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  岩波書店の訂正・謝罪要求について(4)
  「陰謀論的ジャーナリズム、よりファッショ的な形でのプロパガンダ機関化」

岩波書店が金光翔さんに訂正・謝罪要求をしてきた三箇所の文章のうち、今日は最後の③について検討するつもりだが、この内容は前回とりあげた②とよく似ている。

② 「『世界』はどうも、このあたりの政治家や官僚・支持勢力のためのプロパガンダ雑誌になってしまっているように見える。」

③ 「『世界』その他リベラル・左派ジャーナリズムの、陰謀論的ジャーナリズムへの移行」
「『世界』その他リベラル・左派ジャーナリズムがよりファッショ的な形で、プロパガンダ機関化しつつあること」(「陰謀論的ジャーナリズムの形成(4):新しい段階へ――『世界』2010年3月号雑感」)2010年2月28日」

それもそのはずで、②も③も、タイトル「陰謀論的ジャーナリズムの形成」という連載記事の一部((3)と(4))なのだ。③は、「『世界』その他リベラル・左派ジャーナリズム」が、1)「陰謀論的ジャーナリズム」へ移行している、2)よりファッショ的な形で、プロパガンダ機関化しつつある、という指摘だが、この1)2)の指摘・論評が、岩波書店が主張するように訂正・謝罪しなければならない不当なものか、それとも現象の核心、正体を明らかにしようとする真面目な姿勢に支えられた正当なものであるかについて検討したい。


1)リベラル・左派ジャーナリズムの、陰謀論的ジャーナリズムへの移行

前回と前々回に言及したように、『世界』編集長の岡本氏は、日韓のあるシンポジウムで、「外務省の佐藤優が,ロシアとの間で北方四島の問題を実際に動かすために政治家とともに動いたことが.メディアから激しいバッシングを受け,逮捕起訴までされた事件を含め,外務官僚が現実を動かすために行動すること自身がリスクを負うことになってしまった。」と語っている。

佐藤優氏の事件に関する山口二郎氏の見解は、「検察が権力悪を追及する正義の味方というイメージは、もはや過去のものとなった。佐藤優が広めた「国策捜査」という言葉は、メディアに定着した。国策なるものの実体があるかどうかは別として、検察はしばしば自ら描いた筋書きに沿うよう、むりやり無実の人間に罪を着せることがありうることは、むしろ常識となった。」(「陰謀論的ジャーナリズムの形成(4):新しい段階へ――『世界』2010年3月号雑感」)というものである。

青木理氏は、佐藤氏の有罪判決確定を受けて、「多くの人が既に周知の事実として認識しているように、これらはいずれも、政界やメディアなどを覆い尽くした鈴木宗男氏バッシングの中で「ムネオ逮捕ありき」の捜査に突き進んだ検察が無理矢理に描き出した「虚構の絵図」に過ぎない。いまさら語るまでもないが、佐藤氏は2005年に『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)を著し、「国策捜査」という言葉を人口に膾炙させるきっかけをつくった。その後の活発な言論活動を含め、佐藤氏の言説が広く受け入れられているのは、検察捜査の歪みを何よりも雄弁に物語る。」(「週刊金曜日」2009.7.10)と書いている。

金さんは連載記事「陰謀論的ジャーナリズムの形成」では、青木理氏の上の発言は取り上げていないが、別のエントリーでこの記事を(この箇所ではなく別の箇所だったと思うが)批判していたと記憶する。上の岡本氏、山口氏、青木氏の文章を読んでみると、誰しも判ることと思うが、それぞれ表現のしかたは異なるにしろ、三人とも佐藤氏は無実の人間であるとの前提でものを言っている。けれども、どのような理由、根拠によって佐藤氏が無実なのかについては一様に何も述べていない。他の場所で述べているのかというと、私の知るかぎりそれもないようである。佐藤氏が国策捜査の被害者であることは今さら言うまでもない自明のことという扱いであるが、しかし、有罪判決を受けた人間についての根拠を示さない無実の主張は本来成立しない。

青木氏は、上述のように佐藤氏の有罪確定について、「政界やメディアなどを覆い尽くした鈴木宗男氏バッシングの中で「ムネオ逮捕ありき」の捜査に突き進んだ検察が無理矢理に描き出した「虚構の絵図」に過ぎない。」と述べているが、その判断はどのようにして導き出したのだろう。以前にも述べたことがあるが、「『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)を著し、「国策捜査」という言葉を人口に膾炙させるきっかけをつくった。」ことや「その後の活発な言論活動を含め、佐藤氏の言説が広く受け入れられている」ことは、「検察捜査の歪みを何よりも雄弁に物語る。」ことにはならない。

多くの人が冤罪で苦しんできたし、今も同じだと思う。その無念をようやくの思いで晴らすことができた人もいる。古くは四件の死刑冤罪事件、松川事件、八海事件、最近では足利事件、布川事件が記憶に新しいが、どの例を見ても、検察の立件、判決文の精査を通して具体的、実証的、詳細、緻密に無実の根拠を示していない例はただの一つもなかったろうと思う。無実を言う場合は同時にその根拠を提示することは論理的にも倫理的にも必要不可欠なことだろう。法廷資料とは無関係に自分たちの主観・独断で結論を決め付けて吹聴するのであれば、無実というも、有実というも、人の勝手次第ということになる。岡本氏、山口氏、青木氏の姿勢は、主観的にはどうあれ、客観的にはそのようなものになっているように思う。

三氏はどうも、佐藤氏は(そしておそらく鈴木氏も)不正なことは何もやっていないにもかかわらず、検察その他の謀略にはめられた、国策捜査という国家的陰謀の被害者である、と頭から決め付けていると思われ、このような姿勢、現象を考察した結果として金光翔さんは「陰謀論的ジャーナリズムの形成」と表現したのではないかと思う。実際、上述の三氏のような姿勢では、読者を欺くことになりかねないが、また、冤罪の重さ、深刻さをないがしろにすることにもつながりかねない。そのことを、岡本氏らはどう考えているのだろう。


2)リベラル・左派ジャーナリズムはよりファッショ的な形で、プロパガンダ機関化しつつある

『世界』2010年3月号には、久しぶりに佐藤優氏が登場して、岡本厚編集長の司会で歳川隆雄氏と対談していることはすでに記した。実は佐藤氏は『世界』で大田昌秀氏との対談連載を行なっていたが、この連載はここ半年ほど中断されていた。中断の原因について、金光翔さんは、「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」が(引用者:2009年)10月1日にウェブ上にアップされたことの影響があるのではないか、と推測していた。しかし、半年ぶりに『世界』は佐藤氏を登場させ、「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」については何の反応も示さなかった。このことについて、金さんは、『世界』は「『世界』の執筆者や熱心な読者すら署名している「共同声明」を、一片の説明もすることなく、無視した、ということである。」と受け止め、なお、

「これは、『世界』が新しい段階に入ったことを示唆しているように私は思う。要するに、小沢一郎の政治資金規制法違反関連の問題をめぐる、このところのジャーナリズム上の大騒ぎの中で、これまでの右傾化路線の延長上ではありつつも、『世界』がもう一段階上のフェーズに移行したのではないか、ということである。」

と述べている。「小沢一郎の政治資金規制法違反関連の問題」については岡本氏の興味深い発言もあり、後ほど言及したいと思うが、岩波書店および『世界』が、熱心な読者の署名もさることながら、岩波書店の著者が署名している「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」を無視したことにはいろいろなことを考えさせられる。金さんの論文「<佐藤優現象>批判」が雑誌『インパクション』に掲載された直後の、金さんに対する岩波書店の対応や、『週刊新潮』での岩波関係者の発言はどうだっただろう。

「岩波関係者」と名乗る人物は、『週刊新潮』の取材に対し、金さんについて「『私にも話させて』というブログで、『岩波』で著書も出版し、大事な執筆者である佐藤氏やジャーナリストの斎藤貴男氏の批判記事を書くようにもなりました。もし執筆者がそれを読み、その筆者が『岩波』の人間であると知ったらどう思うでしょうか。これは思想信条の問題でなく常識の問題です。」(「対『週刊新潮』・佐藤優裁判まとめ」第7回口頭弁論期日①(2010年4月28日):原告準備書面(3))と語っている。また、岩波書店は、金さんの論文発表に対し「著者・読者・職場の信頼関係を損なう行為」として厳重注意処分を行ない、役員の一人は、金さんに直接、岩波書店に一度でも寄稿したことのある筆者への批判を今後はしてはならないと通告したとのことである。

上記の発言をみると、岩波書店は全社一丸となって岩波書店の執筆者を神のごとくに敬っているかのようであるが、それならば岩波書店の著者が何人も署名している「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」を全社一丸となって無視したのは如何なる理由によるものなのだろう。このなかには、岩波書店と縁の深い、また岩波から非常に印象深い著作を刊行している著者も存在するように思うのだが…。

また、今回の「解雇せざるを得ない」通告についても、心ある岩波書店の著者の人々は会社・岩波労組に対して抗議を行なってくださっているそうだが、今回も岩波書店の対応は「共同声明」の時と同様なのだろうか? 5月11日付の「首都圏労働組合特設ブログ」の記事「岩波書店、「解雇せざるをえない」通知撤回を拒否」を読むと、きっとそうなのだろう。だとすると、岩波書店にとって、著者とは本当のところどのような存在なのだろう。岩波社員による岩波書店の著者やその著作への批判は一切許されないが、上層部による著者の無視・黙殺は許される、というような社訓でもあるのだろうか。 

記述が後先になったかも知れないが、「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」には、以下の文章が見える。

「佐藤氏は、言論への暴力による威圧を容認し、イスラエルの侵略・抑圧行為や在日朝鮮人の民族団体への政治的弾圧を擁護する等の、決して許容できない発言を、数多くの雑誌・著作物で行っています。当該メディアが佐藤氏を積極的に誌面等で起用することは、人権や平和に対する脅威と言わざるを得ない佐藤氏の発言に対する読者の違和感、抵抗感を弱める効果をもつことは明らかです。私たちは、佐藤氏の起用が一体どのような思考からもたらされ、いかなる政治的効果を持ち得るかについて、当該メディアの関係者が見直し、起用を直ちにやめることを強く求めます。」

この声明に盛られている「当該メディアが佐藤氏を積極的に誌面等で起用することは、人権や平和に対する脅威と言わざるを得ない佐藤氏の発言に対する読者の違和感、抵抗感を弱める効果をもつことは明らかです。」という、出版社にとって非常に重要と思われる意見・問いかけに答えることなく、佐藤氏を黙って再び『世界』に登場させたことは、このことだけに限っても、「よりファッショ的な形で…」と評されて当然ではないだろうか。私はこの表現に違和感をおぼえなかった。その上、『世界』同号には、以下のような発言も出ているのだ。

「 通常国会開幕直前に、石川知裕衆議院議員など小沢一郎幹事長の関係者が逮捕されたことで、政治論議は必然的に資金問題をめぐる小沢と検察の戦いに集中することとなった。政権交代による日本政治の変革、政策の転換に期待を託していた人々にとっては、これは困ったとしか言いようのない事態である。
 今回の事件に対する当惑は、民主党を陰で支配している小沢幹事長の金権腐敗ぶりが明らかになって困ったというものではない。既に昨年春、西松建設による不正献金事件が立件され、小沢は代表を退いた。国民は小沢が違法かどうかはともかく、巨額の政治資金を集めてきたことを承知の上で、民主党に政権を託した。さらに言えば、自民党竹下派の嫡子であり、企業から巨額の政治献金をかき集めてきたという小沢の来歴を承知の上で、ひ弱な民主党を束ねる必要悪として、豪腕小沢の存在を許容してきた。今頃になって、今度は水谷建設の裏金が流れたということで検察が国会議員の逮捕を含む強制捜査に乗り出したことが、困った話なのである。」(「民主党の民主化を」山口二郎)

「小沢氏が不透明な資金を得て、その政治力としていることは推定できる。しかし、民主党や政権首脳が小沢続投を支持、あるいは沈黙しているのは、メディアがいうように、単に小沢支配への恐怖があるというのみならず、検察の捜査(またそれと一体化したメディア)への不信があるからだろう。」(「対談司会」岡本厚)

金さんは、「このような、小沢が「不透明な資金を得て、その政治力としていること」を推定した上で、それ自体を容認・肯定する姿勢は、北村肇『金曜日』編集長の、最近の以下の発言も同じである。」と述べて、次の文章を引用している。

「「正義」の定義は難しい。何しろ、米国にすればベトナム戦争もイラク戦争も正義となってしまう。だが、「不正義」はそれなりに言葉で表現できる気もする。「『力』によって他者を虐げ、あるいは私利私欲を図る行為」――。この解釈に従ったとき、小沢一郎氏をめぐる東京地検特捜部の捜査は「不正義」だろうか。
 特捜部が「力」を持っているのは間違いない。仮に国策捜査の色合いが濃ければ「他者を虐げ」につながる。しかし「私利私欲」があるとは思えない。では小沢氏はどうか。ゼネコンに献金を強制していたことが明らかになれば不正義は避けられない。が、政治改革を目指しての集金なら「私利私欲」と言い切るのは無理がある。政治にはカネがかかる。その現実を捨象しての「正義」は表層的なお題目でしかないからだ。
 小沢氏の師事した田中角栄氏が単なるカネの亡者でなかったことは、その後、さまざまな書籍で浮き彫りになりつつある。ロッキード事件当時、検察は「正義」だった。いきおい、田中氏には「不正義」のレッテルが張られた。だが、その見立てが正しかったのかどうか、まだまだ検証が必要だ。」(『週刊金曜日』2010年2月5日)

これらについての金光翔さんの論評を以下に示しておく。

「「政治改革を目指しての集金」ならば問題ないと北村編集長がしている点は、重要なものを示唆していると思う。山口・岡本編集長・北村編集長の上記言説について、「司法の機能の否定」だけを見るのは適切ではないのである。集金が「政治改革を目指して」のものなのか「私利私欲」のためなのかを判断するのは誰か?北村編集長らリベラル・左派メディアの編集者・言論人である。これらの人物の、「司法の機能の否定」「法治主義の否定」の背景にあるのは、「善悪を決定するのは自分たちだ」という独善そのものの世界観が控えているのだと思われる。」

正鵠を得た批評ではないだろうか。上述の文章を含めた岡本氏およびその他の人々の発言を読んで、「リベラル・左派ジャーナリズムはよりファッショ的な形で、プロパガンダ機関化しつつある」という金さんの批評はきびしくはあっても、事の本質を衝いたものだと思ったが、批評のそもそもの目的はいつもそこにあるのではないだろうか。
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2011.06.23 Thu l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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