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J-CASTニュース(2011/5/17 20:06配信)の記事「起立しない教員は「クビ」 橋下知事、国歌斉唱で処分基準」は、「大阪府の橋下徹知事は2011年5月17日、国歌斉唱時に起立しない教員の免職処分基準を定めた条例案を9月府議会で審議する方針を示した。」という記述の後、国歌に関する橋下知事の過去の発言を次のように伝えている。(強調はすべて引用者によるもの。)


「 府教委の指示に従わない「君が代反対」の教員が絶えない中、橋下氏は以前からの国歌斉唱への強いこだわりを見せてきた。
たとえば2008年の「全国産業教育フェア大阪大会」の開会式挨拶では、数百人の高校生を前に、自らが受けた教育について「戦後教育の中でも最悪。国歌も歌わされたことがない」と批判し、「社会を意識しようと思えば国旗や国歌を意識しなければいけない」と熱弁。大阪府庁の新規採用職員任命式では2010年から君が代斉唱を取り入れ、「日本国家の公務員が国歌をきちんと歌うことは義務」と語っていた。」

このように橋下氏は自分が受けた学校教育について「最悪」「国歌も歌わされたことがない」と述べている。「国旗・国歌法」が成立したのは1999年なのだが、橋下知事のこの発言をみると、彼の理解では、「君が代」は戦前・戦中・戦後を通し一貫して日本の国歌であったということのようだ。でも事実は決してそうではなかったようである。


   

詩人・小説家であり、批評家でもあった中野重治は、「君が代」は「日の丸」(注1)と異なり、明治以後のどのような法律においても国歌として定められたことはただの一度もないことをたびたび書いている。1977年(死去の2年前)の「男の一分と裕仁天皇」(全集28巻に収載)という題の文章は、冒頭が次のとおりである。

「「キミガヨ」を国歌なみに扱おうとする動きがあり、これはみな知つている。これに反対の声があることも、世間みな知つている。ただしこれは、キミガヨを国歌として「復活」させようという動きなのではない。キミガヨは、旧憲法、旧法律上、国歌であつたことがなかつたのだから。なかつたもの、それの復活ということは法的にありえない。このことは、私は何度か書いてきた。ただそれは、天皇が超憲法的に「神」とされてきたのに並んで、超憲法的、超法律的に、つまり全く不法に国歌あつかいで事実上おしつけられてきたのだつた。だから、キミガヨ国歌あつかいの新しい陰謀は、言葉どおり不法の企てであつてそれ白身憲法背反のことである。」(引用者注:この文章は全体が長くもなく、内容はなかなかに興味深いので、これに続く後半部は(注2)として、末尾に引用しておくことにする。)

この文章を読むと、中野重治は当時、「君が代」が「国歌あつかい」はされても法制化されることがあるとは当面の問題としては考えていなかったようにも思える。日本国憲法の前文や各条文の内容から推し測って、この憲法の下では、天皇と天皇家の栄光・繁栄を祈り寿ぐことが主題の「君が代」を法的に国歌として定めることはいくら自民党政権でも躊躇するだろう、できないだろうと考えたのだろうか。あるいは、そういうこと以前に、明治以後「天皇が超憲法的に「神」とされてきたのに並んで、超憲法的、超法律的に、つまり全く不法に国歌あつかいで事実上おしつけられてきた」歴史的事実、それに対する反省も性懲りもなく再び同じことを企む勢力への弾劾をここではひたすら述べているのだろうか。

「君が代」は過去国歌であったことはないと述べているのは、思想史家の藤田省三も中野重治同様である。1990年のとある集会で「今なぜ大嘗祭か」(「戦後精神の経験?」収載)と題して、藤田省三は下記のような話をしている。

「明治時代には日露戦争の時でさえ、1905年日露戦争の最中ですね、『朝日新聞』の今で言う「天声人語」みたいなコラムに、「皇室に歌あり、民に歌なし、民に歌なき国民は不幸なるかな」という政府批判がちゃんと載っているんです。ということは、知っている人はもう“「君が代」というのは「国歌」でも何でもないんだ。天皇家の歌であるかも知れないけれども、国民の歌ではない、民の歌ではない”ということをはっきり知っていたのです。それがその後の数十年のうちに、つまり私たちが子供のころ(引用者注:藤田省三は1927(昭和2)年生)が一番すごかったわけですけれど、さっきいったようにきびしい条件のもとで、周囲から圧力をグンと加えて、「臣」と「民」を溶接させて、一億一心にするころになりますと、学校のなかに殆ど毎日のように、歌わせるわけですから。いつの間にかそれが「国歌」であるかの如き幻想を日本中の一億人がみんなもってしまった、もたしてしまった。 」

私は中野重治、藤田省三という二人の作家が残している作品・著作は傑出してすぐれていると感じていて、いい加減な内容を書いたり話したりするようなことはないと思うので、彼らの発言内容はまず間違いなく事実だと思うが、そうだとしたら、「国歌も歌わされたことがない」という橋下知事が受けた教育は、少なくとも国歌という点にかぎっていえば、別に「戦後教育の中でも最悪」だったわけではなく、しごく正当なものだったということになるだろう。


   

「君が代」に纏わる話題でほとんど唯一といっていいくらいなのだが、私が愉快にも痛快にも感じ、好きだと思うのは、宮沢賢治に大きな影響をあたえたといわれている、賢治小学校3・4年のときの担任教師であった八木英三先生の言葉である。八木先生は宮沢賢治の伝記類には必ず登場するので知っている方も多いかと思うが、当時まだ二十歳にもならない若いこの先生は広い自由闊達な精神をもっていて、「君が代」についても教室で「君が代ではない、わが代だ。わが代こそ千代に八千代に、だ」と語って生徒たちを驚かせたそうである。

私もこの話を何かの本ではじめて知ったときは思いもかけなかった言葉に出会って驚いたのだが、この挿話一つで、この先生が心も頭も自由であるとともに、如何に生徒たち一人ひとりの人格と人生を大事に思っていたか分かろうというものである。また、八木先生のこの言葉により、あの歌は大人にとってもそうだが、児童・生徒にも決して相応しいものでないことが自ずと炙り出されているように思う。都知事や府知事や教育委員会などの狭量で硬直した「義務だ、ルールだ」「起立し、歌わなければ停学だ、懲戒免職だ」という言動は教師だけではなく、児童・生徒の精神にも多大な悪影響をあたえているのではないかとの懸念もつよくいだかされる。このように八木先生の挿話は現実と照らし合わせて実にいろいろなことを感じさせ、考えさせるものであるが、詩人宮沢賢治によき感化をおよぼした、大きな影響をあたえたという評価についても、一も二もなくすんなり納得させるつよい力が「わが代」という発想・言葉には確かにあると思う。


     ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

(注1) 「日の丸」の法制定
1870年(明治3年)、太政官布告第57号「商船規則」制定。(縦横比率は7対10とし、赤丸は旗の中心から100分の1竿側(左)寄りとする)
1899(明治32)年、船舶法を制定し、船舶の国旗掲揚について定める。

「映画日本国憲法読本」日高六郎(2004年11月6日)
「――先生はヨーロッパにいらっしゃるわけで、外側から日本を見ることでわかることは何かありますか。
 僕は、中国で生まれて中国で育った。(略)僕は、もう少し日本人にはアジアの民衆の気持ちを知ってほしい。この間、サッカーの試合で中国の観衆が日本の国歌のときにブーイングしたけれど、僕は中国人の心が痛いぐらいにわかる。あの15年戦争のなかで2000万の人間が死んだ。南京虐殺事件が話題になるけれど、もっと小さい町、小さい村でどんなことが行われたか。(略)日本が徐州を占領したとき、もう青島は日本軍の支配下です。中国の小学校や中学校の子どもたちに日の丸を持たせて徐州陥落のお祝いの旗行列をやらせる。そういうことに親父も憤慨していた。非常に保守主義の私の父もね。
 結末はどうかというと、解散する場所で、ひとりの子どもが、「かいさーん」という声と同時に、日の丸を下に落とし、靴で踏みつけた。先生も子どもも、全員それをやりました。
 不思議なことに、日本軍側は、処分という事件にしなかった。むしろそういう事態が起こったことが外に拡がり、知られることを防ごうとしたんですね。」


(注2) 「 ところで、このあいだ天皇の新聞記者会見というのがあつた。あれは宮内庁が取りしきるもののように見える。出席の記者も、よほど変り者ぞろいなのかも知れない。ただし、しらべずにこう書いてしまつては私の方がまちがうかも知れない。失礼の場合は、事実を示されれば私の方で訂正する。
 そこでしばらく前のその会見のとき、だれか記者が、裕仁天皇がマッカーサー元帥のところへ行つたとき、どんな話をなさつたのかという意味のことを質問した。すると天皇が、それは二人だけのあいだの話で、人に洩らすわけには行かぬ、それでは男としての面目がすたる、というようなことを言つて記者は黙つてしまつた。納得したのか、二の句がつげなかつたのかは、新聞印刷の限りわからなかつたが。
 しかし私は全く異様な気持ちをいわば舌でなめた。天皇がアメリカへ行つたとき、マック夫人から言いだしたが天皇は訪問しなかつた。それには理由が「男として」あつたのかも知れぬ。しかし時がたつた今になつても、日本の新聞記者に洩らせぬようなどんなことをあのとき天皇はマックと話しあつたのか。約束なりしたのか。「男の一分(いちぶん)」、「男として」、――女を含めて言葉の方が泣くだろう。」(77年10月18日)

簡単な感想だが、77年にはすでに敗戦後の昭和天皇がマッカーサーに対し、占領終了後も米軍は沖縄に50年、あるいはそれ以上の長期にわたって駐留して日本を守ってほしいと懇願していたことが明らかにされていたので、このころ中野重治の天皇に対する見方はこころなしかそれ以前より一段と厳しくなっているように感じる。
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2011.05.21 Sat l 橋下徹 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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