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「産経ニュース」(2011.3.31 15:00)に下記の記事が出ている。

「 宮城県は平成23年度当初予算に計上していた東北朝鮮初中級学校(仙台市太白区)への補助金162万4000円を交付しないことを決めた。北朝鮮による韓国・延坪島の砲撃事件を受けて凍結していた22年度分の152万1840円は未曾有の東日本大震災の被災地という人道的な見地から31日、交付した。」

片山貴夫さんのブログでは「宮城県は朝鮮学校への補助金を止めました。」と書かれているが、23年度分の補助金を交付しないことを決めた、ということは、事実「交付を取り止めた」「今後も交付しない」ということなのだろう。それでいて、22年度分をこれまでどおり交付したことを「東日本大震災の被災地という人道的な見地から31日、交付した。」とは、あたかも本来必要のない措置を寛大さからとってやったと言わんばかりの恩着せがましい言い回しである。これは県がそのように述べたということなのだろうが、自己欺瞞にもほどがあると思う。

朝鮮と日本の間の近代の歴史を知れば知るほどに、政府にしろ都道府県にしろ、日本は朝鮮学校の補助金を打ち切る権利など持っていない、朝鮮学校にはそのような仕打ちを受けるどのような理由もないということを痛いほど思い知らされることになる。「北朝鮮による韓国・延坪島の砲撃事件、云々」ということだが、これは方々で言われているように、韓国と米国の軍隊がそのような事態を引き起こすべく挑発したということではないのだろうか? それに北朝鮮は今回の大震災に対し懇切な見舞いの言葉とともに、義捐金も贈ってくれているし、私は今回はじめて知ったのだが、日本のこれまでの災害に対しても同様の配慮を示してくれていたとのことである。宮城県も知らないはずはないだろう。

朝鮮学校に23年度分の補助金を交付しないという宮城県の決定について、上記の片山さんのブログでは、

「宮城県は朝鮮学校への補助金を止めました。
 これは、震災に乗じて在日朝鮮人への敵視・差別を扇動する行為です。在日朝鮮人の人々が地域の住民とともに苦しんでいるときに、これは人としての感性を疑われる行為です。
 徹底弾劾しなければなりません。
 宮城県知事および宮城県当局の責任者は、不交付決定をすぐに取り消し、公式に謝罪しなさい。」

と述べられ、宮城県知事への抗議の送り先も以下のように示されている。

「 宮城県知事への抗議の送り先
   FAXの場合 022-211-2297
   宮城県総務部行政経営推進課
   知事への提案「明日のみやぎに一筆啓上!」係

  抗議メール入力フォーム
  https://www.e-tetsuzuki99.com/eap-jportal/PkgNaviDetail.do?lcd=040002&pkgSeq=31862


宮城県の村井嘉浩知事とはどういう人物なのかと思ってネットで検索してみると、この人は3月14日の石原慎太郎都知事による「やっぱり天罰だと思う」などの発言に対し、15日、

「「塗炭の苦しみを味わっている被災者がいることを常に考え、おもんぱかった発言をして頂きたい」と不快感を示した。」(産経ニュース)

とのことである。しかし、自身の行動はどうなのだ? 「塗炭の苦しみを味わっている被災者」について「常に考え」なければならないのは、石原都知事だけではなく、村井県知事も同様だろう。いや、村井氏は被災地の責任者・当事者なのだから、桁違いの考慮・配慮が求められているはずである。それにもかかわらず、被災者の苦難にさらに追い討ちをかけるこのような差別攻撃をあえてしているのだから、この件に関しての犯罪性は都知事よりはるかに重いだろう。

宮城県についてはさらに「JA7HLJ HF用ミニアンテナの試作実験 Super Rad Antenna」というブログの記事が目にとまった。こちらにも目を疑うような内容の記事が載っている。宮城県は、県民に対して「飲料水、土壌、農、水産物の放射能汚染数値を出したがらない」そうである。県民のつよい要望によって3月30日にようやく2回目の水道水汚染測定値を出したとのことだが、しかし農産物の値はスルーだったそうだ。下記の記事参照。

 わかった!宮城県知事は女川原発を抱えているから発表したくないのか
 宮城県は、ようやく、2回目の水道水測定値を発表したようです など。

宮城県のこのような対応は県民の健康、生活、生命を軽んじていることの証明であり、行政として無責任極まりない。決して許されないことだが、このような政策と朝鮮学校への補助金打ち切り政策とは同じ土壌から出たものではないだろうか。住民を自分たちの思い通りに操るという点では深い関係があるように思う。

折も折、4月1日、宮城県知事は県庁で職員に下記の訓示をしたという。(産経ニュース 2011.4.1 16:44)

「 宮城県の村井嘉浩知事は1日、年度初めに当たって県庁で職員にあいさつし「県政史上、最も重要な年度だ。50年後に『あの震災を克服して宮城県は大きく発展した』と評価されるよう、職員一丸で全力で取り組んでいこう」と奮起を求めた。/ 村井知事は、被災地での経験から「被災者が笑顔を取り戻し、安心して暮らせるよう取り組む決意を新たにした」と表明。当面の課題として、生活支援と災害廃棄物の処理を挙げ「一日も早く、復興に向けた基本方針やロードマップを作る必要がある」と述べた。/ また「既存の制度の枠組みを超えた対応を求められるケースが出てくる」として、国に対し財政支援や新制度の創設を求める意向を強調した。入庁した新人職員に対しては「若い力で県に活力を与えてほしい」と呼び掛けた。」(/は改行部分、下線は引用者による)

「大きく発展」することの「発展」がどんな具体的内容を想定しているのかは分からないが、文面にみられる「被災者が笑顔を取り戻し、安心して暮らせるよう」な地域にするためには、今のような県政を敷いていたのでは県の未来が明るいものになるとは思えない。宮城県はあえて、悪い方向へ、被災者をはじめ県民を分断し、さらに苦しめる方向へと舵取りをしているように思える。
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2011.04.02 Sat l 東日本大震災 l コメント (4) トラックバック (0) l top

コメント

yokoitaさん

m_debuggerです。私も宮城県知事への抗議メールを送りました。

また、3月24日付の記事を公開してくださり、ありがとうございます。「冷静に考えると、論理などというのは、わが日本においては、総人口の5%ぐらいの世界でしか通用しないのではないか。95%は論理以外の形容し難い何ものか―観念だか、概念だか、刺激だか名指しできないもの―によって動いていると考えたほうがいい。そういう人々に対して、論理で物事を説明しようという発想自体が、そもそも間違っているのかもしれません。」という佐藤優の発言は初めて知りましたが、ひどすぎてむしろ笑えますね。岡本厚あたりは「我が意を得たり」と思っているかもしれません(ますます笑えますが)。

ところで、以前ご紹介してくださった武田泰淳の『司馬遷』を今読んでいます。『史記』は高校の授業で少々読んだ程度なので、本書の魅力が十分理解できるほどの力が自分にないのが残念ですが、「記録」のきびしさが、それを書かせまいとする権力に対する外との闘いだけでなく、何を書くべきかという自己に対する内との闘いである、という箇所には非常に感銘を受けました。科学者も含めて大半が体制に回収されている日本の「知識人」には、紀元前の人間が持ちえた自律の欠片もないということなのでしょうね。
2011.04.03 Sun l m_debugger. URL l 編集
m_debugger様
コメントありがとうございます。武田泰淳の『司馬遷』について書いてくださっていたので、近くの図書館から『司馬遷』を借りてきました。「「記録」のきびしさが、それを書かせまいとする権力に対する外との闘いだけでなく、何を書くべきかという自己に対する内との闘いである」という文章があったかなぁ、ちょっと見てみようと思いまして。読んだのはずいぶん昔のことで忘れてしまっていました。すぐ見つかるかと思っていたのですが、何しろ中身がぎっしり詰まっている作品なのでちょっと読んだだけでは拾い読みしかできず、目当ての部分は探しだせませんでした。それでも『司馬遷』の文章はどの箇所も読者をぐんぐん引き込む力があることをあらためて感じました。傑作の所以でしょうね。

武田泰淳は家がお寺だったことの影響なのでしょうが、小さい頃から漢学の素養を身に付けていて、藤田省三が言うには、中国文学についての学識は、「それは物凄い。吉川幸次郎など問題ではない。」ということです。本人はそういうことを口にする人ではないようですが、『司馬遷』に出てくる多くの書物もおそらく全部読み込んでいるのでしょう。気が遠くなりそうですが、問題意識の強さなどとともにそういうことも作品に力を与えているのでしょう。

私は武田泰淳の熱心な読者ではないのですが(大岡昇平などに比べて)、それでもあの世代の作家のなかで一番不思議なところのある人、懐の大きな人、という印象をもっています。「褒め殺しの名人」とも言われてて、これも藤田省三の弁ですが、「本当に「褒め殺し」してしまう」のだそうです。『司馬遷』にも、任安宛の司馬遷の手紙について「彼の気持は、実によく現代でも読んでわかるのである。」と書いているのは本当にそのとおりだと思うのですが、続けて「 今の世の中に生きている歴史家が歴史を書き、文学者が文学を書く気持の方は、中にはまるでわからぬ者が多いのに、漢代人司馬遷の気持の方がよくわかるというのも不思議な話である」という言い方も、ちょっとしたユーモアと辛らつな諧謔味の両方が感じられておもしろいと感じます。

ただ『司馬遷』にも問題というか考えさせられるところがあって、「自序」(1942年執筆)に「史記的世界を眼前に据え、その世界のざわめきで、私の精神を試みたかったのである。」が、しかしなかなか筆がすすまず、昨年12月8日まで筆がしぶっていたのが、「あの日以来、心がカラッとして、少し書けそうになった。」とあります。この部分は編集者の配慮とかで一時期削られていたという話もありますが、武田泰淳も対米戦争ならば、これまでのような中国相手の弱い者苛めの戦争ではない、東亜対欧米の戦いだというように受け止め、気持ちが「カラッ」としたインテリの一人ではあったようですね。竹内好ほど熱烈なものではなかったでしょうが……。この点、中野重治や埴谷雄高などの左翼や大岡昇平のような勤め人だった人の受け止め方とは違っていたようです。
2011.04.06 Wed l yokoita. URL l 編集
お返事ありがとうございます。『司馬遷』を読み返してくださっているとのこと恐縮です。私が要約した箇所は、第一篇のちょうど真ん中辺りで、「司馬遷が、きびしくなったのは、天漢二年、李陵の禍によって獄に下ってからではない。少年時代、青年時代からである。幼年時代からと言っても、良いかも知れぬ。と言うのは、彼が歴史家の家庭に、生まれたからである」以降の一連の文章で、私が借りてきた平凡社(1965年刊行、1960年の再刊)版だと37ページからになっています。

yokoitaさんが引用された「今の世の中に生きている歴史家が歴史を書き、文学者が文学を書く気持の方は、中にはまるでわからぬ者が多いのに、漢代人司馬遷の気持の方がよくわかるというのも不思議な話である」という箇所は私も面白く読みました。武田泰淳が「褒め殺しの名人」だったという話も、「司馬遷は、あまり人をほめない。むしろ冷酷なほど、批判する」という評価と合わせて考えると、興味深いところですね。

ところで、平凡社の1965年版では、「あの日以来、心がカラッとして、少し書けそうになった」という一文は実際に削られていたので、yokoitaさんのご指摘がなければ私は知らないままだったと思います。後の版ではこの一文を戻すにあたって、武田自身の自己批判なり弁明なりが書かれているのでしょうか?それとも何もないままなのでしょうか?

このことと関連するかもしれませんが、竹内好の解説には、武田が「一九三七年十月から満二年間、召集されて輜重兵として華中に従軍した。このときの体験と、そこでの思索が、その後の彼を大きく規制していると思われる」とあります。私は、武田が呂后についての章で、「女は力弱き者であるがため、戦国の世にはもろくもはかない。女は愛されるものであるから、「動かすもの」とはなりにくい筈である」と書いていることには、心が冷える思いがしました。「女は力弱き者である」「女は愛されるものである」という見方は、日本軍「慰安婦」制度と非常に親和的であると思うからです。もちろん、それが今日の日本でも俗に受け入れられている見方であることも含めてですが。
2011.04.06 Wed l m_debugger. URL l 編集
m_debugger様
m_debugger様

コメントの返信が遅れてしまいまして、申し訳ありません。

>「あの日以来、心がカラッとして、少し書けそうになった」 
後の版ではこの一文を戻すにあたって、武田自身の自己批判なり弁明なりが書かれているのでしょうか?

正確かどうか確信はないのですが、確か元に戻すにあたって、「編集者の善意により削られていた文章を…」と武田泰淳自身が書いていたような記憶があります。それだけで、他に「自己批判なり弁明なり」はなかったのではないでしょうか。私が見たのは初版本と小学館の「昭和文学全集 15」(1987年)の二冊です。

「審判」という小説には一人の日本兵が老中国人夫婦を殺したと告白する場面が出てきます。最近になってこれは体験であるという説も出てきているようです。大岡昇平の「俘虜記」は山中で倒れている時撃とうとすれば撃てた米兵を撃たなかったという記録(もっとも「野火」のようにフィリピン人の若い男女を殺し狂気に陥る兵隊の物語も書いていますが。)ですが、昔、大岡昇平が一年外国に行っている間に、武田泰淳が大岡昇平の俘虜記を批判したことがあったそうです。大岡昇平が「私が日本からいなくなるやいなや、武田は、戦場で敵を撃たない、殺さないというのはおかしい、人間というのはああいうとき相手を殺すものだ、と書いた文章を発表していた。それまで彼は会うと散々私の作品を褒めていながら、いなくなるのを待っていたかのようにそんなことを書いているのだ。どういうヤツだ。」とカンカンになって怒っている文章を読んだことがあります。大岡昇平が怒るのも当然と思いますが、そういう時でも武田泰淳は笑って禅問答のようなことを言っているだけらしいです。きっと自分の観方、洞察の方が人間の本質を衝いていると思っているのでしょう。私は俘虜記を批判したという武田泰淳のその文章は読んでいませんが。

>私は、武田が呂后についての章で、「女は力弱き者であるがため、戦国の世にはもろくもはかない。女は愛されるものであるから、「動かすもの」とはなりにくい筈である」と書いていることには、心が冷える思いがしました。「女は力弱き者である」「女は愛されるものである」という見方は、日本軍「慰安婦」制度と非常に親和的であると思うからです。

「心が冷える」というほどではありませんが、私もこれは育った環境などからくるのだろう頑固な偏見、思い込みだと感じ、読んでいて白ける思いがしました。ただ、武田泰淳は日本軍「慰安婦」制度を否定するだろうし、「慰安婦」にさせられた女性を可哀相だと感じるのではないかと思うのですが…。言い方が難しいのですが、武田泰淳の描く司馬遷の経験と、自分は日本軍によって「慰安婦」にさせられたと名前を出して日本政府に謝罪と補償を求めてきた女性たち、特に最初の人である金学順さんですが、行動を起こすにいたるまでの長い内心の葛藤とは無縁ではない、共通点があるように思えます。自分の若いころを考えると、私だったら、早くに心身ともに荒廃・衰弱させ、どこかの時点で死んでしまっていたのではないか、生き延びて告発するだけの心身の強靭さはもてなかったのではないかと思えるものですから、そう感じるのかも知れませんが。武田泰淳は善し悪しがあるにしろ、侵略戦争との関連でも興味深い人と思いますから、掘り下げて研究してみる価値はあるように思います。書いてる人もいますが、食い込み方が浅いと感じます。

武田泰淳の妻・武田百合子さんの「富士日記」に出てくる奇妙な(?)エピソ-ド。東京から百合子さんの運転で富士の山小屋に向かっているとき、途中で自衛隊の車が突然目の前に飛び込んできたそうです。その辺りに自衛隊の演習場があり、普段から隊員たちの乱暴な運転には看過できないものがあったそうです。その時、あわててハンドルを切り、危機一髪何とか衝突を免れたそうですが、百合子さんは窓から顔を出して、「バカヤロー!」と大声で怒鳴ったそうです。当然隣に坐っている夫も自衛隊員に怒っているかと思いきや、妻に如何にもイヤそうな顔をして、「人にバカと言うな。」と言ったのだそうです。これは驚いた、と当然猛反論すると、「男にバカとは何だ!」と怒鳴ったそうです。それから百合子さんは到着まで一言も口をきかず、内心では夫を罵り続けながら猛スピードで運転を続けたそうですが、武田泰淳は、余所の車に激突されて死ぬよりも、女性(妻)の「バカヤロー!」という怒声を聞くのがイヤだという人なのでしょうか? それにしても、「男にバカとは何だ!」には、唖然呆然でした。
2011.04.13 Wed l yokoita. URL l 編集

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