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大分寄り道をしてしまったが、それでは、中野重治の「意義あり」(1956年4月16日号「アカハタ」・全集第13巻)を以下に引用する。


   一 どこに異議があるか
 だれかが意見をのべる。「異議ありませんか。」と議長がいう。だれも黙っていれば、異議なかったもの、その意見に、大体においてみなみな賛成したものと自然になつてしまう。
 ところで、私に異議がある。それは小さい。格別めくじら立ててさわがねばならぬほどのものではない。けれども、ちよつとしたことを黙つてほうつておいて、あとでそれが大きな損になつて帰つてきたことは日本でずいぶんあつたではないか。
『アカハタ』の文藝時評(3月6日号)で、小田切秀雄が、石原慎太郎の「処刑の部屋」のことを、「太陽の季節」とは「ちがうすぐれた作品」だといって、「流行しはじめたみじめな不良青年文学のなかで、この『処刑の部屋』だけは特別だ。」と書いている。ほんとうにもそうだろうか。私に異議がある。(略)

   二 文壇と安定
 作品「伸子」「によって、彼女〔宮本百合子〕の文壇における安定した地位が保障された。」――こういうことが、あつたとも、またありえるとも私には思えない。
「文壇」という言葉には、だれにもわかる一種の曖味さがある。それは、日本の文学世界を一面的に代表する。しかし全面的には代表しない。日本の文壇は、支配的な大資本の力で非常につよく動かされる。支配的な政治の力ではいつそうつよく動かされる。支配的な大資本の力と支配的な政治の力と、これをあわせて支配的なジャーナリズムの力といつてもいい。この資本の力と政治の力とはたえず動く。戦争のときの「文壇」を思い出せばいい。いまならば、『文藝』の審査会で、「『太陽の季節』なんて作文ですよ。あれはね。」と川端康成がいつて一座「笑」になつた石原慎太郎さわぎを考えてみていい。
 だからそこには、残酷なことがある。『新潮』の座談会で、「つまり文壇ジャーナリズムというものが段々藝能化してくるんだよ。その犠牲者なんだ。その藝能化してくるのは何も文藝春秋が悪いのでもなければ、芥川賞銓衡委員会が悪いのでもないけれど、何かそういう藝能化してくるときに彼〔石原〕はいいカモだったんだ。」と河上徹太郎がいっている。石原がもともと鴨だつたにしろ、これを鴨としてとらえたのは、芥川賞銓衡委員会、文藝春秋新社、その他あれこれだつた。河上流にいえば、「つまり文壇ジャーナリズム」の「段々藝能化して」きた傾向ないし事実だつた。そしてこのものは、文学からその本来の機能をうばおうとする日本最近の支配的大資本と支配的政治とに由来した。残酷さは若い作家にだけではない。『中央公論』は永井荷風の「男ごころ」を発表した。こういう目をそむけたくなるような出来そこないを発表する雑誌のむごさ、それが目をそむけたくさせる。
 それだから、「文壇」はしょっちゅう変る。相当の仕事をしながら、ジャーナリズムから捨てられて、その日をすごしかねて無残な死に方をした人には例がある。それだから、すくなくとも日本では、明治以来、「文壇における安心した地位」ということは、なかつたし、ありえなかつた。ある種の人間が、勲章、年金、恩給の老年期を迎えたのとはかなりにちがつている。
 むろん、「文壇」が文学なのではない。すぐれた作品、つよい作家は、「文壇ジャーナリズム」もこれを認めねばならなかつた。またこれを受け入れた。国会などに似ている。(略)

   三 「新しい世代」ということ
 つまり、文壇と文壇ジャーナリズムとは、支配的な大資本と支配的な政治との力で動かされる。この「文壇」に、日本文学そのものの求めている発展の航路へ舵をきらせるのは、支配的な大資本と支配的な政治とにたいしてたたかうものの仕事になる。この仕事は、いつも一本すじで行くとは限らない。それは、かちどきとして出ることも泣きごえとして現われることもある。しかし基本的に、抵抗、たたかいとして、ある程度の文学的出来ばえで登揚してきたときにそれが文学的新世代と呼ばれる。
 それだから、文学の上で新しい世代というときの第一条件は、作者の年の若さではない。樋口一葉が40で「たけくらべ」を書いても、宮本百合子が30で「貧しき人々の群」を書いても、彼女らは1895年の日本と1916年の日本とで文学の上の新世代だった。この点、石原慎太郎は古い古い世代ということになる。この青年は、23にもなりながら、大学まで出ながら、23までに死ぬほどの目をみさせられる男や女、大学からも高等学校からもしめだされている無数の才能、それが日本文学と正当にむすびつくことにたいする抵抗材料として、恰好な、日本文学藝能化のための「鴨」として支配的な大資本と支配的な政治との手でつまみあげられたことをよろこんでいる。いわばファシズムヘ行こうとする勢力のために政治の道具としてつつころがされながら、本人は、「若造が何を生意気なと言われるだろうが、その『生意気』を大切にしたい。」だの、「このむやみに積極的な行為の体系の中に生れた情操こそ」だの、「この、いわば、狂暴な思いあがりをなくすことなく動きながらぎらぎら生きて行きたい。」だのといって(『朝日』1月25日号)コップのなかでふんぞりかえつている。それだから、彼に芥川賞をあたえた人びと本人たちが、この「新人」に、愛情も、尊敬も、畏怖まじりの嫉妬も、石原に気の毒になるくらいあけすけに感じていない。
 無法、生意気、むやみに積極的、狂暴な思いあがり、こういう言葉は、支配的な社会・政治悪に組みうちをかけるときに生きてくる。つまんで打たれている将棋の駒の口から出ると滑稽になる。短篇「荒布橋」を書いたとき、おとなしい木下杢太郎は「無法」に美をあたえた。石原に出てくる青年の性交渉などは、たとえば野上弥生子の[迷路]の、ある金持ちの細君の仕かけ方にくらべてもありきたりすぎて古くさい。「処刑の部屋」が、基本的に浪花節から出ていないのはそこからきていると私は思う。小田切は、ああいう作品が「鴨」として取りだされたことの意味、またこの作家(?)、作品が鴨性格をもともと持つていたという事実、また今年の日本で、選者たちが、内部にいろいろ不ぞろいはありながら、結局だれもかれも低く値ぶみした作品をわざわざ取りだして芥川賞に立ててしまつたことの歴史的意味を、いわば年齢上の新世代にたいする一種の偏愛(?)のせいで見すごしたのだつたろうか。「処刑の部屋」を「すぐれた作品」とすることに私に異議がある。これ「だけは特別だ」とすることに私に異議がある。村上笹雄の「川の上の太陽」との差別待遇にも異議がある。ついでに、上林暁を「「老作家」とすることにも異議がある。上林と私とは同いどしで、われわれは現役第一線の兵卒だと私は考えている。
 ただし、『東京新聞』の「若い世代と日本の教育」という座談会(4月4日)をみると、安部能成、蝋山政道、上原千禄、高橋義孝などの教師をしている人たちが、「若い世代」になかなか寛容な態度に出ているのがわかる。大学生に接触の多い小田切にもあるいはその手の寛容があつただろうか。しかし文学ではむしろ厳格ということが望ましい。 」


小田切秀雄は中野重治に近い位置にいた人だったと思うが、このときは中野のこの批評に反論して二人の間にちょっとした論争があったとも聞いたが、それは私は読んでいない。中野重治が、 「支配的な大資本の力と支配的な政治の力と、これをあわせて支配的なジャーナリズムの力といつてもいい。この資本の力と政治の力とはたえず動く。」といって「戦争のときの「文壇」」を思い起こして注意を促していること 、石原慎太郎自身が口にしている「無法、生意気、むやみに積極的、狂暴な思いあがり」などの言葉を挙げて、「こういう言葉は、支配的な社会・政治悪に組みうちをかけるときに生きてくる。つまんで打たれている将棋の駒の口から出ると滑稽になる。」と述べていることなどは、その後の石原慎太郎が一貫して反動的政治家として世の表に出てきているところをみれば、中野重治は文壇の新人・石原慎太郎の作品と彼の当時の言動とから政治的・資本的支配的勢力との相性の良さ、類似の性格を見透していた、実に先見の明があったといえるように思う。ただ「滑稽になる」というより、「有害になる」といったほうがより相応しかったように思うけれども、これは後の話である。

これとよく似たことは、戦前1937(昭和12)年に近衛文麿が首相に就任したときの中野重治の行動にも見られる。1937年6月、中野重治は『都新聞』に「わたしは嘆かずにはいられない」という詩を発表している。韜晦の風を装ってはいるけれども、この詩はこの少し前に発足した近衛文麿体制を痛烈に批判したものであることは明らかで、この後、中野重治が執筆禁止という弾圧に曝されたのはこの詩の発表が直接の原因だったろうという見方をする人は多い。


   わたしは嘆かずにはいられない 
 しかしわたしは嘆かずにはいられない
 人がわたしを指してヒネクレモノといおうとも
 そしてそうではないと弁解したくならずにはいられない
 人が貴公子でありせめてもの慰めであるとするもの
 それが長袖にばけたサーベルである事実をわたしは人びとに隠せない
 わたしはただ訊ねる 彼の商売は何なのかと
 また鎌足以来一千年 彼の一家は何をして飯を食つてきたのかと
 ここに国があり 司法があり
 それが拷問をもつて人民に臨んでいるならば
 わたしは思惟の必然と学問上の仮定とに立つていう
 もしも人民が司法を逮捕して
 彼の耳もとで拷問のゴの字を鳴らすならば
 彼は涎をたらしてあることないこと申しLげるにちがわぬと
 みずから愛するものは愛をいつわるものを憎む
 うそつきを憎むのは正直であるものではないか
 しかし犬のしつぽのような人びとがあつてわたしをヒネクレという
 わたしは嘆いていう あれらはしつぽであると
 そしてわたしはいう ごみ箱のかげから往来へ出てこいと
 しかし彼らはいう おれは独立に振るのだと
 そしてそれらすべてがわたしを嘆かせる

 わたしは嘆きたくはない わたしは告発のために生まれたのでもない
 しかし行く手がすべて嘆きの種であるかぎり
 わたしは嘆かずにはいられない 告発せずにもいられない
 よしやヒネクレモノとなるまでも
 しかしわたしはいう わたしは決してヒネクレではないと 」(『都新聞』1937年6月13日号・全集第1巻)


中野重治が転向者として獄中から出てきたのは1934年で、この詩の発表の3年前のことになる。松下裕氏は「評伝中野重治」のなかでこの詩について、「全体の詩の調子は、いかにも情ない、つぶやき、ぼやき、ひとりごとでないとはいえない。プロレタリア文学時代の中野詩のさっそうとしたおもかげはどこにもない。」ことを指摘し、「「転向」者中野重治は、当時こういった調子でしか物を言うことができなかったのだ。世は準戦時体制だった。そのなかで彼はこういう調子で、近衛内閣の危険な本質を暴きたて、逼塞している詩人として、かなわぬまでも強権に一太刀浴びせたのだった。その苦渋にみちた立場が、詩の鬱屈した気分、くねくねした、思いきりの悪い、遠吠えのような調子にあらわれている。当時この詩が支配者側にどう受けとられ、どう当局の忌諱に触れたかという事実は明らかでないが、その年、1937年末の重治の執筆禁止の措置に悪く作用しただろうことは想像するに難くない。」と述べている。旧制高校時代からの友人である石堂清倫氏は中野重治の転向について、「中野は『転向』によって、一つの妥協と後退にふみ切った。彼は正面肉薄戦を断念して、迂回しながら敵の本陣に接近しようとした。彼は『転向』によっていくつかのものを棄てたが、目標を見失うことなく、それに到達する文学的手段は決して棄てなかった」(「中野重治と社会主義」勁草書房1991年)と述べているが、そういう判断の根拠の一つに詩「わたしは嘆かずにはいられない」の発表もあったのではないだろうか。

中野重治が「樋口一葉が40で「たけくらべ」を書いても、宮本百合子が30で「貧しき人々の群」を書いても、彼女らは1895年の日本と1916年の日本とで文学の上の新世代だった。」と述べているのは、実際に樋口一葉が「たけくらべ」を書いたのは23歳(24歳だったかも知れない)のとき、宮本百合子が「貧しき人々の群」を書いたときは17歳だったという事実を前提としている。「処刑の部屋」という作品には、エピローグとして「 抵抗だ、責任だ、モラルだと、他の奴等は勝手な御託を言うけれども、俺はそんなことは知っちゃいない。本当に自分のやりたいことをやるだけで精一杯だ。」という言葉が置かれている。「処刑の部屋」の主人公である大学生が「ほんとうに自分のやりたいことを」「精一杯」やるということの中身は何かといえば、暴力を使った喧嘩や女性との遊びのことなのだから、絵に描いたような典型的パターンであり、今読むとエピローグに表われている作者の力みようにはちょっと失笑を禁じえないところがある。不良とか、暴力とか、無頼、というようなものには多かれ少なかれそれ自体人を魅了するものがあり、私なども惹かれがちである。北野武監督の映画がほとんどみなヤクザを主人公にしているのも理由がないことではないのであって、そういう題材はそれだけで作者にとっては得なのだと思う。ということで、私は中野重治の見方に賛同する。

石原慎太郎は現在自分は何をやっても許されるといわんばかりの言動を好き放題、我が物顔で行なっているが、1995年にこの人が国会議員を引退すると発表したときには、別に誰もたいしてその退任を惜しんだりはしなかったように私は記憶している。彼は淋しくすごすごと引き下がっていったような印象さえある。ところが都知事就任後、石原慎太郎の野放図さが格段に度を増しているところを見れば、時代の流れ、風向きが10数年の間に格段に変わった、右傾化があからさまになったということを示しているのだろう。00年代に入ってからは佐藤優という、石原慎太郎と甲乙つけがたい右翼の論客が現れたが、そういう人物を岩波書店や週刊金曜日という世の中で良心的、左派系と思われている出版社が先頭に立ってその売り出しに貢献したという事実もある。自ら右翼と名乗りそのとおりの言動をしている人物を影に日にまるで「誠実で良心的な知識人」のごとくに喧伝していたのだから、これは異様としか言いようがない。こういうはどめのない流れのなかで、石原慎太郎には、「自分は特別な人間である」というもともと持っていた確信が今ではさらに増幅しているように見えるが、その根拠について遡って見てみるとやはり後にも先にもない大騒ぎのなかでの芥川賞受賞という過去の栄誉に拠るところが大であるように思う。

ちなみに、中野重治は、上記で『中央公論』が永井荷風の「男ごころ」という作品を掲載したことを批判している。「こういう目をそむけたくなるような出来そこないを発表する雑誌のむごさ」とも書いている。私はその作品を読んでいないが、これは出来がよほど悪かったのだろう、と私は思う。数々の名作を生みだした永井荷風の実績を汚すだけのよほどの愚作だったのではないか。そうでなければ中野重治は決してこんなことを公言しなかっただろうと思うのである。


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「 この詩はそのころ、『都新聞』に毎週日曜日、詩一篇ずつが掲載された「日曜詩」欄に発表された。詩人は18名で、窪川鶴次郎、三好達治、菊岡久利、津村信夫、小熊秀雄、中原中也、金子光晴、立原道遣ら、当時の代表的詩人を網羅している。そして、ほとんどの詩人が抒情詩を書いているなかで、重治だけが時事的な内容の詩を書いているのが目につく。この詩の発表された6月13日のわずか9日まえの4日には、第一次近衛内閣が成立していて、中野重治はそのことを正面から批判的に取りあげているのだ。
 1931年の「満洲事変」の勃発以来膠着した対中国政策の打開を期待されて登場した近衛内閣は、それに失敗し、かえって翌月の37年7月には全面的な日中戦争にまで突きすすんだ。以後、近衛は、軍部の政策をおおむね実行して、太平洋戦争開戦の尖兵の役割をはたしたのだった。
 わたしは、近衛内閣登場以後の新聞の紙面のあまりの変りようと荒廃ぶりを中野さんに言ったことがあった。中野さんは、「そうなんだよ、それまではまだ文藝欄などにも多少見るべき記事や論議もあったのに、近衛になってからは戦時一色になってしまったんだ」と言った。3ヵ月もつづいた「日曜詩」なども、新聞の文藝欄の最後の企画の一つだったのだろう。近衛文麿は国民的衆望を担って政局に登場してきたが、期待の根拠は天皇に最も近い古い公家の公爵という家柄とか、貴公子らしい風貌とかの、実体のない空疎なものだった。重治は、近衛の異常なほどの国民的人気の裏にひそむ政治的危険性に正面から挑んでこの詩を書いた。」(「評伝中野重治」松下裕)
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2012.11.13 Tue l 中野重治 l コメント (1) トラックバック (1) l top

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