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夜、眠りにつく前、たいてい睡眠剤代わり(?)に本を一、二冊寝床に持って行くのだが、ここ一、二年、その回数が一番多いのは、『大岡昇平・埴谷雄高 二つの同時代史』(岩波書店1984年刊行。実際に対談が行なわれたのは前年の83年)である。それで、いくつかこの本について、またこの本に関連しての話を思いつくまま記してみたい。

二人とも1909年(明治42年)生まれで同い年。70歳を二つ、三つ越えた二人が幼年時代からのそれぞれの経験や見聞きした出来事を振り返り、語り合うという趣旨の本で、内容は戦前戦後の歴史を知る上でも大変興味深く、読みながらついつい彼らが今もし生きていたら、どんな発言をし、どんな文章を書くだろうか? などと想像したり、またいまもこの二人の文学者を好きなことには何の変わりもないが、日本の将来を見通す彼らの目も案外甘かったのではないかと不満をおぼえたりもして、それやこれやで読んでいて飽きがこない。

同年といっても、埴谷豊高は台湾生まれで1923年(関東大震災の年)、家族揃っての上京までは父親の仕事の関係(台湾精糖の社員)で台湾で育っている。大岡昇平のほうは東京渋谷育ちである。こちらは父親が株屋で、幼年時代は貧乏だったのに、1920年(大正9年)の不景気の時父親は「売り」に出て、大儲けしたそうである(しかし、1931年(満州事変の年)に「買い」に出て破産したそうだが…)。その時建てた新築の家は当時のお金で5万円もかかったというから、何とも豪勢な話である。

埴谷雄高は本の後書きとして「ボレロ的饒舌をつづけて」と題し、

「この対談をはじめるにあたって、大岡昇平は、この俺達の年齢じゃこんなことを二度やることもないから、言いたいことはみんな言いつくしてしまおうぜ、と述べ、私も、そうだ、なんでもみんな話そう、と応じたのであった。尤も、一応年代を追ってゆきながらも、話があちこちへ跳ぶこうした種類の対談で「言いたいことを言いつくしてしまう」ことなど必ずしも果たせず、言いおとしたことも多いけれども、しかし、80パーセントくらいは、「ポンコツ二廃人」ながら、話しおえたのである」

と記しているが、「80パーセントくらいは(略)話しおえた」という言葉は、おそらく本音であろう。二人が知り合ったのは戦後それぞれが作家として出発した後のことだったようだが、老年に近くなってから急速に親しくなっていったようであり、ここでは二人とも忌憚なく本心を語っているのではないかと思う。ただし、大岡昇平の毒舌と論争癖は大変(?)なものだから、意見が異なると想像される場面では、埴谷雄高の意見表明がやや譲りがちのようにもみえる。たとえば、ドストエフスキーについて、埴谷雄高は、『地下室の手記』以降の作品がそれまでより断然よいと考えているに違いないのだが(彼はドストエフスキーとその作品を論じた多くの文章でそんなことは議論の余地もなく明白なことであるかのような言い方をしている。)、大岡昇平がドストエフスキーの中では『死の家の記録』が一番いいと述べているのに、異議は唱えていない。でも『死の家の記録』を非常に高く買う人は他にもいて、大岡昇平によると、数学者の遠山啓がそうだったそうだが、中野重治も『死の家の記録』をドストエフスキーの作品中最も印象深い作品、人間の生への「飢渇」が漲っている作品として絶讃していた。しかし、大岡昇平がこの作品について埴谷雄高に「ドストエフスキーのなかで一番優れているだろう。この意見にはシンパがいるんだ。数学者の遠山啓だよ。遠山啓は、『死の家の記録』のあとの作品を認めないんだ。」と言うのに、埴谷雄高が持論を主張せず、「トルストイもそうだよ。ドストエフスキーでいちばんいいのは『死の家の記録』だと彼はいっている。」と応じているのは、埴谷雄高という人は温厚(芯はきわめて強いと思うが)な人なのだなぁ(もしかして年のせい?)。それでも、「…おれは『野火』に「たとひわれ死のかげの谷を歩むとも」というエピグラフをつけたけど、これは中村真一郎に対する挑戦なんだ。死の影とかなんとかいってるけれども、軽井沢にいてなにが死の影だ。こっちは兵隊で本当に生死の境を潜って来たんだぞって言う気持ちがあったからね。」との大岡発言に対しては、「いやあ、きみは本当に闘争力が旺盛だな。独歩に対しても闘争心、中村に対しても闘争心、そのうちに埴谷に対しても闘争して、死者たちについて何か書くんじゃないか。実際、感心だよ。」と述べた後、「ただ、その闘争心は他の人に向けてくれ、おれに向けないで(笑)。」とつづけているのは、一本釘をさしているようで可笑しい。

大岡昇平は1928年(昭和3年)に小林秀雄と知り合い、そのすぐ後に中原中也をその小林に紹介されて知り合っているのだが、こうして大岡昇平の旺盛な「闘争心」云々の話をきいていると、表題にわざわざ「昇平に」という言葉を付している中原中也の『玩具の賦』という詩が思い浮かぶ。1934年(昭和9年)、この詩が発表された時期の中原中也との関係について大岡昇平は、「…例によって喧嘩もしたし、「玩具の賦、昇平に」なんて体裁の悪い詩を書かれたりしたのだが、彼の談話はまた生気を取り戻したようで、私の方では昔ながらの彼の豊かな映像と素早い判断に感嘆していたのである。」(『中原中也』講談社文庫1989年)、「おまえも俺に喧嘩を吹っかけて、俺が評論などでちょっと頭を出かけると「昇平に」(「玩具の賦」)という詩を書いたり、それを「文学界」に持ち込んだりした。おまえの方にも嫉妬がある。まあ俺に対する軽蔑を伴ってるが。俺がひょっと頭を出かけるとおまえは出て来て、あいつは駄目な男だと言う。そういうことはあったので、まあお互いさまだと思ってくれ。」(同上「著者から読者へ」)などと述べているが、後者は死去の8日前に入院中の病院で口述したものだということである。)せっかくだから、またおもしろい詩なので、大岡昇平が編集し解説も書いている「中原中也全集 2」(角川書店1967年)からこれを引用し掲載しておきたい。


  玩具の賦
             昇平に
どうともなれだ
俺には何がどうでも構はない
どうせスキだらけぢやないか
スキの方を減(へら)さうなんてチャンチャラ可笑(をか)しい
俺はスキの方なぞ減らさうとは思はぬ
スキでない所をいつそ放りつぱなしにしてゐる
それで何がわるからう
俺にはおもちやが要るんだ
おもちやで遊ばなくちやならないんだ
利権と幸福とは大体は混(まざ)る
だが究極では混(まざ)りはしない
俺は混(まざ)らないとこばつかり感じてゐなけあならなくなつてるんだ
月給が(ふ)えるからといつておもちやが投げ出したくはないんだ
俺にはおもちやがよく分つてるんだ
おもちやのつまらないとこも
おもちやがつまらなくもそれを弄(もてあそ)べることはつまらなくはないことも
俺にはおもちやが投げ出せないんだ
こつそり弄べもしないんだ
つまり餘技ではないんだ
おれはおもちやで遊ぶぞ
おまへは月給で遊び給へだ
おもちやで俺が遊んでゐる時
あのおもちやは俺の月給の何分の一の値段だなぞと云ふはよいが
それでおれがおもちやで遊ぶことの値段まで決まつたつもりでゐるのは
滑稽(こつけい)だぞ
俺はおもちやで遊ぶぞ
一生懸命おもちやで遊ぶぞ
贅沢(ぜいたく)なぞとは云ひめさるなよ
おれ程おまへもおもちやが見えたら
おまへもおもちやで遊ぶに決つてゐるのだから
文句なぞを云ふなよ
それどころか
おまへはおもちやを知つてないから
おもちやでないことも分りはしない
おもちやでないことをただそらんじて
それで月給の種なんぞにしてやがるんだ
それゆゑもしも此(こ)の俺がおもちやも買へなくなった時には
寫字器械奴(め)!
云はずと知れたこと乍(なが)ら
おまへが月給を取ることが贅沢だと云つてやるぞ
行つたり来たりしか出来ないくせに
行つても行つてもまだ行かうおもちや遊びに
何とか云へるものはないぞ
おもちやが面白くもないくせに
おもちやを商ふことしか出来ないくせに
おもちやを面白い心があるから成立つてゐるくせに
おもちやで遊んでゐらあとは何事だ
おもちやで遊べることだけが美徳であるぞ
おもちやで遊べたら遊んでみてくれ
おまえに遊べる筈はないのだ

おまへにはおもちやがどんなに見えるか
おもちやとしか見えないだらう
俺にはあのおもちやこのおもちやと、おもちやおもちやで面白いんぞ
おれはおもちや以外のことは考へてみたこともないぞ
おれはおもちやが面白かつたんだ
しかしそれかと云つておまへにはおもちや以外の何か面白いことといふのがあるのか
ありそうな顔はしとらんぞ
あると思ふのはそれや間違ひだ
北叟笑(にやあッ)とするのと面白いのとは違ふんぞ

ではおもちやを面白くしてくれなんぞと云ふんだろう
面白くなれあ儲かるんだといふんでな
では、ああ、それでは
やつぱり面白くはならない寫字器械奴(め)!
――こんどは此のおもちやの此處(ここ)ンところをかう改良(なほ)して来い!
トツトといつて云つたやうにして来い! 」(1934.2) 

この詩について、大岡昇平がどこかに、「全然覚えてはいないが、多分中原の部屋を訪ねて行った時に、(自分が)珍しいおもちゃがあるなぁとか何とか挨拶代わりに言ったのではないか」というようなことを書いているのを読んだことがある。それにしても、詩といえども「おまへにはおもちや以外の何か面白いことといふのがあるのか/ありそうな顔はしとらんぞ」以下の舌鋒は鋭い。鋭すぎる。

大岡昇平が戦後中原中也の詩集や全集の刊行に注いだ力と情熱は傍目にもたいしたものだったようだが(ただ会ったこともない富永太郎の詩の編纂に対しても同様だったようである。この場合の情熱も、その詩に最初に触れた時に覚えた感動が原因だったことは大岡昇平本人の文章や談話からして確かだと思われる。)、これは友人だったこともさることながら、召集される前、いよいよ死の覚悟も必要とされると思っていた頃、ふと中原中也の詩集を開けて読んでみたところ、「彼の残した詩句が不思議に心に染みるのを認めた」ことが真因だったようである。『俘虜記』には、フィリピンの前線で歩哨の際に、中原中也の『夕照』という詩に勝手な節をつけて歌っていたという文章があるし、前述の『中原中也』にも、「前線で立哨中、熱帯の夕焼を眺めながら「夕照」を勝手な節をつけて歌った」と記述されている。

丘々は、胸に手を当て
退けり。
落陽は、慈愛の色の
金のいろ。

ただ、この『夕照』について、「同時に昭和4年頃私がこの詩を褒めた時の、中原の意地悪そうな眼附を思い出した。「センチメンタルな奴」とその眼はいっていた。」(『中原中也』)とも記されているところに、二人の性格と関係性がほのみえるようでちょっと可笑しくもある。
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2010.11.29 Mon l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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