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  「我、国に裏切られようとも 証言 村上正邦」について (下)

村上正邦氏が参議院議員選挙に百万以上の得票で初当選(1974年に続く二回目の挑戦)したのは1980年。議員になるまでの氏は、生長の家創設者の谷口雅春氏の講演に鞄持ちとして随いて回ったり、生長の家の先輩である参議院議員玉置和郎氏の秘書官を務めたり、生長の家・仏教・神道・キリスト教などの諸宗教関係者・団体が集まって1974年に結成された「日本を守る会」(注)に拠って「天皇即位50周年」祝辞行事や、元号法制定(1979年)のために裏方の役回りで精力的に活動していたようである。

「我、国に裏切られようとも 証言 村上正邦」を読んでいると、国会議員になってからの村上氏は「参院のドン」と呼ばれていたそうだが、確かにさもありなんと思えるほど、重要な政局や法案成立に深く関わり、存在感を発揮していたようである。PKO法や国旗・国歌法の成立、4月29日を昭和の日とする祝日法改定など。また、小渕首相が病で倒れた直後に密室で後任・森総理を決定したとされるいわゆる五人組の一人でもあった。憲法「改正」はもちろん、優生保護法「改正」などにも最も熱心な政治家の一人であったが、今も講演などで、これらの法改定の必要性を説いて回っているのか、母体保護法「改正」の必要について壇上で話している村上氏の動画がウェブに出ている。本で語っている話とまったく同じ内容だったのにはちょっと苦笑させられたが、その場面を少し本から抜き書きしておくことにする。1982年、参院予算委員会でのことだったそうである。


「総理はじめ閣僚の皆様にぜひ聞いていただきたい歌がございます。」
そう前置きして私は次のような、歌詞を読み上げました。

ママ! ママ!
ボクは、生まれそこねた子供です
おいしいお乳も知らず
暖かい胸も知らず
ひとりぼっちで捨てられた
人になれない子供です
ママ! ママ!
ボクの声は 届いているの
ここはとても寒いの
ママのそばに行きたい
ボクは 生まれそこねた子供です

読み上げた後で鈴木善幸首相らの感想を聞くと、鈴木首相は「幼い生命についての切々たる叫び、そういうものを私はこの詩から感じる」と言い、森下元晴厚相は「まことに示唆に富んだ、内容の深い歌であり詩であると思う」と答えたので私はこう言いました。
「この歌を聞くたびに中絶された胎児のしゅうしゅうとすすり泣く悲しみの声が海の底から間こえてくる思いがする。優生保護の名のもとに聞から闇へと葬り去られた五千万から七千万にも上る胎児の御霊に懺悔し、御霊鎮まれと祈り、合掌しつつ本論に入らしていただきます」
 生長の家は法改正のために七百万人の署名を集めました。玉置と私で二百人近い国会議員を集めて『生命尊重議員連盟』もつくった。そうやって中絶は生命の尊厳を否定するものだから中絶理由から経済条項を削除すべきだという一大運動を展開したんです。
昭和五十七年十一月に総理になった中曽根康弘さんは生長の家の二代目総裁・谷口清超先生と東大の同期だった。そのうえ奥様が生長の家の活動に熱心で、ご主人が朝出かけるときは『甘露の法雨』を必ず背広の胸のポケットへ入れておかれるから、中曽根さんも法改正に積極的だった。 」

この法「改正」案には自民党でさえ女性議員は議連をつくって反対した。これは当然のことで、「改正」されたあかつきにはどんな悲惨な事態が女性の身に生じることになるか、あまりにも明白であった。村上氏が口ぶりからしてそのような事態を想像さえしていないらしいことには一驚をおぼえる。上記の歌詞は誰の作なのか、苦々しいというか、失笑してしまうというか、ちょっと恥辱に似た思いをおぼえたりもするので、これをあちこちで披露するのはどうか勘弁してほしいと村上氏にはお願いしたい。

村上氏にとって1999年の国旗・国歌法の成立は感慨深いものだったようで、「 私は日の丸、君が代という日本人の魂を千代に八千代に残すことができたことを今も誇りに思っています。」と述べている。

日の丸、君が代が日本人の魂だなぞというまるで根拠も説得力もない、日本以外では通用しそうもない勝手な思い込み・決めつけを国民・市民に押し付けようとして作られたのが「国旗・国歌法」ではないのだろうか。上記の村上氏の理屈が成立するためには、アジア・太平洋戦争は侵略戦争ではなく、聖戦だったとしなければならず、その点村上氏の場合、極右政治家としての論理は一貫しているのかも知れない。しかし、この法律が教育の現場で強制力をもつようになって以来、本来児童・生徒の教育に関心や熱意をもっている若い有為な人材が教職そのもの、あるいは公立学校を敬遠するようになっていることも客観的事実である。君が代を起立して歌わなければ処分するというような、恐喝・恐怖を内在する職業や職場を迷いなく選ぶことは、歴史や世界をきちんと知れば知るほど困難なことになるだろう。

魚住氏は、「野中広務 差別と権力」(講談社2004年)のなかで、2003年9月、政界引退を発表した直後の野中氏が有楽町の日本外国特派員協会に招かれて話をしたときのことを次のように書いていた。


「イラクに自衛隊が行ったとき、犠牲者が出なければ日本人は気がついてくれません。正当防衛としてイラクの人を殺すことになる。日本は戦前の道をいま歩もうとしているのです。そこまで言われなければ気がつかないのかなあと思うと、一つの時代を生きてきた人間として本当に悲しくなります」
 悲壮感を漂わせた野中の演説を聞きながら、私はこの野中の評伝が月刊誌に掲載された直後に衆院議員会館で彼に会ったときのことを思い出していた。
 彼はうっすらと涙をにじませた目で私を睨みつけながら言った。
「君が部落のことを書いたことで、私の家族がどれほど辛い思いをしているか知っているのか。そうなることが分かっていて、書いたのか」
 私は答えなかった。返す言葉が見つからなかったからだ。どんな理屈をつけようと、彼の家族に心理的ダメージを与えたことに変わりはない。
 野中は何度も同じことを私に聞いた。私は苦し紛れに言った。
「ご家族には本当に申し訳ないと思っています。誠心誠意書いたつもりですが……これは私の業なんです」
 私の業とは、心の奥深くから湧き上がってくる、知りたい、書きたいという取材者としての衝動のことである。「あなただって、自分の業に突き動かされて政治をやってきたのではないか」
と私は言いかけて、その言葉を途中でのみ込んだ。
 野中は差別という重い十字架を背負いながら、半世紀にわたる権力闘争の修羅場をくぐり抜けてきた男だ。おそらく私が暗に言いたかったことを分かったのだろう。彼はそれ以上、何も聞こうとしなかった。」


「これは私の業なんです」という魚住氏の言葉を、私は僭越な言い方で恐縮だが、おそらく「それ以上、何も聞こうとしなかった」野中氏と同じように受けとめていたのではないかと思う。みんなが薄々知っていることだったとしても、それが重大なことであれば、文字に綴ることには特別の重みが生じる。他人についてその人やその家族を傷つけてでも、自分の業のためにあえて書くというのであれば、自分には書くことにおける責任をきちんと引き受ける覚悟があると宣言したことになるはずだ。そのとき私はそう思って魚住氏の業という言葉に対し、真実に近づこうという気骨のようなものを感じ、清清しい気持ちがしたのだが、けれども、残念なことに、「我、国に裏切られようとも 証言 村上正邦」には、そのような心構え、矜持は片鱗も感じられなかった。

「ナーンダ、ソウダッタノ。」というような言葉をある作家が反体制の立場をとりながら勲章を授けられると辞退しないで受勲する人々について失望も露わに書いているのを読んだことがあるが、この本に対して私もちょうどそういう感じをもった。この本について、魚住氏は「はじめに」で「本来なら決して交差しないはずの語り手と聞き手が、たまたま遭遇して生まれた火花のようなものだと言ってもいいだろう。」と述べているが、はたして火花がどこかのページで一瞬にせよ飛び散ることがあっただろうか。そもそも表題の「我、国に裏切られようとも」からして、語り手と聞き手のいい気なナルシシズムが絡んでいないだろうか。

岩波書店は長年、哲学や歴史から物理、数学など幅広い分野にわたって岩波講座という書籍をシリーズで出しているが、2002~2003年には、「天皇と王権を考える」という講座が全10巻で刊行されている。図書館の棚を見ていて王政と天皇制の違いというようなことが解るかも知れないと思って、当時借りたことがあるのだが、第一巻の「人類社会の中の天皇と王権」に「現代天皇制論 ――日常意識の中の天皇制」(栗原 彬著)が掲載されており、このなかに村上正邦氏のことが取り上げられている。その部分を以下に引用する。


 ここで一つ重要な論点として出しておきたいのは、二番目に挙げた「天皇なんて知らないよ」という若者を動員することをめざした、「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」の問題です。これは、1999年11月12日に皇居前広場と外苑を使って行なわれた大規模な祭典です。主催は稲葉興作が会長をつとめた奉祝委員会と、森喜朗が会長であった奉祝国会議員連盟です。しかし、この演出シナリオをつくったのは末次一郎と村上正邦という人物でした。
 末次一郎は国士と言える人物です。佐賀県出身、国民祭典の当時は77歳、陸軍中野学校を卒業した元軍人です。(略)天皇の主催する園遊会に6回招待されているという、民間人では異例の存在です。昭和天皇の大喪の礼にも、新天皇の即位の礼にも招待されています。また若い人の教育、若者の国家への奉仕活動を熱心に推進してきました。
 もう一人が、KSD事件で逮捕された自民党、元参議院議員の村上正邦です。(略)少年時代は、昼は炭鉱で夜は学校というように苦学をした人です。(略)100万の組織票が目当てだったとは思いますが、生長の家の主張を政治的な発言の中にもずいぶん取り込んでいきます。超タカ派の右翼政治家です。この人が国民祭典の企画、立案、実施で、末次一郎とともに大きな役割を果たします。
 この村上という政治家の特徴を表すエピソードを紹介しましょう。1998年に「特定非営利活動促進法」という法律が成立しますが、これはもともと「市民活動促進法」という名称で検討が進んでいたものです。ところが、突然「市民」が落ちて「特定非営利活動促進法」となった。それは村上が、「市民とは何事か。国家観にそぐわないではないか」と強く主張して、こうなったらしいといわれています。
 彼は、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の事務局長、「皇室問題懇話会」事務局長、それから「神道政治連盟国会議員懇談会」幹事長という、ナショナリズムの重要な部分の元締めの位置にいて、政治の世界を牛耳っています。こういう人が国民祭典を企画したのです。
 出席者は、政界、経済界、学会、教育界の著名人はもとより、芸能界、スポーツ界の著名人を網羅する、動員でした。(略)末次や村上からすれば、そういった出席者は国家のエージェントです。国民という観客を動員するエージェントなのです。「天皇制なんて知らないよ」という若者を動員する、観客動員力が、エージェントとして選抜される時の評価の基準になっているのです。
末次や村上で見逃せないのは、発想の中にいつも全体化の契機がある点です。いつも「国体が入っている」と言ってもいいと思います。末次の奉仕活動はそういうものです。そこで想起したいのは、たとえばNPOに熱病のように走る現象です。国家による「奉仕活動の義務化」の提案に異議申し立てをしたのは、日本ボランティア学会有志などごくわずかで、大多数のNPOは沈黙を守って、権力に服従したのです。 」


栗原 彬氏の文章が岩波講座に掲載されてから、魚住昭氏の「我、国に裏切られようとも 証言 村上正邦」が『世界』に連載されるまでには4、5年の期間しかない。人気歌手、スポーツ選手など有名人の動員が物凄かった「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」の問題や「市民活動促進法」という名称が「特定非営利活動促進法」に変わった経緯など、先行する岩波書店の書物に叙述されていることなのだから、せめて村上氏に真相を訊いてみると、まだよかったろうと思うのだが、出来上がった本をみると、とてもそういう裁量の余地はなかったのではないかとも思える。自由で公平な聞き書なら、当然許容範囲のことと思われるのだが、紹介者の佐藤優氏への遠慮なのか何なのか、『世界』も著者も知らないふりをしている。不思議なことである。そして一読者である私などがこうしてヘンだと感じるくらいなのだから、当時『世界』を離れるかどうかの渦中にいた金光翔さんはこの件については何も語っていないかも知れないが、実はさまざまなことを感じ、考察していたのではないかとこうしてブログ記事を書きながら思うしだいである。



(注) 「日本を守る会」は、その後、元号法制定のために運動した人々や関係諸団体を中心に1981年に結成された「日本を守る国民会議」とともに、「日本会議」(1997年結成)の前身。かの悪名高い「日本会議」はこの「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」とが合併してできたわけである。

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2011.06.29 Wed l 言論・表現の自由 l コメント (1) トラックバック (0) l top

コメント

>日の丸、君が代が日本人の魂だなぞというまるで根拠も説得力もない、日本以外では通用しそうもない勝手な思い込み・決めつけ

世界的には、国旗と国歌がその国の統合たる象徴のなっていることのほうが多いのでは?

戦後すぐの1950年代にも新国歌制定の運動がありましたが、それを乗り越えて、未だに日本の象徴として国内的にも国外的にも使用され、認識されていることに、根拠も説得力もないとは?
2011.06.29 Wed l . URL l 編集

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