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今年に入ってから、新聞や雑誌、またネット上でも、「エレサレム賞」の受賞や、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』についての好意的なコメントなどで、村上春樹の名前が目につくことが多かった。折から新作の「1Q84」という小説が評判なので、めったに読まない小説家なのだが、市の図書館から借りられるなら借りて読んでみようかと思いたち、ネットで検索してみると、なんと、「1Q84-a novel-BOOK1」は1900件余、「BOOK2」も1600件を越す予約が入っていた。100くらいは入っているのではないかという漠然とした予想をしていたところ、1000を越しているとは! 両巻合わせて予約数3500である。予約欄にこんな膨大な数が記されているのを初めて見た。「エルサレム賞」受賞の件が広く社会的話題になったことも影響しているのかも知れないが、そうでなくても、とにかくよく読まれる現代随一の人気作家なのだ。購入する気はないので、あきらめて2、3年後、ゆっくり借りて読めるようになるまで待つことにしよう。そのときはもう読む気が失せてしまっているのではないかという心配がないでもないが…。

私は昔から村上春樹という小説家にさほど関心がなく、作品もデビュー作の「風の歌を聴け」を含めてせいぜい3、4作しか読んでいない。そのせいか、村上春樹に関してこれまでで一番印象に残っていることといえば、彼がオウム事件を題材にして書いたのが、小説ではなく、「アンダーグラウンド」という、サリンの被害者を取材したインタビュー集だったということである。事件の被害者を取材することは全然悪いことでも批判されることでもない。まして相手方が納得して取材を受けたに違いないのだから、第三者が疑問を挟むのもヘンかも知れないのだが、しかし村上春樹を一個の小説家としてみれば、「なぜ?」という素朴な疑問も浮かぶ。東京の地下鉄で引き起こされた、あの衝撃的なサリン事件の意味も核心もすべて犯罪を計画し実行したオウム真理教の側が握っている。事件からさほど時日も経ないあの時点で被害者を対象にオウム事件に関する文章を書こうとする小説家のその発想と意図がよく理解できなかった。村上春樹はよくドストエフスキーについて語っているが、ドストエフスキーは同時代の犯罪-ネチャーエフ事件に遭遇して「悪霊」を書いたし、このような例はスタンダールの「赤と黒」など枚挙に暇がない。被害者にインタビューした村上春樹の文章を読んで、そのことが思い浮かび、この事件を取り上げるのなら、なぜ、オウム真理教自体を対象としないのだろう、という気がしたのだった。「アンダーグラウンド」刊行の後、オウムの信者にもインタビュー取材をしているが、上の疑問を解消してくれるものではなかった。

最近、村上春樹は、亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』についてもほうぼうで意見を述べているようで、毎日新聞の取材では、亀山訳について「従来の訳とは全然雰囲気が違って楽しかったです」と述べていた。この「楽しかった」という言葉は私には腑に落ちなかった。亀山訳は、読んでいてむしろストレスを感じることが多かったからだが、それでなくても、この新訳についてはずいぶん前から専門家と読者の双方から重大な誤訳が具体的な根拠をもって指摘されている折りであり、こういう場合は、「どのように」「どのような箇所が」楽しかったのか、ぜひその理由まであげた上で話してほしいと思う。取材する側、原稿を依頼する側にも、それに対応するだけの責任が求められているのではないだろうか。

村上春樹は、自身の「エルサレム賞」受賞について、今年2月、現地イスラエルで下記のように述べている。

「彼ら(管理人注:エルサレム賞の辞退を勧めた人達)は、僕がこの賞を辞退すると聞けばとても喜んだでしょうし、賞を辞退し、彼らが僕に拍手を送るということで終わらせることが、僕にとっては最も簡単な選択でした。しかし、僕は、とにかく来る決断をしたのです」と明かす。「僕は作家です。作家の役割は、人間の魂について書くことですが、政治的課題もその人間またその魂が生きる世界の一部です。受賞を辞退することは否定的なメッセージです。すなわち、安全で、都合のいい内面の世界に僕が閉じこもるということです。僕にはここイスラエルに多数の読者がいますし、ここに来て直接顔を見て語ることは僕の義務なのです。それは作家としての僕の責任の一つです。本当のところ、僕は賞そのものには関心がありません、それは、一枚の紙とメダルにすぎません。僕の読者がいなければ、いくら賞を受賞しても意味がないのです。彼らは、書くことにおける僕のパートナーであり、僕は彼らに敬意を示す必要があるのです。」

この文章は、ブログ「漂流博士」の管理人の方が、イェディオット紙に載ったインタビューを日本語に翻訳されたとのことである。それを引用させていただいたのだが、この方によると、「写真を撮りながらの会話をインタビューにしているようで、記者が事前に用意した内容に村上春樹氏の言葉を差し込んでいったという印象をうけるのですが…」ということなので、新聞での発言内容は完璧に精確と決めつけるわけにはいかないのかもしれないが、「受賞を辞退することは否定的なメッセージです。すなわち、安全で、都合のいい内面の世界に僕が閉じこもるということです。」との発言を実際にしたのだとしたら、これはまったくいただけないと思う。それでは、サルトルのノーベル賞辞退、大岡昇平の芸術院会員入会の辞退などはどういうことになるだろう。サルトルや大岡昇平の選択は、「安全で、都合のいい内面の世界に閉じこも」ったということになるのだろうか。「僕は賞そのものには関心がありません、それは、一枚の紙とメダルにすぎません。僕の読者がいなければ、いくら賞を受賞しても意味がないのです。彼らは、書くことにおける僕のパートナーであり、僕は彼らに敬意を示す必要があるのです。」との発言にも欺瞞があるのではないかと思う。村上春樹の読者の中にも、賞の辞退を望んだ人は大勢いたはずだ。賞の辞退を進言する人間は自分の読者にはいないと思いたいのかも知れないが、そんなことはない。パレスチナでも村上春樹の作品はよく読まれているそうだが、その読者の大半は賞を辞退してほしいと思っただろう。読者に対する敬意、というのなら、そのような読者に対する敬意はどうなる? 村上春樹は発言に際して、大半はエルサレム賞受賞を喜んだに違いないイスラエルの読者しか念頭においていないかのようである。だから「賞を辞退し、彼らが僕に拍手を送るということで終わらせることが、僕にとっては最も簡単な選択でした。」などという言葉もでるのだと思うが、しかし、上述の発言が全体として現しているのは、受賞を動かすことのできない絶対条件とした場合にしか導きだされない強引な理屈の印象ではないだろうか。村上春樹は、また、次の発言もしている。

「僕はドストエフスキーの大ファンです。彼が『カラマーゾフの兄弟』を執筆したのは、60歳の時です。僕は日本版「カラマーゾフ」を書いてみたいと思っています。」

あまりにも発言の時期が悪い。『カラマーゾフの兄弟』で、イワンは罪のない子どもがいわれもなくこの世でうける痛ましい話を沢山蒐集していて、大審問官を物語る前にその話をアリョーシャにつぎつぎと聞かせている。イワンは、ガザの学校や病院を狙いすましたイスラエルの空爆をみて、それをノートに書きこまないはずがないと思われるが、上記の発言をみるかぎり、あのとき、村上春樹はそのような連想をはたらかせることはなかったように感じる。しかし人に倍して想像力豊かなはずの小説家であり、上記のように「僕はドストエフスキーの大ファンです。」と断言している人にそんなことがありえるのだろうか? そのようなことに関する考えをそのうち忌憚なく語ってもらえればと思う。


10月19日、出だしの文を加筆・修正しました。
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2009.10.17 Sat l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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