QLOOKアクセス解析
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top
「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」(工藤美代子著)は、一番後ろの「参考文献」5ページ分もふくめて全311ページの厚みだが、その約三分の一ばかり過ぎたp134の小見出し「自警団の覚悟」には、冒頭に、

「ここまでさまざまな経緯を見てきたことで、朝鮮人の襲撃事件が決して「流言蜚語」などという絵空ごとではなく、実際に襲撃があったからこそ住民と自警団が自衛的に彼らを排除したのだということが理解されると思う。」

との文章がある。ハテ? ここまでの計133ページのいったいどこに「朝鮮人の襲撃事件が決して「流言蜚語」などという絵空ごとではなく、実際に襲撃があった」事実が描かれ、立証されていたのだろうか。軍隊、警察、自警団などの日本人の側が一方的に朝鮮人を虐殺したというのでなく、初めに「朝鮮人側からの襲撃」が確かにあったと断言するのなら、まず最低限、実証を伴う実例の提示が必要不可欠のはずだが、ここまでのところこの本にはそういう例はただの一つも出ていない。皆無だったと思う。「不逞の鮮人約二千は腕を組んで市中を横行し、掠奪を擅にするは元より、婦女子二三十人宛を拉し来たり随所に強姦するが如き非人道の所行を白昼に行ふてゐる」とか、「鮮人の暴動です。昨夜来鮮人が暴動を起し市内各所に出没して強盗、強姦、殺人等をやっておる」とか、「品川は三日に横浜方面から三百人位の朝鮮人が押寄せ掠奪したり爆弾を投じたりする」などという、震災発生当初の新聞記事を丸写しして(そのへんのカラクリについてはこれまでさまざまな人が実証的に論じているところである。そのうち言及してみたい)、それを何ら検証もしないまま事実と認定して叙述しているが、方々で略奪、強盗、強姦、殺害されたり、爆弾を投げられたというのなら被害者が多数いるはずである。それについても著者は何も語らない。

「河北新報」にはこのような記事も載ったようである。東京月島の市営住宅の先に約3万坪の空き地があって、下水管置き場に使用されていたが、そこに鉄管、土管があり、多数の住民や避難民はそのなかにもぐりこんで退避したのだという。この件に関して、9月6日、「河北新報」に載ったのは下記の記事だった。

「この土管の中に約三万人の月島住民は避難してゐた。勿論着のみ着のままで……辺りには火薬庫がある。これが万一破裂しようものなら生命はこれまでだと生きた心地もなく恟々として潜んでゐた。(略)これより先、越中島の糧秣廠にはその空地を目当てに本所深川辺りから避難してきた罹災民約三千人が雲集してゐたところが、その入口の方向に当つて異様の爆音が連続したと思ふと間もなく糧秣廠は火焔に包まれた。そして爆弾は所々で炸裂する。三千人の避難者は逃場を失なつて阿鼻叫喚する。遂に生きながら焦熱地獄の修羅場を演出して、一人残らず焼死して仕舞つた。」(河北新報)

これについて、著者の工藤氏は次のように言う。

「 繰り返すが越中島の東京湾沿いにある糧林廠と月島とは、枝分かれした大川を挟んで目と鼻の距離にある。
 もとより糧秣廠とは軍が馬の林を収納するだけの簡素な倉庫である。爆弾などが置いてあるはずもない。広さは広いが火の気に警戒してきたのは軍の常識である。そこへ爆発物の音が連続して聞こえ、火の海となったというのは尋常ではない。話は核心に入る。」

「而も鮮人の仕業であることが早くも悟られた。そして仕事師連中とか在郷軍人団とか青年団とかいふ側において不逞鮮人の物色捜査に着手した。やがて爆弾を携帯せる鮮人を引捕へた。恐らく首魁者の一人であろうといふので厳重に詰問した挙句遂に彼は次の如く白状した。
『われわれは今年の或時期に大官連が集合するからこれを狙つて爆弾を投下し、次で全市到るところで爆弾を投下し炸裂せしめ全部全滅鏖殺(注・皆殺しの意)を謀らみ、また一方二百十日の厄日には必らずや暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし機の到来を待ち構えていた(略)』
 風向きと反対の方面に火の手が上つたり意外の所から燃え出したりパテパチ異様の音がしたりしたのは正に彼等鮮人が爆弾を投下したためであつた事が判然したので恨みは骨髄に徹し評議忽ち一決してこの鮮人の首は直に一刀の下に別ね飛ばされた」(河北新報)

これも一見ツジツマが合っているようでいて、実はひどくおかしな話である。朝鮮人の仕業ではないかと疑って、「仕事師連中とか在郷軍人団とか青年団とかいふ側において不逞鮮人の物色捜査に着手した。やがて爆弾を携帯せる鮮人を引捕へた」というのだが、大勢でずいぶん熱心に探し回ったようだが、どこで下手人を捕らえたのだろう。またこの下手人はなぜ一人でいつまでも爆弾を身に携えていたのだろう。仲間はいなかったのだろうか。「二百十日の厄日には必らずや暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし機の到来を待ち構えていた」と告白したというのだが、私にはこれは耳を疑うような不思議な話のように思える。著者はどのような根拠でこの話をそのまま事実であるとこうまで固く信じこめるのだろうか。前回述べたことだが、著者は芥川龍之介の機知や韜晦趣味や反俗的・反軍的な性向など眼中にないらしく、芥川が朝鮮人襲来の噂を明確に否定した菊池寛に憤怒・絶望し、それが彼の自死の一つの原因となったかのように述べていたが(これでは芥川も浮かばれまい)、ここでもばかばかしいかぎりの自分の憶測や証拠のない新聞記事を麗々しく並べてみせているだけのように思える。また、ここでは日本人による朝鮮人「殺害」が問題とされているわけだが、この「殺害」について工藤氏は「彼らを排除した」と表現しているが、私はこのことに対してもその感覚をひどく疑わしく感じる。

そうかと思うと、この人は、日清戦争後、日本が公使館の人間の手で朝鮮国王高宋の妃閔妃を殺害したことを悪びれも怯みもせずに記し、この殺害について日本側の犯罪として批判したり、謝罪の言葉を述べたりするどころか、葬儀が大々的に行なわれたことについて、夫の高宋が「日本への反感を盛り上げようとし」て意図的にやったのだと述べ、

「あれほど悲惨な独裁政治にあえいできた朝鮮の国民は、見事に反日感情をむきだしにして閔妃の死を号泣して悲しんだ。」

ので、「高宋は政略が見事に功を奏し、彼は大いにほくそ笑んだに違いない」と記している。これでおおよそ理解できると思うのだが、この著者の考えでは、朝鮮人はみな頼まれもしないのに自国に乗り込んできて自分たちを支配し、果ては植民地にまでした日本に感謝しなければならないのである。日本の思い通りにならない朝鮮人はすべて悪、まして独立運動などの行動をとる朝鮮人は不逞の輩、恩知らず(橋や鉄道などのインフラをあれだけ整備してやったのに)、ということになるようである。著者は下記のようなことも書いている。

「ひとつ申し添えておかねばならないことがある。この時期、李朝の刑罰の残酷なことは近代以前、中世状態だった。/反抗するものには笞刑(ちけい」と呼ばれる鞭打ち刑が容赦なく行なわれ、国賊に対しては常軌を逸した残酷な処刑が日常的に施されていた。)(p68)

ここでいう「反抗するもの」とは清朝政府に「反抗するもの」という意味なのだろうが、日本が強引に朝鮮を自国の植民地にするまで、朝鮮に「笞刑」という刑罰が存在したのかどうか私は知らない。私だけではなく大方の読者は知らないと思われるので、こういうことを書く場合は具体的に例を挙げて提示するのが著者の当然の責任であろう。「笞刑」に関して書くのなら特にそうだと思う。なぜなら、日本が朝鮮を植民地にした後、日本の侵略・殖民政策に抵抗したり独立運動を行なう朝鮮人に対し、「笞刑」という刑罰を執行していたことが事実として存在するからである。

例えば、在日朝鮮人作家の徐京植氏は、著書の「秤にかけてはならない」(影書房2003年)において、「日本人へのメッセージ」という章を設けているが、その一節に、次のような文章がある。

「植民地時代、朝鮮人を弾圧するためさまざまな治安法令が発令された。笞刑、すなわち前近代的な体刑である鞭打ちが朝鮮人だけを対象に行なわれていた。1919年の三・一独立運動の際、逮捕された朝鮮人は5万名近くにのぼり、合計7,500名以上が殺された。この逮捕者のうち、笞刑を加えられた者の総数は1万名以上にのぼる。笞の一振りごとに、激痛と屈辱が朝鮮人の体に叩き込まれたのだ。/朝鮮独立運動は、「国体変革」を企図するものとして治安維持法を適用された。治安維持法による被害者の数は日本本土より朝鮮の方がはるかに多く、量刑も重い。大量の死刑判決も下された。1937年から38年にかけてのいわゆる「恵山(ヘサン)事件」では朝鮮人共産主義者および民族主義者739名が検挙され、166名が重刑を宣告された。死刑は権永壁ら6名である。1943年の朝鮮語学会事件では、言語学者など30名あまりが検挙され、李允宰、韓澄の二人が拷問のため獄死させられている。同じ43年、同志社大学に学んでいた詩人の尹東柱は独立運動の嫌疑で拘束され、禁じられていた朝鮮語で彼が滞日中に書き溜めた貴重な詩稿は特高警察に押収され、永遠に失われた。懲役2年を宣告された彼は日本敗戦のわずか半年前、いとこの宋夢奎ともども福岡刑務所で無残な獄死を遂げている。ここに挙げた名は、数千名にのぼる朝鮮人治安維持法被害者のごく一部に過ぎない。」

また、詩人・小説家の中野重治も1967年『展望』という雑誌に、次のように書いている。

「 1958年春には私はこんなことも書いた。
「この朝鮮が、今の『韓国』をふくめて、大日本帝国に合併されたあとの1912年(明治45年)のことを書いておこう。ときの朝鮮総督は伯爵寺内正毅だつた。/ その年の3月30日、『総督府訓令第41号』というもので、朝鮮全土警察にあてて寺内が『笞刑執行心得』というものを出している
『第一条 笞刑は受刑者の両手を左右に披伸し、刑盤上に筵を敷きて伏臥せしめ、両腕関節および両脚に窄帯を施し、袴を脱し背部を露出せしめて執行するものとす。/第二条 笞刑執行者は右手に笞を携へ……/第三条 筈の鞭下は、苔刑執行者自ら……受刑者の右臀に対し、一鞭毎に自ら発声して笞数を算しつつ之を連行すべし。/第七条 受刑者一方の臀に異状ありて執行に差支あるときは、他の一方のみを執行することを得。/第八条 笞刑は食後一時間以上を経過して執行し、執行前成るべく大小便を為さしむべし。/第九条打方は終始寛厳の差なく且受刑者の皮膚を損傷せざる様注意し、引き打又は横打を為すべからず。/第十条 執行数回に亘る場合に在りては、必要に依り執行後臀部に冷却方法を施すことを得。/第十一条 笞場に飲水を供へ、随時受刑者に与ふることを得。/第十二条 執行中受刑者号泣する虞あるときは、湿潤したる布片を之に噛ましむることを得』
 なおつづくが、ここではこれだけにしておくとして、これを日本の警察が全朝鮮にわたって実行したことを各条ごとに、読者が自分で両腕をのばして、両脚をしばつって、ズボンを臀の下まで脱いで、うつ向けになつて、口にぬれ雑巾をくわえて、想像力をはたらかして考えてみ」てくれ、うんぬん。 」」

中野重治は、「これ(引用者注:『笞刑執行心得』の各条文のことだと思われる)を見ておどろいてくれた人があつた。私自身、これを見るまでこれほどまでとは思っていなかったのでもあった。」とも記している。

工藤氏は、「ひとつ申し添えておかねばならないことがある。」とわざわざ断り書きを入れて、「この時期、李朝の刑罰の残酷なことは近代以前、中世状態だった」のであり、「反抗するものには笞刑(ちけい)と呼ばれる鞭打ち刑が容赦なく行なわれ、国賊に対しては常軌を逸した残酷な処刑が日常的に施されていた。」と当時の朝鮮の刑罰の残忍さを述べているが、日本政府が朝鮮を植民地にした後、朝鮮人に対し、徐京都植氏や中野重治が書いているような「笞刑」(工藤氏いわく、「残酷なことは近代以前、中世状態」の刑罰である笞刑)を容赦なく科していた事実を知らなかったのだろうか。それとも知っていながら、素知らぬ風をして自著にこのようなことを書いたのだろうか。どちらにしてもこの態度はものを書く人として不誠実なことこの上ないと思われるのだが、これについてはぜひ著者・工藤氏の弁明を聞きたいものである。
関連記事
スポンサーサイト
2010.10.29 Fri l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (2) トラックバック (0) l top

コメント

No title
あなた南朝鮮の工作員ですか?そんなに日本が嫌いなら半島に帰って下さい。飛行機代くらいあげますから。
2013.05.24 Fri l 大岡越前. URL l 編集
No title
論理的、実証的反論が一切出来ないバカウヨがまた「落書き」をしたようですね。
嫌がらせのつもりでしょうが(笑い)
2013.05.26 Sun l やす. URL l 編集

コメントの投稿












トラックバック

トラックバック URL
http://yokoita.blog58.fc2.com/tb.php/108-32b36ae7
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。