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風間博子さんの「殺害関与否定」は、「不合理な弁解」か?
周知のように、6月5日、最高裁は「愛犬家殺人事件」の被告人の上告を棄却し、これによって関根元さん、風間博子さんの死刑が確定した。読売新聞は下記のように伝えている。

「 埼玉県の愛犬家ら4人が1993年に殺害された埼玉愛犬家連続殺人事件で、殺人と死体損壊・遺棄の罪に問われ、1、2審で死刑判決を受けた元ペットショップ経営・関根元被告(67)と元妻風間博子被告(52)の上告審判決が5日、最高裁第2小法廷であった。
 古田佑紀裁判長は「猛毒を飲ませて中毒死させた上、死体を切り刻むなどして山や川に捨てるという犯行態様は、冷酷で悪質極まりない」と述べ、2人の上告を棄却した。2人の死刑が確定する。
 関根被告は「犯行を主導したのは風間被告」と主張し、風間被告は「殺人にはかかわってもいない」と主張していたが、判決は「不合理な弁解を繰り返し、反省の態度が認められない」とこれを退けた。
 判決によると、両被告は93年4~7月、ペットショップの顧客で、犬の売買を巡ってトラブルになっていた埼玉県行田市の会社役員の男性(当時39歳)ら3人に、猛毒の硝酸ストリキニーネを詰めたカプセルを飲ませて殺害した。関根被告は同年8月にも同じ手口で同市の主婦(同54歳)を殺害。4人の遺体を切断、焼却して山などに捨てた。」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090605-00000682-yom-soci

また風間博子さんの支援サイト「友人の会」は判決の模様を次のように報告している。

「言い渡しは、わずか三分程度。これまで、博子さんが精密に立証した無罪の主張に一言もふれない決定内容でした。閉廷の言い渡しと同時に、支援者から「博子さん、やってません」の声がとびあわただしく退出しました。」
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/kazama_muzai

まだ判決全文を読めないでいるが、テレビのニュースで、裁判長の被告人に対する「不合理な弁解を繰り返し、反省の態度が認められない」との発言を聞いて、このなかの「不合理な弁解」という言葉がしばらくの間耳について離れなかった。風間博子さんに関する裁判資料を読んでいて、私が最もつよく感じたことも、不合理ということだったのだ。この裁判の全体の構図についても、またその集約としての判決文に対しても、その多くが不合理であり不自然であると感じた。もっともこれは風間博子さんに限ってのことだから、最高裁が関根・風間の二人の被告人の相異なる主張を一括りにしていることも不合理の一つと思う。
とりわけ「不合理」と感じたのは判決文に対してだが、一審判決文に対してだけではなく、二審の判決文についても同様の感想をもった。浦和地裁の判決文は、一つひとつ、具体的に事実認定をしているので、その分、矛盾が端的にあらわれていると思うが、控訴審の判決文は目次もふくめてわずか77ページ。内容は、「原判決に事実誤認はない」、被告・弁護人に対する「所論は理由がない」「所論は失当である」という判定の連続で、その論拠を述べた叙述を読んでいると、一審判決文以上にトリックじみて聞こえ、しかも姿勢はよりかたくなのように感じられた。これらの判決文を読んで、その説示するところに心から納得できる人間がはたして何人存在するのだろうか? 今もその疑いは拭えない。
そのような心境のなかにいる私には、最高裁の「不合理な弁解を繰り返し、反省の態度が認められない」との判定も、これまでの判決と同様に不可解である。

ヨーロッパ中世の刑事裁判について、フランスの法学者、ジャン=マリ・カルバスは『死刑制度の歴史』(白水社2006年)のなかで次のように記している。

「われわれは中世を「絞首台の時代」としてイメージするが、実際はまったくそうではない。何よりも、法律家も神学者も極刑をあたりまえのように使うことは望まなかったし、誰もが、そのニュアンスはさまざまだが、その例外的性格を強調しているのである。(略)
……モンペリエ大学法学部のローマ法教授ジャン・フォールの見解も同様である。「人の命を奪う毒が見出されるのは最後である。それが最後に見出されるのは当然のことである。なぜなら死刑を科するのは裁判官の最終手段にほかならないからである。恐ろしい懲罰で威嚇するのであれ、笞刑や牢獄によってであれ、その他のより軽い矯正手段によってであれ、裁判官は道に外れた者たちを正道に戻してやらねばならない。しかし、裁判官は、死刑を科すにしても、その前に他の手段をすべて尽くさなければならない。……裁判官は裁判を受ける者たちに父のごとき配慮を示さなければならないし、処罰はやむをえず科すのでなければならない。……なぜなら裁判官が人の死から名誉を得るようなことをすれば、彼自身が殺人者となろうからである」(ユスティニアヌス『法学提要』註解)。

ともすれば私たちが「血塗られた時代」として乱暴に一括りにして考えがちな中世14世紀にあっても、上記を読むと、心ある法関係者の多くは人間が人間を処罰する行為のもつ怖さを十分に認識していたようである。特に、「処罰はやむをえず科すのでなければならない。……なぜなら裁判官が人の死から名誉を得るようなことをすれば、彼自身が殺人者となろうからである」という言葉は、司法や刑罰の本質をついて余すところがないと思うのだが、翻って日本の現状はどうだろうか。
本来、最後の救済機関であるはずの裁判所が無実の被告人に有罪判決を言い渡すということになれば、その罪はそれだけで一般市民の犯罪とは比較にならないほど重いはずである。まして誤判による「無期」、さらには「死刑」の宣告となれば、たとえば、病のために病院を訪れた患者に対し、医師が治療を施すのではなく、逆に毒やメスをふりかざして襲いかかり、瀕死の重傷を負わせ、死傷に至らしめるというような行為に相応するだろう。いや、医師ならば、そのような行為におよべば、官憲によって即逮捕・拘禁されるのだから、どんな誤判をしても一切お咎めなしの裁判官の誤判はそれよりもさらに悪質な犯罪であるといわなければならないだろう。足利事件の菅谷利和さんだけでなく、すでに昨年処刑された飯塚事件の久間三千年さんについてもしきりに冤罪の可能性がいわれている。また林眞寿美さんの死刑判決はどうだったのか、合理的な疑いを超えた事実認定をしたといえるのか、疑念を払えない。

8年間の裁判官経験をもつ広田富男氏は、20年前の1989年、死刑囚の再審無罪が相次いだ当時の世相のなかで、「最近の裁判所の被告人軽視の裁判をみると、そのころ(現行の刑事訴訟法が施行されて間もない時期)以上に誤判は増えているはずだ」と述べている。そして、人の生命身体の自由を奪うことになる刑事裁判官は、特に細心に注意を払って慎重に審理し、被告人を有罪にするには、「おっかなびっくり」で仕事をすべきだと述べている(『刑事裁判の光と陰』有斐閣1989年)が、これは含蓄のある大変印象的な発言である。この発言には、人間の不完全性、過ち多い人間の本質をよく知る人の思慮分別と誠実さがこもっているように思う。このような姿勢はいつの時代でも司法官に求められているにちがいないはずだが、現在の裁判所にはとりわけつよく求められているのではないだろうか。

………………………………………………………………………………

Y氏の手記、著書の問題
前回、事件の共犯者であるY氏が出所後、雑誌や著書で著した事件の内容は、判決の根拠となった供述調書の内容とは、最重要部分をふくめてまるで異なるものだったこと、また、関根・風間両被告人の公判廷に証人としてあらわれたY氏が、一・二審ともに風間被告の殺害関与を否定する証言をなしたことを述べた。つまりY氏は公的に風間被告の殺害関与を否定したことになる。法廷での証言は誰にもわかるように当然公のものだが、著書にしても同様のことが言えるはずである。Y氏の場合、週刊誌の手記にも本にも本名が使用され、3人の共犯者のなかの一人(この事件の逮捕者は後にもさきにも関根・風間・Yの3氏だけである。)であると名乗った上での著作なのだから、これがY氏を指すことは明白だと思う。
だが裁判所は、一切取り合おうとしない。著作について、控訴審の判決文は「Yの手記や著書なるものはY本人が著したものとは認められない上、あくまで読み物の類であって、その内容の真実性は担保されていないから、これをもってYの捜査段階における供述の信用性を否定する根拠とすることはできない。」と記している。
しかし「本人が著したものとは認められない」とは何事だろう。ある著者名を名乗って雑誌に文章を書き、本を出版するからには、その時点で著者にも出版社にも書いたものへの責任が生じるのは当然のことと思う。裁判長は、このような社会的責任も義務も著者、出版社は負わないものであり、負う必要もないと述べているのだろうか? たとえY氏が記述にあたってゴーストライターをつかったとしても、そのことは執筆者としての責任をなんら軽減してくれるわけではない。第一、この場合、事件の内容を語ることができるのはY氏以外にいないはずだし、そうでなくても文責はゴーストライターではなく、著者が負うものだ。「読み物の類であって、その内容の真実性は担保されていない」などの解釈も社会で通用するはずがない。Y氏はその経歴を見るかぎり、「読み物」作家としての実績をなんらもっていないのだから、そのような人物が突然「読み物作家」として雑誌に文章を書いたり、本を出版したりできるはずがないのだ。手記を書き、著書をだすことができた唯一の理由は、Y氏が「愛犬家殺人事件」の共犯者であったからであり、そうである以上、出版社はY氏の語る内容の真実性について重々念を押して確認しないはずがない。でなければ、出版社自ら読者を騙すことになりかねないのである。
裁判長は上記の認定により、出版社などの会社組織や著者個人は自分の行動に責任はとらないし、とる必要もないと宣言しているのだろうか? だとしたら、それは社会における倫理観念をはなはだしく阻害することにつながるのではないかと思う。
公判廷でY氏が述べた風間被告の殺害関与の否定について、一審、二審ともに、判決文がなんら触れていないのは、率直にいって、「避けた」「逃げた」としか解釈できない。かりにもこれは人を死刑にしようとする判決なのである。それなのに、法廷でのこの重大証言について判定しないどころか触れもしないなど、不誠実という以前に、あまりにも無責任ではないだろうか? このようなことができる裁判官は、そもそも裁判官という職務をどのようなものと自覚し、認識しているのだろう。これでは、日本の裁判の現状は、前に紹介した中世の裁判よりも、特に心構えにおいてはるかに劣っているといわれても仕方がないのではないだろうか?

Y氏が風間被告の証言に怒リを見せない理由は何か
Y氏が風間被告の殺害関与を否定する証言に私は信憑性を感じるが、それは事件全体の構図のなかで、その判断が最も合理的であり自然である、したがって一番確実性が高いと映るからである。そのうちの一つに、裁判資料や著書にあらわれているY氏の行動様式や物の考え方や性格などの面から推測しての判断もある。
Y氏は取調べ当初、自分がいなければ警察・検察は事件の解決などおぼつかないのだから、自分の言い分はすべてとはいわないまでも、相当の程度まで通すことができると考えていたようである。一旦逮捕されても早期の保釈、不起訴処分などが実現できると思っていたらしきところにそれが感じとれる。が、それが叶わないとなると、次のような行動に出る。

「Yは1月下句ころから、約束されていた筈の保釈申請が認められないために、いら立ち、検事に暴言を浴びせ、ふてくされた態度をとるようになり、検事の取調べ室のドアを蹴って「覚えてろ」などの捨てゼリフを言い、さらに保釈と調書への署名との取引を求めるなどしていた。」(『一審弁論要旨』p27)

「「I検事には証拠さえ出してくれれば何でも言うことを聞いてやると言われていた。」などと、同検察官との間で取引又は密約があったかのような供述をなし、また当裁判所に証人として出廷した際にも、右のような取引があったことをひたすら強調するような供述をする一方で、検察官等に対して極度に挑発的な態度を取るとともに、検察官及び弁護人らから事件に直接関係する事項について質問を受けると、「忘れた。」、「覚えていない。」などと実質的に殆ど証言拒否に近い態度を取り続けた。」(『一審判決文』p167)

I検察官について、Y氏は著書で、「Iは関根と同じ人種だ。学歴や見せ掛けを別にすれば一体どこが違うというのだろう。甘い言葉で人を騙し、騙されたことに気づいた時にはもう抜き差しならない立場に追い込まれている。人生の岐路に立つ者にとって嘘ほど罪深いものはない。」、「こんな神経を持ち合わせているのは、関根を別にすれば、あの男しかいない。」、「Iは花の東京地検特捜部へ栄転して行った。/おめでとう、I検事。お前さんは検察庁の関根だ。」などと尽きない恨みを記しているが、Y氏がこれほどまでにI検察官を憎むのは、保釈や不起訴処分などの事前の約束が破られた。自分は嘘をつかれ、騙されたとの強固な認識によるもののように思われる。

一方、風間被告は、Y氏の事件への関与についてどのような証言をしているか、長くなるが詳しく見てみたい。
まず、最初のKさん殺害について、取調べの検察官に対して下記のように述べている。

「私が関根から、関根とS(注:Y氏のこと。以下同)の二人でKさんを殺したという話を打ち明けられたのは、私がSさんと一緒に東京まで車を置きに行った日の翌日か翌々日の日のことでした。/時間的には夕方でしたが、関根とSさんが、ペットショップの店に来て、Sさんは外におり、関根だけが店の奥の部屋に入って来ました。/その時、関根は私に対し、
Kは、Sがやっちゃった
と言って、両手を上に向けて握るようにして開いたのです。
私は、その関根のポーズを見て、KさんはSさんがロープか紐で絞め殺したんだなと思いました。/私は、関根のその言葉を聞いて、
なんで
と言って聞き返すと、関根は、Kさんとの犬のトラブルが元で、ヤクザ者まで差し向けて金を返せとか言ってうるさくてどうしようもないので、Kさんを殺してしまったという趣旨のことを言っておりましたが、関根の言葉は所々しか聞き取ることができませんでした。
それは、私がびっくりして頭の中がボーとした状態で、全ての言葉を正確に聞き取れなかったからであります。」(2月17日付『検面調書』)

二番目に発生したE・Wさん殺害事件について風間被告がどのように述べているのか、判決文より引用する。

「5分位して自分の車をE方前から少し移動させて車を降りE方前に戻ったところ、関根とYが家の中から何か重そうな物を運んで出て来たので、近寄って自分もそれを持ったところ、毛布が被せられていたが、その感触から死体であると感じてびっくりした。関根とYは、それを玄関の近くに停められていた車(カリーナバン)の荷台に運び込み、関根が「お前が運転しろ。」と言ったので、思わず「はい。」と言って運転席に飛び込んだが、カリーナバンにはWが椅子を半分倒したような状態で助手席に座っていた。/関根の指示でカリーナバンを発進させてまもなく、Wが「気持が悪いから医者に行ってくれ。」と言い出した。自分としてはとにかく病院に行かなくちゃという気持からその後4、50分ほど車を走らせていた。荒川大橋の手前で曲がれと後部座席から指示されたので、それに従って左折したが、段々人気もなくなり、減速したら後ろから「もっと暗い道を走れ。」と言われ、そのまま車を走らせていたところ、関根とYが「掛かったか。」などと言いながらWの首に紐のような物を掛けて、二人で何度も「せえの。」などと声を掛けながら引っ張り合っていた。そのときWの両足がダッシュボードの上にせり上がり、足が窓ガラスに当たってガラスが蜘蛛の巣状にひび割れ、Wはその場で死んだ。」(『一審判決文』p126~127)

「風間も、「事件後に自分が身体の調子が悪くなって埼玉医科大学に行くことになり、関根やYと車に乗っていた際に、Yが『手伝えばくれるって言ったじゃないか。100万まだ貰ってないよ。』と関根に言い、関根が自分に金を持っているかと言ったので、ハンドバッグに入っていた70万円を渡した。その70万円はKのときの分なのかそれともEのときの分なのかは分からないが、報酬だと感じた。」などと、あたかも具体的な報酬話があったかのように述べているものの、その内容は、本件のごとき極悪犯罪に殺し屋として自ら進んで積極的に加担した者が要求した謝礼がたかだか100万円であったとか、それに対して70万円を報酬として支払って済ませたというような極めて不自然でいかにも取って付けたようなものであって、丁度同じころに関根から(Eらの死体損壊遺棄作業を)手伝ってもらったお礼に家を一軒やるとか1000万円をやるというような調子の良い話を聞かされたという前記Y供述と対比しただけでも、到底信用することができないものである。」(『一審判決文』p327~328)

「被告人風間は、自己がK、E、Wに対する各殺人の犯行に関与したことを全面的に否認する一方で、「自分はYが(関根とともに)Wを絞殺したのを目撃した。KもYが絞殺したと被告人関根から聞かされた。」などと、極めて重要な場面についてYに殺人の罪をなすり付けるためのあからさまな虚偽弁解をなし、更には多数の重要な場面についての自己の行動や認識内容等についても、証拠上明白な事実についてさえ頑として虚偽弁解を続けるなど、自己の犯した犯罪に対する反省の念は全く見られないのである。」(『一審判決文』p411~412)

上述の証言で分かるように、風間被告は、①アウディを都内に運搬した日の翌日か翌々日、Kさんの頸を絞めて殺害したのはY氏であると関根被告から聞かされた、②E・W事件では、Y氏が関根被告と二人がかりでWさんを絞殺した場面を直接見た、③三人で乗っていた車のなかで、Yが『手伝えばくれるって言ったじゃないか。100万まだ貰ってないよ。』と関根に言い関根が自分に金を持っているかと言ったので、ハンドバッグに入っていた70万円を渡した、その70万円はKのときの分なのかそれともEのときの分なのかは分からないが、報酬だと感じた、などとY氏についてきわめて不利な厳しい証言をしているのだ。裁判官は風間被告のこのような証言について、「極めて重要な場面についてYに殺人の罪をなすり付けるためのあからさまな虚偽弁解をなし…」などと述べているくらいなのである。だから、もし風間被告のY氏についてのこのような主張が裁判官のいうような虚偽弁解なのだとしたら、これまで見てきたY氏の行動様式、性格から推測して、彼が風間被告に対してこのようにおとなしくしているだろうか? 関根被告やI検察官に対すると同様に、はげしい非難の言葉を浴びせているのではないだろうか?逮捕に至るまで、Y氏と風間被告との間には特に悪感情もなかったかわりに、親しみのある人間関係でもなかったようなのである。だからY氏の側に風間被告に対する特段の思い入れなどはないと見て間違いないだろう。しかしY氏は風間被告の上記のような証言に一度も怒りも恨みも表わしていない。それどころか、「風間被告は殺害に関与していない」と何度もきっぱり明言している。
このことは、風間被告の殺害関与を否定するY氏証言の信憑性を検討するうえで、また風間被告の主張を考察するうえでも、見逃すことのできない一側面だと思う。
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2009.06.13 Sat l 埼玉愛犬家連続殺人事件 l コメント (3) トラックバック (0) l top

コメント

こんちは。

Sの書いた『愛犬家連続殺人』を読みました。Sから見た事件の概要がだいたい分かりました。

当時のワイドショーなど見る暇はなかったので事件の事をほとんど知らなくても当然ですね。もちろん地震やオウム真理教などで情報は少ない。今回も足利事件の冤罪と重なり情報は少ない。


 安田好弘・阿部泰雄が『週刊朝日』で対談してますが、要するに裁判官の質は低い。同じ官僚としての検察に甘く、左遷が怖くて無罪判決など書けない。たとえ書いても控訴審なのでひっくり返される。よって無罪判決では控訴審の裁判官に読ませるために苦労して分厚い判決文などを書くそうです。地方ではお茶やテニスしたりする仲間、そんな仲間に無罪判決で駄目の烙印を押すには・・・となるようです。

 かような質の低い裁判官がこの難解な事件を裁く。ある意味無謀なことです。  






2009.06.14 Sun l 檜原転石. URL l 編集
Re: タイトルなし
檜原さん、コメントありがとうございます。本を読まれたそうですね。供述調書とあまりに内容が違うのは、なぜなのか。自分が取調べで話したことをよくおぼえていなかった部分もあったのではないでしょうか。その可能性も考えられます。供述調書の変遷は甚だしいし、裁判は分離でしたから。
>同じ官僚としての検察に甘く、左遷が怖くて無罪判決など書けない。たとえ書いても控訴審でひっくり返される。
このような話をよく聞くんですが、これでは世も末ですよね。いったい何のために裁判官になったんだ、といいたい。我々一般庶民が気づいたことを、一点、一点、指摘していくしかないのでしょうね。
2009.06.14 Sun l yokoita. URL l 編集
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2016.08.29 Mon l . l 編集

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