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小説家の芥川龍之介が薬を飲んで自死したのは1927年(昭和2年)の8月で、今から85年前のことになるが、その死は、当時の社会に一方ならぬ大きな衝撃をあたえたようである。そのなかでも、特別に重い衝撃で心を揺さぶられたのは同時代の文学者たちであったことは間違いないだろう。当時文学活動をしていた作家たちが芥川の死について語っている文章のあれこれを読むと、その人が芥川の親しい知友であったかなかったかにかかわらず、個人個人がその死の報から受けた驚愕や衝撃の深さ、強さがはっきり分かるように思う。広津和郎も「年月のあしおと」に「芥川君の死は、何か實に悲しい。これは私ばかりでなく、多くの人々の感じたことらしかつた。」と記し、つづいて、その頃のある日、銀座でたまたま会った吉井勇が「そうだよ。芥川の死は悲しいよ。他の連中のは悲しくもあるが可笑しくもある。(略)併し芥川の死は、あれは可笑しいところが少しもなく、ただただ悲しいよ」と語ったということを書きとめている。

中野重治も芥川の死に大きなショックをうけた一人だったようである。その理由の一つには、芥川の死の1ヶ月ほど前、中野は芥川の自宅を訪ねて二人だけで数時間話をしたという事情があったことも大きかったのではないかと思う。中野の小説「むらぎも」や随筆「小さな回想」などによると、中野は、同人雑誌「驢馬」の仲間であり前々から芥川に私淑していた堀辰雄を通じて、「一度ぜひ会いたい」という芥川の言伝てをきいていて、それでその年の7月のある夕方、思い切って芥川家を訪問したのであった。その日、中野は異様なほどに痩せて憔悴しきった様子の芥川と対面することになったそうだが、芥川は中野に向かって「君が、文学をやめるとかやらんとか言つてるつてのはあれやほんとうですか」と訊いたそうである。芥川には中野重治が政治活動をやるために文学をやめる、断念する、というような話が噂として耳に入ってきていたらしい。中野は「いえ、そんなことありません」と応えたそうだが、すると芥川は「そう、そんなら安心だけれど……」とか「人は、持つて生まれてきたものを大事にしなければならぬだろう」というようなことを言ったそうである。そのような芥川の言葉に対して、「むらぎも」によると、主人公(片口安吉)は、必ずしも共感も賛同もしていない。むしろ反発しているといってもいいくらいの思いをいだくのだが、やがてその家を出た後の安吉の心情は、「あの痩せて背の高い人に、全く道理に合わぬ愛がどつとばかりに湧いてくるのが我ながら安吉として受けとめかねた。」と表現されている。(詳しくは「むらぎも」をご参照のこと。)

そのときまでに中野重治が芥川と会ったのは、雑誌「驢馬」の後見人のような存在であった室生犀星の家の門の前で偶然行き合って短い挨拶をかわしたことが一度あったというだけの関係だったらしい。しかし「驢馬」に発表される中野重治の詩に芥川はつよい印象を受けていたらしい。室生犀星宛ての芥川の手紙には、「中野君ノ詩モ大抵ヨンダ、アレモ活キ活キシテヰル。中野君ヲシテオモムロニ小説ヲ書カシメヨ。今日ノプロレタリア作家ヲ抜クコト数等ナラン」(1926年12月5日)と書かれている。

中村真一郎は、芥川龍之介について、「今日、芥川の全作品を通して、ぼくらが感じるのは、実にこの懐しいばかりの人間的な優しさである。作者の機智や逆説は、忽ち古くなってしまった。しかし、ひとりの生きた人間としての彼が、心の奥に一生抱(いだ)きつづけてゐた、無垢な少年のやうな、育ちのいい素直さは、今尚、ぼくらを郷愁に誘ふのである」と述べているそうである。中野重治はこの一節を引いて、「中村が、芥川の『人間的』にふれて書いている言葉に私は賛成する」(「三つのこと」1954年)と述べているが、「中野重治全集」の編集を一手に引き受けられた松下裕氏に向って中野は、「芥川については、中村真一郎の言っていることが一番よくあたっている」と、何度も語ったそうである。そういうときの中野の胸のなかには、芥川が自殺を決意しながら、それを決行する前に、特に知り合いでもない自分のような若いもの書きに「文学をつづけてほしい」と言い残しておきたい、と考え、それを実行にうつしたことなども、芥川の「実にこの懐しいばかりの人間的な優しさ」や「無垢な少年のやうな、育ちのいい素直さ」の一つとして印象に残っていたのかも知れないと思う。

次に引用するのは、1956年、その年石原慎太郎の「太陽の季節」に芥川賞が授賞されたことに対して、またその出来事が一つの事件として社会に引き起こした反響に対して、中野重治がきびしい批判を持っていることがありありと分かる一文である。標題は「芥川賞について思い出」。56年当時中野のこの文章が世の中にどのような受けとめ方をされたのかはもう分からないが、ほとんどならず者と違わないような昨今の石原慎太郎の言動をみていると、中野重治のこの文章の内容が私には現在格別の重みを持って感じられる。長くなるが、以下に引いておきたい。

「 
 安部公房が昨日夕方プラーグヘ立った。そのとき彼の持って行った挨拶に、安部という作家はこれこれの人間だということを書いた短い紹介文章がついていたが、これは翻訳者が気をきかせてつけてくれたもので、なかに、安部は芥川賞を受けたものだという意味の言葉があって私は「なるほどナ……」と思った。また自然今度の芥川賞さわぎのことが私の頭に浮んだ。
 これこれのとはっきりしたことが思いうかんだわけではない。ただ、もしこんどの芥川賞のことをあっちに知つているものがいて、ことに今度のことだけを知っていた場合、紹介の紙きれをつまんだその男が、安部の顔を見なおしはすまいかというようなことがちらっと頭の隅をとおったのだった。むろん、安部の責任ではない。
 つまり、どこの国にもいろいろと文学賞といったものがある。受賞者の決定ということでもいろいろと出来不出来があるだろうと思う。ノーベル文学賞とかスターリン文学賞とかいつたものにもそれはあつた。それでも、日本の芥川賞の、それも今度のようなことはないしなかつたのではないか。選をする委員たちが、文学作品として誰ひとり感動しなかつた作品、感動とは行かぬまでも、どこか本質的なところで心をひかれる点があつたというのならまだしも、それの全くなかつた作品、それのないということで委員たちに一致のあつた作品、それが受賞作品ときまつたというようなことはほかになかつたのではないか。芥川賞というものが出来たときからのことを見てきたものは、芥川賞が変ったという思いにどうしても取りつかれる。
「故芥川龍之介を記念するために、文藝春秋社によって設けられた文学賞であって、昭和10年上半期より毎半歳ごとの新聞雑誌に発表された新進乃至無名の作家の小説、及び特にこの賞のために応募した作品中より、毎回一篇(時には二篇)を択んで授賞し、その作品は『文藝春秋』に再掲載した。文学賞としては最も成功したものであつて、授賞も概ね妥当に、反響大きく、有能な新入を文壇に送り出す功績があった。第一回の受賞作は石川達三の『蒼氓』であったが、次席の太宰治は『ダス・ゲマイネ』を、高見順は『起承転々』を同誌に発表し、受賞作に劣らぬ評価を得て、三者共に、はなばなしく文壇に登場したのをはじめに……」と山室静が『現代日本文学辞典』で説明しているが、なるほど、「太陽の季節」は「無名の作家の小説」ではあつた。しかし、「故芥川龍之介を記念するために……設けられた文学賞」というのにはまる作品かどうか。「反響大き」かつたかどうか。これで「有能な新人を文壇に送り出す功績」になつたかどうか。この決定で、「文学賞としては最も成功したもの」という芥川賞がもう一つの成功を重ねたかどうか。「授賞も概ね妥当に」があたるかどうか。「反響大き」かつたことを別にすれば、どれ一つもあたらなかつたと私は思う。委員たち全部が、いろいろ差別はあつても、すぐれた作でないと意見一致した作をそれにしたのだからこれは自然な決着だつただろう。
(略)
 いつか桑原武夫が、日本の政治世界のことで、「日本ではインテリの間でほぼ意見の一致がえられた正にその瞬間に、その意見と正反対のことが事実となつて現われる」「ユウウツ」のことを書いた。それなら、こんどは文学の世界にそれが出てきたのだったろうか。そうでもある。しかしそれ以上でもある。桑原の書いた話では、「インテリ」と実際政治(家)の世界とが別になつていた。こつちの「インテリ」が意見一致したとき、あつちの政治家が反対を実行してしまうという形に話がなつていたが、こんどは、すぐれた作でないという意見で一致した機関(?)本人の手で「その意見と正反対のことが事実となつて現われ」たのだから病は一歩すすんだとみるのが実際的で穏当だと思う。
(略)
 芥川賞を、よってたかって愚劣な作にあたえるということにしてしまえば話は消えてしまう。しかしそれでは、芥川賞というものの、また何賞のであれ、本来の趣旨に直接にそむくことになる。本来の趣旨にそむくための芥川賞銓衡委員会、そんなものは頽廃として以外には考えられまい。今度の芥川賞は、結果を全体としてみれば正にそれだった。
 それだけに、「反響大き」かったことを別にすればといったその「反響」だけは大きかった。この、「反響」だけ大きいということがそれだけで腐敗につながっている。作品が愚劣で、反響がすばらしく大きい。作品が愚劣で、本になってたちまち10万部売れる。
(略)
「太陽の季節」さわぎはそのへんのところへきている。『週刊朝日』か何かが書いて、本の広告に使ってある文句にこんな意味のがあつたが――つまり、あの作で、人間が描けていないだの、葬式の場面がおかしいだのいうのはノンセンスに近いので、そうであろうとなかろうと、これはもう「社会現象」になつているのだといつた文句があつたがある意味であたつている。問題は「社会現象」の側から押してきている。文学であろうとなかろうと、文学的なよそおいで文学作品として事を押しつけてしまう。「社会現象」としての既成事実をつくつてしまって、「事実の世紀」として文学と読者との正規の関係の上へローラーをかけてしまう。『学生生活』の創刊号が、「新しい恋愛と友情の発見」という題目で、「石原慎太郎と東大、早大、理大、お茶大等男女学生」の座談会をやるという広告(『わだつみのこえ』)を読めば事は順調に運ばれているといっていいのかも知れぬ。しかしそれを、芥川賞の決定というそもそもの仕事がつくりだしていたのだった。芥川賞決定ということがなかったとすれば、この青年が、「自分の実感を大切に――私の文学観」というようなチンプンカンを『朝日』に書くということは生じなかった。
「若造が何を生意気なと言われるだろうが、その『生意気』を大切にしたい。大人(といって僕らを無理に子供と見たてるつもりはないが)の気にさわるこのホウラツ(放埓)は大事にしよう。」「この年代の、大人の眼から見た悲壮さとコツケイさはそれを未だつかみ切れぬまま、けとばして来たはずのものに足を引かれる、いわば過渡的状態にある者の弱さだろう。が決して引き戻されてはならないのだ。少くともそれは観念を越えた別の世界にしかないはずだ。何を、どうしてするかということよりも、どれだけやれるかということを念願に『生き』たい。何故という決定を下す他の何ものをも僕らは信用しまい。」
「このむやみに積極的な行為の体系の中に生れた情操こそ初めて現代に通用するものではあるまいか。」
「この、いわば、狂暴な思い上りをなくすことなく動きながらぎらぎら生きて行きたい。」
「何を、どうして」から逃げてでなければ「生き」られぬ青年が、「大人」から「生意気」と見られているだろうと自分で空想している阿呆らしさ。するとたちまち、「要するに石原さんがいいたいことは、現代の若い人たちはポーズも周囲に対する自意識もなく、いわば純粋に行為をするのであって、一世代前の人達のごとく既成道徳破壊というような価値判断的な行為をするのではない、そして、このような若い人たちの何ものにも拘束されない『自然さ』の中に、新しいものが出てくる可能性がみられる、ということだと思う。(中略)私たちは粗雑な観念だけには頼れない」という註釈者が出てくる(『中央公論』林敦)という阿呆らしい「粗雑」さ。それを引きだしたのがほかならぬあの決定だったのだから、結果にあわてて事柄に釣りあいを取りもどそうとすれば、いきおい無理を重ねねばならなくなる。いくらかは見当ちがいに、しかし十返肇にむかってまで、「彼らが今になって急に開きなおり、倫理的だの文学性だのという方がおかしい。また彼は批評家が『新人のよさを賞讃し才能を伸ばすのが使命だ』といっているが、現在は彼のいう通りもちろんのこと、過去でもその批評家たちに賞讃されたことによって才能の伸びた作家がいたであろうか。日本の批評家たちがそれ程小説家達にとって影響力があつたろうか、このことは批評家がそれほど不勉強だということを意味する。」(同、御葦出雄)といった、文学史の事実にかなりに無知な、それほど「不勉強」な「日本の批評家たち」の大きな「不勉強」、その実行としてのこんどの芥川賞決定ということからの「影響」に完全に乗せられて発言していることに自分で気のつかぬ、しかしそれだけに、一面の理がないでもない反駁も投げかえされることになる。
 じつさい、釣りあいを取りもどそうとする働きは無理になり、残酷になり、没義道にさえなりかねぬところまで来ているだろう。
「いち早く新人の才能をああいうところで擦り減らすのはどうかなんていうのはずいぶんセンチメンタルだと思う。ああいうことで出てきたんだもの、すべからくああいうことで利用すればいいし、利用されればいい。場所を得たものじゃないかね。」「やっぱり社会現象としては無慚だよ。」「無慚だって、その無慚ということで出てきたんだもの、当然背負うべきものでね。」「それはわかるけど……」「つまり文壇ジャーナリズムというものが段段藝能化してくるんだよ。その犠牲者なんだ。その藝能化してくるのは何も文藝春秋が悪いのでもなければ、芥川賞銓衡委員会が悪いのでもないけれど、何かそういう藝能化してくるときに彼はいいカモだつたんだ。」「「犠牲者になること以外にないのだからしようがない。」「そんなことはない。就職してコツコツやっていけばよい。」「会社員になったって、銀行へ行ったってちゃんとやるよ。不良少年なんてとんでもないことだ。文学の犠牲といったって本当の意味の犠牲にはなれっこないよ。犠牲というにはあまりちゃんとしてるよ。心配することないね。」(『新潮』「批評家有用」のうち)
 座談会の言葉だから、論文のなかの言葉とはちがうだろう。賞決定に直接あずかった人びとの言葉というのでもない。けれども、鴨としてとらえたものがあったから石原は「いいカモ」にされたので、話をそこから外して、鴨としてとらえた方をば「悪いのでもなければ……悪いのでもないけれど……」としてしまっては石原に気の毒でないか。中村光夫の、「やっぱり社会現象としては無慚だよ。」というのが正直な感想と取れるだけに、推してはならぬものを推してしまったあやまち、そこに「無慚」を社会現象にまでひろげてしまった芥川賞銓衡委員会への批判に話を持って行くのでなければ理不尽で没義道な話になってしまうだろう。むかし中村武羅夫が、「原稿を書くことは、必ずしも特別な精神的仕事でも何でもなく、出版業者の原料の生産であるにすぎない。また、それでいいのである。いい悪いを絶して、これが現代の大勢なのである。この大勢に順応するものが栄え、これに反逆する者は、没落する。即ち、現実の力なのである。」と書いた。芥川賞銓衡委員会が、昭和31年になってそれを追う必要はない。それはなかったし、元来あってはならなかったことだろう。こんどの芥川賞は、芥川賞として頽廃方向での変化だった。」(「中野重治全集第13巻」収載)
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2012.07.30 Mon l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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