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琴秉洞氏が編纂された2冊の分厚い「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応」(緑蔭書房1996年)から、 関東大震災時における体験記や詩作品を抜き出して紹介したい。人間の残忍さに恐怖する記録の数々とともに、人物の見識の高さや人間味の豊かさに救われる気持ちになった文章も多かった。そのなかから今日は江口渙が9月1日の震災からそう間のない11月に『朝日新聞』に2回にわたって発表した文章と萩原朔太郎が震災翌年の2月号のある雑誌に発表していたという詩を引用する。江口渙、萩原朔太郎ともに(他の文章についても同様)、琴秉洞氏が懇切な解説を書かれているのでまずその文を先に載せ、その後に作品を引用したいと思う。ここですこし感想を述べると、江口渙の「車中の出来事」にはその場の情景が目に生々しく浮かんできて、恐怖や嫌悪で身体が凍りつきそうな気がした。江口渙は「無防備の少数者を多数の武器と力で得々として虐殺した勇敢にして忠実なる「大和魂」に対して、心からの侮蔑と憎悪とを感じないわけにはいかなかった。」と書いているが、江口に限らず、2冊のこの本には、当然のことのように思われるが、「つくづく日本人が嫌になった」「もう自分が日本人の一人であることが嫌になった」というような感想は実に多く見受けられた。

萩原朔太郎の三行詩「近日所感」は私も初めて読んだ。「その血百里の間に連なれり」の「その血」は、他ならぬ日本人が殺した朝鮮人の血に他ならないことを作者が暗澹たる気持ちでじっと見ていることが感じとれる。「こういう詩を書いていたんだ!」と驚きとも感慨ともつかない感じをうけたが、しかし、それよりもさらに驚きと感銘をうけたのは、この詩をはじめて読んだという琴秉洞氏が述べている、この詩から受けとられた底知れぬほどの感動の深さに対してであった。琴秉洞氏はこの本(1・2とも)の扉裏のすべてに朔太郎のこの詩を採用していられる。


それでは、まず江口渙についての琴秉洞氏の解説から。

「 史料162~163の江口渙は作家で社会運動家としても知られる。その創作および社会活動は、「蒼白きインテリー」の代表にも擬せらるる小説書きの世界において、その骨太さの故に異彩を放つ存在である。
 162の「車中の出来事」は大震の年の2月後に【東京朝日新聞】に発表されたものであるが、この時期に「大和魂」に対して、心から侮蔑と憎悪を感じた」という勇気には驚きの念を禁じ得ない。(管理人注:江口渙は震災の7年後にもう一つ朝鮮人や社会主義者殺戮に関する文章を発表していて、この本にも収載されている(史料163)。これは、琴秉洞氏の解説をそのまま記すと「内相水野こそ虐殺事件の最初の点火者と名指している。当時、すでに濃厚な疑いをもたれ、論証は弱いながらも内相水野を点火者と断定しているのだ。次に驚くべきことは、大杉栄は憲兵隊本部でなく、麻布三聯隊の営庭で銃殺されたと断言していることである。恐らく元帥畑俊六の日記の存在は知る筈もなく「その秘密は当時麻布三聯隊にいた一年志願兵の口から端なくも暴露された」としているが、それにしては大変な情報を公表していたものである。」とのことだが、大変迫力のある文章である。ただ、長いものなので、今回はこちらのほうは割愛する)」(「琴秉洞氏の解説」より)


  車中の出来事   江口 渙 
   上
 屋根と云う屋根は無論の事、連結機の上から機関車の罐の周囲にまでも、丁度、芋虫にたかった蟻のように、べた一面、東京からの避難民を乗せた私達の列車が、赤羽の鉄橋を北へ渡ったのは、九月八日の午後六時すぎででもあったろうか。
 汽車の中は、地震の噂、火事の噂、鮮人、社会主義者の噂でもって一杯だった。何処で如何に丸焼けに逢ったか、そして何処で如何に生命がけに、だが如何に勇敢に逃げ延びたかと云う風な事が、機関銃の雨を冒して敵陣を乗っ取った勇士のような態度と矜持とでもって話された。然も少しでも多く丸焼けになり、少しでも多く生命がけで逃げた者ほど、尚更みんなの称賛を博していた。そして、この際人間としてむしろ焼け出されたのが本当で、焼け出されないのは間遠っているのだと云う風な感じさえ与えた。だから地震にも火事にも逢わない私などが同じ汽車に乗り合わせているのは、はなはだ肩身のせまい事であった。
 汽車が荒川の鉄橋を殆ど渡ろうとした時だった。みんなの話しに耳を貸しながらぼんやり外を眺めていた私は、一丁足らずの上流を、岸に近く、何か白い細長いものが流れて来るのに気がついた。多量に水蒸気を含んで鈍く煙った雨上がりの薄暮と、うす濁りのしている河水のために、最初はその白いものが何であるか、少しも見当がつかなかった。
 然し、畦の草叢の上を一群の人々が、その白いものを追い駈けるらしくぞろぞろやって来るのを見た時、殊にみんな手に手に竹槍や鳶口らしいものを持っている上に、白いものに向かってしきりと石を投げつけているのを見た時、それが何であるかを私ははじめて知つた。
「あれは何です」
 傍に立っていた若い男がこう私に訊いた。
「どうも死骸のようですね」
「きっと××[鮮人-編者]でしょうね。それとも主義者かしら」
「さあ。どっちですかね」
 重そうに流れて来る白い細長いものと、投げられた小石がその周囲にしきりにあげる飛沫に眼をやりながら、私は押し潰されるような気持ちでもってこう答えた。そして、更に息をころして尚もそれ等のものを見詰めた。
「やあ××[鮮人]。××[鮮人]」
「何。××[鮮人]だ。何処に。何処に」
「あれを見ろよ。あれを」
こんな叫びがあっちこつちに起こつたと思うと、車内は忽ち物狂わしい鯨波の声でみたされてしまった。そして、一度に総立ちになったみんなは、互いに肩や頭を押しのけてまでも、ひたすら上流の河面を見ようとさえ焦った。
 やがて汽車が鉄橋を渡り終わってそれ等のすべてが視界から消えさった時になっても、人々の動揺は鎮まらなかった。そして××[鮮人】と主義者との噂がなおさら盛んに話されたのは云うまでもない。

   下
 それから二十分程たった後だった。私から三側後の座席で突然喧嘩が始まった。三十四、五歳のカアキ一服を着た在郷軍人らしい男と、四十前後の眼鏡をかけて麦藁帽子をかぶった商人かとも思われる男とである。その男は地震でのびたらしい不精髭をはやして、白シャツ白ズボンで肩から水筒をかけていた。喧嘩の原因はどっちかが足を踏んだとか踏まないとかと云うのらしい。向き合って腰をおろした二人はしきりと大声で罵り合った。「そらッ。喧嘩だ」というので、物見高い車中の眼は、たちまちその方へ注がれた。しかし誰も仲裁なんかしようともしない。却って弥次ったりケシかけたりした。
 喧嘩は暫時続いていた。すると在郷軍人らしい方が、片手を網棚にかけて、突然座席へ突っ立ち上がった。
「諸君、こいつは××[鮮人]だぞ。太い奴だ。こんな所へもぐり込んでやがって」
 こう叫ぶと片手で相手を指差しながら、四角い顎を突出して昂然と車中を見渡したと思うと、いきなり足を揚げて頭を蹴った。この場合、××[鮮人]と云う言葉が車中にどんなショックを与えたかは、私が説くまでもない。車内はたちまち総立ちになった。叩くような怒声と罵声が一面あたりに迸って、血の出るような興奮がみるみる無気味な渦を巻き起こす中で、みんなの身体は怖ろしい勢いで波を打った。
「おら××[鮮人]だねえ。××[鮮人]だねえ」
 押し合いへし合い、折重なって詰め寄った人間の渦の下から」時どき脅え切ったその男の声が聞こえた。然も相手がおろおろすればする程、みんなの疑いを増し昂奮を烈しくするばかりだった。
 やがて次の駅についた時、その男はホームを固めていた消防隊と青年団と在郷軍人団とに引渡された。そして、手と云わず襟と云わず遮二無二掴まれて真逆さまに窓から外へ引き摺り出されたと思うと、何時か物凄い程鉄拳の雨を浴びた。
「おい。そんな事よせ。よせ日本人だ。日本人だ」
 私は思わず窓から首を出してこう叫んだ。側にいた二三人の人もやはり同じような事を怒鳴った。然しホームの人波はそんなものに耳を貸さない。怒号と叫喚との渦の中にその男を包んだまま、雪崩を打って改札口の方へ動いて行った。そして、何時の間にか鳶口や梶棒がそっちこっちに閃いたと思うと、帽子を奪われ眼鏡を取られたその男の横顔から赤々と血の流れたのを、私は電燈の光ではっきりと見た。
 こうして人の雪崩にもまれながら改札口の彼方にきえて行ったその日本人の後姿をいまだに忘れる事はできない。私には、一箇月程だった後に埼玉県下に於ける虐殺事件が公表された時、あの男も一緒に殺されたとしか思われなかった。そして無防備の少数者を多数の武器と力で得々として虐殺した勇敢にして忠実なる「大和魂」に対して、心からの侮蔑と憎悪とを感じないわけにはいかなかった。ことに、その愚昧と卑劣と無節制とに対して。」
             (『東京朝日新聞』1923(大正12)年11月11・12日]


「 史料237の萩原朔太郎の「近日所感」は、『現代』大正24年2月号の「近作一什」という、詩人、歌人、俳人19人の作を集めた項の欄に載ったものである。私には朔太郎は高村光太郎とならぶ高名の詩人という位の認識しかなく、彼の詩集も「月に吠える」というのがあったなあ、とかすかに覚えている程度で、勿論、中身はろくに読んでもいない。しかし、この「朝鮮人あまた殺され云々」の 近日所感」を眼にした時、私はほとんど雷に打たれたかのようであった。このような詩を雑誌に発表した人がいた、というのが先づ大きな驚きであった。萩原朔太郎という詩人が日本の詩の世界でどんな評価を受けているのか、どんな立派な、または拙い詩を書いているか、後にどんな良いこと、悪いことをした人物なのかは問う所でない、という実に主観的な、衝動的な非理性的極まる想念に頭が満たされたものである。
 この詩こそは、大震時の朝鮮人虐殺と関連した良心的日本知識人の至高の意志表現であろう。この詩を書いたときの朔太郎の思想と感情の純粋さと高さを、他の日本知識人の積極的肯定型、消極的肯定型、大勢順応型の文、言と比較してもらいたい。朔太郎のこの詩の前では、文だけでなく人間そのものが忽ち色槌せてゆくのが判るだろう。この史料集の各中扉裏にこの詩をおいた所以である。」(「琴秉洞氏の解説」より)


  近日所感   萩原朔太郎

 朝鮮人あまた殺され
 その血百里の間に連なれり
 われ怒りて視る、何の惨虐ぞ  」

          (『現代』1924(大正13)年2月号)

   注:惨虐(さんぎゃく)
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2010.11.02 Tue l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (1) トラックバック (0) l top

コメント

どんびろのつぶやき
こんばんは!
これから目薬点して寝ます。
2010.11.07 Sun l どんびろ. URL l 編集

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