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「慟哭」をGoogleで検索してためしに一行目のサイトをクリックしてみると、目に飛び込んできたのは「「慟哭」(どうこく)は、 工藤静香 通算18枚目のシングル 。 1993年2月3日発売。発売元はポニーキャニオン 。」という文字…(笑)。そんな歌があるとは今の今まで知らなかった。作詞は中島みゆきだというから、普通の恋愛歌なのだろう。間違っても臣民や右翼が天皇や国家を思って泣くというような内容の歌でないことは確実だ。次に「慟哭」の意味について検索してみたら、「悲しみのあまり、声をあげて泣くこと。」とある。おもしろいと思ったのは同じサイトの「類語」の項目で、 そこには「号泣(ごうきゅう)/慟哭(どうこく) 」と出ている。

「[共通する意味] ★大声をあげて激しく泣くこと。
 [使い方] 〔号泣〕スル ▽妻の遺体にとりすがって号泣する若い夫
      〔慟哭〕スル ▽父の訃報(ふほう)をきいて慟哭する青年
 [使い分け] 「号泣」は、大きな泣き声で泣くことをいい、「慟哭」は、激しい動作で泣くことをいう。(提供元:「類語例解辞典」) 」

これを見ると、「慟哭」という名詞にも時と場所に相応しい適切な使い方がちゃんとあった(ある)わけである。決して初めから国家主義者の専用語ではなかったのだ。江藤淳は『昭和の文人』で「慟哭」を強引に中野重治に押しつけて自分一人で陶酔しているように私には見えたが、ああいうふうにある特定の言葉に対して特異な情念や意味を含有させるやり方は、そもそもは戦前の30年代後半から40年代にかけて活躍した京都哲学派と日本浪漫派の人々によって始められたようである。加藤周一の「戦争と知識人」(1959年)には次のように記述されている。

「 私はここで戦歿学生の手紙(引用者注:遺稿集『きけわだつみの声』収録のものだと思われる。)を引用しない。しかし愚かないくさのなかでの避け難い死に、何とかして意味をあたえようとしたとき、多くの手記の筆者たちがより所とせざるをえなかったのは、何よりも京都の哲学者と日本浪曼派の仲間であった、ということだけを指摘しておきたいと思う。
 それならば京都学派と日本浪曼派は、どういう論理で「大東亜戦争」を讃美し、絶対化しようとしたのであろうか。

3 日本浪曼派と京都哲学
 2.26事件(1936年)以来のファシズム「新体制」を正当化し、中国侵略戦争と太平洋戦争に理論的支持をあたえようとしたのは、日本浪曼派と京都哲学の一派だけではなかった。一方には狂信的な国枠主義者があり、他方には官立大学の御用社会学者があり、弾圧によってジャーナリズムが整理されていった後には、ほとんどすべてのジャーナリズムがただそのためにのみあった。しかしすでに繰り返し指摘してきたように、太平洋戦争の段階で戦場に追いたてられた世代の知的な層にとって、いちばん深い影響をあたえたのは、おそらく日本浪曼派と京都哲学の一派であった。
 日本浪曼派は反合理主義的な立場から、明瞭に定義することのできない言葉を駆使して、読者の情念に訴え、戦争の性質を分析せずに、戦争支持の気分を煽りたてた。保田与重郎はその意味での名手であったろう。浅野晃、芳賀檀、そして亀井勝一郎がこれに加わる。そこでしきりに用いられたのは、たとえば、「悲願」「慟哭」「憧憬」「勤皇の心」「悠久のロマンチシズム」「民族といふ血で書かれた歴史の原始に遡る概念」というような言葉であった。「悲願」という言葉は今でものこっていて、「原爆実験の禁止は国民の悲願である」などという。要するに、その論理的内容は、原爆実験をやめてもらいたいと日本国民が思っている、ということにすぎない。「慟哭」というのは、つまり泣くことである。大へん悲しんで泣くことだといってもよかろう。日本浪曼派の魅力の半分は、「大へん悲しんで泣く」といったのでは何の変哲もない事柄を、「慟哭する」ということで有難そうにするしかけ以外にはなかった。それにひっかかったのは、戦争中だろうと何だろうと、ひっかかった側に物事を正確に考え正確にいいあらわす習慣が足りなかったからである。こういう安上りなしかけで理窟らしい理窟のできあがるはずがない。
 しかし亀井勝一郎は、日本浪曼派式方言を使いながらも、とにかく理窟らしいものをつくりあげた批評家であった。中国侵略戦争に対するその見解は、たとえばつぎのようなものである。
「人間にとって求道は無限の漂泊であり、恐らく死以外に休息はあるまい。……たとへば我らの現に戦つてゐる支那事変そのものが、実は親鸞の教の真実を語つてゐるのだ。領土も、償金もいらぬ、云はばいかなる功利性をも拒絶した上に、今度の事変の理想がある。求めるところは東洋の浄土に他ならない。」(1941年6月講演)
 だから支那事変は、「民族の壮大な運命」であり、「天意として敬虔に享けねばならない」ものだということになる。」(『加藤周一著作集 7』平凡社1979年)(強調の下線はすべて引用者による。)

このような経緯と内実をもつ「慟哭」という言葉を中野重治に被せることの不当・不適切さは明らかだろう。ちなみに、加藤周一は医学部の学生として26歳で敗戦を迎えている。少年のころから反戦の意識をもっていたという加藤周一には京都の哲学者や日本浪漫派の人たちが用いる「悲願」「慟哭」「憧憬」「勤皇の心」などの言葉は自分たちを戦場に従順に引きずり出すために用意された、それにしてはお粗末な子ども騙しの理屈以外には見えなかったようである(ほぼ同様のことを加藤周一より5歳ほど年下の吉行淳之介もエッセイで何度も述べているが…)。その加藤周一が戦時中熱心に読んでいた現役の作家は、石川淳や林達夫とともに中野重治だったという。中野重治の「転向」という事実は、「村の家」という作品とともに転向作家と言えば中野重治というくらいによく知られていることだが、「村の家」を読むと中野重治は2年を経た獄中暮らしのなかで発狂の恐怖にとらわれるようになっていることが感じとれる。正直に言って中野重治のあの転向の仕方は中野の関係者を別にすれば、それを他人が責めることができることのようには思えない。

「中野の関係者を別にすれば」と先に述べたが、これとてもそう簡単に何かを言い切ることはできないだろう。石堂清倫氏の「「転向」再論ー中野重治の場合」によると、中野は1932年4月4日に逮捕され、 およそ2年後の34年5月26日に法廷で、「日本共産党員たることを認め、共産主義運動から身を退くことを約束」して、執行猶予で出獄しているが、「党の組織関係については一貫して陳述しなかった」とのことである。

当時の日本共産党中央委員には何人もの公安のスパイが潜り込んでいて、実質的には党は潰滅状態、個人の党活動は逮捕されるがためのものになりはてていたという。その他に当時の共産党の方針がどれだけ正しかったかという問題もあるだろう。石堂氏の諸発言のなかで驚かされるのは、共産党は天皇制廃止を党是に掲げながら、かつて党員の誰一人として、「天皇制イデオロギーの基本文献である」軍人勅諭、教育勅語に対する綿密な批判を試みた人物はいなかったということである。石堂氏は「支配階級は軍隊でも学校でもあらゆる機会に反復して教えこんでいる」のだから、「この有様では反天皇制の運動が「転向」として終わるのは必然であった。」と述べている。その他にも石堂氏は重要な問題点をいくつも(たとえば、日本人の愛国心が支配階級のみならず、社会主義者や共産主義者にあっても初めから排外主義的であったこと、など。)説得的に指摘されているが、そのようななかで獄中の中野重治があれ以上無理をしなかったのはよかったのではないか、むしろあれは適切な判断だったのではないか、と外野のそれも素人考えではそう思えたりする。

石堂氏の文章からの引用になるが、中野重治は自身の「転向」について「 僕が革命の党を裏切りそれにたいする人民の信頼を裏切つたという事実は未来にわたって消えないのである。」と述べて、自分の行為の非を認め、あるいは責めているが、同時に「それだから僕は、あるいは僕らは、作家としての新生の道を第一義的生活と制作とより以外のところにはおけないのである。」「もし僕らが、みずから呼んだ降伏の恥の社会的個人的要因の錯綜を文学的綜合のなかへ肉づけすることで、文学作品として打ち出した自己批判をとおして日本の革命運動の伝統の革命的批判に加われたならば、僕らは、そのときも過去は過去としてあるのではあるが、その消えぬ痣を頬に浮べたまま人間および作家として第一義の道を進めるのである。」と、文筆活動をとおした闘いへの決意を述べている。また、小説「村の家」で転向して戻ってきた息子の勉次に対して「筆を棄てて百姓をやれ」と説く父親に対して勉次は結局「よくわかりますが、やはり書いていきたいと思います」と答えている。

もちろん中野重治ひとりにかぎったことではないが、中野の場合の「転向」もこのようにさまざまな背景・要因・事情をふくみ持つのに対して、『昭和の文人』において江藤淳はそれらを一切がっさい無視して「転向=天皇の臣民への転向」という単一の図式にはめこもうとしている。前回のブログで1961年時における中野重治の江藤淳に対する批判を紹介したが、中野のあの批判はその後の江藤淳に対しては何らの影響も効果ももたらさなかったように思える。江藤淳は中野重治について「終生廉恥を重んじ、 」と述べているが、確かに中野重治はそういう人だったのかも知れない。佐多稲子の『夏の栞 ー中野重治をおくるー』(新潮社1983年)には、こんな場面が描かれている。最期の入院をしていた中野重治のもとを親しい人たちが訪れて、ロビーに詰めている。そこで、新しく出す本(多分、中野重治全集28巻のうちの最後の一巻のことではないかと思う)の題名について、編集を引き受けていた人物(松下裕氏)が、他の人に次のような話をしている。

「今度の本の題のことで、わが生涯と文学、というのはどうでしょう、と僕が云ったんですが、中野さんは、生涯、というのに一言ありました。自分から、生涯、と云うことに抵抗があるようです」

傍でそれを聞いていた佐多稲子は、「それは中野の感覚だ、と同感しながら、しかし私は何も云わず、…」と書いている。それからこういうこともある。中野重治全集第24巻に「原鼎あて河上肇書簡」(初出『展望』1967年)という題の文章が載っているのだが、ここで中野は河上肇の「晩年の生活記録抄」(河上肇全集第12巻)に出てくる「×さん」の「×」は誰であるかを推理している。要は、中野はこの「×」と伏せ字になっている人物は「原鼎」ではないかと推理し、そういう自分の推理のゆえんを河上肇から原鼎あてに出された多くの書簡や河上肇の日記に出ている原鼎についての叙述を引用することによって証明しようと試みているのである。なぜ中野がそういう試みをするのかといえば、原鼎という人物は中野の亡き友人(高等学校時分の後輩)だったからなのだが(その前提に河上肇の人と学問への中野の敬意があることは言うまでもない。)、この推理を述べるにあたって、中野は次のように書いている。

「むろん、河上さんも亡くなり奥さんも亡くなって、私はつつしみ深くあらねばならぬことを知つている。」

実際中野がここで展開している推理は無理のない穏当で節度あるものにちがいなく、内容には真情あふれる豊かさが感じられる。これらのことは江藤淳が述べるように、「廉恥を重んじ」る人の姿が彷彿とするエピソードだと思う。しかしながら、そういう中野について江藤淳は「終生廉恥を重んじ、 」と書いた後、すぐ「慟哭を忘れることがなかった。そのような中野重治の文業に対して、私はほとんど自らの慟哭を禁じ得ぬ思いであった。」とつづけているのだから、こういうところをみると、私には、こちらのほうは「廉恥を重んじ」る姿勢を持ち合わせていなかったように思える。中野重治はその文章や論理の展開について「執拗」とか「ねちねちとしている」とか「例によつてことばに異常なこだわりを示しながら」などとたえず人に言われながら、そういう相手に対して、たとえば「むしろ私は、土井こそ、まして「詩人」として、せめて常識程度には言葉にこだわれと言いたい。」(「誤解と誤解主義」全集24巻)などと言い返している。そういう中野重治の言葉に対する鋭敏なこだわりに江藤淳が配慮した様子が全然ないことにもちょっと驚かされる。

中野重治が「五勺の酒」を発表したのは1947年1月だから、敗戦からちょうど1年半後のことになる。その1年半の間に中野重治がアカハタなどに書いた文章には下記のものがふくまれている。「五勺の酒」を読む場合にも(江藤淳の中野重治論を読む場合でも)何かと参考になるかと思うので、引用しておきたい。


 ○ 租税と御下賜金
 わが天皇は今度税金を納めることになつた。わが天皇は、財産家として財産税を、戦時利得者として戦時利得税を納めることになつた。結構と思う。間違いなくそれを納めればそれだけ天皇は一人前の人間に近づけるわけだ。納税義務の履行ということで、特に戦時利得税の完納ということで、天皇は、戦時利得者としての責任の一部を正当にはたせるわけだ。
 そこでわが天皇は、その納税の意義を正しく理解せねばならぬと思う。大蔵大臣が、これを税金として扱うか御下賜金(ごかしきん)として扱うかまだ決つていないなどいつているけれども、税金は個人のほしいままな施与(せよ)ではない。税金は寄付金ではない。納税は義務であり、その不履行は法的に罰せられるのだ。国民はすべてかくのごときものとして苦しみつつ税を納めているのだ。
 天皇はこのことをよくよく理解せねばならぬ。万が一税金と御下賜金とをすりかえるようなことがあれば、それは国民にたいする最大の侮蔑であることを知らねばならぬ。

 ○ 実地と空想
 明治元年、天皇は牧場を入れて2万2千町歩もつていた。明治21年までそれが続いた。この年、天皇は国の土地90万8千25町歩を盗んだ。それから自分の土地29万5千町歩を出して、国の土地82万7千町歩を盗んだ。23年、国の土地200万町歩を盗んだ。27年、そのうち63万町歩を残してあとを売つた。別に23年、101万588町歩を自分用ときめた。そこで明治27年、その所有総反別、牧場を除いて360万町歩となつた。21年から27年までの7年で、彼はそれまでの所有土地の163倍を盗んだのであつた。
 これは帝国学士院の推薦で有栖川宮記念学術奨励金をもらつて皇室経済史を研究している奥野高広という学者が書いている。7年で164倍にした土地をその後の43年で何倍にしたか、その現在高が正確に知りたい。
 東京の宮城は65万7千111坪ある。京都の皇居は27万629坪ある。東京の宮城へ畑15坪建坪15坪の家を建てると2万2千軒ほど建つ。一戸5人として人口11万の美しい町が建つ。そこへ子供づれの戦災者たちを薪炭つきで住まわせたい。

 ○ 天皇と戦争犯罪責任
 政府――天皇の任命した幣原内閣――は、国民には戦争責任がないと言明した。逮捕された戦争犯罪容疑者たちは、しやべる機会があつたかぎり、彼らには戦争犯罪責任がないと主張した。フィリピンの山下などは、死刑の宣告後までも自己の無責任を主張した。それから貴衆両院の議員たちは、議会そのもので、彼らの無責任を主張した。
 国民に責任のないことは明らかだ。しかし政府が言明したのは、国民から追いつめられての結果だ。「一億総懺悔」が、国民から手ひどくしつぺ返しをくつた結果だ。しかしとにかく政府は言明した。戦争犯罪責任は国民にはない。国民はだまされ、威嚇され、戦争に駆りたてられただけなのだから。それから山下らは主張した。彼には責任はない。彼および彼らはただ「命(めい)のまにまに」戦つただけなのだから。それから逮捕された連中、「重臣」とその連類とは主張した。彼らには責任はない。彼らは強制されたのだから。彼らは「内心」戦争に反対だつたのだから。彼らは強制によつて自己を枉(ま)げたものではない。暗殺さえ彼らは恐れなかつた。ただ宣戦が天皇によつて布告されたため、「承詔必謹」の「臣道実践」においてそれに従つたまでなのだから。議員連中も同じく主張した。彼らには戦争責任がない。その理由は、――その理由は何だかわからなかつた。
 そこで戦争犯罪責任が国民にはないことになつた。将軍連にもないことになつた。「重臣」連にもないことになつた。議員連にもないことになつた。戦争犯罪責任はどこへ行くか。どこへ行くことができるか。
 逮捕された容疑者連中、現職の大臣連中、将軍連中、重臣連中によつて、戦争犯罪責任は、集中凝固して天皇に帰せられた。近衛などは、最も卑劣な証拠摩滅によつてそれを天皇に帰した。
 天皇の重臣、天皇の政府の大臣、天皇の軍隊の将軍、天皇の議会の議員、この連中がよつてたかつて、天皇を戦争犯罪の主犯の位置に追いあげたことは興味がある。彼らは天皇制擁護を叫んでいる。同時に天皇を戦争犯罪人の主犯の位置に追いあげている。

 ○ 憎悪と破壊
 売国奴的天皇政府批判の言葉をすべすべしたものにしようとする試みは正しいか。天皇制打倒の理論から天皇制にたいする無限の憎悪、呪いをひきぬこうとする試みは正しいか。共産主義者は愛せられねばならぬという言葉を共産主義者は敵からも愛せられねばならぬという言葉にすりかえようとする試みは正しいか。すべてこれらの試みは足腰たたぬまでに叩きのめされねばならぬ。
 国民の敵を国民の敵として国民の前に正確につるしあげよ。共産主義者の仕事は敵のカを破壊することだ。敵の組織、その機関、その活動、その反撃を先手をうつて破壊せよ。破壊という言葉が、軍国主義者、官僚、大資本家、大地主の連合軍によつて国民にたいする彼らの暴力活動の口実につかわれるかもしれぬことを恐れるな。破壊の実行が、口実につかう力をも敵からうばうのだ。憎悪と呪狙、破壊と荒療治、このことに責任を感じよ。売国奴的天皇政府をいまなお存続させておくことにたいする火傷をするような恥と悲しみ、そこに革命家、主義者があるのだ。

 ○ 道徳と天皇
 国民は道徳をもとめている。目のまえが苦しくとも、一本の道徳が、国民生活の全面をつらぬくことをもとめている。看板だけのぬりかえ、民主主義への擬装をにくむのも、それによつて国民生活が道徳的に腐らされるからだ。「無理が通つて道理ひつこむ」かぎり、鷺が烏で通るかぎり、まじめな国民の努力の根、そのたましいの支えが失われるからだ。あらゆる偽ものが、あの手この手と苦しい言いわけをしているのも、道徳をもとめる国民の声、その純粋の力に服せざるをえぬからだ。
 しかしあらゆる偽ものも、天皇ほどのずうずうしさをみせたものは一人もない。きのうは神、きようは人間というほどの烏ぶりをみせたものは一人もない。元旦の詔書ではおくびにも戦死者にふれず、たちまち供出強制令、金融資本救済令に判子をおし、その手で、背広にきかえて宮廷列車で戦災地見舞い(?)に出かけたほどの贋金ぶりをみせたものは一人もない。天皇は贋金つくりの王である。この点こそ国民道徳の腐敗源である。 」
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2012.05.28 Mon l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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