QLOOKアクセス解析
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top
前回の「感想 (3-3①)からのつづき。

   エピローグ 3 イリューシャの葬儀。石のそばの挨拶

新訳 p42  「それじゃあ、お兄さんは真実のために、無実の犠牲者として死ぬわけですね!」
コーリャが叫んだ。「たとえ死んでも、お兄さんは幸せです! うらやましいぐらいです!」

原訳 下・p482  「それじゃお兄さんは、真実のために無実の犠牲となって滅びるんですね!」コーリャが叫んだ。「たとえ滅びても、お兄さんは幸せだな! 僕は羨みたいような気持です!」

小沼訳 Ⅲ・p434  「するとつまり、あの人は正義のために罪のない犠牲となって身をほろぼすんですね!」とコーリャは叫んだ。「たとえ身をほろぼしても、あの人は幸福です! うらやましいと思うくらいですよ!」

江川訳 p848  「じゃ、お兄さんは正義のために無実の犠牲者として滅びるんですね!」コーリャが叫んだ。「それなら、たとえ身は滅んでも、あの人は幸福ですよ! ぼくはうらやましいくらいです!」

感想  またしても「死ぬ」という訳語の登場だが、この場合の「死ぬ」はこれまで多用されてきた「死ぬまで」や、あるいは「死ぬほど」などの、比喩としての「死ぬ」ではなく、文字どおりの「死亡」という意味だと思われる。だが、ドミートリーがうけた判決は20年のシベリア流刑であり、死刑を宣告されたわけではない。翻訳者は「長期流刑」を「社会的な死」と考え、あえて「死ぬ」を選択したのかも知れないが、やはり先行訳の「滅びる」「身をほろぼす」という正確な訳のほうがよいと思う。


新訳 p43  やせこけた顔の輪郭はほとんど変わっていなかった。

原訳 下・p483  痩せ衰えた顔の目鼻だちはほとんどまったく変っていなかった…

小沼訳 Ⅲ・p434  その顔はやつれてはいたが、生前とほとんど変りがなかった。

江川訳 p849  やつれたその顔だちは、生前とほとんど変らなかったし…

感想  「顔の輪郭」というのは「顔の線」という意味のはずなので、この場合は「目鼻だち」「顔だち」という訳のほうが、状態を正確に表現しているのではないだろうか。


新訳 p45  彼はもうこの三日間、石のそばに葬ると言い張ってきた。しかし、アリョーシャも、コーリャも、家の女主人も、も、そして少年たちもそれに反対してきた。

原訳 下・p484  彼はこれまでも、三日間ずっと、石のそばに葬ると言いつづけてきたのだった。だが、アリョーシャや、クラソートキンをはじめ、家主のおかみや、その妹、少年たち全員が横槍を入れた。

小沼訳 Ⅲ・p436  彼は前にも、この三日のあいだ、石のそばに葬ると言いつづけていたのである。 しかしアリョーシャや、クラソートキンや、家主のおかみさんや、その妹や、すべての少年たちがそれに口を入れた。

江川訳 p850  彼はもう三日間も、石のそばに葬るのだと言いくらしていた。しかしアリョーシャや、クラソートキンや、家主のおかみさんや、その妹や、少年たち全員がそれに反対した。

感想  新訳は「家主」を「家の女主人」としているが、そのすぐ後に、同じこの人物を「老婆」と記しているので、この「女主人」という言い方には少し違和感をおぼえる。また、家主の妹のことを、単に「妹」としているが、この場面にいたるまで、家主もその妹も物語にまったく登場していないので、単に「妹」とだけ記されたのでは、読者はこの妹がいったい誰の妹なのかと一瞬戸惑う。先行訳のように「その妹」と訳したほうが適切ではないかと思う。


新訳 p45  家主の老婆がきびしい口調で言った。「教会のなかには十字架を立てた墓地があるのにさ。あそこなら、あの子のためにお祈りもしてもらえるだろうに。教会なら賛美歌だって聞こえるし、輔祭さんは一生懸命に読経してくださるし、それがそっくりそのまま、あの子の耳まで届くから、あの子のお墓のそばで読んでもらっているのも同然じゃないか……」

原訳 下・p485  家主の老婆がきびしい口調できめつけた。「教会の構内には十字架の立った墓地があるんだよ。あそこならお祈りもしてもらえるしさ。教会から賛美歌もきこえてくるし、補祭さんの読んでくださる美しいありがたいお言葉も、そのつどこの子のところに届いてくるから、まるでこの子の墓前で読んでくれるようなもんじゃないかね」

小沼訳 Ⅲ・p436  家主の老婆はきびしい調子で言った。「そこの構内にはちゃんと十字架のついた墓場があるのにねえ。あすこならお祈りもしてもらえるしさ。教会から歌は聞こえるし、助祭のお祈りの言葉だってそのままそっくり、そのたんびにあの子のところまでとどくから、お墓の上でお祈りをしてもらっているのも同じことじゃないかね」

江川訳 p850  家主の老婆がたいへんな剣幕でまくし立てた。「教会の柵の中は十字架の立った土地なんだよ。あそこならこの子のためにお祈りもしてもらえる。教会から歌声も聞えるし、補祭さんが朗々と読んでくださるありがたいお言葉も、その都度そっくりこの子のところに届くじゃないか。まるでこの子の墓前に供えてくださるようなものじゃないかね」

感想  「教会なら賛美歌だって聞こえるし」の「教会なら」は、「教会から」の誤植なのだろうか? 墓地は確かに教会のなかにあるが、「教会から」ではなく「教会なら」だと、教会からイリューシャの眠る墓地までの空間を流れてくる賛美歌の声が感じられず、訳として拙いと思う。


新訳 p46  少年たちは柩を持ち上げた。だが、母親のわきを通るとき、彼らは一瞬立ち止まって、母親がイリューシャと最後のお別れができるように柩を床に下ろした。

原訳 下・p485  少年たちは柩を担ぎあげたが、母親のわきを運びすぎる際、イリューシャとお別れができるよう、ちょっとの間立ちどまって、柩をおろした。

小沼訳 Ⅲ・p436  少年たちは柩をかつぎあげたが、母親のそばを通るときに、ちょっと足をとめて、柩を床へおろした。

江川訳 p850  子供たちは柩を担ぎあげたが、母親の前を通るとき、ちょっと足を止めて、イリューシャと最後の別れができるように、柩をおろした。

感想  「柩を持ち上げた」というだけでは、柩を床から上に持ち上げた少年たちが 、その後、それをどのような格好で持ち運んでいるのかが読者には分からない。先行訳では「担ぎあげる」と明確に叙述されているところをみると、きっと原作でちゃんと目に見えるような具体的な描写がなされていたのだと思われる。そのことに翻訳者も編集者も最後まで気づかなかったというのは信じがたいことだが、あるいは気づいていながらこれでもよいと思ったのだろうか。翻訳者と同じく、あるいはそれ以上に編集者の責任が大きいのではないかと思う。


新訳 p47  彼は何か解決できない心配ごとをかかえているのか、棺の枕を支えようと急に手を差しだしたり、棺を持っている人の邪魔ばかりしたり、棺のかたわらを駆け回ったりしながら、なんとか少年たちの輪に加わろうとしていた。

原訳 下・p486  何か解決しえぬ心配事をかかえているみたいに、だしぬけに柩の頭の方を支えようと手をのばして、運んでいる人たちの邪魔をしてみたり、そうかと思うと、柩の横に駆けよって、せめてその辺にでもどこか割りこむ場所はないかと探してみたりするのだった。

小沼訳 Ⅲ・p437  彼はなにか解決のつかない心配ごとでもあるように、棺をかついでいる人たちの邪魔をしたり、そうかと思うと、棺のわきを駆けまわって、せめてそのそばについていようとして場所をさがしたりするのだった

江川訳 p850  何か解決しえぬ心配事をかかえているみたいに、だしぬけに柩の頭の方を支えようと手をのばして、運んでいる人たちの邪魔をしてみたり、そうかと思うと、柩の横に駆けよって、せめてその辺にでもどこか割りこむ場所はないかと探してみたりするのだった。

感想  わが子を亡くしたばかりの父親の茫然自失の精神状態を描写しているというのに、「心配ごとをかかえているのか」はあまりにも鈍感な表現に思える。


新訳 p48  教会は古く、かなり貧しくて、聖像の多くから金箔の縁飾りが落ちていたが、祈りをあげるには、かえってこういう教会のほうが気分が出るものである

原訳 下・p486  古い、かなり貧弱な教会で、金属の飾りのすっかりとれてしまった聖像がたくさんかかっていたが、お祈りをするにはこういう教会のほうがなんとなく落ちつくものだ

小沼訳 Ⅲ・p437  だがこういう会堂のほうがなんとなくお祈りをするには感じがいいものである

江川訳 p851  古びた、かなり貧弱な教会で、聖像はあらかた飾り額がはずれてしまっていたが、こういう教会ではかえってしんみりとお祈りができるものだ

感想  ここで、「気分が出る」という表現はないだろうと思う。死者であるイリューシャはたったの9歳、父親であるスネギリョフの悲痛な心情を読者としてもほとんど我がことのように感じている場面なので、この表現には興ざめな思いをさせられた。もしこの葬儀に参列していたと仮定して、亀山氏にしても古びた教会を眺め回しながら「これは気分が出ますね」などと口にすることはないだろう。また誰かそんなことを述べる人がいたとしたら、その言葉がその場にどんな反響をまきおこすかくらい想像できるだろう。亀山氏だけではない、この訳語に疑問をもたなかったらしい編集者を初めとした関係者の言語感覚は疑問である。


新訳 p49  ついに埋葬のときが来て、ろうそくが配られた。正気をなくした父親はふたたびそわそわしだしたが、悲壮で強烈な感動を与える埋葬の聖歌に、彼の心は揺さぶられた。

原訳 下・p487  いよいよ、お別れの賛美歌に移り、蝋燭が配られた。分別をなくした父親はまたそわそわしかけたが、心を打つ感動的な葬送の歌が、彼の魂を目ざめさせ、打ちふるわせた。

小沼訳 Ⅲ・p438  いよいよ、埋葬ということになって、ろうそくがくばられた。正気を失っていたような父親はまたもやあたふたしはじめた。胸にしみわたるような、感動的な葬送の歌は、彼の魂に刺戟をあたえ揺り動かした。

江川訳 p851  ついに、葬送の式がはじまり、一同に蝋燭が配られた。正気を失った父親はまたそわそわしはじめたが、感動的な、心を打つような葬送の歌声が、彼の魂をも目ざめさせ、震撼させた。

感想  新訳の「悲壮で強烈な感動を与える聖歌」という訳は、他ならぬイリューシャの葬儀における聖歌が感動的だったこと、それは二度とはない、たった一度かぎりの固有な出来事だったという事実を表現していないように感じる。「埋葬の歌」それ自体が持っている力もさることながら、イリューシャの葬儀の時の歌声が感動的だったことを原作は述べているはずなので、その点、先行訳の表現のほうがそのことをも含みこんで巧みだと思う。


新訳 p49  彼はなぜか、ふいに体全体をちぢこませ、時おり小刻みに号泣しはじめた。最初は声をひそめていたが、最後は大声でむせび泣きをはじめた。

原訳 下・p487  彼はなにか急に全身をちぢこめて、最初は声を殺しながら、しまいには大声にしゃくりあげて、短く小刻みに泣きはじめた。

小沼訳 Ⅲ・p438  彼はとつぜんからだをちぢめるようにして、しゃくりあげて泣きはじめた。はじめは声を殺していたが、しまいには声をあげてむせび泣くのだった。

江川訳 p851  彼は急に全身をちぢかめたような恰好になり、しきりときれぎれのすすり泣きをもらしはじめた。最初は声を忍ばせていたが、最後にはもう大声でしゃくりあげるのだった。

感想  「彼はなぜか、ふいに体全体をちぢこませ」という訳の「なぜか」も、上で取り上げた「心配ごとをかかえているのか」や「気分が出るものである」の場合と同じように、大変鈍感な訳だと感じる。


新訳 p49~50  最後のお別れをして棺の蓋を閉じようとしたとき、イリューシャを覆い隠すなど許さないとでもいうかのように両手で棺の柄を抱きかかえ、死んだわが子の唇に何度もむさぼるように口づけした。
やっとのことで彼を説き伏せ、階段からなかば引きおろしかけたところで、彼はとつぜん片手を伸ばし、柩のなかから何本かの花をつかんだ。彼はその花をしげしげと見やりながら、ふと新しい考えを思いついたようだった。そのために彼は一瞬、なにか肝心なことを忘れてしまったらしかった。徐々に物思いにふけりはじめたようで柩が持ち上げられ墓に運ばれるときも、とくに抵抗することはなかった。

原訳 下・p488  (略)やっとそれを説き伏せ、もう階段をおりかけたのだが、ふいに彼はすばやく片手を伸ばして、柩の中から花を何本かつかみとった。その花を見つめ、何か新しい考えがうかんだために、肝心のことを一瞬忘れてしまったかのようだった。彼はしだいに物思いに沈んでゆき柩を担ぎあげて墓に運びだしたときにも、もはや逆らわなかった。

小沼訳 Ⅲ・p438  (略)やっとのことで説き伏せられて、階段からおろされようとするとき、彼はとつぜん片手をさっとのばして、棺のなかからいくつかの花をつかみだした。彼はじっとその花を見つめていたが、なにか新しい考えのとりこになったように、一瞬、肝心なことを忘れてしまったようすだった。しだいに彼は深い物思いに沈んでゆくようになって柩がかつぎあげられて墓地のほうへ運びだされたときには、もはやそれに反対しようともしなかった。

江川訳 p851  (略)ようやく説きつけられて、もう段を降りはじめたのだが、彼はふいにまたすばやく手をのばして、柩の中から何本かの花をつかみ取った。その花をづくづくと眺めるうち、彼はふいに何かの新しい考えに打たれ、一瞬、肝心のことを忘れてしまったようだった。しだいに彼は物思いに沈んでいき柩がかつぎあげられて墓地に運びだされるときには、もう何も逆らおうとしなかった。

感想  「階段からなかば引きおろしかけた」という訳は、読んでいて、ここで「引きおろ」されているのはスネギリョフなのだろうか、それとも棺なのだろうかと判断に迷ってしまった。文脈からするとスネギリョフのことだと思われるが、しかし「引きおろ」すという表現をみると物―棺を指しているようにも思われる。明瞭であってほしい。/「ふと新しい考えを思いついたようだった。そのために彼は一瞬、なにか肝心なことを忘れてしまったらしかった」という訳文は、実にへんてこだと思う。彼、スネギリョフは、事実として新しい考えを思いついたのでもなければ、肝心なことを忘れたわけでもないだろう。原訳の「何か新しい考えがうかんだために、肝心のことを一瞬忘れてしまったかのようだった」という訳が事態を完璧に表現しているのではないかと思う。/「物思いにふけりはじめたようで」における「ふけり」という言葉にも違和感をおぼえる。「ふける」というと、「耽溺」という言葉がそうであるように、当人の意思が入った行動のように感じられるので、ここでは相応しくないのではないだろうか。/また、「柩が持ち上げられ」の「持ち上げられ」については、前のp48の場合と同じく、「担ぐ」という言葉がないために正確な描写になっていないと思う。


新訳 p50  スネギリョフが両手に花をたずさえたまま、口を開けた墓穴のほうへ低く身をかがめたので、少年たちは驚いて彼の外套をつかみ、うしろに引きもどした。

原訳 下・p488  スネギリョフは両手に花をかかえたまま、口を開けている墓穴の上へ思いきり身を乗りだしたため、少年たちがぎょっとして彼の外套をつかみ、うしろに引きもどしたほどだった。

小沼訳 Ⅲ・p438  例の花を手に握ったまま、スネギリョフが墓穴の上に身を乗りだすようにしてのぞきこもうとしたので、少年たちが驚いて、彼の外套をつかんで引き戻した。

江川訳 p851  スネギリョフが両手で花を抱えたまま、口を開けている墓穴の上へあまり身を乗り出すので、少年たちがぎょっとなって彼の外套をつかみ、後ろへ引き戻したほどだった。

感想  「墓穴のほうへ低く身をかがめた」という訳文も、これだけでは、少年たちがスネギリョフの動作になぜ「驚いて彼の外套をつかみ、うしろに引きもどした」のか、一読していてすっきり理解できない。


新訳 p54  少年たちにつづいて、アリョーシャも最後に部屋を出た。「思うぞんぶん泣けばいいんです」と、彼はコーリャに言った。「こうなると、もう慰めようがありませんからね。しばらくここで待って、それからなかに入りましょう」
「そう。慰めようがない。ほんとうにおそろしい」コーリャも同意した。
「カラマーゾフさん」コーリャはだれにも聞かれないよう急に声をひそめた。
「ぼく、とても悲しくて。もし、イリューシャを生き返らせることができるんなら、この世のなにもかも投げ出してやるのに!」
ええ、同感です」とアリョーシャが言った。

原訳 下・p488  コーリャが部屋をとびだし、少年たちもあとにつづいた。最後にアリョーシャも出た。「気のすむまで泣かせておきましょう」彼はコーリャに言った。「こんなときには、もちろん、慰めることなどできませんからね。しばらく待って、戻りましょう」
「ええ、むりですね、悲惨だな」コーリャが相槌を打った。「あのね、カラマーゾフさん」ふいに彼は、だれにも聞かれぬように声を低くした。
「僕はとても悲しいんです。あの子を生き返らせることさえできるんなら、この世のあらゆるものを捧げてもいいほどです!」
ああ、僕だって同じ気持ですよ」アリョーシャは言った。

小沼訳 Ⅲ・p441  (略) 「あのねえ、カラマーゾフ」と彼は誰にも聞かれないように、急に声を低めた。「僕はとっても悲しいんです。もしもあいつを生き返らすことができさえすれば、僕はこの世のありとあらゆるものを投げだしてもいんだがなあ!」
ああ、僕だってそうですよ」とアリョーシャは言った。

江川訳 p853  (略) 「ねえ、カラマーゾフさん」彼は、だれにも聞えないように、ふいに声を落した。「ぼくはとても悲しいんです。あの子を生き返らせられるんだったら、この世のあらゆるものを投げだしてもいいくらいの気持です!」
ああ、ぼくだって同じですよ」アリョーシャは言った。(略)

感想  「この世のなにもかも投げ出してやるのに!」というコーリャの言葉は、コーリャのイリューシャを生き返らせたいという切実な感情の表現としてはいささか粗雑・乱暴なように思えるが、アリョーシャの「ええ、同感です」も、他の訳と比べると一目瞭然、形式的な冷淡な相槌のように感じられる。これまで見てきたアリョーシャの性格・人柄からして、このような場合に、「ええ、同感です」という発言はしないのではないだろうか。


新訳 p54   「カラマーゾフさん、今晩、ここに来たほうがいいでしょうか? だって、大尉はきっとものすごく酔っぱらってますよ」
「たしかに、たくさん飲むかもしれませんね。きみとぼくの二人だけで来ましょう。あの人と、母親とニーノチカの三人と、一時間かそこらいれば十分でしょう。みんなでいちどに押しかけて行ったら、あの人たち、また思い出すでしょうしね」とアリョーシャは忠告した。

原訳 下・p488  「どうでしょう、カラマーゾフさん、僕たち今晩ここへ来たほうがいいでしょうか? だって、あの人はきっと浴びるほどお酒を飲みますよ」
「たぶん飲むでしょうね。きみと二人だけで来ましょう。一時間くらいお母さんとニーノチカの相手をしてあげれば、それで十分ですよ。みんなで一度に来たりすると、また何もかも思いださせてしまうから」アリョーシャが忠告した。

小沼訳 Ⅲ・p441  「あなたはどうお考えです、カラマーゾフ、今晩ここへきたほうがいいでしょうかね? あの人はまた飲むにちがいありませんからね」
「ことによると、飲むかもしれませんね。それじゃ僕たちふたりだけできましょうか。おかあさんとニーノチカのそばに、一時間も一緒にいてやったらそれでいいんじゃないですか。みんなして一度に押しかけてくると、またみんなにイリューシャのことを思いださせることになりますから」とアリョーシャは注意した。

江川訳 p853  「どうでしょう、カラマーゾフさん、ぼくたち、今晩はここへ来たほうがいいんじゃないですか? だって、あの人が飲みつぶちゃうでしょう」
「たぶん、飲むでしょうね。きみと二人だけで来ましょう、それでいいですよ、一時間もいっしょにいて、お母ちゃんとニーノチカの相手をしてあげれば。みなでいっしょに来たりすると、またいろんなことを思い出させてしまうし」アリョーシャが忠告した。

感想  先行訳では、アリョーシャとコーリャが晩にもう一度スネギリョフ家を訪れることにしたのは、イリューシャの母親とニーノチカを慰めるためのように訳されているが、新訳ではスネギリョフも含めた家族全員の相手をするための訪問のように訳されている。これも気になったが、それよりもさらに気になったのは、新訳の「一時間かそこらいれば十分でしょう」という会話の「いれば」という言葉である。もしこれが、「一緒にいれば」とか「いてやれば」などであったならすぐに意味が分かると思うのだが、「いれば」では、ごく単純な内容のことであるにもかかわらず、その意味するところが読んですぐには察知しにくい。これまでの感想で述べてきたことだが、新訳にはこのような例が随所に見られる。


新訳 p55  「でも、なにもかも変ですよね。カラマーゾフさん、こんな悲しいときに、いきなりクレープなんかが出るなんて、ぼくたちの宗教からすると、なにもかも不自然ではありませんか!」
「スモーク・サーモンも出るんだって!」大きな声で《トロイの建設者》が言った。
「カルタショフ君、きみ、まじめにお願いするけど、そういうばかな冗談言って話の邪魔しないでくれ。べつにきみとしゃべってるわけじゃないし、きみがこの世にいるかどうかなんてこっちはとくに知る気もないんだからね!」コーリャは腹立たしげに少年のほうをふり向いて、話を断ち切った。相手の少年は顔をぱっと赤くしたが、口答えする勇気はなかった。

原訳 下・p491  「なんだか変ですよね。カラマーゾフさん、こんなに悲しいときに、突然ホットケーキか何かが出てくるなんて。わが国の宗教だとすべてが実に不自然なんだ!」
「鮭の燻製も出るんだって」トロイの建設者を見つけた少年が、突然、大声ですっぱぬいた。
「僕はまじめに頼むけどね。カルタショフ、ばかみたいな話で口出ししないでくれよ。特に君と話してんでもなけりゃ、君がこの世にいるかどうかさえ知りたくもないような場合には、なおさらのことさ」コーリャがその方を向いて苛立たしげにきめつけた。少年は真っ赤になったが、何一つ口答えする勇気はなかった。

小沼訳 Ⅲ・p441  「だけどおかしいじゃないですか、カラマーゾフ、こんな悲しいときに、なんの関係もないパン・ケーキかなんかをだすなんて、われわれの宗教からすると、実に不自然なことですねえ!」
「あすこじゃ鮭も出すんですって」とトロイの建設者を知っていた少年が、不意に大きな声で口を入れた。
「僕はまじめに君にお願いしますがね、カルタショフ、もうそんな馬鹿なことを言ってくちばしを突っ込むのはやめにしていただきたいもんですね。君と話をしているのでもなければ、君がこの世にいるかどうかさえ知りたくないような場合にはなおさらのことだよ」とコーリャは彼の方を向いて腹立たしげに叩きつけた。少年は思わずかっとなったが、口答えひとつする勇気もでなかった。

江川訳 p854  「でも、ずいぶん変な話ですね、カラマーゾフさん、こんな悲しいときに、突然プリン(ホットケーキふうの薄焼きの菓子)が出てくるなんて、わが国の宗教っていうのは実に不自然なんだな!」
「あそこじゃ鮭(燻製)も出るんですよ」トロイを発見した少年が、突然大声でいった。
「まじめなお願いだけれどね、カルタショフ、そういうばかげた口出しはしないでくれないかな。とくに、きみと話しているわけでもなければ、だいたいきみがこの世にいるかどうかも気にしていないときにはね」コーリャがいら立たしげに少年をさえぎった。少年はとたんにまっ赤になったが、何も言い返す勇気はなかった。

感想  新訳の「ぼくたちの宗教からすると」、小沼訳の「われわれの宗教からすると」という訳文では、葬儀の直後にお菓子なんぞがでることはロシアの宗教とは相容れない不自然な風習・伝統であると、宗教ではなく、お菓子をだすような風習について批判しているように読める。でも、宗教を初めとしたロシアの現状の何もかもに批判的な哲学少年であるコーリャを知っている読者には、原訳、江川訳の「わが国の宗教だとすべてが実に不自然なんだ!」「わが国の宗教っていうのは実に不自然なんだな!」のほうが適切な訳ではないかと思えるのだが┄。/「ばかな冗談言って話の邪魔しないでくれ」という訳の「冗談」だが、カルタショフは冗談を言ったつもりは毛頭ないはずだし、コーリャもそのように受けとめたわけではないだろう。したがって、「冗談」ではなく、普通に「話」としたほうがよかったのではないだろうか。/それから、「きみがこの世にいるかどうかなんてこっちはとくに知る気もないんだからね!」という訳文だが、先行訳をみると、この時のコーリャの発言は、「今・この時」に限定された、この場かぎりでのカルタショフに対する心境であり発言だと察せられるので、新訳にもそのことを明確に示す工夫をして欲しかった。


新訳 p56  少年たちの一行は、小道を静かにのろのろと歩いていたが、スムーロフがいきなり叫び声をあげた。
「あっ、イリューシャの石だ、あの石の下に葬ってって、言ってたんですよ!」
 アリョーシャはその石を見た。かつてスネギリョフが、イリューシャについて話をしたときの光景が、まざまざと目に浮かんできた。泣きながら、父親に抱きついて、
パパ、パパ、あのときはほんとうにひどい目にあったね!」と叫んだ話である。アリョーシャの記憶に、そのときの光景が一気に浮かびあがった。なにかが、彼の心のなかで、ぐらりとはげしく揺れたような気がした。彼は真剣な、いかめしい顔をして、イリューシャの友だちである生徒たちの、愛らしい明るい顔をぐるりと見渡し、ふいに話しはじめた。

原訳 下・p492  その間にも一同は小道を静かに歩いていったが、突然スムーロフが叫んだ。
「あれがイリューシャの石です。あの石の下に葬りたいと言ってたんですよ!」
 みなは無言で大きな石のそばに立ちどまった。アリョーシャは石を見つめた。すると、イリューシェチカが泣きながら父に抱きついて、「パパ、パパ、あいつはパパにひどい恥をかかせたんだね!」と叫んだという話を、いつぞやスネギリョフからきかされたときの光景が、一時に記憶によみがえってきた。胸の中で何かが打ちふるえたかのようだった。彼は真剣な、重々しい様子で、イリューシャの友だちである中学生たちの明るいかわいい顔を見渡し、だしぬけに言った。

小沼訳 Ⅲ・p442  いつの間にかぶらぶらと静かに小径を歩いていた。突然スムーロフが叫んだ――
「ほら、イリューシャの石だ、この石の下に葬りたいって言ったんですよ!」
 一同は無言のまま、その大きな石のそばで立ちどまった。アリョーシャはその石を見た。するといつかスネギリョフが物語ってくれたイリューシェチカの話――イリューシャが泣きながら父親に抱きついて『パパ、パパ、あの男はパパをなんとひどい目にあわせたんでしょう!」と叫んだという、そのときの光景が、一度にぱっと彼の記憶によみがえった。彼の胸のなかでなにかが急に動いたような気がした。彼はまじめな、厳粛な顔をして、イリューシャの友達の学生たちの、可愛らしい、明るい顔をぐるりと見まわした。そして彼は不意に言った。

江川訳 p854  そうこうするうちにも、一同はゆっくりと小道を歩いて行ったが、とつぜんスムーロフが叫んだ。
「これがイリューシャの石ですよ、この下に葬りたいと言っていたんです!」
 大きな石の傍らで、みなは無言のまま足を止めた。アリョーシャは石を眺めやった。するととっさに彼の記憶に、いつかスネギリョフが話してくれた情景が、まざまざとよみがえってきた。イリューシェチカはあのとき、泣きながら父親にかじりついて、「お父ちゃん、お父ちゃん、あいつはお父ちゃんになんという恥をかかせたんだろうねえ!」と叫んだのだ。彼の魂の底で何かがはげしく打ち震えたかのようだった。彼はまじめな、重々しい顔つきで、イリューシャの友だちである中学生たちの、愛らしい、明るい顔を見渡し、だしぬけにこう言った。

感想  イリューシャは確かに、自分が死んだらあの石の下に葬ってほしい、と言っていた。でも、作品を読むかぎり、その言葉を聞いたのは、父親を初めとした家族のほかは、アリョーシャとコーリャだけだったはずで、葬儀を了えたこの時「あっ、イリューシャの石だ……」と叫んだスムーロフがイリューシャのその言葉を直接聞いたことがあるかどうかはっきりしない。だが父親はその日じゅうずっと教会の墓地ではなく、イリューシャの願いどおりに石の下に葬ると言い張っていたのだから、みんなの頭にはそのことがふかく印象付けられていたはずで、スムーロフの叫びも「あの石の下に葬ってって、言ってたんですよ!」とかつてのイリューシャの言葉を伝えたというよりは、その日の父親スネギリョフの言葉を指して、「あの石の下に葬りたいって、言ってたんですよ!」と述べたと考えるほうが自然ではないかという気がする。/新訳の「パパ、パパ、あのときはほんとうにひどい目にあったね!」という表現については、以前にも述べたことだが、イリューシャの傷つけられ苦痛にみちた心情が正確に表現されるためには、先行訳の「パパ、パパ、あいつはパパにひどい恥をかかせたんだね!」「あの男はパパをなんとひどい目にあわせたんでしょう!」「あいつはお父ちゃんになんという恥をかかせたんだろうねえ!」などのように、父親が特定の誰かにひどい恥をかかされたということが明確である必要があると思うので、先行訳のほうが断然適切な訳だと思う。


新訳 p57  覚えてるでしょう? あの子に以前、あの橋のたもとで石をぶつけられたことがあるけど、あの子はそのあと、みんなからあんなに愛されるようになりました。立派な少年でした。正直で、勇敢な少年でした。父親の名誉と、父親に対するひどい仕打ちを感じて、そのために憤然と立ち上がったのです。ですから、第一にぼくらは、死ぬまで彼のことを忘れないようにしましょう。

原訳 下・p492   その少年はかつては、おぼえているでしょう? あの橋のたもとで石をぶつけられていたのに、そのあとみんなにこれほど愛されたのです。立派な少年でした。親切で勇敢な少年でした。父親の名誉とつらい侮辱を感じとって、そのために立ちあがったのです。だから、まず第一に、彼のことを一生忘れぬようにしましょう。

小沼訳 Ⅲ・p443  この少年はあの橋のところで、覚えてるでしょう? 前にはみんなに石をぶつけられたけれども、あとではみんなにこんなに愛されるようになりました。彼は立派な少年でした。善良で、勇敢な少年でした。彼は父親の名誉と、父親にくわえられたいたましい侮辱をその身に強く感じて、それを守るために立ちあがったのです。ですから、まず第一に、みなさん、一生涯、彼のことを覚えていることにしましょう。

江川訳 p854  この少年は以前はみなに石を投げられた少年でした。憶えているでしょう あの橋のたもとの出来事を? ――ところがその後では、みなにこんなにも愛されたんです。彼は立派な少年でした。善良な、勇敢な少年でした。父親の名誉と理不尽な辱しめとを心で感じとって、その恥辱をそそぐために立ちあがったのです。ですから、第一に、みなさん、ぼくたちの生涯を通じて彼のことを記憶していようじゃありませんか。

感想  まず、新訳の「あの子に以前、あの橋のたもとで石をぶつけられたことがある」という箇所だが、ここではアリョーシャ(もしかすると他の少年たちも?)がイリューシャから石をぶつけられたということになっているのだが、先行訳をみると、逆に、イリューシャが他の少年たちから石をぶつけられたということになっている。文脈をみると、先行訳のほうが適切なように思われる。/次の「父親に対するひどい仕打ちを感じて」という新訳の表現は、イリューシャが父親に加えられたひどい仕打ちを「どのように」感じとったかについて一切触れていないのでひどく舌足らずな訳文のように感じる。/最後に、新訳の「死ぬまで」という表現についてだが、この場合は文脈上、これまでほどの違和感はおぼえなかった(慣れたのかも知れない)が、ただ、先行訳のようにごく普通の言い方である「一生」とか「生涯」と訳したほうが『カラマーゾフの兄弟』という作品には相応しいとは思う。


新訳 p60   さっきコーリャ君は、カルタショフ君に向かって、『きみがこの世にいるかどうか』、そんなことは知る気もないって言いました。でも、カルタショフ君がこの世に生きていること、その彼が、トロイの建設者がだれか答えたときみたいに顔を赤らめず、美しい、善良な、ほがらかな目で、今このぼくを見つめていることを、どうして忘れることができるでしょう。

原訳 下・p494~495  さっきコーリャがカルタショフに、『彼がこの世にいるかどうか』を知りたいとも思わないみたいなことを言いましたね。でも、この世にカルタショフの存在していることや、彼が今、かつてトロイの創設者を見つけたときのように顔を赤らめたりせず、すばらしい善良な、快活な目で僕を見つめていることを、はたして僕が忘れたりできるでしょうか? 

小沼訳 Ⅲ・p445  さっきコーリャはカルタショフに、僕たちは『彼がこの世にいるかどうか?』知りたくもないとか言いました。しかしカルタショフがこの世にいることを、それからもういまでは、あのトロイのことを言ったときのように顔をあからめもしないで、すばらしい、善良な、明るい眼つきで僕を見つめていることなどが、いったい忘れられるものでしょうか。

江川訳 p856  さっきコーリャがカルタショフに、『きみがこの世にいるかどうかも』知りたくないなんて言いましたね。でも果たしてぼくに忘れたりできるでしょうか、カルタショフがこの世にいることを、そしていまそのカルタショフが、もうトロイを発見したときのように赤くもならず、あのすばらしく善良な、はればれとした目でぼくを見つめていることを。

感想  「きみ」「彼」という、翻訳者による言い方の違いが気になったので下線を付してみた。カルタショフについて新訳と江川訳は「きみ」とし、原訳と小沼訳は「彼」としている。原文がどうなっているのか気になるところだが、「きみが」というのではなく、「彼が」という第三者を指す表現は、アリョーシャのコーリャとカルタショフに対するきめ細かな配慮かな、とも思ったが、他の何らかの意味があるのだろうか?



以上で亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の感想は終わりである。上記のような形で書いたのは、他でもない、これは翻訳についての感想ではあるが、作品がドストエフスキーの作品である以上、間接的にドストエフスキーについて述べることにもなるのだが、難しくて、これ以外の方法による書き方は力不足でできそうになかったからだった。

私が亀山郁夫氏の名前をはっきり認識したのは今から2、3年前のことで、亀山氏が雑誌『文學界』(2006年8月号)において佐藤優氏の著書『自壊する帝国』を評した「類稀な「人間力」を見せつける凄まじい一冊」と題された文章を読んだ時だった。この一文は、こちらのブログが掲載しているのを偶然読ませてもらったのだが、筆者の亀山氏は、この本を以下のように絶賛していた。

「どれほど混沌とした時代にも、一つの状況、ひとつの現象を作り出してしまう天才がいる。そうした天才の類稀な「人間力」を見せつける凄まじい一冊、それが『自壊する帝国』である」「グロテスクな拝金主義と弱肉強食の「哲学」が跋扈する現代の日本で、これほど没私的に行動する人間を法の裁きにかける力とは、時代とは、何なのか。「本源的な力」を失った日本の、佐藤優に対する「冷笑」をこそ恐れるべきではないのか。」

この時私は亀山氏についてほとんど何も知らなかったのだが、ただメディア情報によって、この人が今『カラマーゾフの兄弟』の新訳を手がけている翻訳者だということは何となくうっすら知っていた。上の文章を読んで、私は一方では「ああ、またしても佐藤氏の崇拝者 出現?」とごく普通に(?)呆れてもいたが、一方、心の奥で大変驚いてもいた。「このようなことを述べる人がドストエフスキーの小説を翻訳するの? それも『カラマーゾフの兄弟』を?…」と思ったのだった。上の文章のなかでなるほどこれは佐藤優氏に対する評価として正解かも知れないと思えたのは、佐藤氏は確かに「拝金主義」ではないかも知れないということくらいだった。それにしても、亀山氏の文章を読んだ時、私はその批評対象である『自壊する帝国』を未読だったのに、「天才の類稀な「人間力」」とか「没私的に行動する人間」というような佐藤氏に対する絶賛文を読んだだけでドストエフスキーの作品の翻訳に携わる人としての亀山氏につよい疑いをおぼえたのだから、佐藤優氏の言説内容(追記-というよりむしろ、佐藤氏を久方ぶりに出現した稀にみる思想家のごとく持ち上げ、喧伝する言論・出版界)に対する当時の自分の不信がどんなにつよかったかということが分かる。

その次に読んだ亀山氏の文章は、今となっては順序が不確かなのだが、多分、佐藤優氏との共著である『ロシア 闇と魂の国家』(文春文庫2008年4月刊)という本ではなかったかと思う。ドストエフスキーについても二人の間であれこれ話し合われているのだが、それを読んで、私はこれが『カラマーゾフの兄弟』についての会話なのだろうか? と索漠たる思いがしたことをよくおぼえている。佐藤氏などは、アリョーシャについて「……ぼくはアリョーシャが自殺するようなことはないとみています。アリョーシャは、自殺などしない、もっと本格的な悪党だと思います。」などと、佐藤氏は大抵そのような調子 ではあるのだが、なんの根拠も述べずにアリョーシャを「悪党」呼ばわりしていた。

前に書いた文章のなかで私は過去に『カラマーゾフの兄弟』を翻訳した先行者について、「錚々たる過去の翻訳者たち」云々と書いた。これはある種の権威を前提にしたような言い方のようにもみえかねず、あまりいい表現ではないとその時もちょっと思ったのだが、言いたかったことは、現在とは比較にも何もならないほどに作品を読む力をもっていたことはまちがいないと思われる70年代頃までの読者の厳しい目にそれらの翻訳作品は耐えることができた、その事実が確固として存在するということだった。ここ1年の間に、私は小沼、原、江川各氏の訳本を一通り読んでみたが、亀山氏の翻訳が先行訳を前にすると、どのような面から見ようとも次元が異なって拙劣であることは、私のようなごく一般的な読者にとってもあまりにも明白であったと言うしかない。ほとんどページを繰る毎に読者に違和感や疑問をおぼえさせ、熟読を苦痛にさせるような翻訳が甚だ拙いことは誰でも認めないわけにはいかないだろうと思う。

追記-『カラマーゾフの兄弟』の翻訳問題について関心をお持ちの方には、下記のサイトを自信満々で推奨します。ぜひご欄になってみてください。
 木下豊房氏のサイト 
 こころなきみにも
 連絡船



関連記事
スポンサーサイト
2009.11.04 Wed l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top

コメント

コメントの投稿












トラックバック

トラックバック URL
http://yokoita.blog58.fc2.com/tb.php/27-dfd1fc43
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。