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もう大分前のことになるが、本年6月25日に金光翔さんのブログ「私にも話させて」の「資料庫」に、「差別発言への注意は「非常識」――岡本厚『世界』編集長の私への怒り」という文章がアップされた。これを読んだ時から、この一文が指摘している特定の民族に対する差別発言の問題について一度自分の考え・意見を述べようと思ってきた。民族差別に関する問題は、日本人の誰にとってもそうかもしれないが、私もこうして記述するのに大変躊躇や困難を感じる。差別に関わる問題は、どんなことでも――障害者差別でも女性差別でも、それを語る者の基本的な考え方、また感覚や常日頃の意識も鋭く問われると思うが、中でも人種差別・民族差別の問題は特にそうだと思うからだ。

上記の記事を読んで、金さんが『世界』編集部を離れるにいたったそもそもの原因は、同僚の女性の差別発言を注意したことだったことを知り、『世界』の編集部を異様な職場だと思った。金さんは『世界』編集部に移るまで所属していた岩波書店の宣伝部もふくめて過去に働いた職場で特定の民族に対する悪口や差別発言を聞いたことはなかったと記しているが、私もかつての十数年間の勤めの経験では、記憶するかぎりの範囲でだが、職場で特定の民族への悪口がとびかうというような経験はしたことがなかった。もちろん、戦後の歴史と現状をみると、世の中全体がそうだったわけではないことは十分に推測できることだが、それにしても岩波書店はこれまで他のどんな出版社よりも、日本による戦前・戦中の侵略・植民地主義の歴史や民族差別の問題に高い意識をもった本づくりをしてきたはずであり、『世界』はその中核的存在ではなかったのだろうか。

かといって、『世界』の編集部を「異様」といって済ませられない、何とない後ろめたさを私自身も感じる。自衛のためだという身勝手な理屈で他国を侵略し、植民地にし、敗戦後、被害国や被害者個人からその責任を問われると、どこの国でもやっていた、に始まり、(侵略地・植民地で)少し悪いこともしたが、いいこともしてやった、などの延々とつづく政府閣僚の発言を聞くたびに、恥知らずな言動だと思い、憂鬱でもありやりきれない憤りを感じもした。こんなことをしていて将来どうなるのだろう、いつまでもこんなことで済まされるわけがないという漠とした不安もあった。そういう政府の姿勢は、小学校のころから当然のこととして聞かされ、こちらも納得し信頼して内心に育んできたはずの普遍的な価値観や倫理・道徳観とかけ離れた矛盾した言い分でしかないと感じないわけにはいかなかったからだが、それでもそのような矛盾を引き続きちゃんと考え、追求することはしてこなかった。難しすぎる問題だから、自分のようなちっぽけな人間の手の負える問題ではないから、と深く考えることを避け曖昧なままにやり過ごしてきたのだった。そのたまりにたまったツケが今このようにして回されてきているようにも感じるのである。

私は今現在の日本社会を政治的、社会的に、また文化的にも戦後60数年のうちで最悪の状態だと感じている。このような実感をもっている人は実は日本社会には潜在的に大変多いのではないかとも思っている。こうなった要因は沢山あるに違いない。天皇制をふくめた戦後処理の問題、その後の経済発展の方法の問題、国家と大小の組織や個人との関係の問題。いろいろあるにしろ、それでも根本原因は明治初年の侵略と植民地主義を是とした国家政策にまでさかのぼらなければつき止められないという説は大変説得的であり、私もこの説に賛同する。ただ、明確にそのように考えるようになったのは、私の場合せいぜいここ10年ほどのことで、特に北朝鮮による拉致問題が発生してからのことである。拉致問題を契機としてようやく日本が過去に行なってきた侵略と植民地戦略の残酷非道さが身に沁みて実感されるようになってきたということである。そのようなことは洞察力と実体を見ようとする姿勢があればもっと早くに気づいたはずなので、この点でも私はまったく鈍感な人間である。金光翔さんの上記の記事についての意見を書きたいと思いつつ、そのようなことをあれこれ考えては逡巡し、ついつい遅くなったのだが、これから思うところを少し書いてみる。なお、金光翔さんが記事において事実として述べていることについては、私はそれを事実と見てさしつかえないと考えている。前にも述べたのだが(「首都圏労働組合特設ブログ」の記事「読者からの岩波書店へのメール」参照のこと。あの一文は私が岩波書店に送ったもので、その後金さんにこのことを連絡したところ「首都圏労働組合特設ブログ」に掲載してくださった)、もし金さんの記事に事実でないことが事実として書かれているようなことがあったのなら、批判の対象にされた岩波書店や労働組合がこれまでそれを黙過したはずはないと思うからである。

金さんが、『世界』編集部に異動願いをだしたのは、2006年12月とのことである。そのような行動をとったのは、「基本的には佐藤優を使うという『世界』の編集方針を理由としたものだが、もう一つ、『世界』編集部内での、差別発言への私の批判をきっかけとした人間関係の極端な悪化の問題もあった。」とのことで、その「差別発言」の内容とは、下記のようなことだったという。

「『世界』編集部に2006年4月に異動して、私が驚いたのは、配偶者が中国人とのことであるA氏(もちろん日本人)が、中国人差別発言を大っぴらにしていることと、それを聞いている岡本氏を含めた編集部員たちが誰も注意しないことであった。「中国人は嘘つき」「中国人は腹黒い」「中国人は約束を守らない」といった発言を日常的に行い、会議中でも平気でそうした発言をしていた。日本社会の否定的な側面についても、「まるで中国みたい」といった表現を使っていた。」

「私はこうした発言を聞くたびに、非常に不快に思ったが、異動してきたばかりであり、部内では最も若輩という引け目から、黙っていた。そうした発言を注意できない自分の怯堕にも腹が立った。」

金さんが「職場で特定の民族についての差別発言を聞くのは不愉快であり、今後やめてほしいこと、自分が彼女の中国人に関する差別発言を不愉快に思っていたこと」を伝えるまでに、逡巡があったということ、特に「注意できない自分の怯堕にも腹が立った」という記述には十分に留意すべきだろう。自分の注意や批判が素直に受けとめられないのではないか、問題が大きくなるのではないかという懸念もあったのではないだろうか。人に注意されてすぐに納得して改めるのなら、初めからこのような発言はしないとも思われる。しかし、これは注意されて当然の発言であると思う。普通の職場ならば、早いうちに誰かが注意していたと思う。「中国人は嘘つき」「中国人は腹黒い」「中国人は約束を守らない」、日本社会の否定的な側面についても、「まるで中国みたい」といった表現は、発言者の意図がどうあろうと、第三者に中国への差別意識に貫かれていると判断されて仕方がないのではなかろうか。編集長の岡本氏は、

「A氏の夫は中国人なのだから、彼女が中国人に対して差別的認識や差別感情を持っているはずがない。だから、A氏の中国人に関する発言は、軽口の範囲として認識すべきであって、みんなそうしているし、金のように注意するのは非常識だ」

と述べたそうだが、A氏の配偶者が中国人であることは、職場にも、そこで働く他の人にも基本的には関係のないことである。A氏が岩波書店で働いているのはA氏の能力によってであり、夫が中国人だからではないだろう。もしA氏のそのような発言がうっかり外部の人に聞かれ(ありえないことではない)、呆れられ、批判されたとしたら、A氏や岡本氏は何と弁明するのだろう。「A氏の配偶者は中国人ですから、軽口として許されるはずです」とでも言うのだろうか。また、人間誰しも先のことは分からないから、Aさんも何らかの事情で離婚することだってあるかも知れない。その時にはA氏の同じ発言が今度は「差別発言」ということになるのだろうか。それとも以後ピタリとその種の発言をしなくなるのだろうか。どちらにしろ倫理的にも論理的にもおかしなことには違いないと思う。それから同僚はみな黙ってA氏の発言を聞いていたということだが、その中からもしA氏の発言につよく同意する人がでてきたとしたら、どうするのだろう。相手があることで話にいっそう弾みがつき、発言内容がより過激になっていったとしたら、岡本氏はどのような対処をするのだろうか。きっとそれもまた非常識というのではないだろうか。発言への注意も非常識、賛同もまた度を越せば非常識、結局、第三者は好意的に静かに話を聞いていることだけが唯一のとるべき途であって、それ以外の対応はすべて非常識ということになりそうに思われる。

日本人と結婚した在日朝鮮人の女性が、自分の生んだ子どもたちにまでそのことをひた隠しにして小さくなり心を抑圧して暮らしてきたという話なども聞くことがある。たしか徐京植さんの本にもそのような挿話が載っていたはずである。夫婦だからといってどちらかに民族的差別意識がないとはいえないのだ。親子の関係だって同じことだと思う。すべての差別は根本的に否定されなければならないのではないだろうか? 肯定してもよい差別などあるのだろうか。

そもそも特定の民族を指して「嘘つき」「腹黒い」などという発言を正しい指摘とは言えないだろう。どこの国にだって、「嘘つき」もいれば「腹黒い」人もいるだろうからだ。根拠を示せといわれても示せるはずのないことは明らかなのだから、このような発言は批評とは言えないだろう。注意を受けて当然の差別発言だと思う。またあえて言ってみるが、中国人でも日本人でもない第三者が双方を比べて、内心どちらをたとえば「腹黒い」と感じているだろうか。過去に相手国を侵略したのは日本であって、中国ではないことをどこの国の人だって知っているのだ。

昨年死去した加藤周一は「歴史としての20世紀」という本のなかで、これは戦争責任に関してだが、日本人の意識について、下記のように述べている。

「日本ではごまかす。「残念なことが過去にありました」「心が痛みます」。それは謝罪じゃない。自分の心が痛むか痛まないかが問題ではないのです。被害を受けた方からいえば、相手をはっきりさせて、朝鮮人に対してあるいは中国人に対して謝らなければ意味がない。中国と日本との間に戦争があったことに関して、こっちの心が痛もうと痛むまいと、そんなことに中国側では興味がないでしょう。謝罪というのは相手に対する行為であり、心が痛むのは当方の気分の問題です。それは全然別の二つのことですね。ヨーロッパ人は、そういうことを強く感じていて、日本の評判はあまりよくない。「どうもおかしい。戦争の時代からずっと続いているんじゃないか」という感じは、ヨーロッパ人のなかにもかなり深くある。もう少し詳しくいうと、ヨーロッパにおける一般大衆は、中国や韓国に対するようには日本に関心がない。しかし、国際的な問題に関心のあるヨーロッパ人の間では、日本の評判があまりよくないということです。国際的には一言でいうと「孤立した」状態になっています。」

『世界』でのこの出来事は2006年に起きたとのことだが、同じ年に、私はブログで酷い差別的内容の記事をみたことがある。その記事は、ちょうどその頃マスコミで話題になっていたある人物を徹底的に非難したものだったが、そのモチーフはその話題の人物が実は朝鮮人だということであった。その事実関係は知らないにせよ、その姓はよくある平凡なものだからおそらく事実は異なると思うが、要は、まだ若いと思われるその書き手にとって、相手を最大・最高に非難するための手段・道具は、その相手を朝鮮人だと決めつけることなのだった。これでは朝鮮人、とくに在日朝鮮人はたまったものではないだろうと思い、私も驚きとともにショックを感じたが、それ以降日本社会での民族的差別意識はますます酷い状態になってはいても、一向に改善されてはいないと思うのだが、A氏や岡本氏は現状をどのように見ているだろうか。

さらに遡って、これはもう7、8年前のことになると思うが、夜11時を過ぎたころ、何かちょっとした片づけものをしながら、テレビの音だけ聞くともなく聞いていたことがあった。NHKの番組で、ニュース解説員がどうやら「日本人論」とでもいうべき内容の話をしているらしかった。ふと「キッシンジャーの自伝には、日本人と韓国人と中国人が3人集まって話している場合、日本人だけはすぐに見分けられる。黙って肯いている人間がいれば、それが日本人だと思ってまちがいない。……そういう一節があるそうです。」というような声が聞こえてきた。ギョッとしてテレビを見ると、中年のその男性解説員は、微かに屈辱感をにじませたような苦い笑い顔をしているのが大変印象的であった。キッシンジャーが日本人の国民性について「黙って肯いている」ことをもって決して温良だと判断しているわけではないことをこのニュース解説者も感じとっていたのだと思う。この人はつづいて何か二言、三言しゃべったあと、「これからはそんなことを言われることのないようにしなければいけない」というようにまとめていたが、私はしばらく呆然としてしまった。これは日本人への偏見や差別発言だろうか、それとも核心をついた適切な批評だろうか。その後、この出来事を私は数人に話したが、誰もこの説に反対したり、怒ったりしなかった。つよい反応を示し、自分を省みてもそのとおりではないかと思う、と言った人もいた。『世界』編集部の人たちには失礼かも知れないが、金さんのこの記事を読んだ時も、私はキッシンジャーが述べたというこの日本人に関する説を思い出してしまった。といっても、キッシンジャーに特に関心があるわけでもないので、その後も当の自伝にこの逸話が実際に載っているかどうかを確かめたわけではないのだが。
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2009.11.26 Thu l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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