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  辺見庸氏の吉本隆明評 など

吉本隆明についての記事を書きかけのまま中断していたのだが、この間に集めた彼に関係する文章や、かつて彼について語られた言葉のうち前々から気になっていたことなど、これからまた少しずつ書いていきたい。

現代作家のなかでは私は辺見庸氏の文章をわりによく読んでいるのだが、辺見さんは2004年に病で倒れる前の数年間何度か吉本隆明について書いている。たいてい、半端ではないきびしい内容の評だったが、当時これを私はごく当然の評価として受けとめていた。雑誌などでたまに見る吉本発言は、わざわざ読むだけの意味や価値があるものには感じられなかったので。2001年の9.11について、吉本隆明はテロ実行犯を日本の特攻隊と較べて論じ、特攻隊を称賛しているかのような発言をしていたことがある。世界の現実は彼の頭のなかから剥がれ落ちてしまっているかのような話しぶりだった。辺見さんにはそういう吉本隆明の姿は堪えがたかったのかと思う。

吉本隆明が95年のオウム事件の際に「麻原さんは現存する宗教修行者のなかで世界でも有数の人物である。」と述べたことは、自分にはとてもそうは思えないということとは別に、何事においても極端に一方向にのみ偏りがちな日本社会にあっては貴重な問題提起だと思ったのだが、裁判が始まったころからか、ふっつりとオウムについて口を開かなくなった。吉本隆明はオウムの教祖・麻原彰晃が裁判で自分の世界観や宗教的信念を開陳し、その思想的立場から一連の事件を起こした理由を陳述・説明するのではないかと期待していたのかも知れない。もしそうだとすると、彼の期待は叶わなかったわけだが、それならそれで、教祖に対して「世界有数の宗教修行者」とまでの評価を公言した以上、自分のその麻原評は的確だったと今でも考えているのか否かをきちんと語るべきだったろう。ただ吉本隆明のそういう態度は予想できなくもないことだったので、私は「やはりそうだったか」と思い、その時以来、もともとそう大した思想家でも批評家でもなかったのだというような感覚を持ってしまった。 (ちなみに中沢新一氏の場合も、オウム事件に関するその後の態度は中途半端のままなのでは?) こう言ってしまえば身も蓋もないようだが、こうして書きながら、あの麻原讚美はもしや当時のオカルトブームのなかで超能力に魅了された若い人たちと似たような心理に動かされていたのでは? ひょっとしたら、それだけのことだったのでは? というような情けない疑念さえ浮かんでくる。

それでも、吉本隆明は3.11の原発事故発生時の原発推進肯定発言についてもメディア上で大きく取り上げられていたし、かつて小沢一郎という政治家の「日本改造計画」という本を称賛したこともいまだに時々小沢支持者の文章や談話に引用される(利用される)ことがある。80年代以降の日本社会にあたえた彼の思想的影響力は相当に大きかったのだと思われる。4、5年前、まだブログを始めて間のないころの金光翔さんは、「ちくま・イデオロギー(1) 」という記事のなかで、

「 2ちゃんねらーやネット右翼の思想的教祖を、小林よしのりとする見方がある。 北田暁大が確かそうだった。2ちゃんねらーを彼のように「政治的ロマン主義」 と見る立場(私には馬鹿らしく思えるが)に立たず、単純に右翼的な人々と見る人たちも、2ちゃんねらーは小林よしのりや西部邁らの右派系文化人に洗脳された人々と見る傾向があるのではないか。

私は違う認識を持っている。非常に大雑把かつ図式的に言えば、むしろ、2ちゃんねるやネットの全体としての右翼的な傾向を作ったのは、竹田青嗣や加藤典洋 といった、90年代に筑摩書房などの出版物で活躍した文化人の影響を強く受けたコテハンや、ネット上の書き手の存在である。

あくまでも私の印象であるが、数年前の2ちゃんねるは、ネット右翼ばかりというよりも、むしろ、左派知識人や市民運動の諸活動を「ルサンチマン」として嘲笑・否定しはするが、「右翼」との距離を強調するようなコテハンが、雑多な知識と執拗な左派批判のゆえに尊敬され、スレッドの議論をリードし、そうした左派への嘲笑・批判の雰囲気の下で小林よしのり信者のような連中が暴れる、とい った構図が支配的だったように思われる。今は言葉通りの「ネット右翼」ばかりのように見えるが、2ちゃんねるやネット全体の右翼的傾向を決めた数年前は、 「2ちゃんねらー」というように一枚岩で括るよりも、むしろコテハン=中間層 (?)が「世論」を方向付けていたように思われる。そして、そのコテハンの思想的バックボーンを形成したのは、小林よしのりや右翼的な書き手よりも、竹田や加藤のような書き手だったと思う。論理としてはこの二人が一番典型的だが、 橋爪大三郎、呉智英といった面々も挙げるとよい。要するに、吉本隆明の影響を受けた全共闘系のモノ書きということだ。」

と書いていた。この文章は、金さんのブログのなかでも「<佐藤優現象>批判」と並んで私には特に印象深いもので、その後、吉本隆明というと、この文章もきまって浮かんでくる。吉本隆明がそんなにまで後の世代に影響をあたえていたとは。そういう問題意識を持ったこともなかったのだが、言われてみるとこの指摘は現実と合致していると思われ、目を開かされたような気がしたものだった。宮台真司氏なども吉本隆明から多大の影響を受けていると自ら語っているようだ。ウキィペディアには、下記の記述がある。

「 宮台真司は、1970年代半ばの高校時代、吉本の1950~60年代の著作に深く感銘を受け、「私の同世代で私ほど吉本にハマッた人間はいない」「ただの大衆じゃねえか、大衆から遊離しやがって、という二重の倫理的批判は実存的意味を持つ」「原理的であることによって内在せよという吉本的な定言命令は今でも私を拘束している」と述べている。」 ( 『小説TRIPPER』2000冬季号「特集:進化する<吉本隆明>」)

次に、辺見庸氏が吉本隆明について述べている文章を3つ選んで掲載しておきたい。


  反定義 新たな想像力へ 辺見庸×坂本龍一(朝日新聞社2002年)
坂本――現代の哲学者は、彼(注:デリダ)ぐらいしかいなくなっちゃったでしょ。フーコーもドゥルーズもガタリも死んじゃって、もう誰もいなくなった。
辺見――ドゥルーズやガタリだったらもっとちがうこといったんじゃないかという気もする。
坂本――最近もジャック・マイヨールが自殺しましたけど、ドゥルーズなんてめちゃくちゃ感覚が鋭いから、「もういいや」と思っちゃったんじゃないかな。もう見たくないと、こんな世界。
辺見――ぼくはまあ、自分の捌きかたとしてはあのへんがいい時期かなあって思うんですよ。そのころ吉本隆明さんと10時間ぐらい対談したんです。(『夜と女と毛沢東』)吉本さんがそのときいちばん気にしてたのはドゥルーズがどうして自死したのかということでしたね。しきりにぼくに聞くわけ。ご自分に重ねてたんだと思うな。彼もその頃海の事故があって、半分「もういいか」と思っていたかもしれない。死ぬのも潮時というか、時宜というものがある気がしますね。最近つくづくそう思うな。生きてりゃいいってもんではない。見なくてもいい風景ってあると思うんだ。いまがそれじゃないかな。どう判断するか興味はあるけど、埴谷さんなんかいまの事態を見なくて良かったと思う。
坂本――うちの父がいま80歳です。「どうしてこんなになっちゃったんだろう」というんですよ。「日本人ってどうしてこんなになっちゃったんだろう」って。原発で人為的な事故が起こったでしょう。しかも誰もきちんと責任をとらない。ぼくにポロっと言ったことがありますよ。「日本人は、こういうことだけはやらなかったのにな」って。父の時代の日本人は、こういう事故は起こさなかったと。もう生きていたくないという気持ちもあるでしょうね。見たくないっていう。
辺見――だって楽しいことなんて何もないじゃないですか。なんか厭だなあと思う。すべて陰謀的でつるんでてインチキでね。
坂本――全部金で買えてね。
辺見――そう 、全部買える。だから人間が持っていた原質的なもの、マチエールみたいなものが全部なくなっているんですよね。いちばん残念なのはエロスの原質がもうなくなっているということ。ぼくらの表現世界でいえば手触り感のようなもの、タンジプルなものが何もない。

  いま、抗暴のときに 辺見庸(毎日新聞社2003年)
辺見 やはり結局は、全体として自己責任を棚上げしてきたことが今日の風景のいちばんの原因なのだから、抵抗というか個別の不服従は、その強弱を別にして、場合によってはあっていい方法だと思います。ルーティン・ワークと抵触するのは当然でしょうね。鵺のような全体主義のもうひとつの温床は、ルーティン・ワークにあるわけだし。で、自己責任の棚上げは、遠くは戦後主体性論からそうだったと思いますね。申し訳ないけれども、吉本隆明さんの最近のなんといいますか、晩節の過ごし方というのか、あれなどもあなたのいう戦後民主主義のあまりにも無残かつ醜悪な死骸とまったく関係ないとは思わない。できれば見たくなかったという思いもある。当方も自戒しなければいけないのですが、ここまで精神の視力というか思弁力が落ちるかという感じです。新聞が権力化し、権力がメディア化するのと基本的に同じ状況への融和のようなものがある。そこには、まじめに継承できるものが少ない。ことここに至ったら、自分たちで自己責任による個の戦線をつくっていくしかないと思う。そこには、楽観的なものなんてひとつもない。

  抵抗論 辺見庸(毎日新聞社2004年→講談社文庫2005年)
 以前、OLが十分な選択消費ができるのだからこの資本主義はなかなかよろしい、てなことをいった思想家もいた。OLと呼ばれる女性たちの、決して楽ではない実生活を知りもしないくせに。家でテレビばかり見ていると、往時は「偉大」だった思想家も阿呆になるらしい。その思想家のせいとはいわないけれども、皆が″賢い消費者″にでもなった気で、賃上げ闘争やストライキを小馬鹿にするようになった。この国のなかの、歴然たる貧困から眼をそむけるようになった。貧窮は貧窮者自身の生き方、考え方に理由があるというような発想も蔓延した。なにが″ハイパー資本主義″だ。笑わせるじゃないか。学生のころ、あの思想家を早稲田鶴巻町のあたりだったか、都電のなかで見かけたことがある。いかつい体躯に薄汚いレインコートをまとって、倣岸にも不満げにも柔弱にも内気にも見える深い色の眼をしていたっけ。老いて、ついにめでたく21世紀まで生きた。が、あの眼はもうない。長く生きればいいというものではない。長く話しつづけていればいいというものではない。やめる時宜はとうにすぎていた。主体的に生きているのではないときが、むろん私にもある。いや、ほとんどの時をだらだらと没主体的に生きている。それほど積極的に生きたくもないのに、愚にもつかぬなにかの力に強いられて単に生かされているだけのような時がひどく多いのだ。物質消費にしても、実際には選択的自由なんぞ、どこにあるのだろう。選択できているように資本の力に思わされているだけだ。私が依然死んでいないのも、なにも生を積極的に選択しているからではない。 」

「埴谷さんなんかいまの事態を見なくて良かった」という言い方をみると、辺見氏は埴谷雄高がよほど好きで大切に思っているのだろう。『抵抗論』では、「思想家」の名前は明示されていないが、これは私は読んだ最初から吉本隆明のことであると思い込んでいる。もしかすると、異なる人物である可能性もあるのだろうか?
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2011.10.07 Fri l 吉本隆明 l コメント (8) トラックバック (0) l top

コメント

以前、OLが十分な選択消費ができるのだからこの資本主義はなかなかよろしい、てなことをいった思想家もいた。OLと呼ばれる女性たちの、決して楽ではない実生活を知りもしないくせに。家でテレビばかり見ていると、往時は「偉大」だった思想家も阿呆になるらしい。

辺見庸さんの、この痛烈な批判は1985年の埴谷VS吉本の「コム・デ・ギャルソン論争」での吉本発言に向けられたものだと思われます。

その当時、吉本が川久保玲デザインの、例の黒い高価な衣装を着せられて、雑誌「アンアン」にドーンと登場し、これにビックリしてしまった埴谷雄高が、さっそくこの某男性モデルの脳内構造を批判。対するこの某男性モデルの反批判が、辺見さんも指摘の以下の記述です。(※文中の「貴方」は埴谷雄高を指しています)

「アンアン」という雑誌は、先進資本主義国である日本の中学や高校出のOL(貴方に判りやすい用語を使えば、中級または下級の女子賃労働者です)を読者対象として、その消費生活のファッション便覧の役割をもつ愉しい雑誌です。総じて消費用の雑誌は生産の観点と逆に読まれなくてはなりませんが、この雑誌の読み方は、貴方の侮蔑をこめた反感と逆さまでなければなりません。先進資本主義国日本の中級ないし下級の女子賃労働者は、こんなファッション便覧に眼くばりするような消費生活をもてるほど、豊かになったのか、というように読まれるべきです。(吉本隆明「重層的な非決定へ」から)

当時私は、コム・デ・ギャルソン本社が入る南青山の同じビル内にあった会社のサラリーマンをしており、いつもエレベータで一緒になるギャルソンの(吉本の言葉を使うと)OLたちとは「茶のみ友達」でもあったのですが、彼女たちの劣悪な生活環境にはいたく同情し、この論争の近くにいた傍観者として私が思った事と言えば、

1)この男性モデルの貧相な表情が、これまでのギャルソンのイメージを台無しにしてしまったこと。

2)いかに上昇志向が強いとは言え、もちろん残業代もなく、ショーの発表スケジュールに日夜追われまくられ、まるで現代の女工哀史を地で行かされているようなギャルソンのOL(=消費者としてのOLの象徴でもある)の実情をちっとも考えることができずに「・・・消費生活をもてるほど、豊かになったのか、 というように読まれるべきです。」などと上から目線で埴谷雄高への説教を試みる、この思想家の不可解な脳内構造のこと。

このように、1980年代半ばにはすでに賞味期限切れになっていたこの思想家の軌跡は、小熊英二さんの「民主と愛国」で詳しく再確認することができますが、小熊さんはこの分厚い本の最後の方に、こんなことを書いています。

吉本が戦中について
「社会全体の雰囲気は、ものすごく明るく、そして建設的なんです。
『戦争中は世の中は暗かった』というのは、戦後左翼や戦後民主主義者の大ウソであってね」(*24)
などと述べていることは、自己の実感だけを過大視したものである。
(小熊英二「民主と愛国」P810/(*24)は吉本「私の戦争論」P196)
2012.01.18 Wed l elnest. URL l 編集
elnest 様
コメントをありがとうございます。
とても興味深い内容のお話を聞かせていただきました。
そうですか、 コム・デ・ギャルソンで働いている女性たちの職場環境はそんなにきびしいのですか。確かにショーの準備一つ考えてみても、そう教えていただくと納得できます が、じつは盲点でした。「貧相な表情が、これまでのギャルソンのイメージを台無しにしてしまった」という批評はあの当時ぜひ吉本隆明に聞かせてやりたかったと本気で思い ます。おそらく吉本隆明は批評家としては珍しくスターのようにもてはやされた人で、その過程でいつのまにか変質が生じた人のように思います。埴谷雄高の批判も一切受け付 けていませんでしたね。どうも脳内構造批判に対しては、自分が一番頭がよく言語感覚も誰より優れていると信じきっている風の吉本は怒りや反感しか覚えないようなので、 「貧相な……」という正直な直感的批評はあるいは自省心を呼び起こしたかも知れません。

じつは吉本隆明についてあと1、2回書く気で、 それも埴谷雄高との論争を取り上げようと思い、2人のコム・デ・ギャルソン関係の文章を読んでみたところ、どちらかというと穏やかな性格だと思われる埴谷雄高の文章にしてはちょっと深刻味・悲壮感があるように感じて、どう書いたらいいか戸惑っていたのでした。 要するに理解力不足なのだと思うのですが。
2012.01.20 Fri l yokoita. URL l 編集
知人に吉本を尊敬している人がいます。その人は、熱烈な小沢信者でもあります。
 このブログを通じて、小沢と吉本の関係を知ることになり、なぜその知人が熱烈な小沢信者であるか、ということをよく理解できたと思います。
 それにしても、小沢の失業者蔑視や、原発推進派NO.1だったことを指摘しても、黙殺したり、好意的に解釈する人がいるのにはあきれるばかりです。
http://www.ozawa-ichiro.jp/massmedia/contents/fuji/2005/fuji20050419134025.html#top
http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51631408.html
2012.03.17 Sat l puyonyan. URL l 編集
「反原発」で猿になる ! ?
「反原発」で猿になる ! (吉本隆明)を読んで 2012.3.15
「週刊新潮」2012.1.5-12のインタヴュー記事を読んで唖然とした。かつて、吉本隆明を自立の思想家として高く評価し、「試行」にも投稿した一人として、なんともやりきれない気持ちになった。
 ここで開陳されている言い分はほとんど反駁するのも馬鹿ばかしい底のものだ。「考えてもみてください。自動車だって事故でなくなる人が大勢いますが、だからといって車を無くしてしまえという話にはならないでしょう」だって! こんな子供だましの理屈が通用すると思っているのか。
 また、核分裂による原子力発電と放射能によるレントゲン写真技術を並べて安全性を論じるなんて詭弁そのものだ。
 吉本は科学技術の進歩への素朴な信仰にしがみついているに過ぎない。スリーマイル島・チェルノブイリ・福島という一連の大事故が当時の原発技術の先進国(米国、ソ連、日本)で起っていることを深刻に受け止める必要がある。しかも、これらはほんの五十年足らずの間に引き起こされたではないか。現在でも中小の原子炉事故は頻繁に報告されている。原発をめぐる議論の中心にある「恐怖感」についてしきりに云々しているが、もっか国民の間に淀んでいる過度の放射線への恐れは、昨年の福島原子炉の深刻なメルトダウン事故による膨大な放射能の拡散と広範にわたる自然破壊・人体汚染という「歴然たる現実の脅威」のもたらした結果であることに目をふさいでいる。激しい爆発による発電所の災害の惨状は一連の写真で記録されているではないか。吉本は未曽有の惨禍から何も学んでいない。「福島」原発の大惨事なぞまるでなかったかのようだ。
このインタヴューには、現実の脅威や惨状を直視する姿勢がいちじるしく欠落している。こうした現実感覚の鈍さは一貫しており、まさに恐るべきものだ。
 事故を起こした発電所の中に現在も放置したままの、危険な使用済み核燃料はどこに運ぶのか、科学的にどう処理するのか、といった当面の技術的な方法や処置についても、ほとんど考慮する気配さえない。
 その代わりに人類史的な観点からの原子科学の素晴らしさと優位性への賛美が繰り返されるばかりだ。「人類が積み上げてきた科学の成果を一度の事故で放棄していいのか」というわけだ。名にし負う理科系詩人吉本隆明、お得意の「原理的」な考察とやらである。こんな居丈高なご託宣に惑わされてはならない。むしろ、ここに思想家、批評家としての知的誠実さへの欠如を指摘せざるを得ない。
 ここで、ある素粒子物理学者の文章を紹介しておこう。「核融合炉の誘致は危険で無駄」(小柴昌俊)「朝日新聞「論壇」2001.1,18」これは「物理学を学んできた」立場からの「核融合」(「二十一世紀の夢のエネルギー源」! )についての意見である。原子力や放射能に関心ある方は一読されたい。ここには知的誠実さがある。
最後に、唐突に小林秀雄を担ぎだしたのには、あきれたというより、笑ってしまった。自立の思想家はどこへいったのだ。虎の威を借りる狐さながらだ。思想家としてみずから墓穴を掘ったにひとしい。
 スリーマイル島・チェルノブイリ・福島の原発大事故から何一つ学ばぬ者はむしろ「猿にも劣る」というべきである。 
3.11には「東日本大震災市民のつどい」(東京・日比谷公園)にた。還暦過ぎの老骨に鞭打って「さよなら原発」のために、これからも静かな怒りを燃やし続けたい。

 阿羅漢老人 船木裕

「後記」この一文を書いた直後,思いがけず吉本隆明の訃報を知った。生前の吉本さんにぜひ見せたかった。

puyonyan 様
コメントをありがとうございます。
『Kojitaken の日記』で短文ながらパンチの効いた(古いッ!)コメントを投稿されているのをよくクリックして読ませていただいております
。 > それにしても、小沢の失業者蔑視や、原発推進派NO.1だったことを指摘しても、黙殺したり、好意的に解釈する 人がいるのにはあきれるばかりです。
> http://www.ozawa-ichiro.jp/massmedia/contents/fuji/2005/fuji20050419134025.html#top
> http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51631408.html
ご紹介いただいた小沢氏の記事ですが、私も読んであきれました。失業や若い人の引きこもりなどには政治の責任は 0.1%もない、そんなことは政治とは無関係、別の世界の出来事だと思っていることが露骨に出ていました。この人が 話す内容は何事も話せば話すほどいつも味気ないですよね。在日外国人の地方参政権に関する記事もご本人のブログ にありますが、ブログ『日朝国交「正常化」と植民地支配責任』の管理人から「臣民の論理で参政権をくれると言う のなら、要らない。お断りだ」という趣旨のことを言われてました。もっともなことで、その小沢文を読んで私も味気なさ、つまらなさに日本に住んでいるのが嫌になるほどした。

吉本隆明は敗戦の時21歳で、それまでかなり強烈な軍国青年だったそうですね。そういうことと関連するかどうかは分からないのですが、小沢氏の他に、一時期「朝生」の出演者だったマスゾエ氏がよいと言ってしきりに誉めているのを読 んだこともあります。まさか橋下大阪市長をよいとは言わないとは思いますが、一応聞いてみたほうがよかったかも知れません。
2012.03.20 Tue l yokoita. URL l 編集
Re: 「反原発」で猿になる ! ?
 船木裕 様
熱の籠った長文のコメントを寄せていただき、ありがとうございます。 残念ながら私は「週刊新潮」の吉本隆明のインタヴュー記事は読んでいないのですが(昨日、近くの図書館でさがし てみましたが、貸出中でした。)、昨年、3.11の1、2ヵ月後に彼は毎日新聞と日経新聞のインタヴューを受けていま してそれは読みましたが、どうもその時と今回の「週刊新潮」での話の内容はほぼ同じだったようですね。「週刊新潮」で「自動車だって事故でなくなる人が大勢いますが、だからといって車を無くしてしまえという話にはならないでしょう」と述べていたそうですが、昨年も同じでした。車や飛行機の事例を持ち出せば、原発事故の発生は原発を 廃絶する理由にならないことの立証になると吉本隆明は本気で考えているようで、「「情況への発言」全集成」(洋 泉社2008年)という本を読みますと、80年代にも自動車・飛行機の事故の例を引用して原発推進の立場を擁護していました。ですから彼はかれこれ25-6年間同じことを述べていることになりますが、その間、自分のそのロジックの奇妙さを認識できなかったことは、思想家・文明批評家として鈍感に過ぎますね。当時から、船木様が仰るように、放射能が地球環境や人体へ及ぼす悪影響などの具体的な負の事実には触れていませんでした。放射性物質の半減期などの具体的例を挙げて原発に危惧を表明したり 、吉本隆明のエネルギー政策についての考え方を批判する人がいると、 「科学者の口真似をして、知ったかぶりをするでない」などと罵倒していましたので、あの頃から唯我独尊ぶり、それから、仰るような「思想家、批評家としての知的誠実さへの欠如」は明らかだったように思います。

私は吉本隆明の大衆についての考え方に問題があるのではないかと思うことがあります。彼は、大衆は自分たちの狭い生活範囲を守って公的に異義を唱えたりはしないものだと決めつけているようなのですが、それは吉本隆明がそういう大衆像を好むというか、彼のうちには大衆はそういうものだし、そうであってほしいという願望があるのではないかと感じます。先に挙げた本のなかだったと思いますが、彼は脳溢血で倒れた病人と原爆の放射能を浴びて倒れた病人とは等価だと言っていました。こういう着想は80年代以降の吉本隆明のモノの考え方を象徴しているように思います。
吉本隆明は次世代の多くの人たちの考え方に多大な影響をあたえているようですので、今後彼の思想的足跡は研究者などによってきびしくつぶさに検証される必要があると思います。

2012.03.22 Thu l yokoita. URL l 編集
私の場合
皆様へ

そうですか。私の場合は日経新聞だったのですが、週刊誌や他でも同じようなことを繰り返していたのですね。
今にして思うと、これらの発言が思想家吉本の遺言になり代わったとしたら、何とお粗末でしょう。

それにしても、私が日経新聞の記事を眼にしたのは偶々だったのですが、その時の私の憤懣やるかたない思いは相当なものだったらしく、めずらしく長々とした日記もどきのメモをノートに残しています。例えば冒頭部分を写しとってみると、こんなカンジです。

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 私はこの夏の、特に蒸し暑い朝の通勤電車の中で若い人が読んでいる日経新聞のいわゆる文化面に、吉本隆明の顔写真を久々に見つけてしまった。すっかり老人になってしまってはいるが、確かに見覚えのある眼と鼻と口元に、例によって寝グセがついた頭髪の、あの顔である。日経と吉本の組み合わせに意外な想いがしたが、この謎はすぐに解ける。顔写真の上下には吉本の主張をまとめたのだろう、「科学に後戻りはない」とか「原発 完璧な安全装置を」という(とても<戦後思想の巨人>の言葉とは思えないような)愚劣で陳腐な見出しが大きく踊っていた。

 吉本がかつて原発推進の立場にいたことは記憶にはあったが、福島の放射線が私たちを捕らえたこの期に及んで何を今更!という思いと、この思想家に利害の一致を見出した経済紙に担ぎ出され、ただただ利用されているだけの、損な役廻りの老人を自ら買って出たような印象が強く、冷房のきかない電車内の蒸し暑さとも相まって二重三重の不快に襲われてしまったことを夜になっても覚えている。つまり、見てはいけないものを、思いもかけず見てしまった時の、あの気分である。

----------------------------------------

と、まあ最初から最後までこんなカンジで、「寛容は不寛容に対しても寛容であるべきか?」という行動基準に照らし合わせてみても、珍しく私の寛容は吉本という不寛容に対して、初めから不寛容の極みであり、写真とキャッチフレーズを見ただけで決めつけてしまう幼稚で思慮不足な性格が露出してしまってはいますが、このページに書き込まれたコメントを読ませてもらった限りでは、決してこの件については間違ってはなかったようです。
安心しました。
2012.03.22 Thu l elnest. URL l 編集
ご返事いただいて、有り難うございます。失業や貧困に対する、政治の責任なんて全くないんだ、と言っている人を支持している「左翼」がいます。そういう人たちと掲示板やSNSなどでやり合ったことがあります。そのたびに、ガン無視されたり、「枝葉にとらわれるな」とか言われたりでした。酷い場合には、小沢の言っていることに賛同するひとまでいました。
 結局そういう人たちは上から目線で民衆不在という点で、ネット右翼なんかとあまり大差はない、と痛感させられてしまいました。話も「国家」「国益」ばかりです。歴史改ざんだってします。「アメリカ」だの「官僚」だのそんな話ばかりです。
 何が一番問題かといえば、人に対してウソをついているどころか、自分を偽っていますね。人前で自分を偽っているのが見えてしまうわけだから、痛々しい限りです。
 人のことをとやかく言えないかもしれません。誰でも人に対して嘘をつくことはあるでしょう。だからこそ、少なくとも自分に対しては正直でありたい、と思います。
2012.03.24 Sat l puyonyan. URL l 編集

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