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工藤美代子著「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」について、もう少し述べておきたいことがあるので、これまでに書いた部分と重複するところもあるかと思うが、書いておきたい。

工藤氏は、吉野作造について、

「「朝鮮人が虐殺された」とする説の展開に最も指導的な役割を担った吉野作造博士」

と書いている。吉野作造については、琴秉洞氏も「朝鮮人虐殺に関する知識人の反応」のなかで、

「この虐殺事件の時に良心的に活動した日本人の一人である吉野作造」「史料77~79は東大教授吉野作造の文である。78の「朝鮮人虐殺事件に就いて」は有名だが、吉野にはこの外にも「圧迫と虐殺」と題する原稿があって、これは前出『関東大震災と朝鮮人』(みすず書房刊)に収録されている。/ 史料78に「手当り次第、老若男女の区別なく、鮮人を鏖殺(おうさつ)するに至っては、世界の舞台に顔向けの出来ぬ程の大恥辱」とあるが、当時、学者で彼ほどに朝鮮人問題に好意的であったものはいない。」

と述べているように、その訴え、主張が当時の社会にあって際立って説得的であったことは事実のようである。しかし、もし彼が何かの都合でこの問題に関する言葉を何も発しなかったとしたら、関東大震災時における権力と自警団・住民による「朝鮮人虐殺」が歴史的事実として認識されることがなかったかといえば、そんなことはありえない。権力側が流す言い分をそのまま紙面に載せた震災直後の新聞各紙のデマゴギー(山崎今朝弥弁護士が当時述べた「新聞社の見識のないことと意気地のないこと。」という発言を想起すべし。)や、内田良平のような右翼のこれも何ら具体的根拠をもたない独断的言説に依拠する以外、自己の主張の理由・根拠を一切提示することもできないまま無責任にもデマに充ち充ちた本を書き、発表してしまう工藤氏や版元の姿勢とはまったく様相を異にする、震災直後から如何に日本人による朝鮮人への酷たらしい虐殺、朝鮮人狩りが各所で頻発したかということのきわめて具体的な目撃証言及び体験証言は無数に存在するからだ。

たとえば、以前に当ブログで触れたことだが、中野重治は「在日朝鮮人の問題にふれて」において、志賀直哉と佐左木俊郎という二人の人物の震災体験について書いている。まず志賀直哉の『震災見舞』の方だが、その一節には、奈良から上京した志賀直哉が目撃した日本人の言動が次のように描かれている。

「そして大手町で積まれた電車のレールに腰かけて休んでゐる時だつた。丁度自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者とが落ち合ひ、二人は友達らしく立話を始めた。
『――叔父の家で、俺が必死の働きをして焼かなかつたのがある!』刺子の若者が得意気にいつた。『――鮮人が裏へ廻ったてんで、直ぐ日本刀を持つて追ひかけると、それが鮮人でねえんだ』刺子の若者は自分に気を兼ね一寸此方を見、言葉を切ったが、直ぐ続けた。『然しかう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから、到頭やつちやつたよ。』二人は笑つてゐる。ひどい奴だとは思つたが、平時さう思ふよりは自分も気楽な気持でゐた。」

もう一人の佐左木俊郎という人物のことだが、この人は震災当時『新潮』の編集者だったようだが、その体験について、『小説新潮』(1972年9月号)に今東光は「青葉木菟の欺き」という題で次のように書いているそうである。

「……幸いにして彼(引用者注:佐左木俊郎のこと)はずつと後(昭和5年)になつて『熊の出る開墾地』という作品を世に問うまでに至つたのである。
 ところが、佐左木俊郎は大正12年9月の関東大震災に命を失うことなく助かつたが、あの混乱の中で朝鮮人虐殺事件が起つた時、彼は朝鮮人に間違われて電信柱に縛りつけられ、数本の白刃で嬲殺しに近い拷問を受けたのだ。彼は、
『日本人という奴は、まつたく自分自身に対して自信を持つていない人種ですな。僕の近所の奴等が僕が自警団員のため額や頬をすうと薄く斬られ血まみれになり、僕は彼等に日本人だということを証明して下さいと叫んでも、ニヤリと笑うだけで首を振つて保証してくれる者が一人もないのですよ。男ばかりでなく親しい近所の女房どもさえ、素知らぬ振りなんです。僕はこの時ほど日本人だということが恥ずかしく厭だつたことはありません』
『其奴等は今どうしてる』
『なあに。ケロッとしたもんですよ。あの時、口を出したら自分等も鮮人と思われるから怖かつたつてね』……………」

体験記といえば、江口渙の「車中の出来事」も同様である。工藤氏は、内田良平の「震災善後の経綸に就て」(工藤氏は「善後」を「前後」と記しているが、「現代史の会」編の「ドキュメント 関東大震災」には「善後」とあるのでこちらを用いた。)を引用しているが、内田良平は、

「今回の震災に乗じ社会主義者及び一部不逞鮮人等が爆弾を投じ或は放火を縦(ほしいまま)にし或は毒殺、掠奪其他在らゆる非道なる兇行を逞うしたるは天下万人の斉(ひと)しく認むる所にして一点疑ひの余地を存せざるなり。」

と、「社会主義者及び一部不逞鮮人等」による「爆弾を投じ或は放火」「毒殺」「掠奪」が「一点疑ひの余地」なく存在したと言い切っている。しかも、それを「天下万人の斉(ひと)しく認むる所」とまで断定しているところを見ると、この人物はこけおどしや嘘を用いることに躊躇しない人物のように思える。この文章にそのような断言をするだけの根拠は一切示しえていないからだ。「社会主義者及不逞鮮人の徴章と符号」の題の下で記されている文章はたとえば次のとおりである。

「彼等が投弾放火其他の凶行には予じめ其場所を指定し置き、兇行担当者は其場所に於て兇行を行ふこととなしたるものの如く、下記の符号は早きは一ケ月以前より塀或は井戸側等にインキ若くは白墨等にて記し置きたるものなり。雑司ケ谷の如きは九月一日震災後間もなく此の符号を井戸に着け廻したる事同方面の調査報告中にても知らるべし。但し、該符号は必ずしも全部一致し居らざるが如く、方面により多少の相違なきにあらず、想ふに是れ其指揮者を異にせるによるものならんか。」

徴章は、ヤ(殺人)、ヌ(爆弾)、A(放火)、●(石油放火)、その他、井戸投薬などの分かりやすい簡単な徴章から複雑で奇怪なものまである多種の徴章や符号について、社会主義者及び一部不逞鮮人が示し合わせて塀や壁に書き記したものと主張している。工藤氏の著書にも内田良平主張のこの「徴章と符号」が掲載されている(P208。関心のある方は参照されたし。)。湯浅警視総監や四谷警察署はこれらの徴章・符号について「掃除人夫の符号なりとて打ち消し」があったそうだが、内田良平は、これについて

「 四谷署発表の符号は他と比べて極めて複雑である。当該「中央清潔会社」へも内田は出向いたが、人夫たちが解雇され不在で社長では要領を得なかった。つまり、元来、符号の役割があるとすれば、仲間同士の間で通用しなければ意味がないのだから、符号の存在自体を、本人以外には分からないというのでは怪しいといわざるを得ない。」

などと述べている。だが、これは悪質であることはもとより何とばかばかしい主張であることだろうか。大地震の予知が出来る人間などいるはずもなく、実際この震災により何万、何十万の人々が命を落とし、重軽傷を負い、地震と火事の恐怖に怯え切り、また飢えてもいるのである。このような状況下で、在日朝鮮人には、日本人と違いそのような危機は身に迫っていなかったとでもいうのだろうか。「大地震の9月1日は、人も我もひたすら恐怖と不安のうちに日を暮らし、夜を明かした。」(嶋中雄三)ということだが、このつらい心情・境遇は朝鮮人も同じことであったろう。いや、異国の地で遭遇する大災害なのだから、まして当時の在日朝鮮人は来日2、3年未満の極貧の人々がほとんどだったそうだから、日本人以上に心細さ・不安・恐怖は大きかったはずであるが、ともかく、寺田寅彦の「流言蜚語」を読めば、内田良平が言うところの「徴章と符号」の言などは朝鮮人暴動捏造のための戯言以外の何ものでもないことが誰にも得心されるのではないかと思うので、もう一度引用しておきたい。

「「今夜の三時に大地震がある」という流言を発したものがあったと仮定する。もしもその町内の親爺株の人の例えば三割でもが、そんな精密な地震予知の不可能だという現在の事実を確実に知っていたなら、そのような流言の卵は孵化らないで腐ってしまうだろう。これに反して、もしそういう流言が、有効に伝播したとしたら、どうだろう。それは、このような明白な事実を確実に知っている人が如何に少数であるかという事を示す証拠と見られても仕方がない。
 大地震、大火事の最中に、暴徒が起って東京中の井戸に毒薬を投じ、主要な建物に爆弾を投じつつあるという流言が放たれたとする。その場合に、市民の大多数が、仮りに次のような事を考えてみたとしたら、どうだろう。
 例えば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。この問題に的確に答えるためには、勿論まず毒薬の種類を仮定した上で、その極量を推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。いずれにしても、暴徒は、地震前からかなり大きな毒薬のストックをもっていたと考えなければならない。そういう事は有り得ない事ではないかもしれないが、少しおかしい事である。
 仮りにそれだけの用意があったと仮定したところで、それからさきがなかなか大変である。何百人、あるいは何千人の暴徒に一々部署を定めて、毒薬を渡して、各方面に派遣しなければならない。これがなかなか時間を要する仕事である。さてそれが出来たとする。そうして一人一人に授けられた缶を背負って出掛けた上で、自分の受持方面の井戸の在所を捜して歩かなければならない。井戸を見付けて、それから人の見ない機会をねらって、いよいよ投下する。しかし有効にやるためにはおおよその井戸水の分量を見積ってその上で投入の分量を加減しなければならない。そうして、それを投入した上で、よく溶解し混和するようにかき交ぜなければならない。考えてみるとこれはなかなか大変な仕事である。 (略)
 爆弾の話にしても同様である。市中の目ぼしい建物に片ッぱしから投げ込んであるくために必要な爆弾の数量や人手を考えてみたら、少なくも山の手の貧しい屋敷町の人々の軒並に破裂しでもするような過度の恐慌を惹き起さなくてもすむ事である。
 尤も、非常な天災などの場合にそんな気楽な胸算用などをやる余裕があるものではないといわれるかもしれない。それはそうかもしれない。そうだとすれば、それはその市民に、本当の意味での活きた科学的常識が欠乏しているという事を示すものではあるまいか。
 科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンの色々な種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う。」(寺田寅彦「流言蜚語」)

工藤氏がその著書で朝鮮人暴動があったことの根拠の一つとした内田良平の言い分などは、寺田寅彦の上の文章に明確に表れている良識的・合理的姿勢の前ではいっぺんに吹き飛んでしまう儚いものでしかないことがよく理解されるのではないだろうか。震災時の朝鮮人虐殺問題について発言した右翼のなかには、上杉慎吉という人物もいたようで、琴秉洞氏はこの人について次のように述べている。

「史料80の上杉慎吉は(引用者注:吉野作造と)同じく東大教授である。憲法学看で国粋主義者として知られ、同時期、右翼の頭山満、内田良平らと「震災善後措置ニ関スル建言書」(後出)に名をならべ、朝鮮人暴動は事実であったと支配層たる官憲の意図通りに動いた人物だが、この80ではその警察官憲こそが自動車、ポスターで「○○(鮮人)襲来、放火、暴行」を宣伝していたことを明言し、その責任を問うている。皮肉であり矛盾のようでもある。」

その「史料80」とは次の文章である。

「 警察官憲の明答を求む 上杉慎吉
 私は数百万市民の疑惑を代表して、簡明に左記の五箇条を挙げて、警察官憲の責任に閲し明答を得たいと思ふ。
 一、9月2日から3日に亘り、震災地一帯に○○襲来放火暴行の訛伝謡言が伝播し、人心極度の不安に陥り、関東全体を挙げて動乱の状況を呈するに至つたのは、主として警察官憲が自動車ポスター口達者の主張に依る大袈裟なる宣伝に由れることは、市民を挙げて目撃体験せる疑うるべからざる事実である。
 然るに其の後右は全然事実に非ずして虚報であつたと云ふことは、官憲の極力言明して打消して居る所である。然らば警察官憲が無根の流言輩語を流布して民心を騒がせ、震火災の惨禍を一層大ならしめたるに対して責任を負はなければなるまい。
 二、当時警察官憲は人民に向て○○○○の検挙に積極的に助力すべく自衛自警すべきことを極力勧誘し、武器の携帯を認容したのであつた。而して手に余らば殺しても差支なきものと、一般をして何となく信ぜしめたのである。而して之を信じて殴打激殺を行つた者は到る処に少からぬのである。此れ等の自警団其の他の暴行者は素より検挙処罰すべきこと当然であるが、さて之に対する官憲の責任は如何。
 三、仮りに警察官憲が之を勧誘教唆したのではないとしても、彼の場合にあれだけの大騒擾大暴行を起して、之を予防も鎮圧も出来なかつたと云ふ、職務を盡くさざりしの責任はどうする。
 四、当時警察官憲は各種の人民を見界なく検挙し殴打した。遂に之を段戮し、其死体は焼棄てたと云ふことは亀戸事件にも見えて居る。此の警察官憲の暴行には軍隊も協同したと云ふことであるが、警察官憲は無責任と云ふわけには行くまい。
 五、憲兵が大杉を殺した事件には警察官憲の諒解承認又は依頼勧誘があつたものと疑はれて居る。
 既に疑があれば、憲兵方面では甘糟大尉が軍法会議に移されたと云ふだけで、大杉と野枝と子供と三人を殺したと云ふ事実はまだ疑はしいのに、断然司令官迄が責を引きたるが如く警察や政府の方面でも、即時罷免其他責任を明にする処置は執らねばならぬであらう。詳しく論すれば論じ度きこと多くあるが、明瞭を期する為め、右の五点の要領を述べる。之を述べる所以は、これだけの事が明にならぬと云ふと、数百万市民の胸が治まらぬからである。(談)」(『国民新聞』1923(大正12)年10月14日夕刊)

この文章には、同じ右翼でも内田良平のものと異なり悪辣さは感じられないように思うが、これはむしろ内田良平の主張内容が酷すぎるということなのだろう。琴秉洞氏の内田良平評は下記のとおりである。

「内田は「鮮人の暴挙と残虐行為とは、掩ふ可からざる事実にして、而かも公憤を発した市民が、自衛の為にこの不逞鮮人を殴打し又はこれを殴殺したのは実に止むを得ないこと」と云い張るのである。まったくの茶番劇で当初、内務、治安当局の意図通り、又は意図以上に動き、大虐殺が外国に知られては困ると判断した政府が、朝鮮人暴動流言のトーンダウンを図ると、逆に政府当局に食ってかかるという手の込んだ演出までやる。何のことはない。政府当局が彼等に朝鮮人問題で食ってかかられたということは、為政者の公正さを内外に示すというおまけまでつくことになるのである。」


目撃・体験記といえば、「朝鮮人虐殺における知識人の反応」には、島中雄三という人物の次の文章も収められている。琴秉洞氏の解説には、

「史料126の島中雄三は、大正デモクラシーの申し子の一人で、評論家、社会運動家である。この文は大震一年後に発表された。この島中の体験記は実に貴重なものと思う。朝鮮人襲来の流言を聞いた彼は直ちにウソだと断定している。それだけでなく、朝鮮人狩りにいきり立っている自警団と真正面に向き合って彼等の非なるを説きつづけている。島中自身が群衆から「叩き殺せ」の罵声を浴びながらの奮闘である。生半可な知識人、人道主義者のやれることではない。社会および権力の在り様を見透した真の日本人の典型を見る思いである。島中雄三の弟雄作はこの数年後中央公論社の社長になる人物として有名。」

と記述されているが、「史料126」の表題は「自警団」で、副題に「震災当時の思ひ出」とある。発表されたのは震災から一年後の9月である。以下に引用する。


「自警団  震災当時の思ひ出」 島中 雄三

 自警団とは、昨年九月大震火災の混乱に乗じ、恐怖と陰謀とが野合して生み落した私生児である。
 今はもう影も形もないやうであるが、この私生児が犯した大罪悪は、思ひ出すさへ戦慄を禁じ得ぬ。
 大地震の九月一日は、人も我もひたすら恐怖と不安のうちに日を暮らし、夜を明かした。幸に私は、地震の被害も少い山の手に住み、火の手にも遠かつたので二日はや平静に帰った。久世山の高見から、下町一帯の猛火を見おろしながら不思議にも無事であり得た自分たちの幸運を喜ぶ心と.想像だも及ばぬ幾十萬の悲惨な死を傷む心とに.交々自分々ひたらせた。丁度その頃である。下町の方からワーッワーッと喊の聲が起り、ついで『朝鮮人が朝鮮人が』といふ声が人々の口から聞えた。夕方であつた。十八九の青年が真青な顔をして死物狂ひで駈け抜けたと思ふと、竹槍棍棒をもつた若者十数人が、ドヤドヤとそれを追つかけた。久世山一帯の避難者は、何事とも分らず騒き立った。女子供は顔色かへて遁げた。
 青年はやがて捕まった。と見るや三つ四つ続け様に打たれて、その場に倒れた。群衆はその周囲に集まつた。
 が、多くの人々の期待に反して、獲物をもつた若者たちは、すごすごと青年の周りを離れた人々は物足らぬ顔を見合せた。
『朝鮮人ぢやないんだつて、日本人だつて。」
『馬鹿な奴だなア。日本人なら日本人つて言へばいゝのに。』
『顫えてばかりゐてまるで口がきけないのさ。可哀さうに。』
 口々に人々は言ひ合つた。
 私は、何故とも知れぬ恐れにふるへ上つてゐる子供たちをすかしたり慰めたりしながら、遠くからそれを眺めてゐた。憤りが胸を突いて来る。けれども、何うしやうもない。
『朝鮮人が何か悪いことをしたのでせうか。』
『さァ、何ですか。何でも頻りに火を放けてまはつてゐる朝鮮人があるツて言ひますが。』
 近所のK氏はさういつて、解せぬ顔付をしてゐた。
『朝鮮人てトテモ悪い奴なんだね あの火事は皆鮮朝人が火をつけたんだつてね。」
『朝鮮人て世界中で一番悪い奴なんだって。』
『朝朝人をみんな叩き殺してしまふといゝんだね。」
 子供たちは可愛い顔をしてそんな恐ろしいことを口にしあつた。
 これは大変なことを言ひふちすものだと私は思つた。けれども思っただけで何うしやうもなかった。
夜に入ると朝鮮人の噂はますます烈しくなつて来た。朝鮮人を追ひかける群集の喊の声は、物凄くあつちこつちで起つた。
『皆さん朝鮮人が到るところに放火して歩いてゐます。各自に警戒して下さい。男の方は一人づゝ自宅に帰つてゐて下さい。竹槍でも棍棒でも何でも用意して、朝鮮人と見たら叩きのめして下さい。』
 かう音つて大声にふれ廻る若者の一隊があつた。
『此の上火を放けられちやたまらないな』私は苦笑した。
『ほんとでせうか』妻はウロウロし出した。
『嘘だよ嘘だよ。そんな馬鹿なことがあるものか。』
『でも……』
 そのうち石油の臭ひがすると言ひ出すものがあつた。
『臭い臭い。』
『石油石油だ。』
 人々はいよいよ騒ぎ出した。
『まつたくですわ。ほら、石油の臭がしますわ。』
『さうかね。』
『ほら、するぢやありませんか。』
 さう言はれてみればそんな臭ひがせぬでもない。
『石油の臭ひか知ら。』
『石油ですよ、石油の臭ひですよ。あなたは鼻が悪いから。』
 私は言はるゝまゝに自宅へ帰つた。真暗な中から提灯を探し出して蝋燭を鮎じ手に手ごろの竹の棒をもつて、兎も角お附合ひに家の附近を見張りした。
 この頃までは、まだ自警団といふやうなものはなかつた。しかし金盥を叩いたり拍子木を打つたりして、様々の流言を傳へて歩く若者の一群はあつた。それは私たちの住む小日向台町附近の人ではなくして、皆他区の人のやうであつた。
 私の住む小日向台町一帯の附近は、大体に所謂知識階級が多く住んでゐた。官吏勤人、大学教授や新開雑誌記者や、さうした種類の比較的わかつた人が多かつた。同時に此等の種類の人は、東京といふ土地を一種の植民地のやうにしか思つてゐない。二十年住んで居ようが三十年住んで居ようが、東京は唯仕事の便宜上或は生活の便宜上、身を託してゐる足留地である。従つて自分を守ることは知つてるるが公共の仕事に熱心ではあり得ない。隣り合せて住んでゐても、口をきゝ合ふなどは極めてめづらしいといふ有様である。それは多くの人が、自分の住む所以外に故郷といふものをもつてゐる関係からである。だからいざとなれば故郷へ帰る。それが此の人たちの強みである。それだけに東京市民としての騒い意識は此の人たちにない。
 不意の大きな天災は、しかし此ういふ人たちにも、隣保扶助の心を起させたのは事実である。長年壁一重に住みながら口をきいたこともなかつた隣家の主人同志が.急に現しく話し合ふやうになつたのはそのその証拠である。此の隣保扶助の心は、人間の生れながらにもつてゐる本来の心であるか、或は一時の変態心理であるかは兎も角、当時のあの大きな自然の叛逆に錯愕おく所を知らなかった人々にとつて頼みになるものはたゞ同じ災に顫へた人々の心であつた。この心が互に結び付いて頭上にふりかゝる当面の災害を防止するために一致の行動を取らうとするのも必然である。もし自警団といふものが.かういふ必然の心理過程によつて起つたものであるならば、よしその行動に過誤があつても、恕されていゝ事情がある。
 ところが実際はさうでなかつた。
 二日の夜、といふよりも三日の明方である。二三十人の何処から来たともなき若者一群が、手に手に武器をもつて叫んだ。
『朝鮮人三百人の一隊が、今此の久世山を目がけて押し寄せて来ようとしてゐます。女の人や子供は遁げて下さい。男は皆武器をもつてこゝで防いで下さい。』
 之を聞いた避難者の群れは、俄に上を下へと騒ぎ出した。女たちは顔色をかへて遁支度に取り掛った。寝てゐた子供たちは泣き出した。『さァ大変だ』といふので、男たちは手に手に竹槍棍棒をもつて起ち上つた。
『敵は何処だ。何の方面だ。』
 此に至つて私の全身は怒りに顫へた。何といふ不埒な、そして愚妹な民衆!
 私はしかし静に言つた。『君たちは何かこゝで朝鮮人を相手に戦争をおッぱじめようといふのか?』
 若者の一人は私の顔を見て黙ってゐた。
「朝鮮人々々々といふが、何を証拠に朝鮮人が火を放けたと君等はいふのか。朝鮮人のうちにも、悪い人間はあるかも知れない。しかし朝鮮人の悉くが放火犯人だと何うした断定するのだ.日本人のうちには朝鮮人よりももつと悪い人間が沢山あるだらう。君等朝鮮人を悉く叩き殺してしまふつもりなのか。」
 私の声は次第に激した。成るべく落ち着いて物を言はうとするが、その声は我ながら驚くばかりに高かつた。
『朝鮮人であらうが九州人であらうが、同じ日本の同胞ぢやないか。同じ震災に遭うて身の置きどころもない気の毒な羅災民ぢやないか。君たちはそれを助けようとしないで、叩き殺さうとするのは一体どういふ積りなのだ。もしさういふ事をした時に、将来日本にとつて伺ういふ禍を起るかといふことを考へてみたのか。』
『何だ、何だ。馬鹿なことをいふ奴があるな。何処の奴だ。』
『日本の人民でありながら怪しからんことをいふ奴だ』
『殴れ殴れ。』
『叩き殺せ。』
 群集は私を取り巻いた。私は自分の危険を感じないではなかつたが.しかし騎虎の勢ひもう止むを得ない。手にした握り太の竹の棒をふり廻しながら、私は一団の首謀者とも見える年嵩の男に肉迫した。
『三百人の鮮人といふが、果して悉く悪人だと君は認めますか。』
『あなたは少しも下町方面の事情を知らないからそんな事をいつてるのです。認めるも認めんもない。皆奴等が火を放けて廻つてるのだ。』
『よし。確にさうであるなら僕もこゝで君等と一緒に戦はう。内地人であらうが朝鮮人であらうが.さういふ不埒な奴に封して容赦はしない。だが、君、もしさうでなかつたら何うするのだ。僕は警察へ行つて聞いて来る。替察ではそれを何と認めてゐるかたしかめて来る。それまで待つていたまへ。』
『警察なんかあてになるかい。』
『警察のいふことが信用できないで君等のいふことが信用できると思ふか。」
 そこへ一人の若者が口を出した。
『私は警察へも行つて来たんです。警察では避難民だらうといふのですが、警察のいふことは全く信用ができません。』
『警察で避難民だらうといつてゐるものを君等が勝手に放火隊にさめてしまつてゐるのだね。さうだね。』
『勝手にきめてゐるンぢやない。朝鮮人と見れば、片つ端から殺しちまへといふ命令が来てゐるんだ。いつまで訳の分らんことをいつてると叩つ殺してしまふぞ。』
 少し離れて大声でさう怒鳴つたものがある。
『さうださうだ。やれやれ。やッつけろ。』
『諸君、馬鹿なことを言はないでも少し気を落ち付けたまへ。いゝか。君等の心持は僕にも分る。僕等も同じ日本人だ。しかし、さういふ乱暴なことをした結果がどんな重大なものだかを考へてみたまへ。もし君等が、朝鮮人であるが故に彼等を征伐しようといふんなら、以ての外のことだ。僕はこゝで朝鮮人の味方して君等と戦ふ。』
 さう言つて私は彼等を睥睨した。首脳者らしい年長の男は、周囲の者に何事か私語いた。私が二言三言いふ間、彼等は黙つてゐた。私はもう言ふべきことを言ひつくしたので静に彼等のそばを離れた。
 夜がしらじらと明けはじめた。此の時になつても、彼等の所謂三百人の朝鮮人の一隊は何処にも見えなかづた。避難者たちはやつと少し落ち着いた。すると、今までいきり立つてゐた若者たちは、ぞろぞろ、ざわざわ、何かさゞめき合つてるたが、やがてそのうちの一人の最後に言つた言葉は、私にとつて永久に忘れない謎である。
『君この邊は駄目だ。あつちへ行かう、あつちへ』かうして彼等の一群は、音羽の方へ向つて去つた。
 その翌日から、自警団といふものが私の町内にも組織された。しかしそれは一種の強制であつた。それが組織される前に、今いつたやうな若者の一団が、各区各所に出没して盛んに活動したことは事実である。何者の命令によつてであるかそれは知らぬ。兎にも角にもそれが所謂自警団なるものゝ正体であることは、大正震災史を編むものゝ逸すべからざる重要事であると思ふ。 」(『文化運動』1924(大正13)年9月号)
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2010.11.17 Wed l 関東大震災と朝鮮人虐殺 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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