書き、日本での教育のどこに問題があったのかについても率直に記すだろうと思います。

後一つ、二つ、証言(?)を。これは以前にも書いたことですが、文学論の序から、漱石自身の言葉を。

「大学の聴講は三四ケ月にして已めたり。予期の興味も智識をも得る能はざりしが為めなり。私宅教師の方へは約一年間通ひたりと記憶す。」

もう一つ。下記の『漱石研究』はこちらのブログ(http://soseki.intlcafe.info/kenkyuu/index07.html)の引用ですが、ブログ主の方の試訳だそうです。該当部分を一部引用させていただきますと…。執筆者は ビョンチャン・ユー。ウェイン州立大学で英文学を講じておられるそうで、翻訳者の方の説明によると、「 漱石の著書の翻訳の他、ラフカディオ・ハーン研究書『神々の猿』などの優れた研究書もある。」とのことですが、この方はロンドンにおける漱石について次のように述べています。

「 …当時漱石は、後に発病した慢性胃潰瘍とともに死ぬまで彼についてまわることになる神経衰弱の最初の発作に悩まされていた。しかし、彼の神経が冒されたのは、人々が考えたように、厳しい現実に直面し、感受性豊かな心が耐えきれずに絶望状態に陥ったためではなかった。漱石は当時、個人的な危機に直面していた。つまり、彼の苦しみは、純粋な魂が魂自身と取り組もうとしていたことから来る苦しみだった。
 この個人的危機は漱石が松山、ついで熊本へと引っ越した頃から兆しはあった。ロンドンでそれが最終的にやって来た時、そのショックは激しかった。英国到着後、漱石はケンブリッジでもオックスフォードでもなく、ロンドンを滞在先に選んだ。それは経済的な理由からだった。スコットランド、アイルランドといった地方も考えたが、英語を学ぶにはそれよりロンドンの方がよいのは明らかだった。漱石はロンドン大学の聴講生の登録をすませたが、まもなくその授業がまったく期待はずれのものであることがわかり、授業に出るのをやめた。その結果、大学で会うのは個別指導教官のクレイグ博士だけとなった。博士はシェイクスピア学者だったが、とくに知的な刺激を与えてくれる人物ではなかった。博士について指導を受けるかたわら、漱石は自分の専門分野についてできるかぎり多くの本を読もうと努めた。とくに、名前は知っているが読んだことのなかった、一般に定評のある本は片端から読んだ。しかし、一年たった後、そんなことをしても、大学卒業時に感じていた英文学に対する疑いは晴れないことがわかった。実際のところ、漱石がやっていたのは、問題と対決することではなく、むしろ、それからどんどん遠ざかることだった。だが、とうとうその問題と正面から対決する込む時が来た。その時、漱石の魂はまさに暗黒の夜を経験することになった。」

この文章のなかの「彼の苦しみは、純粋な魂が魂自身と取り組もうとしていたことから来る苦しみだった。」という一節ですが、これは「文学論」の序に見られる漱石自身の次の文章と対応しているのではないかと思います。

「余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短きにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし。斯の如きものならば生涯を挙げて之を学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。余が単身流行せざる英文学科に入りたるは、全く此幼稚にして単純なる理由に支配せられたるなり。/ 卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。/ 翻つて思ふに余は漢籍に於て左程根底ある学力あるにあらず、然も余は之を充分味ひ得るものと自信す。余が英語に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも、漢籍に於けるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかく迄に岐かるゝは両者の性質のそれ程に異なるが為めならずんばあらず、換言すれば漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず。/ 大学を卒業して数年の後、遠き倫敦の孤燈の下に、余が思想は始めて此局所に出会せり。/余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。 /余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。 /余が使用する一切の時を挙げて、あらゆる方面の材料を蒐集するに力め、余が消費し得る凡ての費用を割いて参考書を購へり。此一念を起してより六七ケ月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。 」(『文学論』序)

こういう漱石にとって、そもそも文学とは何か、人間にとってなぜ文学が必要とされるのか、という根本的な問題に自力で答をあたえること、これを解決することこそが最重要課題ではなかったかと思います。何しろ「卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。」という発言は只事ではないと思います。ですから、漱石には「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題」を解釈することが英国留学の当初からほとんど生死を賭けるほどの重大問題であって、

③ >当時の英国では漱石が目指していたような「英文学の研究」はまだ行われていなかった。ジェイン・オースティンやメレディスなんぞはわざわざ研究する値打ちがあるものとはみなされていなかった。

あなたが名前を出しているジェイン・オースティンやメレディスを漱石は確かに好きだったようですね。漱石の作品にメレディスの影響を指摘する人もいるようですし。ただ、漱石はオースティンにしろ、メレディスにしろ、誰か特定の個人を研究したかったわけではなかったのではないでしょうか。1年間必死に次々といろんな本を読破してみた後に、これではいけないと悟り、「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり」という生き生きとした発見の言葉をきくと分かると思うのですが、漱石は英文学そのものに違和感や疑念をもっていて、そこに彼の切実な悩みがあったのではないでしょうか。漱石は謙遜な人ですから、自分は英国で重大なものを掴んで帰国した、というような大見得は切りませんが、その後の漱石の滾々と湧きだし溢れるかのような創作力を見ると、また、「私の個人主義」で述べている、

「(文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設、一口でいうと、自己本位という四字をよう やく考えて、この自己本位という言葉を自分の手に握ってから)その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰欝な倫敦を眺めたのです。比喩で申すと、私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。なお繰り返していうと、今まで霧の中に閉じ込まれたものが、ある角度の方向で、明らかに自分の進んで行くべき道を教えられた事になるのです。 (略) すなわち外国へ行った時よりも帰って来た時の方が、偶然ながらある力を得た事になるのです。 」

というような発言をみると、漱石には初めから漱石固有の問題の解決こそが最重要事であったように思います。最初のコメントに戻りますが、以上のことを総合的にみて、

④ >漱石がロンドン大学の授業について行けなかった」というのは、佐藤氏がどういう意味で言ったのか分かりませんが、当たらずといえども遠からずでしょう。

というあなたのご意見にはとうてい同意できません。「ロンドン大学の授業について行けなかった」にしても、「一部を見て、西欧社会全体が個の確立した人間で構成されているというふうに不当拡張してしまったのではないでしょうか」にしても、佐藤氏の話はだいたいいつもそうですが、出典・根拠が記されていません。言いっぱなしです。

ただ、漱石は英国到着直後、コックニーに大変悩まされで、人が何を言っているのか本当にわからなかったようです。友人にも愚痴のようなハガキを随分書いていますね。これについては、上述した「英語教師 夏目漱石」の著者・川島幸希氏(秀明中・高の校長だったという。一読の価値あり)も、初めてロンドンに行った時はコックニーをさっぱり聞き取れなかったそうで、相手が「一瞬何語を話しているのかと思ったほどであった。」と述べ、

「コックニーの洗礼をはなから受けた漱石が「日本の西洋人のいふ言が一通り位分つても此地では覚束ないものだよ」と自信を喪失したのもうなずける。/ ただ漱石自らが書き残しているように、日本語に方言があるのと同じで英語も地方によって異なり、さらには日本語以上に階級によっても違うのだから、渡英直後に聞き取りに不自由を感じてもそれほど挫折感を持つ必要はなかったはずである。にもかかわらず、漱石がコックニーにこだわったのはなぜか。それはコックニーが大英帝国の首都ロンドンで話されていた言葉だったからだと思う。」

と記しています。英語の話せる知人によると、サッカーのベッカムの言葉がコックニーでテレビなどで聞くとやはり聞き取りがたいそうですね。
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2010.10.10 Sun l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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