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吉本隆明が書いた文章は数多いと思われるが、私の場合、雑誌などに載ったものを折りにふれて読んだだけでまとまったものを読んだことはこれまではなかった。本箱をみてみたところ、「わが転向」(文春文庫1997年)という文庫本が一冊あるきりである。今回、遅ればせながら、「「反核」異論」」(深夜叢書社1982年)と「「情況への発言」全集成3」(洋泉社2008年)の二冊をつづけて読んでみたので感想を述べてみたいと思う。「「情況への発言」全集成3」のほうは、吉本隆明が1961年から長く私家版で発行していた「試行」という雑誌に1984年から1997年にかけて発表した文章を収めたもののようである。内容はすべて、主(おそらく吉本隆明自身のことではないだろうか)と客との対話で構成されている。「「反核」異論」」もそうだが、読んでいて刺激的で興味津々のおもしろい内容の本であることは間違いない。客にいたっては、気に入らない相手に対して「死ね! 馬鹿野郎。」なんて凄まじい悪態もついていたりすることだし。けれども、当人たちが熱意と確信をもって断言調で語っていることが錯誤の少ない思想的にすぐれたものであるかどうかについては大いに疑問があるように感じた。気にかかったことをつらつら書いてみたい。

この時期に少し吉本隆明の本を読んでみようかと思ったのは、5月に毎日新聞「特集ワイド 巨大地震の衝撃 日本よ! この国はどこへ行こうとしているのか」に掲載された吉本隆明の発言を読んだからだった。吉本隆明の談話は、「科学技術に退歩はない」のタイトルで、次のようなものであった。

「原子力は核分裂の時、莫大なエネルギーを放出する。原理は実に簡単で、問題点はいかに放射性物質を遮断するかに尽きる。ただ今回は放射性物質を防ぐ装置が、私に言わせれば最小限しかなかった。防御装置は本来、原発装置と同じくらい金をかけて、多様で完全なものにしないといけない。原子炉が緻密で高度になれば、同じレベルの防御装置が必要で、防御装置を発達させないといけない」

「ひどい事故で、もう核エネルギーはダメだという考えは広がるかもしれない。専門ではない人が怒るのもごもっともだが……」と理解を示しつつも、ゆっくり続けた。「「動物にない人間だけの特性は前へ前へと発達すること。技術や頭脳は高度になることはあっても、元に戻ったり、退歩することはありえない。原発をやめてしまえば新たな核技術もその成果も何もなくなってしまう。今のところ、事故を防ぐ技術を発達させるしかないと思います」

「人類の歴史上、人間が一つの誤りもなく何かをしてきたことはない。さきの戦争ではたくさんの人が死んだ。人間がそんなに利口だと思っていないが、歴史を見る限り、愚かしさの限度を持ち、その限度を防止できる方法を編み出している。今回も同じだと思う」

「ただ」と続けた。「人間個々の固有体験もそれぞれ違っている。原発推進か反対か、最終的には多数決になるかもしれない。僕が今まで体験したこともない部分があるわけで、判断できない部分も残っています」(毎日新聞5月27日)


インタビュアーの毎日新聞記者は、「吉本さんの考えは30年前と変わっていない。「『反核』異論」にはこんな記述がある。<知識や科学技術っていうものは元に戻すっていうことはできませんからね。どんなに頽廃的であろうが否定はできないんですよ。だからそれ以上のものを作るとか、考え出すことしか超える道はないはずです>」と記している。

原子力発電(所)の技術開発を推進するべきという点では吉本隆明は確かに「30年前と変わっていない」。けれども、「今回は放射性物質を防ぐ装置が、私に言わせれば最小限しかなかった。」と話している点については、昔はそんなことは言っていなかったのではないだろうか。吉本隆明は原子力発電の危険性について、「航空機や乗車事故よりも危険がおおいともおもわない。」(「情況への発言」全集成3)と述べている。

航空機事故や自動車事故がどんなに巨大かつ悲惨な規模のものであっても、その事故がその後の数年、数十年にわたって地球上の大気や土壌や水や生物に悪影響を及ぼし、被害を引きずっていくことはない。吉本隆明は故意にその点を無視しているのではないだろうか。だから、

「「放射性物質は、その放射能が半減する半減期が、いちばんみじかいものでセシウム137の30年、プルトニウム239にいたっては、何と半減期が24360年である。いま日本に蓄積されている放射性物質はドラム缶で50000本をとうにこえており、この南太平洋への海洋投棄がおおきな政治問題化しているのも、周知のことだろう。」

などと語る人に対しては、

「知ったかぶりをして、つまらぬ科学者の口真似をすべきではない。自然科学的な「本質」からいえば、科学が「核」エネルギイを解放したということは、即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である。また物質の起源である宇宙の構造の解明に一歩を進めたことを意味している。これが「核」エネルギイにたいする「本質」的な認識である。すべての「核」エネルギイの政治的・倫理的な課題の基礎にこの認識がなければ、「核」廃棄物汚染の問題をめぐる政治闘争は、倫理的反動(敗北主義)に陥いるほかないのだ。」

と頭から否定し罵っている。「半減期」云々の説はおそらく正確な事実なのだろうから、別に吉本隆明から「知ったかぶり」と罵られるいわれはないと思うのだが…。加藤周一は、医者として1945年8月6日の原爆投下から1ヶ月後に患者の治療のために広島に入った経験をもつそうだが、20世紀に積み残した課題として、核エネルギーについて「1930年代の終りに核分裂がわかった。そうすると、物理学者は圧倒的に強大なエネルギーが核のなかに入っていること、そしてそれが原則として解放されることがあり得ることを知るようになったのです。それは、第二次大戦が起る前です。それが爆弾になり原子炉になった。」と述べた後、次のように語っていた。

「核エネルギーの問題は先延しです。先に行っても安全だから使っているのではなく、先になったときわれわれは死んでしまうから、後は野となれ山となれということです。核エネルギー政策というのはそういうものです。あと10年や20年は大丈夫、つまりわれわれの生きているうちは大丈夫だと、賛成する専門家たちはいっているのです。しかし、われわれが死んだ後どうなるかの保障は何もない、どうなるかわからない。」(「20世紀はどういう時代か」1993年)

加藤周一の認識のほうが現実に即して正確だと思う。「核」エネルギイを解放したということは、即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である」とは言えないことは、不幸なことに今回の原発事故が明瞭に証明したと言えるのではないだろうか。吉本隆明は、1982年に当時の日本の文学者たちが反核の声明を出したり、署名を集めたりの運動をしだしたころから反原発を主張する人に対して「ソフト・スターリニズム」とか「反核ファシズム」「反動」などといって批判・非難をつづけている。

「反原発などといっている左翼、進歩反動たちは、みな文明史にたいする犯罪的理念だよ。文明史の到達点としての原発を否定するのは、いいかえれば焼石や木片マサツ、風車や水車から蒸気機関というようなエネルギー獲得の手段史として原子力発電(所)をみたばあい、これに反対し否定するのは人類の文明史にたいする蒙昧と反動だ。」「原則は、原発の科学技術安全性の課題を解決するのもまた科学技術だということだ。それ以外の解決は文明史にたいする反動にしかすぎない。」

それだけではなく、どんな根拠をもって述べたのか知らないが、「ソ連原発事故のようなものは確率論的にはあと半世紀は起こらない。」とも断言している。いい加減な態度・姿勢としか言いようがない。彼を「戦後最大の思想家」と称える人たちはどんなところを指してそう述べているのだろうか。上述の「「情況への発言」全集成3」から1989年2月に私家版『試行』に掲載されたという文章を長くなるが下記に引用しておきたい。(なお、原文の傍点は下線にかえた。強調の太字は引用者によるもの)


 …原子力発電(所)とはなにか? これが建設され、運転され、じっさいに電力エネルギーを30%供給しはじめていることは、どんなことか? しかるが故に原子力発電(所)に反対であるか賛成なのかをきめるには、いくつかの層をかかえている。その層のひとつひとつについてチェックしてゆくべきだと考える。これを反核、反原発、エコロジーなどと収斂させるのは、反動以外の何ものでもない。
 まあざっとかんがえて、混用したり、ひとつに収斂させたりしてはならない原発問題の層をいくつか設定してみようじやないか。

⑴ 安全性の層
 これには二つあるとおもう。ひとつは文字どおり、装置のもつ安全設計の問題だ。大前研一の記述のとおり、かんがえられるかぎり、ほかのどんな科学技術装置よりも何重もの安全設計が行われている。それでも大事故が起こりうる可能性は、操作ミスを含めて皆無ではない。小さな事故はいつでも起こっていて、その都度、部分的な補正や改造や取りかえがやられているだろうが、チェルノブイリのような事故が発生するのは皆無だという保証はまったくない。それは人間の手になる装置であり、操作もまた人間の手によるものだからだ。だがいっておくが反原発のヒステリイどもがいう「危険な話」は嘘と誇張にしかすぎない。事故が絶村に許されないというのも嘘だし、かつての炭坑労働者のように危険を知りつつも、生活や困窮のため仕方なしに働いているというのも嘘だ。いってみれば現代的な設備と建物と装置にかこまれて、絶対の安全感のうえで働いているといったほうがいい。ただ繰り返しいうが、この絶対的な安全感は、絶対的な安全性とおなじでないことは、あらゆる技術的装置とおなじだ。絶対的に安全な装置などありえないから、おまえは科学技術の現場にあって技術にたずさわること、新しい技術を開拓することをやめるかといわれれば、わたしならやるにきまっている。危険な装置の個所や操作の手続に不安があれば、何度でもおなじ実験を繰り返して、対応の方法を見つけだすまでやる。それが技術家の良心だ。反原発運動などといっている文士や知識人や、いかがわしいルポ・ライターや、テレビ・ディレクターどもには、ひとかけらの良心も、技術の開拓者としての心がまえもありはしない。ただじぶんの空想的な危険感と恐怖感をじぶんの心に秘めておけばいいのに、それをソフト・テロリズムの手段にして、大衆の無知と恐怖心と不安感を組織している。しかも良心の名を使いやがって。
 おれはすこしも原発促進派ではない。だが原発を廃棄せよと主張するような根拠はどこにもない。ソ連原発事故のようなものは確率論的にはあと半世紀は起こらない。半世紀も人命にかかわる事故が起こらない装置などほかにないし、航空機や乗車事故よりも危険がおおいともおもわない。大衆や婦女子の恐怖心に訴えるソフト・テロなど粉砕すべきだし、改廃を論議し市民の運動としたいなら大衆の理性と知性に訴えられなければ、そんなものは反動にすぎないのだ。
⑴の安全性の層について賛否をいえば、おれなら反原発運動に反対。原発促進にも積極的に同意する根拠と立場をもたない。だからといって原発促進にすぐに賛成ということにはならない。それは一般大衆の場所と政府や原子力公団の場所との距離の遠さを無視することになるからだ。

⑵ 地域・経済・利害的な層
 ここでいうのは、そんなだいそれたことではない。原子力発電所を建設地として誘致すると、どれだけの補償金が地方自治体に入り、工事を請負った土建業と関係者がどれだけの利権を手に入れ、公団がどれだけ利益をうるか、地域の住民にはどんな程度の危険感がただようものか、といったことだ。このことではふつうの住民がかげで煮湯をのまされたり、心のなかと表立って発言することと本音とは、たてまえほどちがっていたりということがありそうな気がする。おれならば「反原発」ないし「地域管理原発」を主張したいのはこの問題の層だけだ。
 東京に原発をつくれなどといって脅しているつもりの、バカなソフト・テロリストもいるくらいだから、隣の寺の墓地に原発をつくれなどということもあるかもしれない。そしたらどうする? ちえっ、おれにたいしてはそんなの脅しにもソフト・テロにもならないさ。できるだけ高額の補償金と移転料を獲得する運動を組織するかもしれないし、反原発の住民連中が引越したあと、涼しい顔して住みつづけるかもしれない。ただ嘘と誇張とヒステリックな擬態にみちた、いまの反原発連中や社共のようなぐうたら政党の介入を絶対に許さないことは確実だな。問題は、はっきりしている。地域住民の無言の利益を守ること。安全だとおもっている住民が気持ちよくとどまれるようにすること。危険だとおもっている住民に気持ちよく退去するに充分な補償金をたたかいとること。そのほかの反原発の理念など虚偽としてゴミ箱のなかにたたき込むこと。それだけさ。

⑶ 科学技術的な層
 おれは科学技術的な層の問題として原子力発電(所)が存在することに賛成だ。すくなくとも一度でも科学技術にたずさわったことのあるものとして、原子力を発電に利用しようとする装置を考案し、製作し、作動させて、電力エネルギーの30%供給までチェルノブイリ規模のような人命事故を起こさないできた技術の現状を、否定し廃棄すべき根拠がない。安全装置をもっと多量に、充分にという技術的課題に限度はないということを認めるとしてもだ。
 もちろんそうまでして原子力発電に固執する根拠はあるのか、という疑問はありうる。だがこの疑問は、反原発の半端もんたちは、ヒステリイ病状を露呈してまで、どうして反原発の迷蒙に固執するのかという疑問とおなじ意味でだ。おれがこの原発問題にそれほど本気になれないのは、科学技術の進展が、一挙にこの間題を解決してしまうことが、ありうるとおもうからだ。それが超電導常温物質の発見であってもいいし、太陽発電所の宇宙空間設置であってもいい。またその他であってもいい。このどれひとつでも〈危険〉がないでもない原子力発電(所)の問題を無化してしまう。そういうことは充分に短い期間内にありうることだ。チェルノブイリ級の原発事故は、確率論的にもうあと半世紀はありえない。反原発連中はほっとけば自然消滅するが、おなじように原子力発電(所)自体も、科学技術の歴史の途上で自然消滅して他のより有効で安全性のより多い技術に取って代わられるに決まっている。ただ原則は、原発の科学技術安全性の課題を解決するのもまた科学技術だということだ。それ以外の解決は文明史にたいする反動にしかすぎない。

⑷ 文明史的な層
 これはもう自明のことだ。反原発などといっている左翼、進歩反動たちは、みな文明史にたいする犯罪的理念だよ。文明史の到達点としての原発を否定するのは、いいかえれば焼石や木片マサツ、風車や水車から蒸気機関というようなエネルギー獲得の手段史として原子力発電(所)をみたばあい、これに反対し否定するのは人類の文明史にたいする蒙昧と反動だ。疑問の余地などどこにもないよ。

 けっきょくどうなんだ。この原発問題というのは。きみのような多重な層の問題について個別的にチェックしていけば、はっきりと疑問視できるのは、⑵の地域・経済・利害的な層の問題だけじゃないか。
 そうなんだ。狐憑きがいて原子力発電(所)の問題を、「反核・反原発・エコロジー」などといっしょくたにして原始的自然に退行して一点に凝縮させると、とんでもない迷蒙が生みだされる。ほんとは泰山鳴動して鼠一匹しかでてくるはずがないんだ。こんなのが全社会の問題たりうるとかんがえるのは、狂気の沙汰だよ。 」


上記の「⑵ 地域・経済・利害的な層」を読むと、吉本隆明は、原子力発電所を危険だとおもっている住民は気持ちよく退去するに充分な補償金をたたかいとること以外には、選択すべき道はないかのように扱っている。彼はよく「非政治的大衆」「半政治的大衆」という言葉を用いているが、この文章の論理からすると、原発の地元誘致に反対してそのために闘う住民は「半政治的大衆」であり、彼の好きな「非政治的大衆」と較べれば、さして問題にするに値しない存在ということになりかねないのではないだろうか。
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2011.08.05 Fri l 吉本隆明 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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