QLOOKアクセス解析
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top
工藤美代子氏が著書「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」において、「朝鮮人の暴動」が発生したという確かな根拠を一つも示せない、しかし一見して刺激的な内容のさまざまな新聞記事(特に『河北新報』)を正確な報道と勝手に決めつけ、「ここまでさまざまな経緯を見てきたことで、(略)実際に襲撃があったからこそ住民と自警団が自衛的に彼らを排除したのだということが理解されると思う。」(p134)と、読者が唖然とせざるをえないようなことを述べていることは前回紹介した。しかし、その後、さすがに政府の姿勢は変化した。その変化について、工藤氏は「朝鮮人の襲撃はなかった」ということにされたといって、次のようにつよく非難している。(以下の下線および太字による強調はすべて引用者による)

「 理由もなく「殺人事件」が実行された事実はない。ない事実は「嘘」ということである。/ 朝鮮人による襲撃があったから、殺傷事件が起きたのである。/ 実際に起きた事実を後になって隠蔽し、「朝鮮人の襲撃はなかった」ことにしたのは、実は政府そのものなのである。俗にいえば自警団は政府によって突如としてハシゴを外されたのである。 震災発生当初、新聞各紙は暴行を繰り返しながら東京市内へ侵入してくる朝鮮人の犯罪を、事実の情報に従って大きく掲げ、国民に警戒を促す警鐘を鳴らしていた。ところが、間もなく戒厳令下の政府から事実の公表をとめられる事態となった。奇怪としかいいようのない「超法規的措置」がとられたのだ。奇妙なことに、朝鮮人による暴虐行為はなかったことに一転させられたのだ。」 (p135~136)

政府によって新聞社が「事実の公表」をとめられる事態になったのは、新聞各紙のそれまでの記事が実はデマであり、「事実の情報」ではなかったからではないか? というごく普通の疑問は工藤氏の脳裏には浮かばないようである。工藤氏は、これまで「これ、このとおり、朝鮮人の暴動は事実なんです!」と言わんばかりにしきりに「『河北新報』の記事を引用してきたが、山田昭次氏の「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」(創史社2003年)によると、その『河北新報』には、9月3日、

「危機に陥った東京 銃殺された不逞鮮人 已に数百に及ぶ」「四百名の不逞鮮人ついに軍隊と衝突 東京方面へ隊を組んで進行中 麻布連隊救援に向う」

という記事が満載されたとのことだが、工藤氏はあれだけ『河北新報』の記事を根拠にして「朝鮮人暴動の事実」を強調していながら、なぜこの記事を引用しなかったのだろう。「四百名の不逞鮮人ついに軍隊と衝突 東京方面へ隊を組んで進行中」などの記事が嘘であることが誰の目にもあまりにも明らかなので(調べればすぐに判明する)、自分がこれまで一途に頼りにして事実として書きつづってきた『河北新報』の引用記事も嘘であることが読者に見透かされる、ひいてはこの本を書く根拠が失われることになりかねないとは思わなかっただろうか。

それでも、「「朝鮮人の襲撃はなかった」ことにしたのは、実は政府そのものなのである。俗にいえば自警団は政府によって突如としてハシゴを外されたのである。」という工藤氏の見解には、一理(おそらくほとんど唯一の)があると思われる。治安当局は、これ以上朝鮮人が軍人、警察、自警団などによって虐殺される事態を黙認しているわけにはいかなかった。山田昭次氏の「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」には、「政策転換の模索」の見出しの下で次のくだりがあるが、おそらくこの指摘どおりだったのではないだろうか。

「9月5日、山本権兵衛内閣は民衆に対して内閣告諭第二号を発し、不穏な朝鮮人は軍隊、警察へ引き渡せと命じ、リンチ(私刑)を禁じた。「民衆自ら濫りに鮮人に迫害を加うる如きことは固より日鮮同化の根本主義に背戻するのみならず、又諸外国に奉ぜられて決して好ましきことに非ず」というのがその趣旨である(姜徳相、琴秉洞)。
 つまり民衆の朝鮮人迫害が朝鮮人の同化政策の障害になり、かつ法治国家であるはずの日本が、外国からの批判を招くというのがその趣旨である。植民地支配や対外関係の粉から日本国家を窮地に陥らせるから止めようとしたのであって、人権を守る見地からなされたものではない。」(山田昭次著「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」(創史社2003年))

朝鮮人暴動流言の発生や伝達については、これまでも、また現在もさまざまな研究が行なわれ、発表されているわけだが、ここでは、「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応1」と「2」(緑蔭書房1996年)を編纂された琴秉洞氏がこの書籍の冒頭に記された文章を掲載したい。関東大震災と朝鮮人虐殺について日本の作家、学者、芸術家、ジャーナリスト、法曹者、宗教家、政治家などによって雑誌に寄稿された文章や談話や日記や手紙。そこに見られる多種多様の見解・発言を収集し、隈なく目を通しただけでなく、それぞれの主張・見解の整合性についても十分な注意が払われていて、その努力に心を打たれる。本当はこのような仕事は日本人が率先してやってもよかったのではないかという気もするが…。それにしても、日本政府は90年近くもの間、唯の一度もこれほどの残忍な朝鮮人虐殺に対して心からの謝罪をしたことはないのだ。この件だけではない。日本政府は、明治以来一貫して謝罪すべきところで謝罪をしない。それが日本政府(政府だけではないかも知れないが)の特性のようになってしまっているし、諸外国からもそのように見られているのではないだろうか。海外で暮らすことの多かった加藤周一もよくそのような意味のことを書いたり話したりしていた。山崎今朝弥弁護士は震災直後「鮮人問題の解決の唯一の方法は、早く個人には充分損害を払い、民族にはただちに自治なり独立なりを許し、もって誠心誠意、低頭平心、慰藉謝罪の意を評するよりほかはない。(12月14日)」(地震,憲兵,火事、巡査)と述べているが、本当にそのとおりだと今更ながら思う。それでは、琴秉洞氏の文章を引用する。


(一) 朝鮮人暴動流言の発生と伝達
 日本知識人の虐殺に対する反応を紹介する前に、朝鮮人虐殺にいたる前提的問題を、これまでの諸研究の成果や私自身の所見を含め、明らかにする必要があろうかと思う。

(1) 流言の発生源
 � 地震被害の状況と被災者の状態
 1923年(大正12年)9月1日、正午2分前関東地方に突如として大地震がおこった。
 稀有の大激震に多くの家は倒壊し、ちょうど昼食準備の火を使っていた事情と重なつて各所での火事の発生となり、またたく間に東京・横浜をはじめとする繁華街や家屋密集地は炎に包まれたが、天を焦がす大火は夜を徹して燃え広がり、18時間、または20数時間も燃え続けた。
 死者は10万(14万人ともいう)を超え、負傷者はこれに数倍した。経済的損害は当時の金で50億とも100億円(今の金に直せば数兆円にはなろう)とも言われたが、実に史上まれにみる大災害であった。
 したがって、罹災民衆の苦労は想像を絶するものがある。
 「当時に於いては百万に近き罹災者あり、而も共罹災者は家財を失ひ、父母妻子離散し、寝る所なく、食ふに程なく、着るの衣なく、実に惨憺たる状態にあり」(本史料1 雑誌「自警」大正12年11月号。)と、時の内務大臣水野錬太郎は書いている。 
 このような罹災者は日比谷公園や「宮城」前などに50万人、上野公園、芝公園、靖国神社境内などに10万人くらい集まってきたと言う。
 家は焼け、親子兄妹は離ればなれになり、命からがら逃げのびては来たものの、余震はつづき、大火は黒煙を噴き上げて迫ってくる、という状況の中で、群衆は食物を求め、水を求め、親は子を、子は親を、そして兄弟、姉妹がお互いに捜しあって、これらの広場、公園に集まっても、収拾のつかない大混乱におちいっていたのである。

 � 治安当局の対応と戒厳令発布
 このような民衆の大集団と、その極度の混乱をみて、治安当局者はどう反応し、どのような対策を樹てたのであろうか。
 時の内務大臣水野錬太郎、内務省警保局長後藤文夫、警視総監赤池濃の三人の真っ先にやったことは、罹災民救済ではなく、宮中に行って天皇(大正天皇は日光に避暑中)や皇太子(昭和天皇)の御機嫌奉伺をすることであった。
 その宮中参内の途中でこの三人の当局者は、群衆の大混乱をみて、大群衆の不満のホコ先が政府に向けられることを最も恐れた。
 三人は一貫して内務畑を歩き、5年前の米騒動時には、共に治安当局者として民衆弾圧に努めているが、同時に民衆暴動の恐ろしさを最も実感していた男たちである。
 その翌年の朝鮮での三・一運動の時も水野は直後の斎藤美総督の下で政務総監として、朝鮮人の民族運動の巨大なうねりを肌で知っていたし、赤池は総督府警務局長として、朝鮮人民の三・一運動を直接先頭に立って弾圧している。つまり、日本人群衆・朝鮮人民の暴動や独立運動の巨大な力を誰よりも知り得る立場にあったのである。
 このような三人が、文字どおり驚天動地の最中に、天皇の居処、宮中で顔を合わせたのである。何を議したか。
 この三人は宮中で顔を合わせ、1はこの大群衆の不満の爆発を未然に押え込み、2には、この不満の吐け口を効果的に他に向けさせることを申合わせたのである。
 今考えても実に不思議なのは、彼等自身がこのことを自ら証言しているのである。伝聞記録として残されているもので、後には単行本、全集や総合的な震災記録(官・公・私)等に収められている。
 それを当の御本人に語ってもらおう。
 警保局長後藤文夫は「9月1日午後震災の被害各方面に惨憺たる状況を呈しているを見た余は、全都を通じて其災禍の頗る大なるを想像せざるを得なかったのであって、尋常一様の警備を持って依って生じる人心の不安を沈静し秩序の保持を為す事の困難なるは当局者の看取した所であって、戒厳令を布くの非常手段を執らざる可からざるとの決意は地震の直後当局者の間に生じたのであった」(史料2前掲書)と述べている。
 警視総監赤池濃もまた「四辺の光景を見て余は千緒万端、此災害は至大、至悪、或いは不祥の事変を生ずるに至るべきかと憂へた~此間復た参内状勢を奏上せんとせるに、余は後藤警保局長と共に引返したが、~余は帝都を挙げて一大混乱裡に陥らん事を恐れ、此際は警察のみならず、国家の全力を挙げて治安を維持し、応急の処理を為さざるべからざるを思ひ、一面、衛戍総督に出兵を要求すると同時に、後藤警保局長に切言して内務大臣に戒厳令の発布を建言した。それは多分、午後2時頃であったと思う」(史料3前掲書)と述べている。
 この二人の証言は実に重要である
 つまり、数十万の大群衆の極度の混乱状態を目撃した治安当局者は、「不祥の事変を生ずるに至るべき」に恐怖感を持ち、「尋常一様の警備を持って依って生じる不安を沈静し秩序の保持を為す事の困難」を知り、軍隊を出動させ、戒厳令に依って、群衆の「不祥の事変」を押さえようとしたのである。
 しかし、問題は戒厳令を布く理由である
 戒厳令第1粂には「戒厳令は戦時若しくは事変に際し兵備を以て全国若しくは一地方を警戒する法とす」とある。
 つまり、戒厳令を布くには戦時か、もしくは内乱(事変)の、いずれかの条件が必要なのである。
 ところが、今の混乱は地震と火災によるものであって、戦争でもなければ内乱でもない。戒厳令を要請しようにも、その理由がない。そこで考え出されたのが「朝鮮人暴動」である。
 ほかでもない、治安の最高責任者内務大臣水野錬太郎その人がこのことを証言している。「翌朝(9月2日)になると、人心恟々たる裡に、どこからともなくあらぬ朝鮮人騒ぎが起こつた。~そんな風ではどう対処すべきか、場合が場合故、種々考へても見たが、結局戒厳令を施行するの外はあるまいという事に決した」(史料7『帝都復興秘録』、みすず書房『関東大震災と朝鮮人』所収)と云うのだ。戒厳令は「朝鮮人暴動」に対処するために布いたのだということを、しかも治安の最高責任者である内務大臣が、これほど明確に述べた文献は、今までのところ他に見当たらない。
 赤池警視総監が戒厳令の発布を建言したのは、9月1日の「午後2時頃」である。とすれば地震が起こつて2時間ほどしか経っていないので、朝鮮人騒ぎは露ほどにも起こつていない時である。朝鮮人問題が全く起こつていない時に赤池や後藤は戒厳令発布を要請した。罹災し、混乱した百万近い大群衆による「不祥の事変」を押さえるには戒厳令しかないと考えたからである。
 ところが実際には、戒厳令を布いた理由を朝鮮人暴動に対処するためだったと水野内相は確言している。ここまで明らかになればもう疑問の余地はない。つまり、水野、後藤、赤池ら治安三人組は、戒厳令発布要請の理由づけに苦しんだ挙句、朝鮮人暴動を造りあげて戒厳令発布の法的裏付けを整えたのである。この三人の証言、殊に水野のそれは担当大臣だけに決定的と云える重みがある。
 このことと同時に、「朝鮮人暴動」流言の狙いは今一つある。それは日本人民の不満と怒りを朝鮮人に転嫁させるためであった。この日論見は美事に当たったということである。
 日本人の不満、持ってゆき場のない憤懣を朝鮮人にぶっつけさせる政府内務当局のやり方は、戒厳令要請の法的裏付けとなり、併せて支配層に向けられる人民の不満をかわしたという点で一石二鳥の措置だったが、水野にしろ赤池にしろ三・一独立運動時の朝鮮人民への血の弾圧者だったことを考えると、朝鮮人への恐怖とその報復心の発露ということで一石三鳥の意味があったようだ。
 彼らの脳裡には、5年前の米騒動の際、凄さまじいばかりの爆発力をみせた日本人民の反権力闘争と、4年前の三・一運動の折りにみせた朝鮮人民の燃えたぎる愛国的情熱が、恐怖をこめて想い出されたに違いない。

(2) 流言の伝達
 大震災時の朝鮮人虐殺事件でまず問題になるのは、大虐殺の直接の契機となった「朝鮮人暴動」流言は誰の発想になり、誰が発令し、どう伝達されたのか、ということである。
 朝鮮人暴動流言とその伝達については、今日までの研究では、大きくみて三つある。�は官憲説、�は民衆自発説、�は官民同時発生説である。
 そのいずれの説にも、かなりな説得力のあるのを認めるのに吝さかではないが、日本政府が真に有効的な措置をとらず、一定の限度まで、虐殺容認の姿勢でいたことを考慮すると、やはり�の官憲説に落着かざるを得ない。
 私はこの問題の決め手になるのは、当時、誰がこの種の流言を切実に欲していたのか、この流言の結果により、誰がどのような政治的な利得を得たのか、という政治的利害と直接結びつくところにあると思っている。
 日本政府の流言伝達についていえば、ごく初期は別として、政府の公的な流言伝達方法は二つあった。
 その一つは無電である。内務省警保局長名で全国の「各地方長官宛」に発せられた第一報は次のようなものである。
 「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり、既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて充分周密なる視察を加へ、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加へられたし」。文面は、朝鮮人が放火しているから戒厳令を布いたとなっている。水野の証言とピッタリ一致するのである。
 この第一報は千葉の海軍船橋送信所から発せられた。この電文に内務省治安担当者の乾坤一擲の執念がこめられているのに気付くのはそう難しいことではない。ここで、はっきりしているのは、政府の組織的な流言伝達は、朝鮮人虐殺と直接結びついたということである。
 警保局長はきびすを接するように「不逞鮮人」の放火等に関する電文を幾つも送っている。これを受け取っては朝鮮人暴動を信じない方が可笑しい筈である。
 いま一つは、電文ではなく、関東各県(今のところ埼玉県)に朝鮮人暴動と取締りを直接伝達したものである。
 「通達文  東京に於ける震災に乗じ暴行を為したる不逞鮮人多数が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又、其間過激思想を有する徒之に和し、以て彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其毒手を揮はんとする虞有之候、就いては此際警察力微弱であるから町村当局者は、在郷軍人分会、消防手、青年団員等と一致協力して其警戒に任じ、一朝有事の場合には速やかに適当な方策を講ずるやう至急相当手配相成度き旨、其筋の来牒により此段移牒に及び候也」。この通達は、埼玉県が内務省の命令を受けて、管下の各町村に出したものである。
 埼玉県の場合、永井柳太郎の国会質問によると、埼玉県の地方課長が9月2日に東京の本省と打合わせ、午後5時頃帰ってきて香坂内務部長に報告したものである。香坂は友部警察部長と相談してこの通達文を作り守谷属兼視学をして県内の各郡役所に電話を以て急報し、各郡役所は文書と電話とで各町村に伝えている。
 それにしても「一朝有事の場合には速やかに適当な方策を講」ぜよと指示しているが、これは朝鮮人殺しを官許したものである。 当時の本庄町の町会議員で、1957年当時の本庄市長、中島一十郎氏は「本庄町では郡役所の門平文平氏ら幹部などが県庁からの達しだといって消防団や在郷軍人分会などにそれを事実として伝え、対策に乗り出すように指示した」(『埼玉新聞』昭和32年9月2日付 史料14)と語っているが、内務省によって流言は組織的に伝播され、これによって自警団の発生を見るようになるのである。

(二) 虐殺状況と被殺者数
 朝鮮人虐殺の目撃例は数多く報告されているが、日本知識人のこの問題についての反応をみようというからには、虐殺がどのように行われたのかという点を前提として押さえておく必要があろう。
 ここでは、私の手近にある資料から幾例かを抜いて、当時の虐殺状況を見ることにしたい。

(1) 虐殺状況の例
 △東京の例

 「『骨は何ふしてくれる』と私は言った。『骨は荒川放水路の四ツ木橋の少し下流で焼いたから自由にひろってください』『あそこには機関銃が据つけてあって朝鮮人が数百人殺されたことは周知のことだから誰の骨かわかるものですか』(『種蒔き雑記』)」機関銃で殺したとあっては軍隊に間違いないが、このとき、この地、亀戸にきていたのは千葉習志野の騎兵第十三連隊である

 △東京の例
 「4日目ぐらいになると、朝鮮人狩りが本格的になった。うちの門の柱に、第何分隊屯所と筆太とに書いた紙をはり、剣付き鉄砲の兵隊が立っていた。~裏の庭で、兵隊さんが牛芳剣をみがいていた。縄をひろってきて、それへ砂をつけてこするのだが、刃金にしみこんだ血のしみがなかなかおちない。~番小屋につめていたとき隣の大島町6丁目にたくさん殺されているから見に行こうとさそわれた。~空き地に東から西へほとんど裸体にひとしい死骸が頭を北にしてならべてあった。数は250ときいた。ひとつひとつ見てあるくと、喉を切られて、気管と食道と二つの頚動脈がしろじろと見えているのがあった。後ろから首筋をきられて真白な肉がいくすじも、ざくろのようにいみわれているのがあった。~ただひとつあわれだったのはまだ若いらしい女が腹をさかれ、六七カ月になろうかと思はれる胎児が、はらわたのなかにころがっていた。が、その女の陰部に、ぐさり竹槍がさしてあるのに気づいたとき、ぼくは愕然として、わきへとびのいた。~ぼくはいいようのない怒りにかられた。日本人であることをあのときほど屈辱に感じたことはない」(田辺貞之助『女木川界隈』、本史料集第2巻戦後篇29参照)。

 △東京月島の例
 「評議忽ち一決してこの鮮人の首は直に一刀の別ね飛ばされた。かく捕へられた鮮人24人は13人一塊と11人一塊と、二塊にして針金で縛しあげ、鳶口で撲り殺して海へ投げ込んでしまったけれども、まだ息のあるものもあったので海中へ投入してから更に鳶口で頭を突き刺したが、余り深く突き刺さって幾人もの鳶口がなかなか抜けなかった。また外に3人の鮮人は三号地にある石炭コークスの置き場の石炭コークスが盛んに燃えている中へ生きているまま一縛にして引縛って投げ込んで焼き殺してしまった。鮮人を縛して海に投じた時、見ていた巡査達は双手を挙げて万才を叫んだ」(『関東大震災と朝鮮人』みすず書房、172頁)。

 △東京での例
 「父の友人である大島町八丁目の野原さん宅へ行った(避難のため)。翌日朝、近所の人びとが走っていくので、なにごとかと見ますと、警官が一人の男を連行して行くのを一団の群衆が、朝鮮人、朝鮮人と罵しりながらとり巻いています。そのうち群衆は警官を突きとばして男を奪い、近くの池に投げ込み三人が太い丸太棒を持ってきて、生きた人間を餅をつくようにポッタ、ポッタと打ち叩きました。彼は悲鳴をあげ、池の水を飲み、苦しまぎれに顔をあげるところをまた叩かれ、ついに殺されてしまいました。一団の人びとはかん声をあげて引きあげました。
 すると、また別の一団がきて、死んでいる彼を池から引きずり出し、かわるがわるまた丸太棒で打ち叩きました。肉は破れ、血は飛び散り、人間の形のなくなるほど打ち、叩きまた大声をあげて引きあげました」
(三橋茂一『手記・関東大震災』)。

 △東京・被服廠跡での例
 「被服廠跡地内のやや広い空間では、ひどい光景にぶつかった。10人くらいの人が、血だらけになった4人の朝鮮人を針金で縛って、一升瓶の石油をぶっかけたかと思うとそれに火をつけたのである。燃え上がる火に、のたうちまわると、こんどは手に持った焼けぼっくいで抑えつける。そして目を血走らせて口々に叫ぶ。「こいつが俺たちの兄弟や親子を殺したのだと』」(渡辺政雄『手記・関東大震災』)。

 △横浜の例
 「9月4日午後5時頃、根岸町の自警団にとらわれた3名の鮮人(内1名女)が同町吉野巡査派出所に逃げ込み保護を願った所、巡査は、男二人を派出所の側に縛って現場で惨殺し、助命を乞ふた女をも同夜2時頃、某所に連れ出し殺害した。之がため同所自警団はこの処置を署長の命令と誤信し、引き続き暴挙に出た形勢がある」(『福岡日日新聞』大正12年10月20日付)。

 △千葉の例
 「北総鉄道工夫38名(内女1名、子供1名)が習志野騎兵聯隊に収容されんとして兵士15名護送のもとに、午前2時頃船橋入り口の九日市避病舎前の村道に差しかかって来た~船橋自警団初め八栄村自警団員等150名は『それっ』とばかり、用意の竹槍、棍棒、鳶口、日本刀などを以て忽ち23名を突き殺し、残余のものが数珠繋ぎのまま、大地に膝まづいてしきりに合掌して助命を乞ふのもきかず総掛りで子供1人を残して全部を殺害し、死骸は路傍に放棄したまゝ引揚げた」(前出『関東大震災と朝鮮人』207頁)。

 △埼玉の例
 埼玉県本庄での虐殺事件では、当時の本庄署員新井賢次郎氏の証言がある。「子供も沢山居たが、子供達は並べられて、親の見ている前で首をはねられ、そのあと親達をはりつけにしていた。生きている朝鮮人の腕をのこぎりでひいている奴もいた。それも途中までやっちゃあ、今度は他の朝鮮人をやるという状態で、その残酷さは見るに耐えなかった。後でおばあさんと娘がきて『自分の息子は東京でこやつらのために殺された』といって、死体の目玉を出刃包刀でくりぬいているのも見た」(「かくされていた歴史」関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委貞会刊)。

 △群馬県藤岡での例
 「午後6時となるや自警団員その他200余名の群衆、潮の如く同署(藤岡署)に殺到『やってしまえ』と誰かが怒号すると、小宮部長と交渉中の代表者は『引受けた』とばかり用意して来た猟銃、竹槍、日本刀をふりかざして同署構内裏手の留置場へ乱入し兇器で留置場を破壊し、また一人は巡査の手から留置場の鍵を強奪し、遂に留置場の入り口を破壊した。この襲撃に狂気の如くなった鮮人等は外部に出ずると共に、猿の如く留置場の屋根に飛び上がった。自警団側は梯子をかけて屋根に追いつめ、竹やり、日本刀で虐殺をはじめ、下からは猟銃を発射し、僅1時間30分にて14名全部を惨殺した。血に酔った団員等は喊声をあげて引きあげたが、全官憲は手の下しようもなかった」(前出『関東大震災と朝鮮人』206頁)。

(2) 被殺者数の問題
 このように日本人による目撃例も数多い訳だが、被殺者数を発表する段になると日本政府の数はぐつと縮って200から300名くらいという。時の朝鮮総督斎藤実は二名だといった。
 この虐殺事件の時に良心的に活動した日本人の一人である吉野作造は、その論文の中で「朝鮮罹災同胞慰問班」の一員から聞いたものとして、2,613人という数字を留めている。
 また、震災直後に組織された在上海の独立新聞が派遣した記者をキャップとする朝鮮人調査団は、各地をまわって実地検証をかさね、6,400名から6,600名と発表している。やはり良心的活動家として動いていた布施辰治弁護士と共に活躍している弁韓土山崎今朝弥は、日本政府の調査人数の少なさを憤り、かつ皮肉って「兎に角二人以上一万人以下なることは確からしい」(『地震・憲兵・火事・巡査』)と書いた。
 市川正一は『日本共産党闘争小史』で「何万という朝鮮人が~虐殺された」と書いている。
 ならば実際に虐殺された朝鮮人数はどの位なのか。6,000名以上という朝鮮人調査団の発表は正しいのかとなると、これはほぼ正しい数字である。
 当時、東京、神奈川に住んでいた朝鮮人は約20,000名であるが、震災後、収容所に入れられた人数は11,000人から14,000人。つまり、公的記録からだけでも6,000名以上の数差を得ることができるのである。しかも、居住者数は官庁統計よりも常に多いのが実状である。
 東京で虐殺された朝鮮人の死体を憲兵隊や警察のトラックに積込んで本所の被服廠跡に運び込んだとの証言もある。当初、被服廠跡の焼死体は38,000体と発表され、後に42,000体に増えたが、この増えた4,000の数には、市内で殺されて死体処理のできなかった朝鮮人の遺骸も多く含まれている。
 朝鮮人に対する虐殺は、東京市内に限らず、神奈川、千葉、埼玉、栃木、群馬、茨城等の関東一円にわたっており、その数も一県で数千または数百を越えるものもあることや、東京市内や横浜での虐殺死体もその場で埋めたり、油をかけて焼いたり、河に流したりしたものもかなりな数にのぼることから、直後の調査で被殺者数を6,000以上としたことに大きな誤りはないものと思う。
 また、多い被殺者数を報告している朝鮮人調査団の数字も地域別によくみれば、吉野論文や新聞調査などの数よりも少ないところもすくなからずある。
 たとえば亀戸の被殺数は、朝鮮人調査団では100名としている。
 しかし八島京一という人の供述によると、9月4日の朝、顔見知りの清一という巡査と言葉を交わしているが、「『昨夜は人殺しで徹夜までさせられちゃった。320人も殺した。外国人が亀戸管内に視察に来るので、今日も急いで焼いてしまふのだよ』『皆鮮人ですか』『いや、中には7~8人社会主義者も入っているよ』」(『種蒔き雑記』)という内容になっているが、みられるように、312名の朝鮮人が亀戸ではたった一晩で殺されている。そしてこの数字などは朝鮮人調査団の報告にも正確に反映されていないといえる。
 この他、埼玉県などでも、本庄市や神保原などでも当時の数と、その後の目撃者の回顧談とでは多少の数差があるようである(『埼玉新聞』1957年9月2日~5日付)。
 また朝鮮人虐殺数の最も多かった横浜もそうである。つまり、朝鮮人被殺者数は、今日なお、調査すればする程増えこそしても、決して減りはしないのである。」(「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応1」(緑蔭書房1996年))


なお、工藤美代子氏は、本書で正力松太郎に関しても次のように触れている。

「後年、野球を縁に正力と知己を得た「ベースボール・マガジン社」の創業者池田恒雄(著者の工藤氏は池田氏の実娘のようである)は、その裏話を語ったことがある。後藤(新平)が正力を呼んで次のように言ったのだという。9月末から10月初旬のことと思われる。

「正力君、朝鮮人の暴動があったことは事実だし、自分は知らないわけではない。だがな、このまま自警団に任せて力で押し潰せば、彼らとてそのままは引き下がらないだろう。必ずその報復がくる。報復の矢先が万が一にも御上に向けられるようなことがあたら、腹を切ったくらいでは済まされない。だからここは、自警団には気の毒だが、引いてもらう。ねぎらいはするつもりだがね」

三十八歳の正力は百戦錬磨の後藤のこの言葉に感激し、以後、顔には出さずに「風評」の打ち消し役に徹した。 」(工藤美代子著「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」(p172))

しかし、震災発生時、正力松太郎は、警視庁の監房主事という重職に就いていたのであり、何も後で後藤に実情を教えてもらうまでもなく,当然、朝鮮人虐殺に至る実情・経緯を逐一知っていたはずではないだろうか。琴秉洞編「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応」にも正力松太郎に関しては戦前篇、戦後篇と二度も出てくる。琴秉洞氏は、下記のとおり「正力は朝鮮人虐殺司令塔の中心人物の一人である」とまで述べている。

「 正力は大震時、警視庁官房主事をしていた。「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗し」たと述べている(引用者注:1944(昭和19)年、警視庁での講演会において) 。管下警察署ならいざ知らず、本庁の幹部が流言の発生源を知らなかったとは可笑しい。しかし彼としてはこうとしか云いようがなかったかも知れぬ。」(戦前篇)

「 史料36の正力松太郎は戦前篇「官僚・軍人」の項でその回想談を引用したが、これは戦後に回想したものである。一読して明白なのは、ここの引用部分には朝鮮人問題に一言も触れていない。実はここだけでなく、全文、朝鮮人に触れていないのである。
 前に戦後篇4で、戒厳参謀 森五六中佐の日記を紹介したが、その引用部分にもある、9月3日、戒厳司令部に「警視庁の某部長が来て朝鮮人騒ぎの話をし、腕をまくつて「もうこうなったらやりますゾ』と言った」某部長とは正力松太郎である。正力は、戦前篇一「官僚・軍人」の9で、はっきり朝鮮人来襲のことに触れている。
 正力は朝鮮人虐殺司令塔の中心人物の一人である。彼が流言の発生源との資料はでていないが、警官及び自警団をして朝鮮人殺しをやらせた中心部に居た人物であることを考えると、戦前の自らの犯罪行為を必死に隠す証拠煙滅という意味もあるという点で、この36の回想記は貴重なものと思う。」(戦後篇)


注意-琴秉洞氏の文中に出てくる「史料××」中の数字「××」は、収載された膨大な数の文章の各々に掲載順番として付されたものである。
関連記事
スポンサーサイト
2010.10.30 Sat l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (1) トラックバック (0) l top

コメント

承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
2015.03.11 Wed l . l 編集

コメントの投稿












トラックバック

トラックバック URL
http://yokoita.blog58.fc2.com/tb.php/109-bfcdea0d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。