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周知のように、去る2月20日、最高裁は1999年に発生した光市母子殺害事件の元少年の上告を棄却した。最高裁が一・二審の無期判決を広島高裁に差し戻したのは2006年、広島高裁は2008年元少年に今度は死刑を宣告した。そして迎えた2度目の最高裁、通算5度目の判決は彼の死刑を確定するものとなった。事件が若い母親と1歳に満たない女児が白昼自宅で殺されるという痛ましいものだったこと、事件の数日後に容疑者として逮捕された人物が近くに住む18歳になったばかりの少年だったこと、一人遺された夫であり父親である男性が終始被告人への極刑を求めつづけたことなどにより、この裁判は世の大きな関心と反響を呼んできた。

今回の死刑確定判決に対して新聞(テレビは見ていないので不明)はおおむね「やむなし」の論調のようではあったが、予想したよりは多くの新聞(特に地方紙)で「これでいいのだろうか?」 という自問自答や懐疑の感じられる記事が書かれているように思った。ある地方紙は「光市事件」と題した短文のなかでカミュの「ギロチン」中の印象的なエピソードを引用して死刑の本質に光をあて、記事の終りを「鉛をのんだように胸が苦しい。」との文字で結んでいた。ほぼ全紙が共通して挙げている指摘もあった。この判決は今後の少年事件の判決に多大な影響をおよぼすだろう、少年犯罪に対して更なる厳罰化が推進されることになるだろう、という予測である。これまで少年事件における死刑判決は4人の死者を出した68年の永山事件を基準として判断されてきたが、これからは永山事件に替わってこの事件が少年犯罪の死刑基準になるだろうというわけである。この事件の死者は前述したように2人であった。

ここ10年ほど成人の死刑確定判決がおそろしい勢いで増えつづけている。少年事件も同じ道をたどるのだろうか。しかしこれは青少年および社会にとって有害無益な、決してあってはならないことだと思う。徹底して寛大さを欠いた厳罰一本槍の判決によって甚大な悪影響を受けるのは当事者少年だけではないだろう。人を残酷で卑怯な人間にすることは困難ではない。最も有効な方法は相手に卑怯な仕打ちを数多くあたえ、残酷な振る舞いを始終見せつけることである、と聞いたことがある。誰が言ったことかは知らないのだが、この言明はまったくの真理ではないだろうか。環境の影響を心身に直に受け入れざるをえない少年・少女への寛大さの欠如が何であれ良い成果を生み出すことはないだろう。じつは日本社会では殺人などの凶悪事件は年々減少をつづけているのだが、刑罰はこれに反比例して重くなりつづけている。ここ10年ほど無期もそうだが死刑は想像を絶する増え方である。日本社会ではもう一つ同じように増えつづけてこちらはただ今高留まり状態だが、きわめて深刻な実態と思われるのが毎年その数3万人を超える自殺者の問題である。日本社会における死刑と自殺者の増大にもおそらく関連があるのではないか。現在、自分のものもふくめて人の命がかけがえのないものという意識が私たちの内部からこれまでのどんな時代よりも希薄になってしまっている気がしてならない。

さてこの事件と判決についてとつとつ考えながら書いてみたいのだが、その前に元少年の実名報道について感想を述べると、これまで少年法の精神に照らしてメディア上では元少年の実名は伏せられていたが、今度の最高裁判決によって死刑が確定すると同時に朝日新聞をはじめ、読売、産経、日経、共同通信、NHK、テレビ朝日などの多くのメディアは実名報道に切り替えた。理由について、「死刑確定で社会復帰の可能性がほぼなくなった」「国家によって生命を奪われる死刑の対象者は実名が明らかにされているべき」などの弁明が目についたが、なかには「元少年の更生に留意する必要がなくなった」という主旨のものもあった。毎日新聞や中日新聞や多くの地方紙はこれまでどおりの匿名報道を継続。その理由は「毎日新聞は元少年の匿名報道を継続します。母子の尊い命が奪われた非道極まりない事件ですが、少年法の理念を尊重し匿名で報道するという原則を変更すべきではないと判断しました。/少年法は少年の更生を目的とし、死刑確定でその可能性がなくなるとの見方もありますが、 更生とは「反省・信仰などによって心持が根本的に変化すること」(広辞苑)をいい、元少年には今後も更生に向け事件を悔い、被害者・遺族に心から謝罪する姿勢が求められます。また今後、再審や恩赦が認められる可能性が全くないとは言い切れません。(毎日新聞 2012/02/20)」。毎日新聞のこの説明は朝日や読売の実名表記のための言い分とちがって筋がとおっている。一貫性と統一性が感じられる。願わくばいつもこのようであってほしいものだ (笑) 。読者の立場からこの問題を見ると、私たちが被告人の実名を知ったからといって益するものは別段何もないように思う。たとえば事件について考えたり人と議論する場合でも事件名や事件の内容に触れることで用はすべて足りるはずだ。実名表記についての朝日新聞などの言い分は表層的なもの、弁解じみたもので、とても人を得心させるものではないと感じた。では、次に20日の最高裁判決要旨を中日新聞から引用する。(/は改行部分)

 「 光市母子殺害事件の最高裁判決要旨
 20日に言い渡された光市母子殺害事件の最高裁判決の要旨は次の通り。
 犯行時18歳だった被告は暴行目的で被害者を窒息死させて殺害し、発覚を免れるために激しく泣き続けた生後11カ月の長女も床にたたきつけるなどした上で殺害した。甚だ悪質で、動機や経緯に酌量すべき点は全く認められない。何ら落ち度のない被害者らの尊厳を踏みにじり、生命を奪い去った犯行は、冷酷、残虐で非人間的。結果も極めて重大だ。 殺害後に遺体を押し入れに隠して発覚を遅らせようとしたばかりか、被害者の財布を盗むなど犯行後の情状も悪い。遺族の被害感情はしゅん烈を極めている。 差し戻し控訴審で、故意や殺害態様について不合理な弁解をしており、真摯(しんし)な反省の情をうかがうことはできない。平穏で幸せな生活を送っていた家庭の母子が白昼、自宅で 惨殺された事件として社会に大きな衝撃を与えた点も軽視できない。 以上の事情に照らすと、犯行時少年であったこと、被害者らの殺害を当初から計画していたものではないこと、前科がなく、更生の可能性もないとはいえないこと、遺族に対し謝罪文などを送付したことなどの酌むべき事情を十分考慮しても、刑事責任はあまりにも重大で、差し戻し控訴審判決の死刑の量刑は、是認せざるを得ない。

 【宮川光治裁判官の反対意見】 被告は犯行時18歳に達していたが、その年齢の少年に比べて、精神的・道徳的成熟度が相当程度に低く、幼い状態だったことをうかがわせる証拠が存在する。 精神的成熟度が18歳に達した少年としては相当程度に低いという事実が認定できるのであれば「死刑を回避するに足りる特に酌量すべき事情」に該当しうる。 被告の人格形成や精神の発達に何がどう影響を与えたのか、犯行時の精神的成熟度のレベルはどうだったかについて、少年調査記録などを的確に評価し、必要に応じて専門的知識を得るなどの審理を尽くし、再度、量刑判断を行う必要がある。審理を差し戻すのが相当だ。

 【金築誠志裁判官の補足意見】 人の精神的能力、作用は多方面にわたり、発達度は個人で偏りが避けられないのに、精神的成熟度の判断を可能にする客観的基準はあるだろうか。 少年法が死刑適用の可否について定めているのは18歳未満か以上かという形式的基準で、精神的成熟度の要件は求めていない。実質的な精神的成熟度を問題にした規定は存在せず、永山事件の最高裁判決も求めているとは解されない。 精神的成熟度は量刑判断の際、一般情状に属する要素として位置付けられるべきで、そうした観点から量刑判断をした差し戻し控訴審判決に、審理不尽の違法はない。」(中日新聞 2月 21日)

最高裁は08年の差し戻し高裁判決を全面的に支持し、「被告は暴行目的で女性を窒息させて殺害し、発覚を免れるために激しく泣き続けた生後11カ月の長女も床にたたきつけるなどした上で殺害した。」と断定していて、一審以来の裁判所の事実認定が今日まで一切変わっていないことが確認できる。けれどもこの事実認定が証拠に則した正確なものであるかというととてもそうは言えないように私には思えるのだが…。そもそも、最高裁段階で弁護人を依頼された2人の弁護士がともかく会ってみようと元少年にはじめて面会に行った際、彼に事実はどうだったのかをもう一度自分の口で最初から話してほしいと言うと、彼は裁判記録とまったく異なることを話し始めた。自分には殺意もなかったし、女の人を絞殺もしていない、赤ちゃんを床にたたきつけてもいない、などを述べたとのことである。その前後の経過についてのテレビ出演や弁論要旨などにおける弁護人の説明によると、面会後、元少年の話と裁判記録を照合し、専門家に相談もして検証を進めていくと、面会時に元少年が述べた内容はほぼぴったり記録と合致していた。これまで事実として裁判所に認定されて世の中に広く流布・喧伝され、それによって人々を震撼させたり憤怒をかき立ててきた彼の行為ーー女性に対し「親指を立て両手で全体重をかけて力いっぱい絞めたが死ななかったので、今度は両手を重ねて絞め、死に至らしめた。」、また子どもが泣き止まないので「激高して子どもを自分の頭上に持ち上げて床に叩きつけた。」などという取り調べ段階での被告人自身の供述調書とは別の事実が表に出てきたということであった。

上の「判決要旨」に見られるとおり 、最高裁は被告人について「差し戻し控訴審で、故意や殺害態様について不合理な弁解をしており、真摯な反省の情をうかがうことはできない。」と判示している。しかし、事件の「故意性」ということでいえば、経験則、論理則のどちらからいっても私には「18歳の少年が起こした事件は故意であった」という判断のほうがはるかに不合理・不自然に思えるのだが? その春高校を卒業して排水工事会社に勤め始めた少年は周囲に馴染めず、10日ほど通っただけでその後は朝家は出るものの通勤を止めてしまった。その日も会社に行くと言って作業服を着て家を出たものの、午前中を友達の家で遊んでいた。昼頃友達は用事があると言って家を出たが、その場所が少年の会社の近くだったため彼は会社の人に会ったり見られたりすることを恐れて同行せず、その友達とまた午後3時にゲームセンターで待ち合わせる約束をして昼食のために家に戻った。昼食を終えて家を出たのは1時40分頃だったが、3時まではまだ時間がある。彼は近くの社宅の玄関のチャイムを端から順番に押して行った。判決は取り調べ時の供述調書にあるとおり彼が強姦目的で排水工事業者を装って女性を物色して回ったのだと判示しているが、差し戻し審で彼は3時の約束の時間までの空隙を埋めるために思いついた行動だったと述べている。

この事件に関心のある人にはこれはある程度知られていることかと思うが、元少年について「家庭裁判所の調査官(3名)による詳細な「少年記録」には「A(引用者注:元少年のこと)のIQは正常範囲だが、精神年齢は4、5歳」と書かれていました。」と差し戻し審で弁護人の申請によって元少年の精神鑑定を行なった野田正彰氏は雑誌のインタビューで話している。元少年はそれまで女性と交際・交渉を持ったことは一度もなかったという。そういう少年が友達との待ち合わせ時間までの一時間余の間にいきなり強姦相手の女性を物色するために近所の住宅のチャイムを片端から鳴らして歩いたというのはあまりに不自然・不合理であろう。たまたま彼が水道工事の服装をしていたために被害者宅で「ご苦労さま」と迎え入れられ、このことを彼自身意外だったと述べている経緯には私は自然さとそれ故の信憑性を感じる。そこでこのような大事件を引き起こしてしまうわけだが、これは元少年がせっかく入社し、その会社は和気曖々とした温かな雰囲気の職場だったにもかかわらずいたたまれなくなって休むようになったという事情と通底していて、彼のコミュニケーション能力の未熟ないしは不全が最悪の結果を招き寄せてしまったのではないだろうか。前述した野田正彰氏は2007年7月25日差し戻し審の証人尋問で精神鑑定の結果について「人格発達は極めて遅れており、他の18歳と同様の責任を問うのは難しい」「元少年の父親が妻と元少年に繰り返し暴力を振るっていたことが、元少年の内面に大きな影響を与えた」「事件当時までの人格発達は極めて遅れており、 更に母親の自殺で停滞した」 (毎日新聞 2007年7月26日) と述べている。
(つづく)
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2012.02.24 Fri l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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