QLOOKアクセス解析
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top
私の住んでいる街には分館や閲覧所をふくめると合計13もの市立図書館がある。おかげでいつも何かと重宝に利用させてもらっているのだが、先日そのホームページにアクセスして亀山郁夫訳ドストエフスキーの『悪霊』が入庫しているかどうか検索してみたところ、全館でゼロであった。じつは1年ほど前にも同じことをやってみて、そのとき『悪霊』は米川正夫訳と江川卓訳が数点あり、亀山訳はないことを確かめていたのだが、ただ当時は亀山訳『悪霊』は刊行途中だった(3巻中の3巻目はまだ刊行されていなかった)ので、今後まとめて入るようなことがあるかも知れないと思っていた。しかし現在『悪霊』刊行は完了しており、それからすでに半年以上が経過しているので、今後図書館側がこの本を購入することは何かよほどのことがないかぎりもうないように思われる。ついでに、ドストエフスキー作品に対する亀山氏の最初の翻訳であった『カラマーゾフの兄弟』とその次の『罪と罰』についても検索してみると、前者は6点、後者は3点の在庫状況である(ただし、紛失などによるものか、欠け落ちている巻もそれぞれ1、2冊ずつあるようだ。)。

図書館が亀山訳『悪霊』を一冊も購入していない理由を考えてみるに、図書館側がこの作品の刊行を知らなかったということは普段の書籍購入状況から推察してまったく考えにくい。おそらくは意識的に購入を控えた、見送ったのではないかと推測される。そして購入見送りの理由としては「翻訳に問題がある」という判断がなされた可能性が高いように私には思える。『悪霊』は蔵書として米川正夫訳、江川卓訳が数冊ずつ現存しているのだから、新訳に瑕疵が大きいと判断したならば、わざわざお金を出して購入する必要はないわけである。もちろんこの推測が当たっているかどうかは分からないが、ともかくこの措置はよかった、見識であったと私は思う。

とこのように言っていながら、私自身は亀山訳『悪霊』は読んでいない。その前の『罪と罰』も。『カラマーゾフの兄弟』を読んでみて亀山氏の翻訳の文章にほとほと懲りたのだ。古典は丁寧に読み、熟読してこそその良さが理解でき、味わいが感受できると思っているが、亀山氏の翻訳にはそもそも熟読を困難にするところ、丁寧に読めばそれだけ苛立ちが募っていくというところがあるように思う。その原因は、まず日本語の文章として意味が通じない箇所が多いからである。「亀山訳はわかりやすい」というのが出版社サイドの売り文句だったようだが、亀山訳を読んだ人にはぜひ機会と時間をみつけて他の人の翻訳も読んでみてほしいと思う。

『カラマーゾフの兄弟』以来、亀山訳の検証をつづけておられる木下豊房氏のサイトを拝見すると、「亀山郁夫訳『悪霊』Ⅱ「スタヴローギンの告白」における重大な誤訳」という記事のなかに、「『カラマーゾフの兄弟』から『悪霊』へと、亀山訳の欠陥のパターンを通覧してきた現在、引き続き「検証」作業を続けることの虚しさを感じる。」との記述がみられるが、一読者の立場からみても、この感慨にはまったく同情の念を禁じえない。『悪霊』に関する木下氏と森井友人氏の文章を読ませていただき(お二人には多大な労に対しあらためて「お疲れさま」とお伝えしたい。)、つよく感じたことがいくつかあるのでその点を記しておきたい。木下氏の文章においては、特に次の部分が印象深かった。

「…… <私にとっては、ことによると、あのしぐさそのものの思い出は、今にいたってもなお、さほど厭(いと)わしいものではないのかもしれない。もしかしたら、あの思い出は、今も何か、私の情欲にとって心地よいあるものを含んでいるのかもしれない。いや ― たったひとつ、そのしぐさだけが耐えられないのだ。>いや、私が耐えがたいのは、ただあの姿だけ、まさにあの敷居、まさにあの瞬間、それ以前でもそれ以後でもない、振りあげられた、私を脅しつけるあの小さなこぶし、あのときの彼女の姿ひとつだけ。あのときの一瞬のみ、あの顎のしゃくりかた。それが私には耐えられないのだ。」(亀山訳『悪霊』Ⅱ、p.579-580)

詳細についてはぜひ上に記したサイトをじかに見ていただきたいのだが、亀山氏は他の翻訳者(米川・小沼文彦・江川氏など)の訳では明確に「(スタヴローギンの)行為」と訳されている箇所を、「あのしぐさ」とすることで、これが「スタヴローギンの行為」ではなく、「マトリョーシャの行為」であるかのように訳しているのである。亀山氏の訳語「しぐさ」が「マトリョーシャの動き」を指していることは、その次に出てくる「そのしぐさだけが耐えられないのだ。」という文中の「しぐさ」が、紛れもなくマトリョーシャの動きであることを見れば間違いのないことなのだが、しかし「あのしぐさ」の箇所は本来「スタヴローギンの行為」以外の何ものでもないことは前後の文脈からいってあまりにも明白である。もし亀山氏の訳のように、スタヴローギンにとって「今にいたってもなお、さほど厭わしいものではないのかもしれない」ものが、「あのしぐさ」、すなわち「マトリョーシャの行為」を指しているということになるのであれば、『悪霊』という作品は何が何やら意味不明、作品全体が支離滅裂なものということになってしまいかねない。それほどまでにこの誤訳は無視することのできない、重大な語訳であると思う。しかもこれは単なる誤訳というより、木下氏が疑念を表明されているように、亀山氏のある思惑、少なくともある強烈な思い込みが作用しての結果ではないかと思われるのである。これはちょっとある種の恐怖をさえ感じずにいられない出来事である。

森井友人氏の文章「亀山郁夫訳『悪霊1』アマゾン・レビュー原稿 新訳の読みにくさ・文脈の誤読 ―ドストエフスキー・ファンの願い―」は、亀山訳『悪霊』のなかで日本語として文脈が読みにくいケースを丁寧に指摘した後、「訳者がそもそも文脈を誤読している」ケースの指摘がなされている。その例として挙げられているのが、「ステパン・ヴェルホーヴェンスキーの物語詩が外国の革命的な文集に無断で掲載された時の当人の反応を描写する箇所」である。

「外国から送られてきたその文集を手にした彼は(……)毎日どこからか祝電のようなものが送られてくるのを待ちわびながら、そのくせ人を見下すような外面を装っていた。祝電は一通も送られてこなかった。そこでようやくわたしと仲直りしたわけだが…」(亀山訳p.22)

森井氏は、「この「祝電」が誤訳であることは、文脈から見て取れる。」と述べ、以下のような指摘をされている。

「そもそもステパンは、反体制の進歩的知識人として扱われることに自分の存在意義を見いだしている人物である。だからこそ、語り手の「私」が「この詩も今となってはまったく罪のないものだから出版してはどうか」と主張した時に不満の色を見せて拒絶し、よそよそしくなったのだし、また、だからこそ、この件で彼は慌てふためきながらも、内心気をよくしているのである。」

「「祝電」を送られるようでは、自分の詩が今となっては罪のないものでしかないことを証明することになってしまう。そんな事態をステパンが待ち望むはずがない。待っていたのは、この件で身に降りかかるかもしれない危険(例えば弾圧等)について警告するような内容の電報、つまり、自分が今も当局に一目置かれる反体制の進歩的知識人であることを傍証してくれるような電報のはずである。したがって、ここに「祝電」などという言葉が使われているはずがなく、原文に単に「電報」とあったのを訳者が勝手に「祝電」と「意訳」したと推測がつく。実際、Web上の原文を見ると、単に「電報」と書かれているだけであり、江川訳ほか先行訳でもむろんそのまま「電報」と訳されている。」


森井氏のこの指摘と解釈は正しいと思う。この場面は作品のごく最初のほうにあり、ステパンがどのような人物なのか、このとき読者にはまだよく理解がおよんでいない。だからステパンが待っている「電報」がどのような意味合いのものなのか、瞬間多くの読者が理解に戸惑う個所ではあると思う。実際、初読(江川訳)のとき私もここを読んで即座にはステパンの心理をうまく把握できず、文脈を理解するために前に戻って二度、三度と読み返してみたものだった。そうして初めて森井氏が述べているところと同様の理解に至ったのだが、この挿話にはステパンという人がどういう性格であり、どういう主義主張の傾向や特徴をもった人物なのかが最も鮮やかに現れているように思う。森井氏は「亀山訳を信じて読んだ場合、その脈絡が不明となるだけでなく、ステパンの心理と人物像の理解にも支障をきたすことになるだろう。」と述べているが、まったくそのとおりであり、「誤訳」として見過ごすにはあまりに重大な翻訳上の過誤だと思う。特に、「ステパンの心理と人物像の理解にも支障をきたすことになるだろう。」との指摘は重大であると思うが、上述した「あのしぐさ」の場合においても木下氏が同様の指摘をされている。ロシア語を知らず、したがって原作を読めない読者は亀山氏のこの訳によってスタヴローギンおよびマトリョーシャの人物像についてとんでもない誤解をさせられることになるのだ。そしてこちら(「あのしぐさ」)の誤訳のほうがステパンの場合より問題はよりいっそう深刻だと思う。

森井氏は文章の最後を

「まずは大量誤訳を指摘されている『カラマーゾフの兄弟』に立ち戻り、その間違いを徹底的に正すところから再出発していただきたい。――読者のためにも、そして、何よりドストエフスキーのためにも。/これが一ドストエフスキー・ファンの心から願いである。」(/は改行)

と締め括られている。もっともな発言だし、私もそう願いたいと思う。でも、光文社にしろ亀山氏にしろ、『カラマーゾフの兄弟』の「間違いを徹底的に正す」というような誠意(と能力)がこの人々に望めるのであれば、あれだけ数々の批判を受けた後で『悪霊』をこのような姿かたちで出版するようなことはできなかっただろう。『悪霊』に関して木下氏と森井氏が誤訳、不適切訳として数々指摘されているうち、「あのしぐさ」と「電報」のたった2点の誤訳にかぎっても、どちらも決定的と言えるほどに深く作品の本質に関わる問題なのは明らかであり、それがこのような有様ではこの新訳はドストエフスキー作『悪霊』の翻訳と口にするのは憚られるレベルのものではないのかと思う。このような本に対しては、原則として私の街の市立図書館のように「購入しない」という処置をとること、どうしても購入する必要がある場合は古本を買うことなどの対抗措置をとることにしよう。それにしても自ら翻訳も手がけているある人物が「翻訳はひとつの形式である。そう把握すると、原作に立ち戻ることが重要になる。」と述べているのを読んだことがあるのだが、亀山氏の翻訳ぶりをみると、この言葉がいかに正確に翻訳の核心をついているか、実感的に理解できるように思うのは皮肉なことである。
関連記事
スポンサーサイト
2012.06.12 Tue l 文芸・読書 l コメント (1) トラックバック (0) l top

コメント

承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
2015.02.06 Fri l . l 編集

コメントの投稿












トラックバック

トラックバック URL
http://yokoita.blog58.fc2.com/tb.php/209-a01c59c9
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。