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10月4日付の岩波書店に送信されたm_debugger氏のメール文には今回も返信はなかったようで…。私も岩波書店から何らかの返事らしきものをいただいたことはなく、完全に無視されている。もっとも、昨年6月にブログを始めてからは一度も記事を先方に送信したことはないので当然といえば当然だが。でもおそらく、岩波書店はどなたかが一通りネットの巡回はされていて、自社への批判もそれなりに把握はしているのではないかと思う。

今回、m_debugger氏が文中に引用されている岩波書店の現社長と『世界』編集長執筆の文章を読んで、事態は本当に深刻だといまさらのようだが、痛感した。(ちなみに、m_debugger氏の「…礼儀正しいyokoitaさんのお問い合わせ」という文中の「礼儀正しい」には、穴があったら入りたい気分になった。m_debuggerさん、そんなことはまったくなく、むしろ逆です。)

岡本氏の発言には何か悪い夢でもみてるような儚い気持ちになった。彼(ら)は何もかも自分に都合のいいようにしか考えられなくなっているように思う。「もしかすると自分(たち)のほうにこそ問題(病巣)があるのではないか」というような、自分に都合の悪い考えは、おそらく「自分たちはこんなに忙しく一生懸命働き、雑誌を作っているのに」などと考えて、心中からきれいに追い出してしまうのだろう。金光翔さんがこれまで何度も述べているように「時分たちは良心的な本を作っている、良心的な人間である」という一途な確信に凝り固まっているせいではないだろうか。「弁証法」という言葉はあまりにもよく見聞きするので、哲学とは縁のない私でも「弁証法とは何だろう」と時々思い出したように考えたりするのだが、頭脳が緻密でない故だろう、なかなか理解できないのだが、ただ現在見えるそのような姿勢、現象をぴったし「反弁証法」というのではあるまいか? とは思う。

場合が場合だけに、社長が口にしている「良心」という言葉にも目が吸いよせられた。金光翔さんが佐藤優氏の『世界』重用に異議を唱えたことは「編集者の良心」に深く関わる問題だったと私は思うのだが、現社長とはいえども長く編集者でもあった山口氏はその点についてはどのように考えておられるのだろうか。これは、問題の性質からいって、社長として、また元編集者としてぜひとも答える必要性をもつことであろう。むしろ、率先して公にすべきことではないだろうか。「良心」を意識していると述べる以上は。

私はわりあいに広津和郎の文章が好きで(松川事件関連のものだけではなく)、時々、棚から本を引っ張りだしてきては目についたものを行き当たりばったり読んだりするのだが(年々歳々、その文章が現実感をもって迫ってくるようになってきている。はるかに過ぎ去った遠い昔の話を聞いているというような感じではないのだ。「わが心を語る」「散文精神について」「心臓の問題」「歴史を逆転させるもの」など戦前・戦中(主に1930年代)に書かれたものが、今、ここで-同時代に起きた出来事を聞いているかのように身に沁みて感じられる。)、ちょうど、日本がハワイ真珠湾を攻撃して全面戦争に突入する少し前に発表された「派閥なし」という文章を読み了えたところだったので、岩波書店社長の「良心」という言葉は特に「派閥なし」の文章と内容的に重なって感じられた。1941年、時流に流されたり乗ったりして行く傾向の見える文筆家や文壇ジャーナリズムの、これまで保持してきた長所・美点を今あらためて表に出し、これを喪失してしまうことのないようにとそれとなく文壇(論壇もふくめていいのではないかと思う)やジャーナリズムや読者に呼びかけた文章のように思えたからである。呼びかけた対象には漱石の作品をはじめとして学術書など良書を出版しつづけてきた岩波書店も当然入っていたことだろう。

広津和郎は、文壇人が反省しなければならない事はいくらでもあるとして、「時局に対する認識も足りないし、科学に対する知識も不用意だし、いろいろな社会現象に対する理解も深くない」といって、自省と奮闘の必要を説きながら、しかし、手前味噌とことわりながらも、「今の世の中で、文壇がそう腐っているものとは凡そ思えないし、寧ろ文壇などはその性質上、今の世の中で清潔の部類に属する事が出来るものではないかとさえ思えるのである。」と述べている。そして、その長所は、何といっても派閥がないことだというのである。「派閥なし」から以下の文章を引用する。(下線による強調は引用者による)

「 その第一には文壇には派閥がない。といったら人々は信用しないかも知れない。勿論派閥らしいものが時々起らない事はない。併しその派閥は他の社会のように政治性をそう強く発揮する事が出来なくなるのである。というのは、この社会は実力が物をいい、実力がなければ、いかに策略をもって世に出ても、凡そ長続きがせず、直ぐ化けの皮をひん剥かれるからである。
 親の威光も利かなければ、師の威光も利きはしないし、そして叉仲間賞めの威光も大して功を奏するものではない。現に私などは父が明治文壇の作家であった。それだから文壇というものをよく知らない人々からは、親の威光によって文壇に出たろうなどという人がある。近頃はそんな事をいう人はなくなったが、若い頃はよくいわれたものである。併し私が世に出た頃は、私の父の時代は去り、文壇は自然主義の天下であった。
 そして大体文壇の新時代というものは、前の時代に反抗して立つものである。それだから自然主義時代には、私の父には当時の文壇への手がかりなかった。――もっともこうはいうものの、ジャーナリズムの上で、父の子であるという事が多少の好奇心を惹いたかも知れない。併しそんな事は一つ物を書けば、それで終りである。父の子であるという事が、続けて物を書かせて貰う資格には凡そこの世界ではなるものではない。
 それと共に、又自然主義が反抗して立った前の時代の作家で私の父があったという事で、その子である私に、自然主義時代が別段何の妨害もするわけではない。出るのも情実ではないと共に、叉情実で叩きつけられるような事も凡そあるわけではない。」(『中外商業新聞』1941(昭和16)年4月)

広津和郎が「父の子」と言っているのは、彼が、明治の一時期盛名をひびかせた硯友社の小説家・広津柳浪の息子だったからだが、これは立場上一応言ってみただけのことで、ここで広津和郎が言いたかったことは勿論そんなことではないと思う。次を引用する。

「 このように文壇はいつも公明正大である。それは実力本位という文壇の暗黙の規律が厳として存在しているためであるが、それと同時にジャーナリストというものが又案外公明正大である事をも見逃してはならない。平穏を嫌うジャーナリズムが、時によって平地に波瀾を捲き起そうとする事もあるし、作家達に一時的流行的の注文をつける事もあるが、それだから「ジャーナリズムの弊害」などという言葉が叫ばれたりするようにもなるのであるが、併し作家達の策略とか、仲間賞めとかいうもので、決してジャーナリスト達は動かされるものではない。一時動かされるような事もない事はないが決してそれは長続きはしない。それは実際面白い現象というべきであろう。
 作家達の性質によって、多くの読者に受ける側の人とそうでない人とかある。日本の純文学というものは、例外もあるが、所謂俗受けしない側の作家達によって主として続けられて来た。そしてそれを守り立てて来たのは、つまり日本の綜合雑誌のジャーナリスト達の感覚と良心となのである。――日本の綜合雑誌のジャーナリスト達は、大体においてそう恵まれた生活を送ってはいない。彼等の純文学を守り立てて来た功績も常に忘れられ勝である。併し彼等がいつも公明正大で、文壇の公明正大を助長させて来た手柄というものは決して忘れられてなるものではない。そしてジャーナリスト達の公明正大さに信頼を持っているからこそ、作家達はいつでもフランクな気持で、めいめいの道を進んで来る事が出来たのである。 私は今の日本の他の社会と文壇とを一々比較して見た訳ではないし、又そういう事に別段興味も持たないが、併し私が触れた程度のどの社会よりも、文壇が公平であるという事は、自信をもっていって差支ないものだと思っている。どの社会よりも政略や策略がいらず、どの社会よりも正直というものがほんとうに買われていると思う。本人の地金をこの位安心して出せる世界は又とないと思っている。所謂お上手に立ち廻って、僅かな利益にありつく事があるかも知れないが、それでもって欺き通せるという事は、文壇――殊に純文学の世界ではあり得ない。
 少々正直過ぎ、従って長所をも欠点をもさらけ出すので、そういう所から文士達は一般から誤解を受けるが、人間性の正直さを尊ぶ事、凡そ彼等の如きはないと私は思っている。
ポリシイを憎む事彼等の如きはない。それだから、ポリティックというものは、本来彼等の性に合わない――目的のために手段をえらばずという事が、近頃は時代のモラルの如く是認されているが、それを是認しない最後のものは、文壇だろうと思う。

 それが嘘だと思うなら、文壇人とつきあって見るが好い。彼等はわがまま者で、粗野で、自分の気の向かない事にはふり返りもしないが、併し彼等は正直な事は他の社会から見ると無類であるし、凡そ嘘や見せかけを、自他共にゆるさないという事が解るだろう。
 そこで私が正直で、気が弱くて、他の社会から何とかいわれれば、それに怯んだ気色をも見せかねない作家達に、此処で改めていいたいと思うのは、どんな時代が来ても、諸君の嘘嫌いな気質は決して間違っていないという事を、はっきり自信しても好いという事である。決して今の世の中で諸君は怯む必要は少しもないのである。日本人全体文壇人の如く正直であれと、あべこべに諸君は主張したとしても、それは決して思い上りではないのである。――唯勉強はわれ人ともに足りない。これはほんとうである。それはあらゆる意味で勉強しなければならないだろう。併し他の社会に倣って、ポリシイなどを学ぶ必要は少しもない。余りのポリシイのない莫迦正直を、世の中から嗤われたら、それは嗤う方が悪いのである。それだから勝手に嗤わせて置いて然るべきである。
 私は散文作家が政治に関心を持つべきだという事を度々いった事がある。併しそれは作家がポリシイを是認する政治家にならなければならないなどという意味では凡そない。そういう卑近な解釈をされるのが一番迷惑する。そうではなく、民衆の生活に刻々に影響する政治というものを、作家精神によって見まもらなければならないというのである。
 余りに正直なるが故に、作家達はその正直さを持て余すというような現象も時に生じない事はない。それで反撥から、それの反対のものへの憧れを無邪気に示したりする事も往々ある。――偽悪家や露悪家の絶えないのもその消息を語っている。
 又「逞しさ」などという言葉によって、その憧憬を示す事もある。無論逞しさその事に反対するものではないが、中にはその「逞しさ」の追求の方向を間違えて、実業家や政治家達に取っては陳腐である「手段を選ばず」的のふてぶてしさと解釈し、そうしたふてぶてしさに新たなモラルでも探し当てたような顔附をしているものもある。
 併しそれは間違いである。そんなところに新しいモラルがあるわけではない。そんなものはよその世界では陳腐なものなのである。それが文壇人の或者に新鮮味と間違えられたりするのは、それ程にわれ等の先輩たる代々の文壇人が、そういう濁りに染む事を警戒して来たという事実からの逆作用なのである。
 そういう意味の現実主義を軽蔑すればこそ、作家達は身分保障令もなく、恩給もなく、書かなければどんな大家でも直ぐ食えなくなるというような、小利口者や臆病者の到底やって行けないような道を選んで、文学をやって行くのである。それは決勝点というもののないトラックの上を走っているようなものである。何処まで走ったら息を吐いていいというようなものではない。私の五歳の時から小説を書き出した徳田秋声氏が私が五十一歳になった今日でも、尚私達と同じトラックの上を、肩を並べながら走っているのである。いや、私よりも更に十歳、二十歳年下の作家とも亦肩を並べて、この老大家が走って行くのである。
 そして又このトラックの上の事になると、七十幾つの老大家も三十歳の新進作家も、同じく無遠慮な峻烈な批評を受ける。その間に情実の区別はない。実力勝負で争っているのである。
私は実力勝負という事で、土俵上の力士を思い出したが、併し力士にはいつか年寄になる株がある。ところが、作家にはそんな気やすめはない。―― 一生決勝点のないトラックの上を、倒れるまで走りつづけて行かなければならないのである。そしてそのように走りつづける唯一つのコツはその作家の正直な地金をみがく事の外にはない。誤魔化さずに、正直にみがく事の外にはない。それ以外の粉飾は、このような遠道を駈けて行く中にはみな剥げてしまう。
 文壇というところはこういうところである。そしてこういうところである事を怯むような傾向が近頃はほの見えて来たが、他の社会の何処にこういうところがあるかを、寧ろ誇ってやるべきだと思う。 」(同 上)


私は、上の文章には広津和郎の本心、そして基本的・原則的な考え方がそのまま叙述されていると捉えていいと思う。そして、この文章を読むと、例外も物足りなさもいろいろあるにしろ、自分が長い間なぜ大体において文学者一般を好きだったのか、信頼できると考えていたのか、その理由の一端が自分で理解・納得できるような気がする。ところが残念でならないのは、ここで広津和郎が文学者や文壇ジャーナリズムの長所としてあげている性格や傾向を最近はほとんど感じることができないことなのだ。そのことを如実に示しているのが、とりわけ佐藤優氏の文筆活動だと思える。

一例を上げれば、靖国問題を論じて、靖国を現状のままでよいという場合に、こともあろうに「悲しみを無理をしてでも喜びに変えるところから信仰が生まれ、文学も生まれるのだと思う」などという言葉をはくのは、信仰や文学に対する侮辱、人間に対する侮辱以外ではないと私には思えたし、今もまったく同様に感じられて思い出しても苦々しい。

もう一つ特に佐藤氏の不正直さを感じるのは、「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べていることである。)〈『地球を斬る』2007年「愛国心について」。

佐藤氏のこの発言について、金光翔さんは、「リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤を賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間を異端者扱いするのが目に見えている。」と述べているが、これは一言で核心を衝いた見方だと思う。1945年8月に日本がポツダム宣言を受諾して敗戦を迎えた当時、戦争に協力し翼賛体制に乗った人物が上の佐藤氏のような発言をしたならば、それがどのような反響を呼んだか、想像してみればいいと思う。「悲しみを無理をしてでも喜びに変えるところから信仰が生まれ、文学も生まれるのだと思う」という発言にしても同様だと思う。

このような発言は広津和郎が文学者や文壇について述べている内容とはまったく逆の、実に不正直きわまるものであることは、少しでも(普通一般に)ものの分かる人ならば一目瞭然のことだと思うのだが、これを胸の悪くなるような不快かつ危険な発言にまで高めているのは、佐藤氏のこういう愚かな発言を許容して何やかやと賞賛し、当然出るべくして出てきたとしかいえない金光翔さんのような鋭い批判が出ると、寄ってたかって暴力的な排除の姿勢をとる岩波書店や岩波労組や多くの言論人たちの姿であるように思える。
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2010.10.18 Mon l 言論・表現の自由 l コメント (5) トラックバック (0) l top

コメント

>yokoitaさん

こんばんは。お察しの通り、岩波からはまったく返答がありません。ちなみに、岡本編集長は実際にはもっとひどい発言をしているのですが、あまりのひどさに閉口して、メールでは割愛してしまいました。以下の部分です。

「かつて中曽根元首相は、「これまで日本社会は粘土の塊のようで、農協や医師会、労働組合などの中間組織が形成してきた。ところが最近この中間組織が崩れ、個人が砂のように漂流している」と言いました。個人というものはそれほど強くないので、宗教がそれを掬い取る一つのパワーにもなりえます。かつての社会主義も潰れてしまい、現状を変えるイデオロギーやエネルギーがなくなってしまうと、パレスチナでもハマスみたいな宗教が出てきます。かつてはゲリラであった人が、アルカイダになったり一種の宗教的なテロに走ったりします。まだデータはありませんが、日本でもそうした傾向が出てきているのではないでしょうか。今も将来も不安でどうなるか分からないといったときに信仰の宗教が出てきて、「信心すればこうなりますよ」という話をされると、スーッと落ちていく人がかなりいるのではないでしょうか。」(「「言論の自由」とメディアの今日的状況」、『マスコミ市民』2010年9月号)

最早どこに驚けばよいのかもよくわかりませんが、いくらなんでも「ハマス教」はないだろう、と思います。これが岡本氏の取締役就任後の文章だというのも恐ろしい限りです。岩波は自社の末路にほとんど関心がないようですね。

ところで、しばらく前に亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の「解題」の全文を読んでから、私も木下和郎氏の怒りがより理解できるようになりました。亀山訳は始めから「化けの皮」すらまとっていないほど一見して異常な代物だと思いますが、文壇では絶賛されていますし、社会的な影響力も大きいですよね。<亀山郁夫現象>は<佐藤優現象>の文学版のような感じがします。「文壇には派閥がない」というのは、残念ながら現代日本には当てはまらないでしょうね。
2010.10.21 Thu l m_debugger. URL l 編集
Re: タイトルなし
 m_debugger 様

コメントをありがとうございます。本当はこちらから書いた記事をトラックバックするのがマナーだろうと思うのですが、これまで二、三度やってみて、うまくいかなかった(おそらく)ものですから、かえってヘンなことになりそうで、どなたにも失礼してしまっています。すみません。

「岡本編集長」、ウーン、ビックリしてしまいますが、こういう話を何人かでしては意気投合し、皆で気焔を上げたりしているのではないですかねェ。自分一人だけでこんなことを考えて文字にしているのだとしたら、物凄い度胸があるというか、ちょっと心理状態を疑ってしまいます。まさかとは思いますが、佐藤氏と同じく、イスラエルよりもハマスが悪いと思ったりしているのではないでしょうね。

自分も文章が下手なのにこんなことは書きにくいのですが、私はたまに佐高信氏の文章を読むといつも気持ち悪い感じがするんですよ。かつて雑誌や単行本で自分がさんざん悪口を言い、批判してきた人達と同じことを、今自分が言ったりやったりしていると自分でも心の底では感じているから、どこかに弁解めいた言葉や開き直りの調子が入り、潔さの全然ない文章になっていて、それが第三者に気持ち悪さを感じさせるのではないかという気がするんです。でも、岩波書店の人たち(労組も)にはそういう歯切れの悪さとか後ろめたさの片鱗も感じられないですね。こちらのほうがより凄いのかも知れません。何とかなりませんかね。


>亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の「解題」の全文を読んでから、私も木下和郎氏の怒りがより理解できるようになりました。

木下和郎氏のサイトを見れば分かると思うのですが、丁寧で繊細な読みとり方をなさっていると思います。あれだけの内容の文章を書くなんて、私などには決してできないことです。亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』は、日本語として読んで意味の通らないところが本当に多いと思います。一番驚くのは(解題に書いてありましたっけ?)、少年クロソートキンが犬の替え玉を作り上げてイリューシャの家に連れていった疑いがある、というところでした。亀山氏にしろ、佐藤優氏にしろ、70年代まででしたら、その奇妙さはたちまち厳しい指弾にさらされていたと思うのですが、いつの間にやら、こんなふうになってしまっています。


前々からちょっと聞いてみたいと思っていたことがあるのですが…。少し前に竹内好のことを書いておられましたね。この人の本を私はあまり読んでおらず、ただ少し読んだときにそう大した作家とは思えませんでしたが、まさか「侵略はよくないことだが、しかし侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある。無関心で他人まかせでいるよりは、ある意味では健全でさえある。」などと書いているとは思いもよりませんでした。ただ私が今気になっているのは、こういう竹内好と武田泰淳が生涯ずっと仲のよい友人だったということなのです。m_debugger さんは武田泰淳については興味はおありですか? 

というと如何にも自分が武田泰淳通のようですが、そうではなく、何となくの敬意はずっともっていましたが、作品はそんなにハダが合わず、さして多くは読んでいないのです。でも、この人は決して無責任な人でも、破廉恥な人でもないという気がしているんですね。いったい、「「侵略はよくないことだが、しかし侵略には、連帯感のゆがめられた表現という側面もある。云々」の発言をどのように受け止めていたのだろう、とそのほうが気になります。もしかすると、正面きって批判するほどのことはないと思っていたのでしょうか。中野重治は別ですが、当時の作家全般がその辺りのことを明確に述べてはいないようにも思います。だいたい、私自身が多少そういうことを気にかけるようになったのはここ十年くらいのことです。日中国交回復がはじまった頃(72年)ですが、堀田善衛と「対話 私はもう中国を語らない」という本を出していますが、その中で、中国に行って親しくなった文学者に、次に中国に招かれて行ったときには、もうその人に会えなくなってしまっている、どこでどうしているかも知ることができない、という中国の現状などについても触れていますが、堀田全衛が最後のほうで、中国関連のことで自分は、

「求められても求められなくても、できることはなんでもします。けれど、日中関係についての、いわゆる“発言”といったものは、今日限りやめます。これでおしまいにします、という意味で、武田先生との対談でしめくくれたことをしあわせに思いますよ。」

というと、武田泰淳は、

「ぼくもね、それはよくわかる。ぼくの場合はだね、中国に対してひとつもいいことをやったことがないやね。いくら中国人がそうでないといってくれてもね、ぼくは害を与えたことはあっても、益を与えたことはない。それは歴然たることで、しかも、ことは取返しのつかないことなんだ。ぼくだって、いいことをやりたいという気持はあるんだね。しかし、それでもできないないかも知れない。(略)だから、ほんとはね、もしぼくが正しい人間であるならば、中国を守るために死ぬべきなんだよ、ぼんとうは。/ぼくが正しい人間なら死ぬべきだよ。ぼくは正しくない人間だからね、やらないけれども、ほんとはね、正しい人間ならば、正しいことをやるならば、中国を守るために死ぬべきなんだよ。」

と言っているのですね。1937年から2年間上海を中心に中国に召集されている間のことを念頭に置いて述べているのでしょうね。竹内好は1937年から2年間北京に留学、中国戦線に召集されたのは1943年で、現地で終戦を迎えていますね。当時、武田泰淳も堀田善衛も上海に行っていたようですが。上の武田泰淳のような発言は竹内好からは決して出ないような気がします。

昨今の竹内ブームは右傾化の一環なのでしょうか。武田泰淳との関係で(評価において)得をしている、というようなことはないでしょうか。「武田泰淳と竹内好」渡邊一民著(みすず書房2010年)という本も図書館で借りて読んでみましたが、丁寧な調査を経た本ではあると思いましたが、作者の視点がいまいち納得できませんでした。もう一度ゆっくり読んでみたいと思っていますが。

長々と書いてしまい、申し訳ありません。読み流してくださいね。
2010.10.23 Sat l 横板に雨垂れ. URL l 編集
記事はいつも拝見しておりますので、トラックバックの件はお気になさらなくて大丈夫ですよ。

>「岡本編集長」、ウーン、ビックリしてしまいますが、こういう話を何人かでしては意気投合し、皆で気焔を上げたりしているのではないですかねェ。自分一人だけでこんなことを考えて文字にしているのだとしたら、物凄い度胸があるというか、ちょっと心理状態を疑ってしまいます。まさかとは思いますが、佐藤氏と同じく、イスラエルよりもハマスが悪いと思ったりしているのではないでしょうね。

確かにそうですね!しかし集団だとしても心理状態はやはりおかしいですよね・・・。例の発言も、奥平康弘・東京大学名誉教授との対談でのものなのですが、奥平氏も「ハマス教」については何も突っ込んでいませんでした(編集部が削除したのでなければ、ですが)。

>でも、岩波書店の人たち(労組も)にはそういう歯切れの悪さとか後ろめたさの片鱗も感じられないですね。こちらのほうがより凄いのかも知れません。何とかなりませんかね。

以前、朝鮮植民地官僚の手記(インタビューだったかもしれません)をいくつか読みましたが、差別と「良心」が化合した強烈な啓蒙主義が随所に見られるという意味で、岩波書店(労組)の人たちの文章に通じるところがあるかもしれません。せめて言葉が通じれば何とかなりそうな気もしますが・・・それが問題ですね。

ところで、木下和郎氏は本当に文章が巧いですよね。木下氏の亀山批判には圧倒されます。が、それ以上に私は亀山訳(私は解題しか読んでいませんが)の凄まじさに圧倒されました。

>一番驚くのは(解題に書いてありましたっけ?)、少年クロソートキンが犬の替え玉を作り上げてイリューシャの家に連れていった疑いがある、というところでした。

これ、「赤ずきん」の解題で、「きこりによって狼の腹から救出された幼女は、本当に同一の赤ずきんだったのだろうか?もしそうでないとすれば、一体誰が別の幼女に赤ずきんをかぶせ、狼に食べさせたのであろうか?(→きこりはロリコンでサディストの変態だったのではあるまいか!)」と書いているようなものですよね。ひたすら仰天しました。

>ただ私が今気になっているのは、こういう竹内好と武田泰淳が生涯ずっと仲のよい友人だったということなのです。m_debugger さんは武田泰淳については興味はおありですか?

竹内好については後日また取り上げる予定ですが、お恥ずかしながら、武田泰淳の著作は不勉強でまだ読んだことがありません。ご紹介いただいた発言を読む限り、竹内と生涯親しかったというのは確かに奇異な印象を受けますね。お勧めの著作を教えていただけますか。よろしくお願いいたします。
2010.10.24 Sun l m_debugger. URL l 編集
Re: タイトルなし
m_debugger様

コメントありがとうございます。
武田泰淳は最近はあまり読まれていないので、特に好きな人以外は、40歳以下の人で読んでいる人は少ないのではないでしょうか。恥ずかしいことなどありません。

傑作だと言われているのは「司馬遷」と「富士」。偶然にも最初と最後の作品(ほぼ)ですね。最初に読む本としていいと思われるのは、そうですね、「風媒花」などはいかがでしょうか? 竹内好が中心となってやっていた中国研究会(?)のことが描かれています。あと「蝮のすえ」「異形のもの」「「愛」のかたち」などは印象に残っています。「森と湖のまつり」はアイヌのことを描いているんですね。私は読んでいませんが。

埴谷雄高は戦後派の作家のなかでは武田泰淳を一番高く評価していますね。また、一番自分を理解してくれた、とも言っています。私は最初埴谷雄高の「死霊」を読んだとき何も理解できませんでした。そもそもそこに何が書かれているのか一行もわからず、茫然としてしまいました。残念ながら、今もあまり変わりません。(苦笑)
2010.10.26 Tue l 横板に雨垂れ. URL l 編集
ありがとうございます。さっそく、というわけにはいきませんが、近々読んでみたいと思います。

>傑作だと言われているのは「司馬遷」と「富士」。偶然にも最初と最後の作品(ほぼ)ですね。

これは面白い偶然ですね。作風もどう変化しているのか確かめておきたいところです。
2010.10.26 Tue l m_debugger. URL l 編集

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