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文芸評論家の福田和也氏が書かれた小説家 佐多稲子についての文章がウェブ上に出ていることを少し前に知った。
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/26762?page=3
初出は『週刊現代』(2011年11月)だったようである。10回の連載になっているが、第4回目の題名は、「カフェに溜まる文学青年たちが、女給の才能を存分に開花させる」である。「カフェに溜まる文学青年たち」とは、この翌年の1926年に佐多稲子の夫となる窪川鶴次郎をはじめ、中野重治、堀辰雄など、雑誌『驢馬』に集う同人たちのことである。 連載第1回目には、このときから7年ほど前、15、16歳の少女だった佐多稲子は不忍池の清凌亭という料亭で働いていて、そのとき芥川龍之介や久米正雄などの文学者たちと知り合っていたことなどもかなり詳しく叙述されている。佐多稲子の名前を、またその作品が語られる場面を見聞きすることが少なくなっている昨今、このような文章が書かれることは、古くからの佐多稲子のファンである私にはとても嬉しいことであった。「 …昭和の文学史は、佐多がいないと大分、寂しいものになるだろう。少なくとも、私にとっては、そして少なからぬ読者にとって佐多は、ある意味で、林芙美子よりも、宇野千代よりも、吉屋信子よりも大きな存在だろう。」との福田氏の見解にも、常々、佐多稲子を得がたい作家の一人だと思っている私は心から賛同する。

ところが、この連載にはつよい違和感・抵抗感をおぼえさせられる記述もある。それも佐多稲子本人に関してではなく、中野重治に関するものであり、この部分は上述した連載第4回「カフェに溜まる文学青年たちが、女給の才能を存分に開花させる」 のなかに出てくる。佐多稲子を論じる上で中野重治は欠かせない存在にちがいないのだから、執筆者の筆が中野重治におよぶのは自然なことだと思うが、その内容が問題で、私ははなはだ奇異な思いがした。以下の文章である。

「 文芸評論家、江藤淳はごく若い 頃 ---湘南中学時代、石原慎太郎氏とともに、従姉の夫であった第一高等学校文科教授の江口朴郎の元を訪れ、史的唯物論について話を聴いたという---を除けば社会主義、共産主義、つまりは左翼的な思潮にたいして常に一線を画してきたが、昭和六十年一月文芸誌『新潮』誌上ではじまった連載、『昭和の文人』で平野謙、中野重治を扱っている。

 平野に対しては、戦時下でのふるまいも含めて、かなり批判的なスタンスを取っているが、中野にはかなり同情的、というより深く、大きな共感を抱いているように見 える。

 例えば中野重治の詩、「雨の降る品川駅」について、江藤は次のように書いてい る。

「 どういうものか、私はこの『雨の降る品川駅』という詩が好きで、大学の講義で 昭和初期の詩歌を論じたときにも、進んで取り上げたことがある。そのとき、学生の 前でこの詩を朗読しているうちに、ある感動が胸に迫って一瞬読みつづけられなくなり、われながら少からず驚いたこともある。/それは、もとより私が、詩の中で謳わ れている『日本プロレタリアート』のイデオロギーに、いささかたりとも共感を覚えたためではない。

 イデオロギーではなく、『さようなら 辛/さようなら 金/さようなら 李/さようなら 女の李』という告別の言葉にこめられたあるラディカルな旋律が、突然思いも掛けなかった戦慄を喚び起したからこそ、私はしばらく朗読を中断したのである。/いま、あらためて読み直してみると、最初からこの詩のなかには、さほどのイデオロギー的抵抗を感じずに済むような、適切な距離の基軸が埋め込まれている。

 『さようなら』と呼び掛けられている『辛』も『金』も、『李』も『女の李』も、 誰一人として日本人ではない。朝鮮人でありながら、同時に『日本帝国臣民』であることを強制されていたこれらの人々が、『日本天皇』に敵意を抱き、敬愛の念を持たないのは、きわめて自然というほかない」

 ここで江藤は、かなりきわどい語り方をしている。日本プロレタリアートのイデオロギーについては、まったく共感を覚えないといいながら、同時に日本プロレタリアートの代表的詩人である、中野重治の作品に「読みつづけられない」ほど感動している。思想的にはまったく受け入れないが、感性においては全面的に肯定する、といった事態は、許容されるのだろうか。

 この問いは、かなり厄介なものだ。

 もちろん、人はイデオロギーを超えて理解しあう事は出来るだろう。けれども、 『辛』や『女の李』は、あきらかに戦前の日本を、そしてその国家を統治している天皇を打倒しようとしている。共産主義者である中野が『辛』の側に立つのは当然だと しても、天皇の臣下であることを引き受け、そして誇りにしてきた藝術院の会員であ る江藤は、しばしば天皇陛下の謦咳に接する機会にめぐまれている。その江藤が朝鮮の共産主義者の別離を謳った調べに感極まるとは。もちろん、そこにこそ文芸の神秘があるのだけれど。

 しかしまた一方で、中野にもまた、江藤と共鳴する響きがあった。 転向した共産主義者である、中野重治は、戦後すぐに書かれた短編小説「五勺の酒」のなかで、中学の校長の口を借りて、戦後すぐに行われた全国巡幸について、こう述べているのだ。 「移動する天皇は一歩ごとに挨拶すべき相手を見だすのだ。

 そうして、かぶつては取りかぶつては取りして建物のなかへはいつて行つた。歯がゆさ、保護したいという気持ちが僕をとらえた。(中略)なるほど天皇の仕草はおかし い。笑止千万だ。だから笑うのはいい。しかしおかしそうに笑え。(中略)僕はほんとうに情なかつた。日本人の駄目さが絶望的に自分で感じられた。まつたく張りということのない汚なさ。道徳的インポテンツ」。

 敗戦を迎え、『敵』であるはずの天皇に、無限の同情を覚える中野と江藤の距離はさほど遠くはなかっただろう。」(強調の下線はすべて引用者による。)


この文章は、「 カフェ「紅緑」時代は、稲子にとって、遅くやってきた青春時代だった。その輝きはまばゆく、その資質、才能を開花させただけではなく、人生行路をも、大きく変えてしまったのである。 」という佐多稲子の歩みと中野重治ら『驢馬』同人との運命的な出会いについての叙述につづいてのものである。福田氏の文章の内容自体への疑問だけではなく、こういうところでどうして江藤淳の中野重治に関するこのような文章が出てくるのだろう、との疑問もないではない。なぜこんな場面で何の脈絡もなく江藤淳の中野重治評が出てくる必要があるのか、あまりに唐突で、奇異な印象をうけるのだ。

江藤淳の『昭和の文人』に対しては「中野重治「再発見」の現在」という批判の文章があり、これもウェブ上で読める。数年前、私はこの批判文を読んで江藤淳の『昭和の文人』を初めて読んでみたのだったが、中野重治に関する記述については実に薄気味悪い文章だと思った。特に堪えがたく感じたのは「慟哭」という語句が頻出することであった。江藤淳は本の「あとがき」でも、

「  私はこの仕事によって、ほとんど中野重治という文人を再発見したといってもよい。彼は若年の頃の詩に詠じた『豪傑』にこそならなかったが、終生廉恥を重んじ、慟哭を忘れることがなかった。そのような中野重治の文業に対し て、私はほとんど自らの慟哭を禁じ得ぬ思いであった。

と述べているが、これに対して 「中野重治「再発見」の現在」は、

「 もちろん中野重治は再発見され、再評価されるべきだ。単に再発見だけでなく、今後もくりかえし再再再…発見されるだろう。しかし発見は事実に即し、テクストそのものに即しておこなわれなければならない。もちろん時代の変化によって、読みの変遷はある。それがあるからこそくりかえし「再発見」が必要になり可能になるのだから。だが、自分の姿に似せて相手をつくりかえることは「再発見」でも「再評価」でもない。そして江藤淳によって再発見された「日本民族の不幸に慟哭する中野重治」 「天皇を愛する中野重治」は、まさにそのようなものであった。」

と批判している。この批判内容に私は共感・賛同するが、特に下線を付けた箇所の批判には全面的に賛同する。
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2012.05.20 Sun l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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