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関東大震災時における「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応」のなかで、編者の琴秉洞氏が、もしかするとただ一人、まるで、「問題のある発言をしているけれど、こういう型の人間では、対等に取り扱って叱ってみても仕方がない」とでもいうかのように、さしたる批判もなく通過している(ように見える)人物があった。それが小説家の「葛西善藏」なのだが、琴秉洞氏はあるいは、震災に関する廣津和郎の文章を読み、そこに描かれている葛西善藏の姿を見てそのような判断をされたのかも知れない。

震災に関する廣津和郎の文章は、「年月のあしおと」(講談社、1963年刊)から一部を抜いたということだが、これは「葛西善藏の「蠢く者」」という小見出しが付いた文章の一部分であり、琴秉洞氏は、

「鎌倉に住んでいた広津は、「町役場からだと云って、自転車に乗った男が」朝鮮人襲来を触れまわっているのを聞いて、「そんな莫迦な話があるものか」と言下に否定している。そして、葛西善藏に建長寺の菅原管長が竹槍を持って出た話を聞いて広津はこの管長に批判的に対している。広津の良識の眼は曇っていない。」

と廣津和郎を評しているが、一方、「代表的私小説作家葛西善藏の大震記」をも取り上げていて、その葛西善藏については、

「自己および自己周辺の人々を題材に凄絶な葛藤の世界を描く巧者だが、ここでは素直に自然の猛威に脱帽している感がある。彼はこの時期、鎌倉建長寺の塔頭、宝珠院に起居して創作にはげんでいた。それにしても「管長さん始め、僕なぞも○○など持って○○○警戒に出た」とあるが、葛西のような云わば一種の幼児性のある男はともかく、建長寺の管長ともあろう善知識(であろう、と思う)が、一犬虚を吠えて高大実を伝う図を地でいっていたとは驚きでもある。」

と、「葛西のような云わば一種の幼児性のある男はともかく」と述べていて、琴秉洞氏の批判の対象は「建長寺の管長」である。下に廣津和郎の「葛西善藏の「蠢く者」」を掲載しようと思っているが、この文章を読んで、廣津和郎について二つ感じたことがあった。その一つは、この人にはどうやら合理的な思考の習慣がしっかり身についていて、ちょっとやそっとのことではそれを失うことのない型の人物であるらしいこと(松川事件への取り組みもその一つであったろう。戦中も勇ましい(?)ことを述べたことはおそらく一度もないはずである。)、もう一つ感じたのは、心の底に日本人全体に対するある種の不信感が一貫してあるのではないかということである。

震災の際の朝鮮人への対応についても「ああ云う場合、この国の人間には、野蠻人の血が流れているのではないかという気がする。」と書いているが、「心臓の問題」という文章にも、1936年の2・26事件から間もなく、街を息子(おそらく十代後半だったと思われる)と一緒に散歩していた時、息子が警官に「おいこら」と乱暴な呼び止められ方をして近くの派出所に連れて行かれたことを書いている。その時息子は学帽を被らずにいたためか、人相がある達しの人物に似ているとかの理由で呼び止められのだが、それに対して「何の用なのです?僕はこれの父親なのだが……」と質問や抗議をする廣津和郎に対し、その警官は「父親? ふん、父親でも構わん。この男をしらべる事がある。向うに行っていろ」からついには「君は警察というものを知るまい。訊問、検束、みな自由なのだぞ。」とまで言ったらしい。その威嚇――特に「検束が自由」と述べたことへの廣津和郎の衝撃と怒りは大きく、「訊問はまだよろしい。併し人民を検束する事が警察の自由であるとは。――これは一つの恐怖である。」と書いている。その怒りは家に帰ってもどうしても治まらないので、警視総監に抗議の手紙を10枚も書きかけたそうだが、丁度心臓を悪くしていた時で、その心臓が益々興奮を強め、とうとう手紙を書きつづけることができなくなったと述べている。その他、防空演習の際の燈火のことで、血気にはやった青年たちが規則づくめに凝り固まってしまって、人の事情説明など聞こうとせず、居丈高に命令したりすることがあったり、そんなこんなを経験しているうちに、廣津和郎は次のように感じるようになったという。

「若し何かの規則を作って、その規則で何かを民衆に言ってもよいという権限を与えたら、日本人はみな警官になり得る素質を持っているのかも知れないと考え、とうとう苦笑して、灯火を消してしまって、ベッドの上に仰向けに転がった。――人をとがめていいという権限を与えたら、日本人はみなその人をとがめる権限を享楽しそうである。規則の内容は問題にせずに、その規則の適用範囲を拡げるだけひろげて、人をとがめる事に喜びを感じそうである。」(「心臓の問題」文藝春秋1937年)

     
廣津和郎が自分は若い時からニヒリスティックな傾向がつよかったと書いているのを何度も見たことがあるが、エネルギッシュでねばりづよい松川事件への取り組み方を見ていると、そういう側面がどうも分かりにくかったのだが、最近何となく理解できるような気もする。それでは、以下に「葛西善藏の「蠢く者」」を引用する。


「葛西善藏の「蠢く者」」  廣津和郎著
 葛西(善藏)も宇野浩二と同じく、大正八年頃から確固たる地歩を文壇に占めて来た。そして震災の二、三年位前から、鎌倉建長寺の或寺の部屋を借りて、そこに住んでいた。
 あの震災に關聯して、今思い出しても日本人として堪らない気持のするのは、各地に起つた例の鮮人騒ぎである。日頃から鮮人をいじめていたということから来た、復讐を受けやしないかという強迫観念か、或は国内の革命でも恐れるために、わざと国民の気持を、彼等に向けさせるために、何ものかがあんな策動をしたものなのか、とにかく鮮人に對して、あの時日本人の行つたことは、これは何とも辯解のしようのない野蠻至極のものであつた。ああ云う場合、この国の人間には、野蠻人の血が流れているのではないかという気がする。
 鎌倉でも同じことで、田中純の家に避難している時、或日の午後、町役場からだと云つて、自轉車に乗つた男が、「今鮮人の一隊が小袋坂まで押し寄せて来ています。横須賀の海軍の陸戦隊があそこを守つていますが、突破されると、合図の鐡砲を打ちますから、それを聞いたら武器を持つた男の方たちは、門前に出て下さい。婦女子と子供は山に逃げて下さい」と云つて解れまわつたものである。
 私は、
そんな莫迦な話があるものか。鮮人が地震を予知していたわけではあるまいし、何虞で勢揃いし、何虞からやつて来るというのだ。かりに横濱あたりで勢揃いしたところで、一體何しに鎌倉になどやつて来るのだ。たといやつて来るにしても、保土ヶ谷や戸塚の青年團がそれを通すか。そんなことは絶封に考えられないよ。僕はこれから寝るから、ほんとうに鮮人が来たら起してくれ。――若しほんとうに来るとしたら、家が焼かれるかも知れないから、山に逃げる人たちは、野宿のために、毛布か掻巻の一枚ぐらい宛持つて行くんだな」と云つて、人々を安心させるために、畳の上にひつくり返つたら、實際に眠つてしまつた。
 夕方眼をさましたが、無論鮮人など来る筈はなかつた。
 その翌日私は建長寺に葛西を訪ねて行くと、建長寺附近でもその騒ぎがあつたらしく、
「ここの菅原管長は見上げたものだぞ。昨日は竹槍を持つて出て来て、村の若者と一緒に寺の門前を守るというのだからな。はじめは寺の寶刀を持つて出て来たが、注意した者があつたので、竹槍に代えたが、とにかく村の若者と一緒に、竹槍を持つて、鉢巻をして出て来るところが愉快だよ」と葛西は面白そうに云つた。
「愉快なものか。圓覚寺の古川管長はどうしていた?」
「禪堂に籠つたきり出て来なかつたそうだ」
「それでこそ管長だよ。あんな場合、管長位がおちつかなくつてどうするんだ」
「いや、管長などと云つておさまらずに、村の若者と一緒に竹槍を持つて出るのが面白い」
 實に他愛のない云い合いであるが、そして日頃菅原管長に感心しているわけでもない葛西であるから、何虞までが本気でそんなことを云つているのか解らないが、しかし鮮人問題では私は腹が立つていたものだから、ついむきになつて、
「おい、葛西、君の小説はうまいよ。名人藝には違いないよ。だが、その名人藝は、君が建長寺の屏風に雀を描いたら、その雀が朝な朝な米を食いに屏風から飛び出したという傳説でも出来そうなうまさだよ。だが、雀がとび出したつて、そんな藝術は古いんだぞ」と云つてしまつた。
 そこで葛西と喧嘩別れの形で別れたが、それから間もなく汽車が通じるようになると、葛西は私のところには別れの挨拶もしに来ず、鎌倉を引揚げて東京へ行つてしまつた。
 葛西は本郷の方の下宿におせいさんと一緒におちついたという噂を聞いたが、私のところにははがき一本よこさなかつた。
 それから半年ぐらいの後、多分大正十三年になつてからであつたと思うが、「中央公論」に葛西が久しぶりで「蠢く者」という小説を書いたので、それを讀むと、思わず私は眉をひそめた。それは葛西が下宿で結核で血を吐いてだんだん衰弱して行きながら、おせいさんにいじめられたり、撲られたりする何とも云われぬみじめな小説だからである。
 葛西は昔から自分が相手をいじめながら、自分が相手にいじめられたと書く癖のある男である。葛西に惚れ込んでいる谷崎精二に云わせると、葛西には強迫親念があって、自分がいじめられていると思うのが、葛西に取つては實感なのだと葛西のために弁解しているが、私は谷崎のその同情ある見方にはあまり賛成していない。(略)
 私は谷崎のように同情的な見方はしていないので、葛西の書くものを、十分警戒して讀んでいるのであるが、しかしこの「蠢く者」はあまりにみじめ過ぎる。私はおせいさんが葛西に三度三度、雨が降つても風が吹いても、自分の家である牛僧坊下の茶店から、葛西の寺まで食膳をはこんでいたのを知つているし、深切で、優しく、忍耐強く、長い間酔つ拂つて管を巻く葛西の介抱をしていたのを知つている。そのおせいさんが、血を吐く葛西をいじめたり、撲つたりすることは考えられないと思いながらも、葛西のこの小説は、葛西がいじめられるそのみじめさが眞に迫つている。
 これは一度見舞に行かなければならないと思うと、私はじつとしていられなくなつて、或晩本郷の下宿に葛西をたずねて行つた。
「中央公論」の編集の伊藤君が、葛西の「酔狸洲七席七題」の口述を筆記しているところであつた。
 私が彼の部屋に入つて行くと、「おお、廣津、とうとう来た、廣津はやつぱり来た」と葛西は云つて立上るなり、私に抱きつき、「来た、廣津はこれ、この通り、おお、やつぱり来た」とベろべろと私の頬を舐めまわすのである。葛西はべろんベろんに酔つていて、息は酒臭かつたが、小説で讀むと、彼は結核で盛んに血を吐いているとある。その血を吐く口で、頬を舐めまわされるのはやりきれたものではない。結核菌が顔中にべたべたくつつく気がする。
「もう解つた、解つた」と云いながら、私は彼の近づけて来る口を両手で遠ざけた。
 それからやつとおちついて、彼は彼の座に戻り、私は伊藤君の横にすわつたが、葛西の机の上には線香立があり、彼は伊藤君に口述筆記をさせる問、時々線香立に線香を立て、一寸黙祷するような恰好などをするらしい。
 酒を飲み、線香を立て、彼流のとりとめのないお喋りをしながら、時々気が向くと、さて口述筆記となるのであるが、それはほんの数行で、又酒を飲み、線香を立て、黙祷し、駄辯り、そして気が向いた時、續きを口述するという風らしいので、筆記原稿はいくらも進まないらしい。こうして毎日葛西の口述筆記をしにやつて来て、彼の野狐禪的な気焔をじつと聞いていなければならない伊藤君の忍耐は大變なものであろう。
 おせいさんはと見ると、鎌倉時代と同じ善良な顔をして、しかしその頃から見ると、大分世帯やつれを見せながら、部屋の隅にしずかに坐つていた。
 葛西をいじめたり撲つたり――とんでもない。凡そそんなことがある筈はない。小説にあるように小さくなつているのは葛西ではなく、おせいさんである。荒れる葛西におとなしく辛抱強くかしずいている昔ながらのおせいさんである。
 又一杯葛西に喰わされたか、と思つたが、別に腹が立つわけではない。あの「蠢く者」の迫眞性に、警戒しながらもつい引つかかつてやつて来たということが、わけもなくおかしくもなるのであつた。 」(「年月のあしおと」講談社1963年)

     
廣津和郎が朝鮮人襲来の噂の件について上で述べていることは、科学者であり随筆家でもあった寺田寅彦が震災後に「流言蜚語」で述べていたことと内容的にひどく似ている。以下に、その「流言蜚語」の一部を引用する。

「 例えば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。この問題に的確に答えるためには、勿論まず毒薬の種類を仮定した上で、その極量を推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。いずれにしても、暴徒は、地震前からかなり大きな毒薬のストックをもっていたと考えなければならない。そういう事は有り得ない事ではないかもしれないが、少しおかしい事である。
 仮りにそれだけの用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか大変である。何百人、あるいは何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する仕事である。さてそれが出来たとする。そうして一人一人に授けられた缶を背負って出掛けた上で、自分の受持方面の井戸の在所を捜して歩かなければならない。井戸を見付けて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積ってその上で投入の分量を加減しなければならない。そうして、それを投入した上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない。考えてみるとこれはなかなか大変な仕事である。
(略)
 爆弾の話にしても同様である。市中の目ぼしい建物に片ッぱしから投げ込んであるくために必要な爆弾の数量や人手を考えてみたら、少なくも山の手の貧しい屋敷町の人々の軒並に破裂しでもするような過度の恐慌を惹き起さなくてもすむ事である。」(「流言蜚語」(1924(大正13)年9月 『東京日日新聞』)

     
また、作家の佐多稲子が書いていることだが、震災の際に近所のおかみさんが述べたという発言も同じ種類のことであった。佐多稲子は、震災の頃はたしかまだ独り身で、中野重治や後に結婚することになる窪川鶴二郎など同人雑誌「驢馬」の人達と知り合う前のことだったと思うが、「朝鮮人大虐殺に関する知識人の反応」を読むと、震災についてこういう文章を書いている。

「 私はこのときのことをおもい出すたびに、同じ長屋で親しくしていたひとりのおかみさんの言った言葉を同時におもい出す。日頃から気性の勝った人だった。夫は旅まわりの劇団についてまわっている貧しい興行師で、その留守中、病人の舅と幼い娘を自分の内職で養っている、そういう人であった。とにかく騒然とした一夜が明けて、長屋のものが半壊のわが家のまわりに寄り合ったとき、ひとりが自分のゆうべの恐ろしかった経験を話し出した。話し手の彼女は、一晩中朝鮮人に追いかけられて逃げて歩いた、というのだ。それを聞いたとき、興行師のおかみさんは、利口にその話を訂正した。彼女はこう言ったのである。朝鮮人が暴動を起したなんていったって、ここは日本の土地なんだから、朝鮮人よりも日本人の数の方が多いにきまっている。朝鮮人に追いかけられたとおもっていたのは、追われる朝鮮人のその前方にあんたがいたのだ。逃げて走る朝鮮人の前を、あんたは自分が追われるとおもって走っていたに過ぎない、と
 私はこの訂正を聞いたとき、強いショックでうなずき、兼ねてのこの人への尊敬をいっそう強くしたり全くそのとおりだとおもったし、しかもそういう判断にいっこう気づかなかった、ということにショックを受けた。 」(「下町のひとびと」)

廣津和郎も寺田寅彦も、そしてこのおかみさんも、しごく当然の合理的な見解を述べているのであり、こうして読んでいると一も二もなく肯けることだが、しかしこのような当たり前の発想・考え方はその時点では周辺と隔絶していたのだ。おかみさんの話をきいてすぐに納得した佐多稲子はやはり怜悧な人だと思うが、こういう人でさえ、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という風評に対してそれまで特に疑念をもったり、反発している様子はない。とすると、私などはさらに自分はそうではなかったろう、真相を見抜けていたはずだと言い切れるかどうか。常に自省・自戒していなければならないのだが、それでは、現在の日本社会はどうなのだろうか。1995年に神戸で大震災が発生した時、関東大震災のことが一瞬頭に浮かんだりしたということを在日朝鮮人の作家が書いているのを二篇ほど読んだことがある。その時、私は本当に意外なことを聞いたように思い、そんなことはもう決してない、そう言い切ってもいいと思い、むしろ危機に遭遇していまだにそのようなことを思い浮かべる人がいたということにショックを感じたものである。

今でも、再び同じことが発生することは今後はもうありえないと思っているが、どうしてもわだかまりが消えないのは、日本政府がこの事件について、本や資料などで知るかぎり、自警団の一部を起訴して有罪にしてはいるものの、それは形式を踏んだだけのもので、その他に当然なすべき調査もしなければ、被害者に対して何らの謝罪も補償もしていないということである。何事もそうだと思うが、特に弁解の余地のない悪事をなしてしまったら、謝罪をするしかない。謝罪をするとしないとでは現在だけではなく、将来においても天地の差が出てくることは間違いないように思う。だからこそ、また大きな災害や事件が発生した時に、形を変え、今度はまた別の対象に向かった攻撃が起きないとはかぎらないように思えるのである。何か一つ事が起きると、一斉にある一点に全神経、全注意を向けてしまうという、「長いものには巻かれろ」「みんなで渡れば怖くない」式の日本人の性向に根本的な変化はないのではないか、というよりこのところそのような傾向がむしろつよまっているのではないかという気もするのである。
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2010.11.03 Wed l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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