2010.11.01 *Mon
工藤美代子著「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」の出鱈目(4)
「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」(工藤美代子著)は、2009年12月の刊行(その前(2008年5月から翌年7月までの1年以上)、『SAPIO』に連載されていたことは前に書いた。)だが、いったいなぜ今この時に、このような内容の文章が雑誌に連載され、単行本として出版されるようなことになったのだろうか。私には、これは「ナチスのホロコーストはなかった」「南京虐殺は嘘である」といった本と同種の、歴史を歪め、ねじ曲げるためのデマゴギー本と瓜二つに見える。関東大震災発生の1923年と言えば、今から87年前のこと。震災の体験・記憶をもつ人はほぼ亡くなってしまっていることや、現在の日本社会が極端に右傾化の傾向が強まっていること、特に2002年の朝鮮民主主義人民共和国による日本人拉致事件発覚以後の在日朝鮮人に向ける日本社会の視線の厳しさなどを奇禍として、もうこういう本を出してもいい、大事にはいたらないと、著者、編集者、出版者ともどもそう考えたのだろうか。
それにしても、本書の内容のお粗末さには恐れ入るばかりである。究極のところ、この本は、震災発生当初の「2000人の朝鮮人襲来」「朝鮮人恣に掠奪、暴行」などのデマを満載した新聞記事を鵜呑みにし、それを「事実」と見なし(しかしそれが「事実」であることを示す証拠は本のなかにただの一つも明示されていない。したくてもできなかったのだろうが)、丸写しにした代物である。著者は、日本人(自警団)は暴行・虐殺を恣にする朝鮮人に自衛手段として対抗し、その過程での過剰防衛の結果朝鮮人虐殺もいくらかは発生した、と述べ、この全体を指して「「朝鮮人虐殺」の真実」と主張しているわけである。
工藤氏は、菊池寛(の朝鮮人暴動に関する発言)に触れた芥川龍之介の文章に対して「いったいどういう感覚をしていればこんな読み方ができるのだ?」と言いたくなるような摩訶不思議な解釈をしていたが、この事例ほどあからさまではないが、他の知識人に関しても不審なことをさまざま書いている。自警団の呼び出しに応じてそれに参加した内村鑑三や井伏鱒二の文章に対して、また震災で崩壊する以前の横浜を哀惜した谷崎潤一郎の文章に対しても、「初めに朝鮮人の暴行・略奪ありき」という自分の主張に沿うようにその趣旨をねじ曲げた解釈をしているのだ。
内村鑑三や井伏鱒二の日記・文章を読むと、確かにイヤイヤ自警団に参加しているようには見えない。かといって、朝鮮人の放火や暴行や井戸に毒を入れたなどの流言を信じている様子も見えない。つまり、彼らはこの問題については一切触れていないのだ。この触れていないことに関する批判はありえると思うし、事実、琴秉洞氏は内村鑑三について、「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応」のなかで「朝鮮人虐殺問題に、只の一言も触れずに通した事実には驚嘆を禁じ得ない。」と批判している。内村鑑三は、聖書の読み取りをはじめとしたキリスト教理解の深さにおいて日本人クリスチャンよりも朝鮮人クリスチャンをはるかに信頼していることは彼の手紙などで明白である。琴秉洞氏はそのことを知っているからこそ、他でもないこのような悲惨時における内村の沈黙をいっそうつよく批判したのではないだろうか。
琴秉洞氏は、群馬県安中キリスト教会の牧師、柏木義円の主宰する『上毛教会月報』から、震災関連の柏木の文章を抜き、「どうか植村、内村の文と読み比べて戴きたい。軍隊出動の問題にしても、自警団評価の問題にしても、柏木の眼は透徹している。殊に(略)「此れ大虐殺に非ざるか」に至っては、義のためには、理のためには、冷酷、鉄巌の如き権力といえども正面に対して恐れない哲人のような柏木義円を実感させて余りあるものと云える。」と述べている。琴秉洞氏の上の文章に「植村」とあるのは植村正久牧師のことで、この人も震災を語るに際し、朝鮮人虐殺に関して一切触れていないそうである。しかし、そうであるからといって、「朝鮮人の暴行・掠奪があった」と主張する工藤氏が自己の主張に内村や井伏や谷崎が同調しているかのような書き方をしているのは、まさしく詐欺者の手法であり、卑怯この上ないのではないだろうか。
工藤氏は自著において「参考文献」として山田昭次氏の著書「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」を挙げているが、見たところ一向に参考にした様子はないようである。だが山田氏の本には、デマの流布の発生源やその後の経過を克明に物語る貴重な資料が豊富に掲載され、また各事実に対し深い分析・考察がなされていると思うのでこれから見てみたい。まず官憲側の資料から。(下線、太字による強調はすべて引用者による)
「 警視庁編・刊『大正大震火災誌』(25年)には、「流言蛮語が初めて管内に流布されたのは1日午後1時頃」で、富士山が大爆発を起こした、東京湾沿岸に大津波がくる、更に大地震の来襲があるといった自然災害に関するデマがまず流布され、午後三時頃には「社会主義者及び鮮人の放火多し」というデマが流布され、2日午前10時頃には「不達鮮人の来襲あるべし」、「昨日の火災は、多くは不達鮮人の放火または爆弾の投榔によるものなり」といったデマが流布されたと記されている(445~446頁)。
デマの発生源については「9月1日の震火災起る、これ実に陰謀野心の徒の乗じ得べき好機会なれば、予ねてより鮮人暴動の杞憂を抱ける民衆が、直覚的にその実現を恐れたるも亦謂(まついわれ)なきに非らず」
と、民衆がデマの発生源だと断定した(453頁)。
神奈川県警察部編・刊『大正大震火災誌』(26年)にはこの点に関しては「この時に当り一部不逞者の暴行掠奪等あるや、これ等の行為は針小棒大に、然かも僚原の火の如く伝わり、好事家これに付和して虚を大にし、人心は益々悪化すると共に極度の不安に陥り、警察当局が如何にこれを安定せしめんと欲するも、一度大なる惨禍に罹り不安に陥りたる人心は容易に緩和すべくもあらず」と書かれている(389頁)。本書は朝鮮人の暴行掠奪があったことにして、これを針小棒大なデマに作り上げたのが民衆で、警察はデマを押さえようとしたのだといっているのである。
私も民衆がデマを伝播させたことは認める。しかしこれら警察編さんの書物は、警察署や警察官がデマを流したことを隠蔽しており、ここに国家の事後責任がはっきり示されている。」(山田昭次著「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」(創史社2003年)
上の警察の資料は、震災後2、3年後にまとめられたものであるが、山田氏によると、地震発生日の9月1日の夕方には早くも警官や警察署は「朝鮮人が暴動を起こした」というデマを流したという。そのことを裏づける史料が同書には以下のように提示されている。
「
�東京市麻布区本村尋常小学校一年生 西村喜世子「だいじしんのおはなし」
大じしんのとき、わたくしはいいぐらにいました。(中略)みんなで本村のほうににげてきました。〔中略〕それからゆうがたになったら○○○○○○○〔ふていせんじん〕がせめてくるからとおまわりさんがいいにきました。(東京市学務課編纂『東京市立小学校児童震災記念文集』24年。
�寺田寅彦「震災日記より」9月2日から
帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚のものが13人避難して来ていた。いずれも何一つ持ち出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○〔朝鮮〕人の放火者が徘徊するから注意しろと言ったそうだ。(琴秉洞、96年、285頁)(管理人注:琴秉洞氏によると、寅彦はこの報を聞いて日記に「「こんな場末の町へまで荒らして歩くためにはいったい何千キロの毒薬、何万キロの爆弾がいるであろうか」と科学者に相応しいきわめて冷静な判断を記しているそうである。)
�23年10月28日付け『報知新聞』夕刊市内版(記事要約)
10月25日に東京の本郷小学校で開かれた本郷区会議員・区内有志・自警団代表者の会合で曙町村田代表は「9月1日夕方曙町交番巡査が自警団に来て『各町で不平鮮人が殺人放火しているから気をつけろ』と二度まで通知に来た」と報告した。
�埼玉県入間郡入間町(現・狭山市)警察から発したデマ
地方に於ける訛伝の一節として埼玉県入間町〔在郷軍人会〕分会長の口頭報告したるもの左の如し、
9月1日午後7時頃警察署は警鐘を乱打し、警察官は和服に日本刀を帯び自転車に乗じて町民に左の如く警告せり。
爆弾兇器を有する鮮人11名当町に襲来し内1名捕縛さる。此者は六連発短銃を携帯す、全町は 燈を滅し戸綿をせよ。(東京市、27年、294頁)
���は東京市内で9月1日夕方警察官がデマを流布したことを示す。�は埼玉県入間市(現・狭山市)で同日晩に警察署がデマを流したことを示す。
次に2日に警察署または警察官がデマを流したことを示す史料を挙げる。
�東京市麹町区富士見尋常小学校六年生 岩崎之隆 「大正震災の記」
(9月1日の)夜が明けるが早いか巡査がやってきて、一軒々々に「かねてから日本に不平を抱く不逞○〔鮮〕人が例の二百十日には大暴風雨がありそうなのを知って、それにつけ込んで暴動を起そうとたくらんでいた所へ今度の大地震があったので、この天災に乗じて急に起って市中各所に放火したのだそうです。また横浜に起ったのは最もひどく、人と見れば子供でも老人でも殺して了(しま)い、段々と東京へ押寄せて来るそうだから、昼間でも戸締を厳重にして下さい」と、ふれ歩いたので、皆はもう恐くて恐くて生きた心持ちもなく、近所の人もひとつ所に集って、手に手に竹槍、バット等を持って注意をしていた。(東京市学務課編纂前掲書、琴秉洞、89年、346頁)
�東京市京橋区京橋高等小学校一年生 鈴木喜四郎「思い出」
噫(ああ)-思い起せば9月1日時計の針が正に正午を報ぜんとする一刹那、地鳴りと共に、やにわに大振動。〔中略〕)〔2日〕日は西に傾いた。今晩は○○○〔不逞鮮〕人の夜襲があると言ううわさがぱっとたつと、巡査が「今晩は○○○〔不逞鮮〕人の夜襲がありますから気を付けて下さい」と叫びながらまわってあるいた。(東京市学務課編纂前掲書、琴秉洞、89年、370~371頁)
�中原村(現・川崎市)青年団員・在郷軍人会中原分会員小林英男の日記9月2日より
この日、午後、警察より、「京浜方面の鮮人暴動に備うる為出動せよ」との達しあり、在郷軍人・青年団・消防団等、村内血気の男子は各々武器を携え集合し、市之坪境まで進軍す。(川崎市役所、300頁)
��は東京市内で9月2日に警察官がデマを流した事例である。�は警察署が同日、架空の朝鮮人暴動に対処して中原村の在郷軍人会分会や青年団員に武装出動を命じたことを示す。
以上のように、1日夕方から個々の警察署や警官は朝鮮人が暴動を起こしたと宣伝し、2日ともなれば、在郷軍人会や青年団に武装出動を命じた例もある。ただし、時期から見てこれらは国家の中央からの指令に基づく行動ではなく、何かにつけて朝鮮人に神経を尖らす警察の日常の習性から現れた行動であろう。」(同 上)
さて、治安の中枢部である内務省の動きであるが、山田氏は「内務省警保局長の朝鮮人暴動の認定」について、次のように述べている。
「 治安の中枢部である内務省警保局長が朝鮮人が暴動を起こしたと認定して行動を起こしたのは、9月2日であったと考えられる。その根拠の第一は、船橋海軍無線電信送信所から9月3日午前8時15分に呉鏡守府副官経由で各地方長官宛に打電された内務省警保局長の左記の電文である (次頁参照)。これは東京で朝鮮人が暴動を起こしたと告げ、朝鮮人取締りを命じたものである。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不達の目的を遂行せんとし、現に東京市内 に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対して厳密なる取締を加えられたし。」(琴秉洞、91年、185)
電文の欄外には「この電報を伝騎にもたせやりしは2日の午後と記憶す」と注記されている。つまり騎兵が電文を受け取って船橋に向かって東京を出発したのは2日の午後であり、警保局長が朝鮮人暴動を起こしたと認定したのが2日だったことを示す。このことは次の史料とも符合する。次の史料は9月2日、埼玉県内務部長香坂昌康が9月2日の晩に郡役所経由で埼玉県内の町村へ発した指令である。
「庶発第八号
大正十二年九月二日
埼玉県内務部長
郡町村長宛
不逞鮮人暴動に関する件
移牒
今回の震災に対し、東京に於て不逞鮮人の妄動有之、又その間過激思想を有する徒これに和し、以って彼等の目的を達せんとする趣及聞、漸次その毒手を振わんとするやの惧(おそれ)有之候に付ては、この際町村当局者は、在郷軍人分会・消防隊・青年団等は一致協力して、その警戒に任じ、一朝有事の場合には、速かに適当の方策を講ずる様至急相当御手配相成度。右その筋の来牒により、この段及移牒候也。」 (吉野作造、24年、96頁)
23年12月15日の衆議院本会議での永井柳太郎の演説によると、埼玉県の地方課長が9月2目に東京から本省つまり内務省との打ち合わせを終えて、午後5時頃帰ってきて香坂内務部長に報告し、香坂はその報告に基づいて上記の移牒を守谷属に県内の郡役所に電話で急報させ、各郡役所はこれを電話や文書で各町村に伝えた。
したがって、この移牒が言うところの「その筋」とは内務省であり、内務省の指示に基づいて香坂は埼玉県内の郡町村に右の指令を発したのである。しかもそれが9月2日であり、警保局長が船橋に向けて騎兵に電文を持たせたのと同じ日である。東京市とその周辺五郡に戒厳令を布告したのも9月2日である。以上の根拠により、治安の中枢部の内務省警保局が朝鮮人が暴動を起こしたと認定したのは9月2日であると判断する。 」(同 上)
この時から、数日にわたり、工藤氏が朝鮮人暴動の証拠として挙げるデマ記事が新聞各紙によって一斉に報道されることになった。山田氏の同書によると、『福岡日日新聞』は3日、「横浜監獄を脱出せる暴行○○[鮮人]の一隊 百鬼夜行の態にて西進 静岡連隊の出動」「○○○○[不逞鮮人]二千の群 発電所襲撃の暴挙」「歩兵隊と戦闘開始 更に増援隊派遣」といった記事が掲載されたそうである。工藤氏の挙げる「事実」と何とよく似ていることだろう。
政府(山本権兵衛内閣)が政策転換を模索し始めたのは、前回述べたことだが、9月5日の「内閣告諭第2号」の「不穏な朝鮮人は軍隊、警察へ引き渡せ、云々」からだったが、その後10月20日には、司法省は、次のような発表をした。
「 今その筋の調査した所によれば、一般鮮人は概して純良であると認められるが、一部不逞の輩があって幾多の犯罪を敢行し、その事実宣伝せらるるに至った結果、変災に因って人心不安の折から恐怖と興奮の極、往々にして無辜の鮮人、または内地人を不逞鮮人と誤って自衛の意味を以て危害を加えた事犯を生じた…」(『国民新聞』23・10・21)
この司法省の言明について、山田氏は下記のように批判している。
「 つまり「不逞鮮人」の「犯行」があったのだから、朝鮮人が虐殺されても仕方がないという、弁解の口実として「不逞鮮人」の「犯行」が発表されたのである。」
山田氏は、司法省発表による朝鮮人の「犯罪」の詳細な表を本書に載せているので、詳細を知りたい方はぜひこの本(p94)を直接ご覧になっていただきたい。放火1件、脅迫1件、強姦殺人1件・4名、などの一見おどろおどろしい罪名が並んでいるが、肝心の中身はといえば、不思議なことにほとんどの例は加害者も被害者も氏名不詳、氏名の判明している人物は現在居所不明とされている。これに対し、東洋経済新報社の石橋湛山は下記のように述べている。
「官憲の発表に依れば、殆ど皆風説に等しく、多分は氏名不詳、たまたまその明白に氏名を掲げあるものも、現にその者を捕えたるは少ない。斯くてはその犯罪者が、果たして鮮人であったか、内地人であったかも、わからぬわけである。」(『東洋経済新報』23.10.27。)
また弁護士の布施辰治も『日本弁護士協会録事』(24・9)に掲載した「鮮人騒ぎの調査」で
「当局の発表した凶暴鮮人の暴行脅迫、放火強姦と云うのは、被害者の名前も判らなければ、被告の名前も判らない流言蜚語その儘の訛伝(かでん)が、死人に口なき被害者に鞭打つものではあるまいかを疑わなければ為らない」
と厳しく批判したが、山田氏によると、多くの新聞は「子供だましのような司法省発表の口車に乗せられてしまった」そうである。山崎今朝弥弁護士は『地震、憲兵、火事、巡査』でいわく、「知識階級とは無意識者の謂(いい)か。新聞社の見識のないことと意気地のないこと。」とのことだが、私も当時の新聞がこれほどまでに情けない、権力追従の露わな姿を晒しているとは思っていなかった。
なお、姜徳相氏は自著「関東大震災」(中公新書1975年)において、この件について「氏名の判明している金孫順、姜金山など、朝鮮人の名前としては奇妙であり任意に創作した疑いすら見られるが、その彼らも亀戸署に拘禁され、同署が類焼したため2日に解放され、所在不明とある。(略)朝鮮人の総員検束が始まったばかりのときに解放とはどういうことか。命があれば、必ずどこかの収容所に検束されていなければならないのに行方不明とはどういうことか。両氏は逆に亀戸署で虐殺された被害者の可能性が強いのである。」(p37)と述べている。
それにしても、本書の内容のお粗末さには恐れ入るばかりである。究極のところ、この本は、震災発生当初の「2000人の朝鮮人襲来」「朝鮮人恣に掠奪、暴行」などのデマを満載した新聞記事を鵜呑みにし、それを「事実」と見なし(しかしそれが「事実」であることを示す証拠は本のなかにただの一つも明示されていない。したくてもできなかったのだろうが)、丸写しにした代物である。著者は、日本人(自警団)は暴行・虐殺を恣にする朝鮮人に自衛手段として対抗し、その過程での過剰防衛の結果朝鮮人虐殺もいくらかは発生した、と述べ、この全体を指して「「朝鮮人虐殺」の真実」と主張しているわけである。
工藤氏は、菊池寛(の朝鮮人暴動に関する発言)に触れた芥川龍之介の文章に対して「いったいどういう感覚をしていればこんな読み方ができるのだ?」と言いたくなるような摩訶不思議な解釈をしていたが、この事例ほどあからさまではないが、他の知識人に関しても不審なことをさまざま書いている。自警団の呼び出しに応じてそれに参加した内村鑑三や井伏鱒二の文章に対して、また震災で崩壊する以前の横浜を哀惜した谷崎潤一郎の文章に対しても、「初めに朝鮮人の暴行・略奪ありき」という自分の主張に沿うようにその趣旨をねじ曲げた解釈をしているのだ。
内村鑑三や井伏鱒二の日記・文章を読むと、確かにイヤイヤ自警団に参加しているようには見えない。かといって、朝鮮人の放火や暴行や井戸に毒を入れたなどの流言を信じている様子も見えない。つまり、彼らはこの問題については一切触れていないのだ。この触れていないことに関する批判はありえると思うし、事実、琴秉洞氏は内村鑑三について、「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応」のなかで「朝鮮人虐殺問題に、只の一言も触れずに通した事実には驚嘆を禁じ得ない。」と批判している。内村鑑三は、聖書の読み取りをはじめとしたキリスト教理解の深さにおいて日本人クリスチャンよりも朝鮮人クリスチャンをはるかに信頼していることは彼の手紙などで明白である。琴秉洞氏はそのことを知っているからこそ、他でもないこのような悲惨時における内村の沈黙をいっそうつよく批判したのではないだろうか。
琴秉洞氏は、群馬県安中キリスト教会の牧師、柏木義円の主宰する『上毛教会月報』から、震災関連の柏木の文章を抜き、「どうか植村、内村の文と読み比べて戴きたい。軍隊出動の問題にしても、自警団評価の問題にしても、柏木の眼は透徹している。殊に(略)「此れ大虐殺に非ざるか」に至っては、義のためには、理のためには、冷酷、鉄巌の如き権力といえども正面に対して恐れない哲人のような柏木義円を実感させて余りあるものと云える。」と述べている。琴秉洞氏の上の文章に「植村」とあるのは植村正久牧師のことで、この人も震災を語るに際し、朝鮮人虐殺に関して一切触れていないそうである。しかし、そうであるからといって、「朝鮮人の暴行・掠奪があった」と主張する工藤氏が自己の主張に内村や井伏や谷崎が同調しているかのような書き方をしているのは、まさしく詐欺者の手法であり、卑怯この上ないのではないだろうか。
工藤氏は自著において「参考文献」として山田昭次氏の著書「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」を挙げているが、見たところ一向に参考にした様子はないようである。だが山田氏の本には、デマの流布の発生源やその後の経過を克明に物語る貴重な資料が豊富に掲載され、また各事実に対し深い分析・考察がなされていると思うのでこれから見てみたい。まず官憲側の資料から。(下線、太字による強調はすべて引用者による)
「 警視庁編・刊『大正大震火災誌』(25年)には、「流言蛮語が初めて管内に流布されたのは1日午後1時頃」で、富士山が大爆発を起こした、東京湾沿岸に大津波がくる、更に大地震の来襲があるといった自然災害に関するデマがまず流布され、午後三時頃には「社会主義者及び鮮人の放火多し」というデマが流布され、2日午前10時頃には「不達鮮人の来襲あるべし」、「昨日の火災は、多くは不達鮮人の放火または爆弾の投榔によるものなり」といったデマが流布されたと記されている(445~446頁)。
デマの発生源については「9月1日の震火災起る、これ実に陰謀野心の徒の乗じ得べき好機会なれば、予ねてより鮮人暴動の杞憂を抱ける民衆が、直覚的にその実現を恐れたるも亦謂(まついわれ)なきに非らず」
と、民衆がデマの発生源だと断定した(453頁)。
神奈川県警察部編・刊『大正大震火災誌』(26年)にはこの点に関しては「この時に当り一部不逞者の暴行掠奪等あるや、これ等の行為は針小棒大に、然かも僚原の火の如く伝わり、好事家これに付和して虚を大にし、人心は益々悪化すると共に極度の不安に陥り、警察当局が如何にこれを安定せしめんと欲するも、一度大なる惨禍に罹り不安に陥りたる人心は容易に緩和すべくもあらず」と書かれている(389頁)。本書は朝鮮人の暴行掠奪があったことにして、これを針小棒大なデマに作り上げたのが民衆で、警察はデマを押さえようとしたのだといっているのである。
私も民衆がデマを伝播させたことは認める。しかしこれら警察編さんの書物は、警察署や警察官がデマを流したことを隠蔽しており、ここに国家の事後責任がはっきり示されている。」(山田昭次著「関東大震災時の朝鮮人虐殺 -その国家責任と民衆責任」(創史社2003年)
上の警察の資料は、震災後2、3年後にまとめられたものであるが、山田氏によると、地震発生日の9月1日の夕方には早くも警官や警察署は「朝鮮人が暴動を起こした」というデマを流したという。そのことを裏づける史料が同書には以下のように提示されている。
「
�東京市麻布区本村尋常小学校一年生 西村喜世子「だいじしんのおはなし」
大じしんのとき、わたくしはいいぐらにいました。(中略)みんなで本村のほうににげてきました。〔中略〕それからゆうがたになったら○○○○○○○〔ふていせんじん〕がせめてくるからとおまわりさんがいいにきました。(東京市学務課編纂『東京市立小学校児童震災記念文集』24年。
�寺田寅彦「震災日記より」9月2日から
帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚のものが13人避難して来ていた。いずれも何一つ持ち出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○〔朝鮮〕人の放火者が徘徊するから注意しろと言ったそうだ。(琴秉洞、96年、285頁)(管理人注:琴秉洞氏によると、寅彦はこの報を聞いて日記に「「こんな場末の町へまで荒らして歩くためにはいったい何千キロの毒薬、何万キロの爆弾がいるであろうか」と科学者に相応しいきわめて冷静な判断を記しているそうである。)
�23年10月28日付け『報知新聞』夕刊市内版(記事要約)
10月25日に東京の本郷小学校で開かれた本郷区会議員・区内有志・自警団代表者の会合で曙町村田代表は「9月1日夕方曙町交番巡査が自警団に来て『各町で不平鮮人が殺人放火しているから気をつけろ』と二度まで通知に来た」と報告した。
�埼玉県入間郡入間町(現・狭山市)警察から発したデマ
地方に於ける訛伝の一節として埼玉県入間町〔在郷軍人会〕分会長の口頭報告したるもの左の如し、
9月1日午後7時頃警察署は警鐘を乱打し、警察官は和服に日本刀を帯び自転車に乗じて町民に左の如く警告せり。
爆弾兇器を有する鮮人11名当町に襲来し内1名捕縛さる。此者は六連発短銃を携帯す、全町は 燈を滅し戸綿をせよ。(東京市、27年、294頁)
���は東京市内で9月1日夕方警察官がデマを流布したことを示す。�は埼玉県入間市(現・狭山市)で同日晩に警察署がデマを流したことを示す。
次に2日に警察署または警察官がデマを流したことを示す史料を挙げる。
�東京市麹町区富士見尋常小学校六年生 岩崎之隆 「大正震災の記」
(9月1日の)夜が明けるが早いか巡査がやってきて、一軒々々に「かねてから日本に不平を抱く不逞○〔鮮〕人が例の二百十日には大暴風雨がありそうなのを知って、それにつけ込んで暴動を起そうとたくらんでいた所へ今度の大地震があったので、この天災に乗じて急に起って市中各所に放火したのだそうです。また横浜に起ったのは最もひどく、人と見れば子供でも老人でも殺して了(しま)い、段々と東京へ押寄せて来るそうだから、昼間でも戸締を厳重にして下さい」と、ふれ歩いたので、皆はもう恐くて恐くて生きた心持ちもなく、近所の人もひとつ所に集って、手に手に竹槍、バット等を持って注意をしていた。(東京市学務課編纂前掲書、琴秉洞、89年、346頁)
�東京市京橋区京橋高等小学校一年生 鈴木喜四郎「思い出」
噫(ああ)-思い起せば9月1日時計の針が正に正午を報ぜんとする一刹那、地鳴りと共に、やにわに大振動。〔中略〕)〔2日〕日は西に傾いた。今晩は○○○〔不逞鮮〕人の夜襲があると言ううわさがぱっとたつと、巡査が「今晩は○○○〔不逞鮮〕人の夜襲がありますから気を付けて下さい」と叫びながらまわってあるいた。(東京市学務課編纂前掲書、琴秉洞、89年、370~371頁)
�中原村(現・川崎市)青年団員・在郷軍人会中原分会員小林英男の日記9月2日より
この日、午後、警察より、「京浜方面の鮮人暴動に備うる為出動せよ」との達しあり、在郷軍人・青年団・消防団等、村内血気の男子は各々武器を携え集合し、市之坪境まで進軍す。(川崎市役所、300頁)
��は東京市内で9月2日に警察官がデマを流した事例である。�は警察署が同日、架空の朝鮮人暴動に対処して中原村の在郷軍人会分会や青年団員に武装出動を命じたことを示す。
以上のように、1日夕方から個々の警察署や警官は朝鮮人が暴動を起こしたと宣伝し、2日ともなれば、在郷軍人会や青年団に武装出動を命じた例もある。ただし、時期から見てこれらは国家の中央からの指令に基づく行動ではなく、何かにつけて朝鮮人に神経を尖らす警察の日常の習性から現れた行動であろう。」(同 上)
さて、治安の中枢部である内務省の動きであるが、山田氏は「内務省警保局長の朝鮮人暴動の認定」について、次のように述べている。
「 治安の中枢部である内務省警保局長が朝鮮人が暴動を起こしたと認定して行動を起こしたのは、9月2日であったと考えられる。その根拠の第一は、船橋海軍無線電信送信所から9月3日午前8時15分に呉鏡守府副官経由で各地方長官宛に打電された内務省警保局長の左記の電文である (次頁参照)。これは東京で朝鮮人が暴動を起こしたと告げ、朝鮮人取締りを命じたものである。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不達の目的を遂行せんとし、現に東京市内 に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対して厳密なる取締を加えられたし。」(琴秉洞、91年、185)
電文の欄外には「この電報を伝騎にもたせやりしは2日の午後と記憶す」と注記されている。つまり騎兵が電文を受け取って船橋に向かって東京を出発したのは2日の午後であり、警保局長が朝鮮人暴動を起こしたと認定したのが2日だったことを示す。このことは次の史料とも符合する。次の史料は9月2日、埼玉県内務部長香坂昌康が9月2日の晩に郡役所経由で埼玉県内の町村へ発した指令である。
「庶発第八号
大正十二年九月二日
埼玉県内務部長
郡町村長宛
不逞鮮人暴動に関する件
移牒
今回の震災に対し、東京に於て不逞鮮人の妄動有之、又その間過激思想を有する徒これに和し、以って彼等の目的を達せんとする趣及聞、漸次その毒手を振わんとするやの惧(おそれ)有之候に付ては、この際町村当局者は、在郷軍人分会・消防隊・青年団等は一致協力して、その警戒に任じ、一朝有事の場合には、速かに適当の方策を講ずる様至急相当御手配相成度。右その筋の来牒により、この段及移牒候也。」 (吉野作造、24年、96頁)
23年12月15日の衆議院本会議での永井柳太郎の演説によると、埼玉県の地方課長が9月2目に東京から本省つまり内務省との打ち合わせを終えて、午後5時頃帰ってきて香坂内務部長に報告し、香坂はその報告に基づいて上記の移牒を守谷属に県内の郡役所に電話で急報させ、各郡役所はこれを電話や文書で各町村に伝えた。
したがって、この移牒が言うところの「その筋」とは内務省であり、内務省の指示に基づいて香坂は埼玉県内の郡町村に右の指令を発したのである。しかもそれが9月2日であり、警保局長が船橋に向けて騎兵に電文を持たせたのと同じ日である。東京市とその周辺五郡に戒厳令を布告したのも9月2日である。以上の根拠により、治安の中枢部の内務省警保局が朝鮮人が暴動を起こしたと認定したのは9月2日であると判断する。 」(同 上)
この時から、数日にわたり、工藤氏が朝鮮人暴動の証拠として挙げるデマ記事が新聞各紙によって一斉に報道されることになった。山田氏の同書によると、『福岡日日新聞』は3日、「横浜監獄を脱出せる暴行○○[鮮人]の一隊 百鬼夜行の態にて西進 静岡連隊の出動」「○○○○[不逞鮮人]二千の群 発電所襲撃の暴挙」「歩兵隊と戦闘開始 更に増援隊派遣」といった記事が掲載されたそうである。工藤氏の挙げる「事実」と何とよく似ていることだろう。
政府(山本権兵衛内閣)が政策転換を模索し始めたのは、前回述べたことだが、9月5日の「内閣告諭第2号」の「不穏な朝鮮人は軍隊、警察へ引き渡せ、云々」からだったが、その後10月20日には、司法省は、次のような発表をした。
「 今その筋の調査した所によれば、一般鮮人は概して純良であると認められるが、一部不逞の輩があって幾多の犯罪を敢行し、その事実宣伝せらるるに至った結果、変災に因って人心不安の折から恐怖と興奮の極、往々にして無辜の鮮人、または内地人を不逞鮮人と誤って自衛の意味を以て危害を加えた事犯を生じた…」(『国民新聞』23・10・21)
この司法省の言明について、山田氏は下記のように批判している。
「 つまり「不逞鮮人」の「犯行」があったのだから、朝鮮人が虐殺されても仕方がないという、弁解の口実として「不逞鮮人」の「犯行」が発表されたのである。」
山田氏は、司法省発表による朝鮮人の「犯罪」の詳細な表を本書に載せているので、詳細を知りたい方はぜひこの本(p94)を直接ご覧になっていただきたい。放火1件、脅迫1件、強姦殺人1件・4名、などの一見おどろおどろしい罪名が並んでいるが、肝心の中身はといえば、不思議なことにほとんどの例は加害者も被害者も氏名不詳、氏名の判明している人物は現在居所不明とされている。これに対し、東洋経済新報社の石橋湛山は下記のように述べている。
「官憲の発表に依れば、殆ど皆風説に等しく、多分は氏名不詳、たまたまその明白に氏名を掲げあるものも、現にその者を捕えたるは少ない。斯くてはその犯罪者が、果たして鮮人であったか、内地人であったかも、わからぬわけである。」(『東洋経済新報』23.10.27。)
また弁護士の布施辰治も『日本弁護士協会録事』(24・9)に掲載した「鮮人騒ぎの調査」で
「当局の発表した凶暴鮮人の暴行脅迫、放火強姦と云うのは、被害者の名前も判らなければ、被告の名前も判らない流言蜚語その儘の訛伝(かでん)が、死人に口なき被害者に鞭打つものではあるまいかを疑わなければ為らない」
と厳しく批判したが、山田氏によると、多くの新聞は「子供だましのような司法省発表の口車に乗せられてしまった」そうである。山崎今朝弥弁護士は『地震、憲兵、火事、巡査』でいわく、「知識階級とは無意識者の謂(いい)か。新聞社の見識のないことと意気地のないこと。」とのことだが、私も当時の新聞がこれほどまでに情けない、権力追従の露わな姿を晒しているとは思っていなかった。
なお、姜徳相氏は自著「関東大震災」(中公新書1975年)において、この件について「氏名の判明している金孫順、姜金山など、朝鮮人の名前としては奇妙であり任意に創作した疑いすら見られるが、その彼らも亀戸署に拘禁され、同署が類焼したため2日に解放され、所在不明とある。(略)朝鮮人の総員検束が始まったばかりのときに解放とはどういうことか。命があれば、必ずどこかの収容所に検束されていなければならないのに行方不明とはどういうことか。両氏は逆に亀戸署で虐殺された被害者の可能性が強いのである。」(p37)と述べている。
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あのさぁ
『あのさ、おれも君たちの大嫌いな在日だが。在日3世。
別に嫌われようが何されようがこっちはどうでもいいよw
日本という国における「楽して稼げる職業」は在日・帰化人が握ってるし(笑)
金あるから在日でも日本人女とやりまくり。さらにはレイプしても全然バレないw
あと数年で日本の参政権も取得できるし(爆)
俺達はもうお前達みたいに毎日毎日職業とか将来とか金の心配なんかしなくていいんだよw
バックに総連や創価学会がついてるし、働かなくても行政から月20万の金入ってくるしねw
今俺達が考えてるのはもっと大きいこと。
いかにしてこの日本という国をボコボコにいじめ抜いてやるか、ってこと。
つまり、日本の中に、俺たち朝鮮人、韓国人の血を増やして在日を増やす。
んで日本人を少数派にしてその日本人をいじめたおす。んでこの国を乗っ取る。
今はもうその最終段階に入ってるわけ。
平和ボケした危機感ゼロのお間抜け日本人は気づいてないがw
例えば寒国ブーム。あれは在日が作ったって知ってる?
あれだけ大規模なブームを作れるくらい、もう日本の中で在日の力は最強なんだよ。
別に嫌われようが何されようがこっちはどうでもいいよw
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日本に存在する
Burakumin(部落民)は先祖が前近代時代の浮浪者の状態に左遷された人々です。 区別でないのを物理的にするか、
文化的な特色、今日、Burakuminは前近代時代で隔離されたBuraku(または、Dowa地区)、または彼らの家族登録証明書で指定される彼らの先祖のバックグラウンドと呼ばれる共同体でそれらの
アドレスによって区別される Burakuminはまだ区別に直面していています
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