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  岩波書店の訂正・謝罪要求について(1)
   「ブラック・ジャーナリズム」

岩波書店が金光翔さんに対し、「岩波書店労働組合が金を除名した結果、このままでは「解雇せざるをえない」ということになる」との文書を送ったのは4月1日で、それより約2ヶ月前の2月2日には、ブログ「私にも話させて」の記述に対して、「自社の出版物の社会的信用を貶め、会社の名誉と信用を守る義務を負う社員の記述としてはなはだしく不適切」として、ブログ上での訂正と謝罪の告知を求めてきたとのことである。金さんはこの「訂正と謝罪」要求と「解雇せざるをえない」という通告とは連続したものと受け止めるべきと述べているが、おそらくそのとおりではないかと思う。岩波書店が謝罪と訂正を求めてきたというブログの文章は以下の三箇所だということである。金さんの文章をそのまま引用させていただく。

① 「左派ジャーナリズムは、ブラック・ジャーナリズム的再編の方向に――佐藤優と癒着する岩波書店も含めて――向かっているようである。」(「論評:佐高信「佐藤優という思想」③ ブラック・ジャーナリズム化する左派メディア」2009年8月10日」

② 「『世界』はどうも、このあたりの政治家や官僚・支持勢力のためのプロパガンダ雑誌になってしまっているように見える。」(「陰謀論的ジャーナリズムの形成(3) 佐藤優の売込みを図る岡本厚『世界』編集長」2010年2月1日」

③ 「『世界』その他リベラル・左派ジャーナリズムの、陰謀論的ジャーナリズムへの移行」
「『世界』その他リベラル・左派ジャーナリズムがよりファッショ的な形で、プロパガンダ機関化しつつあること」(「陰謀論的ジャーナリズムの形成(4):新しい段階へ――『世界』2010年3月号雑感」)2010年2月28日」

今日はこの件について思うところを書いてみたいと思うのだが、実は上記の三点はいずれも金さんのブログを一読したその時点で私も大変に印象深く(悪い意味でだが)感じた箇所である。そこに岩波書店が目を留めて訂正・謝罪を求めてきたという点では、岩波書店と一読者である私とは重大と思う箇所が同じだったということになるだろうか。ただ、それらの箇所(文章)のなかの何が、そして誰のどのような言動や行動が問題であるか、という点で考え方の相違があるわけだが。

最初に指摘しておきたいのは、岩波書店が「訂正・謝罪」を求めている金さんの文章が書かれるには、前提条件として次のような問題が存在したであろうということである。(1)岩波ブックレット『憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言』刊行に際して発生したさまざまな奇妙な出来事に対する深い疑念・不信があったこと、(2)それとほぼ時を同じくして岩波書店では佐藤優氏に対する重用<佐藤優現象>が生じたこと(ここに岩波書店の変質がはっきり見てとれるように思われる)。(3)論文「<佐藤優現象>批判」が雑誌に掲載された後、『週刊新潮』が金さんを誹謗中傷する記事を掲載したが、その記事成立に佐藤氏のみならず、岩波書店の人物が複数関与していることは間違いないと推察されること、等々。

岩波書店は、金さんのブログを読んでいる以上、金さんが会社に対し上記のような疑問や批判をもっていることに気づいていただろう。これは非常に重大な問題だと思われるので、岩波書店はまずこれらの疑問に答えて欲しい。その上でなお出版人としての良心に恥じることなく「訂正・謝罪」の要求が可能と思うのならそのときあらためて訂正なり謝罪なりを要求したらいいと思う。「訂正・謝罪」要求の項目①については、私はこのエントリーに引用されている佐高信氏の文章「佐藤優という思想」を読んでなんだか気分が悪くなったことをおぼえている。

「 本誌の読者の中には、佐藤優を登場させることに疑義を唱える人もいると聞く。私も本誌の「読んではいけない」で佐藤の『国家の罠』(新潮社)を取り上げ、“外務省のラスプーチン”と呼ばれた佐藤が守ったのは「国益」ではなく、「省益」なのではないかと指摘したことがあるが、省益と国益が一致するとの擬制において行動する官僚だった佐藤は、それだけに国家の恐ろしさを知っている。たとえば、自分は人権派ではなく国権派ながら、死刑は基本的に廃止すべきだと考えるという。死刑という剥き出しの暴力によって国民を抑えるような国家は弱い国家だと思うからである。そして、ヨーロッパ諸国が死刑を廃止したのは、国権の観点から見て、死刑によって国民を威嚇したりしない国家の方が、国民の信頼感を獲得し、結果として国家体制を強化するという認識があるからだと続ける(佐藤『テロリズムの罠』角川oneテーマ21)。
“危険な思想家”佐藤優の面目躍如だろう。山田宗睦が『危険な思想家』(光文社)を書いた時、たしか、名指しされた江藤淳は、思想はもともと危険なものであり、“安全な思想家”とはどういう存在だと開き直った。この江藤の反論には、やはり、真実が含まれている。
 佐藤優も、国権派ならぬ人権派にとって“危険な”要素を含む思想家であり、人権派のヤワな部分を鍛える貴重な存在である。
 残念ながら、私たち人権派は小林よしのりの暴走を抑止する有効な手を打てていないが、小林がいま一番苛立ち、恐れているのは佐藤であり、佐藤はあの手この手を使って小林を追いつめている。
 まさに博覧強記で、あらゆることに通じている佐藤だが、それゆえに知識過剰な人間に弱い。私がほとんど関心のない柄谷行人にイカれているように見えるのはその一面だろう。 」(風速計)
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/data/fusokukei/data_fusokukei_kiji.php?no=630

佐高氏のこの文章を金さんは一つひとつ細かく分析し、批判していた。詳しくは原文に当たっていただくとして、『週刊金曜日』は2009年初頭イスラエルのパレスチナに対する軍事攻撃を非難して「現代のナチス」とまで呼び、読者にイスラエル製品のボイコットを呼びかけていた。その週刊誌が、日本の言論人の中で誰よりも強力にイスラエルを擁護する執筆者を同時進行で重用している事実は、これ以上はない読者への背信行為だろう。佐高氏はここで死刑廃止の例として、「ヨーロッパ諸国」を挙げている佐藤氏の文章を引用しているが、この行為にも金さんは佐高氏の狡さを見ている。佐藤氏は死刑廃止について語る場合たいていイスラエルの例を挙げ、イスラエルが死刑廃止国であることを強調し称賛している。このように「ヨーロッパ諸国」を例に挙げている場合はめったにないのだが、その点この『テロリズムの罠』という本の死刑についての佐藤文は佐高氏にとって引用するのに大変好都合だったわけである。

でも佐藤氏の場合は死刑についてもこれだけでは終わらない。別の場所では、堂々と死刑の適用範囲拡大の主張をしている。日本はスパイ防止のための法整備を進めるべきであるが、「スパイ防止法」という名称は世論の反発を呼ぶのでもう使えない。その代替として「情報公務員法」の制定を提唱している。情報を担当する人たちは「情報公務員」と規定するそうで、この人々が「情報漏洩をして国に危害を与えた場合の最高刑は死刑にする。つまり、ものすごくきびしい罰則規定を設けるわけです。ただし、事前に自首し、捜査に協力した場合は刑を免除する。このような極端な落差をつけることがミソなのです。」(『国家情報戦略』講談社+α新書2007年)と述べている。ここでの主張によると、死刑廃止はどこへやらなのだ。「このような極端な落差をつけることがミソなのです。」という発言は、特に重大な問題を孕んでいると思う。この例は佐藤氏の言論活動の真髄を表したもの、面目躍如といったところではないだろうか。

つい最近も佐藤氏の発言の二重性にちょっと驚かされる出来事があった。亀山郁夫氏との共著『ロシア 闇と魂の国家』(文春文庫2008年4月)で、佐藤氏は、『カラマーゾフの兄弟』の末弟アリョーシャについて「ぼくはアリョーシャが自殺するようなことはないとみています。アリョーシャは、自殺などしない、もっと本格的な悪党だと思います。」と話していた。「悪党」がどういう意味なのかこれだけでは分からないところもあるが、それでもアリョーシャを悪党、それも「本格的な悪党」とする批評にお目にかかったのは私は初めてだった。単なるその場の思いつきを口にしただけだろう(言い過ぎかな?)が、それにしても…と思っていたところ、最近読んだ『自壊する帝国』(新潮社2006年)では、佐藤氏はアリョーシャについてなんと「生まれつき聖人のような性格をもった三男アリョーシャ――」と生真面目な筆致で記述しているのだった。「一事が万事」とは佐藤氏の場合はその言説への姿勢――二枚舌にこそぴったり該当すると思われる。

金光翔さんが何度も引用していたと記憶するが、佐藤氏のいう「右と左のバカの壁を取り払う」こととは、もしかすると政治や社会問題はもちろん、小説の読み方の場合でも、上述のように自分の主張や見解をその時々の都合次第で、あるいは自分の気分次第で変幻自在にくるくる転回しても、また金光翔さんがこれまで数多く指摘してきたような見過ごし難い怪しげな主張や有害な論説を見つけても、読んだ者(それが出版社の社員であれ、一般読者であれ)はすべからく異論を唱えることなく黙認すべきだという意味なのだろうか? 岩波書店の刊行物をいくらか読んできた一読者の立場からすると、あれほど問題の多い佐藤氏の言説が編集段階で議論もなされず掲載されるということは信じられないことである。「ブラック・ジャーナリズム」という言葉にはいろいろな意味があるのだろうが、「ダーティ」とか「得たいの知れない」という意味も含まれているのだとすれば、なぜかどんな質問や意見や批判の声も黙殺してひたすら佐藤氏を重用する岩波書店の姿勢が「ブラック・ジャーナリズム的再編の方向に向かいつつあるようである。」と評されてもあながち不当とは言えないのではないだろうか。
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2011.06.11 Sat l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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