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 菊池寛宛の書簡

後の世代の者である私の目から見ると、中野重治が、一般的にこれは後ろ指(批判ではなく)をさされても仕方ないと考えられることがもしあるとすれば、戦争末期の42年、発会が決まった日本文学報国会に自分も入会したいという趣旨の書簡を菊池寛に書き送ったことくらいではないかと思う。この件は、ウィキペディアの「中野重治」には次のように記述されている。

「太平洋戦争開始時、父親の死去による帰省中だったために検挙をまぬがれた。戦時下も『斎藤茂吉ノオト』などの作品を発表した。文芸家協会の日本文学報国会への改組にあたって、自分の過去の経歴 (左翼活動)のために入会を拒まれるのではないかという不安におそわれて、菊池寛に入会懇請の手紙を送っていた(後に、手紙を保管していた平野謙によって暴露された)。」

後年、平野謙は中野重治のその行動について、中野は内務省警保局による38年の執筆禁止令につづく再びの執筆禁止令を恐怖したのではないかという指摘をしている。中野重治は全集の何巻だったか「著者うしろ書」のなかで平野謙のその指摘について触れ、そうではなかった、作品を発表できるかどうかなんてことはふらついた精神状態だった当時の自分には問題にもならなかった。自分が恐れたのは、ひたすら治安維持法による逮捕拘禁だった、という趣旨のことを書いていた。真珠湾攻撃の際、中野の東京の自宅には官憲が踏み込んだそうだから、故郷に帰省中でなければ当日逮捕されたことは間違いない。そういうなかにいた中野には、太平洋戦争の開戦をうけて多くの物書きが口々に洩らした、スッキリした、これでスッキリした、という発言はまったく別世界の出来事にしか思われず、心底コタエタらしい。そのような情勢のなかで中野重治は文学報国会入会が拒否されるようなことがあれば、それは即逮捕拘禁につながると思ったようである。

真珠湾攻撃から半年後の1942年5月にひらかれた文学報国会の発会式についても中野重治はどこかに(そのうち調べておきます)書いていた。その日の会場で大勢のなかに混じって乞食のように惨めな気持ちで式典を見上げていたこと、壇上に多くの作家たちが並ぶなか東條英機がその前に立ってあいさつを行なったこと、そのなかで東條が、爾来文学というものは天才の仕事でありまして…、という言葉を発したとき、その背後に隣り合って立っていた武者小路実篤と徳田秋声がわずかに身体を動かし、下を向いたまままチラと目を合わせて苦笑いしたこと、その光景がその日の自分にとって唯一の慰めであったこと、などを書いていた。
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2012.05.30 Wed l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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