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 1958年 ゴールデン・ボーイ 鮮烈デビュー
去る6月3日にベースボール・マガジン社からムック本『月刊 長嶋茂雄』が創刊された。1号は、国鉄スワローズの金田正一投手に4連続三振を奪われてプロデビューしたルーキー・イヤーを取り上げている。サブタイトルは「1958年 ゴールデン・ボーイ 鮮烈デビュー」。今後の刊行は、月イチで12号までつづくそうだが、5月半ばにちょっと薄手ながら(その分価格も安い)0号も発行されているので、全13巻になるようだ。0号、1号ともに私は購入したのだが、どちらも写真がすばらしいと思った。スピード感に充ちあふれ、しかも一挙手一投足の動きが空間にくっきり鮮やかだった長嶋選手のプレイの特性がよくとらえられていて、その現役時代に『週刊ベースボール』を見たことがなく初見のものばかりだったせいか、ほとんど陶然としてしまった。白黒の写真の各ショットが、迫力があると同時にえも言われずチャーミングである。キャプションや記事本文も多くは当時のものを忠実に写しとっているのだろう、長嶋選手のプレイの個性がかなり正確に叙述されているように思う。

『週刊ベースボール』は長嶋デビューの58年に創刊されたそうだが、それまで月刊誌『ベースボールマガジン』に掲載された分も合わせてベースボール・マガジン社には立教大学以後の長嶋選手の活躍の記録がすべて保存されていたのだろう。今回のムック刊行もその蓄積の賜物なのだろう。映像のほうは残念ながら残っているフィルムが少ないようで、日テレにしても毎度毎度デビュー戦の金田との対決シーンや天覧ホームランなど同じ場面を繰り返し垂れ流すばかり。私たち視聴者はもうとうから見飽きているというのに。

一塁踏み忘れ
  前代未聞の「ベース踏み忘れ」。 9月19日の広島戦(後楽園)。低い痛烈な打球は遊撃手の頭上を超えて外野を転々とするかのような当たりだった。あわよくば三塁打にしようと無我夢中で走っていたために、ベースを踏んだかどうか長嶋選手自身は覚えていなかったという。広島側からのアピールによって、哀れ、せっかくの本塁打は投手ゴロに。この失敗がなければ、新人にして3割30本30盗塁のトリプルスリーの記録が成ったのだが。

『月刊 長嶋茂雄』の刊行は5月の国民栄誉賞授賞騒ぎに便乗したものかと最初は思ったのだが、中身の充実度をみると、何かのきっかけさえあればいつでも出せるように、相当前から準備を整えてきていたのではないだろうか。とにかく見て感嘆し、なかなか余韻が消え去らないこともありたまにはこういうブログ記事も書いてみようかと思い立ったしだいである。

私が、長嶋選手のプレイを近所の家のテレビで初めて見たのは、彼の巨人入団3、4年目ころだったかと思う。『月刊 長嶋茂雄』1号で「時代の証言者」として本屋敷錦吾氏(立教時代のチームメイト。長嶋、杉浦忠投手とともに「立教三羽烏」と称された)が、長嶋が巨人に入団したことは、長嶋にとってもプロ野球界にとっても良い選択だったと思うと述べたあと、「やっぱり、川上さんの人気と、長嶋の人気では“明るさ”が違うんです。玄人が川上さんのバッティングを見て「うまいなあ」というのと、野球を知らない人でも長嶋の派手な動きを見て「すごい!」と思うのとでは、全然、違うでしょう。プロ野球自体の人気、認知度を高めましたからね。ホント、大したヤツやと、あらためて思いますよ。」と語っているのだが、私の場合はもう完全に、本屋敷氏の言う「野球を知らない人」が、偶然「長嶋の派手な動きを見て「すごい!」と思」った人間(子どもだったが)の一人である。といっても九州の奥の片田舎住まい、毎日テレビでプロ野球中継を見ていられる環境ではなかったので、その後長嶋選手のプレイを見たのは合計しても150~200ゲームくらいではなかっただろうか。それでも初めて見たときからずっと(おそらく今の今まで)、そのプレイは、心を晴れやかにしてくれるもの、無上に楽しくて面白いもの、無垢なもの、美しいものの象徴のごとくにして心のなかに棲みついてしまったことは疑いえない事実だったように思う。だから、本当のことをいうと、長嶋のプレイについてよく言われる(本屋敷氏もそう言っている)「派手」という形容はちょっとミもフタもない気がして違和感があり、「華麗」「輝かしい」のほうがピッタリしていると感じるのだが、まぁ分かりやすいし、たった2文字で言いやすいということもあるので、それでもいいことにしよう。

 「大きなストライドで飛ぶように走る」長嶋の走塁
あるとき、真夏のナイターだったと思うが、長嶋選手が攻守に大活躍してそのゲームは終わった。テレビは中継終了の前に、しばし満天の星空を映していたが、それを眺めていると、長嶋選手がゲームを終えて天に帰っていく幻影を見たような気がした。その印象はいまも心の奥にそのまま残っているのだが、当時多くの子どもが同じような印象をもっていたのではないだろうか。いや、子どもだけではなかっただろう。むしろ、長嶋選手より一廻り、二廻り、三廻り上の当時のおじさんたちこそ、よりつよくそのような印象をもったのではないかという気もする。別にこちらが長嶋選手のことを話さなくても、「長嶋」という単語はどこにいてもある調子をもって日常的に発せられ聞かれたのである。ではなぜ長嶋選手がそのように強烈なイメージを人にいだかせたかというと、攻守走のうちのいずれもが傑出してすばらしかったからということがひとまず言えるだろう。まず長嶋選手のプレイにはもの凄いスピード感があった。高い打撃技術を持った強打者である長嶋選手は当然のことながら一塁へ、また二塁、三塁へとグラウンドを走り回る機会が多い。塁間を大きな歩幅でビュンビュン疾走していた姿が今も記憶に鮮やかなのである。ルーキー時代のオープン戦で対戦した南海の三塁手・蔭山和夫選手は、「月刊 長嶋茂雄」1号をみると次のように語っている。

「長嶋の打球はスピードがあります。スイングは大振りですが、インパクトの時に集中力が加わるので、猛烈(な速さ)になる。大きなストライドで飛ぶように走る姿も目に入ります。捕球して一塁を見て、一生懸命走っているのを見ると、こちらも思わず肩に力が入ります」

脚力は、大学時代から折り紙付きだったようで、立大野球部で1学年下だった片岡宏雄氏も著書で下記のエピソードを紹介している。

「 …長嶋さん、杉浦さん、本屋敷さんらが最上級生になってからの立教は、無敵といっていいほど強かった。長嶋さんのリーグ戦通算8本塁打の新記録、杉浦さんの対早稲田戦完全試合など、輝かしい記録がリーグ戦春秋連続優勝をいっそう価値のあるものにした。
 しかしひと口に春秋連続優勝といっても、そう簡単に達成できるものではない。長嶋さんたちの身体能力がずば抜けていたからできたのだ。
 それを物語るエピソードがあるので、紹介したいと思う。
 当時の立教大体育祭の名物は、各部対抗のスウェーデン競走だった。第一走者が100メートル、第二走者が200メートル、第三走者が300メートル、アンカーが400メートルを走るリレー競走である。
 野球部の代表ランナーは、第一走者が本屋敷さん、第二走者が二塁を守っていた高橋孝夫さん、第三走者が長嶋さんで、アンカーが杉浦さんというそうそうたるメンバー。
 当時の立教大体育会はどこの部もトップレベルだった。野球部はもちろん、アメリカンフットボール部、バスケット部、陸上部など……。その腕自慢、いや足自慢たちが部のプライドをかけて戦う。
 とはいえ、やはり例年優勝するのは陸上部だ。走ることのスペシャリストがそろっているのだから、勝ってあたりまえである。
 しかし、この年に限っては別だった。野球部の豪華カルテットが陸上部を圧倒したのだ。
 長嶋さんは手のひらを開いて歯を食いしばる、プロ現役時代そのままのスタイルで陸上部員を追い抜き、長嶋さんからバトンを受けたアンカーの杉浦さんが、堂々1位でゴールを切ってしまった。
 得意満面、大喜びの野球部員とは逆に、気の毒なのは陸上部員だ。陸上部員は全員頭を丸刈りにするはめになった。
 後で聞いた話だが陸上部の監督が、
「長嶋が陸上をやっていたら、間違いなくオリンピックの選手になれるだろう。それほどの運動能力をもっている」
と話したらしい。」(片岡宏雄著「スカウト物語」健康ジャーナル社 2002年)

「手のひらを開いて歯を食いしばる」走り方は、確かにプロ野球での長嶋選手の姿そのものである。ただ、リレーでバトンをもちながら「手のひらを開いて」走るのでは、バトンを落っことさないかちょっと心配にはなる(笑)。オリンピックといえば、プロ入団後の長嶋の走りを見て、陸上連盟のあるコーチが「長嶋を預けてくれれば、三段跳びか走り幅跳びで金メダルを取らせてみせる」と言ったそうである。これは当時世間にかなり広く知られていた話なのだが、いつだったか、長嶋さん自身がこのコーチの名について「織田幹雄さん」だったと述べているのを何かで読んだことがある。長嶋さんが病に倒れながらもアテネ五輪出場に執拗にこだわったのは、立教時代からいだいていた大リーグ(国際舞台)への憧れももちろんだが、脚力に関する若いころの経験・逸話もオリンピックと結びついた忘れがたい記憶として影響していたのかも知れない。

ルーキーの年の西鉄ライオンズとの日本シリーズで、敗色濃厚な9回長嶋選手は稲尾投手からランニング・ホームランを打った。走りに走ってホームで強烈なスライディングをする映像が残っているので、見た人もいるかと思うが、当時の長嶋選手の脚力は、上述のように陸上の専門家からもピカ一の折り紙がつけられるほどのものだったのだ。それやこれやのさまざまな理由で、私たちが当時釘付けになるほどに彼のプレイに惹かれても不思議はなかったと言えるだろう。
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2013.06.24 Mon l スポーツ l コメント (0) トラックバック (0) l top

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