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昨年12月5日に文芸評論家(文明批評家ともいえる)の加藤周一逝去のニュースを知った時、喪失感も寂しさもおぼえたが、同時に、胸に一個の見事な作品の完成を見るような感動もあった。89歳という長寿といいうる年齢に達していたことも理由の一端ではあったかと思うが、もちろんそれだけではない。ここ数年、それまで長年にわたり自己の信念として、基本的・原則的な価値観の表明として公的に述べてきたはずの発言を、気づいてみるといつのまにかガラリ変質させてすましているように見える物書き、学者、ジャーナリストなどが非常に多いと感じていた。時にはジョージ・オーウェルの『1984年』の世界のようだと思うこともあったほどである。でも、加藤周一にはそんな懸念は初めからまったく感じなかった。加藤周一の精神、内包している思想や感覚は、そのような醜悪な(と感じられた)行為をするにはあまりにも精神の位が高く、思想の根拠は堅固であるという全幅の安心感、信頼感をもてたのだ。これは大きなことだった。死去の報せをきいたときにもこの信頼感がよみがえり、「全う」という印象が一番つよかった。前述した「物書き、学者、ジャーナリスト」と加藤周一のような人との姿勢の違いは何に起因するのだろう。決定的に作用するのは思想の質の違いだろうか。これは自分を省みる上でもよく考えてみるべき問題だと思うが、でも実のところ、つい数年前まではこのような姿勢が普通、当たり前のことだと思っていたのだったが…。

『20世紀の自画像』(ちくま新書・2005年)からノートにメモしていた加藤周一の発言を記すが、まず、「沖縄、アイヌ、「在日」と日本文学」のなかで、現代日本文学について

「文学の現状を聞かれれば、それはもちろん、いちばん生産的なグループは在日の作家たちではないかと思います。なぜかといえば、共通の大きな問題を抱えているからでしょう。/彼らの小説の世界は心理的な葛藤だけじゃすまない。それは在日ということ自体が、すでに問題を含んでいるからです。大きな社会的な、第一次戦後派が拡げた文学の世界を、いま引き継いでいるのは在日の人かもしれません。」

と書いていた。私はあまり雑誌や新刊本を読まないので、現状の文壇や論壇について詳しくないが、ブログなどで目に触れる範囲でいうと、在日朝鮮人が書いた文章は一般の水準に比してテーマのつき詰められ方が格段に異なる、深さが違うように感じることが多い。文学や思想においては、深くなければ持続的な拡がりを作り出すことはできないはずなので、加藤周一がここで「第一次戦後派」という言葉を遣っているのもあながちおかしくはないのではないだろうか。加藤周一自身も「第一次戦後派」の一人だったはずである。また、あとがきに、2005年に発生した中国の大規模な反日デモについての次の文章があった。私はこの論旨をまったくの正論だと思う。

「個々の争点の現状は、日中いずれかの側の「致命的国益」に触れるほど重大なものではない。しかしそれをまとめてみれば、日本の「右寄り」傾向のあきらかな加速を示す。その流れのなかに、いわゆる「歴史意識」の問題がくり返しあらわれた。すなわち過去の侵略戦争の膨大な破壊に対して現在の日本社会がとる態度の問題である。/戦後60年日本国を信頼し、友好的関係を発展させつつある国は、東北アジアの隣国のなかに一つもない。/その責任のすべてが相手方にあるのだろうか。/何度も指摘されたように、戦後ドイツは隣国の深く広汎な反独感情に対して「過去の克服」に全力を傾け半世紀に及んだ。類似の目的を達成するために保守党政権下の戦後日本は、半世紀を浪費した。今さら何をしようと半年や一年で事態が根本的に変わることはないだろう。/私は「反日デモ」がおこったことに少しも驚かなかった。もちろん何枚のガラスが割られるかを予想していたのではない。しかし日本側がその「歴史認識」に固執するかぎり、中国や韓国の大衆の対日不信感がいつか、何らかの形で爆発するのは、時間の問題だろうと考えていた。その考えは今も変わらない。アジアの人びとの反日感情と対日批判のいら立ちは、おそらく再び爆発するだろう。それは日本のみならず、アジア、殊に東北アジアにとっての大きな不幸である。私は私自身の判断が誤りであることを望む。」


加藤周一は1945年敗戦を迎えた時25才で、東大医学部の学生であった。戦争には少年時代からずっと反対であり、当然のことながら少数者の孤立感のなかにいたようだが、学生時代には強硬な戦争批判者であった文学部の渡辺一夫や神田盾夫といった教師の存在が支えになっていたそうである。著書『羊の歌』では、渡辺一夫について、「天から降ってきたような渡辺助教授」という表現がされている。

ちなみに、その当時東大文学部の助手をしていた日高六郎は、戦争に対する当時の文学部内部の実態について『映画日本国憲法読本』(フォイル・2004年)のなかで次のように話している。

「文学部のなかで、長い戦争に対して疑問をもつ、あるいは反対だということをはっきりとした姿勢で考えていた人は教員80人近くいたと思いますが、ふたりだけ。渡辺一夫先生と、それから言語学科の神田先生。そのふたりは、はっきりと戦争全体に反対。ぼくも、そうですけれどね。あとは、いわゆる日支事変段階ではね「この戦争は一体どこまで泥沼に入ってしまうのか」と懸念をもっている人はいくらかいた。しかし日米戦争で空気はがらっと変わります。ハワイ真珠湾攻撃の日に、たまたま大学へ行ったんです。ある研究室のドアからね、教授、助教授の興奮した声が聞こえました。戦争の性格が変わった、この戦争はアジアの植民地解放戦争なんだ、これで戦争目的ははっきりしたと。そういう声が聞こえてきた。なるほど、これがこれからの日本政府の宣伝のポイントになるだろうという感じを受けました。/僕はアジアの植民地解放のためというスローガンを出すならば、なぜ朝鮮と台湾の問題に触れないのか。朝鮮の自主独立を許す、台湾を中国へ返すということを、日米戦争が始まったときにすぐに宣言していたら、アジアの解放もいいですよ。しかし、自分の植民地はそのままにしておいて、これはアジア解放戦争だと言っても通用しませんよ。」

実は昨年春頃から加藤周一の著作集を読み始めていた。時たま、その著作を図書館で借りて読んでみるといつも大変おもしろい。どの文章にも、感嘆したり、よく理解できないながらも興味深かったり、教えられる箇所が必ずといっていいほどある(もちろん肯けない観方もあるが、それは別人である以上、当然のことだろう)。できればまとめて手元に置いておきたいと思っていたところ、ある古本屋さんで平凡社からでている16巻本を、うち欠本が一冊あるという理由でとても安く買うことができ、こつこつと読んでいたところでの訃報であった。

私がこれまで読んだのは著作集(購入した16巻本の後、つづいて24巻までが出版されている)のほんの一部に過ぎないのだが、そのせまいわずかな読書経験から感じたことを書いてみたい。まず、加藤周一の博学はものすごくて、無知無学の私などは驚嘆し圧倒される。が、加藤周一自身は、広い知識を持つことはそれ自体に何ら意味があるのではない、知識は何のために必要とされるのかということを著作でよく表現し、証明しているように思った。日本の古来からの歴史、その時々の日本と中国や朝鮮との関係、明治以後の日本と西欧との関係、それらの多岐にわたり複雑な問題を、文学(この範囲が広くて加藤周一は鎌倉仏教までをも文学の範疇にいれている)を中心とした芸術作品を通してできる限り正確に観察し、そのなかに分け入って深く分析し、明瞭にしようと努めた形跡が著作集からよく見てとれるように思ったし、その試みは現実に相当高い水準で成功しているのではないだろうか。

日本の近・現代の文学者に関する評論もとても興味深かった。特に、森鴎外、夏目漱石、永井荷風に関する批評がおもしろい。夏目漱石についての『漱石に於ける現実 ――殊に『明暗』に就いて――』は1948年に書かれたものだが、1978年刊行の著作集の[追記]には、「少なくとも小説について、私の意見の要点はここに尽きる。すなわち漱石の最高の小説を『明暗』とすること、その理由は何かということである。」と記されているが、加藤周一は、漱石のなかに「教養の豊富さ」や「知性人たるの本質」を見るのは、誤りだと述べている。

「文壇の知性も教養も、明治以来、日本の一流の水準に達したことはない。例外は、おそらく、鴎外の知性と露伴の教養とであり、又それのみであった。彼等だけが、「学殖なきを憂へない。」と豪語することが出来たし、又豪語に値することが出来たのである。漱石は決してそうではない。又私見によれば、そうである必要もない。」

上の文章で、加藤周一が近代文学史上「鴎外の知性」と共に、「露伴の教養」を別格扱いしているのは、まったく卓見だと思う。私は以前図書館で露伴の全集を少し眺めてみたことがあるのだが、中国古典について述べている露伴の知識の範囲や一個の漢字(この漢字がまたそれまで見たこともないもので、たとえば「漢」という字に例をとると、これを十倍にしたほど画数の多い字であった。ただその大がかりな字が見たものを惹きつける風格、美的力を持っているように感じられたこともつけ加えておきたい。)についての物凄い考証研究ぶりに仰天し、読んでみようにも手も足もでず、すごすごと引き返したことがある。自身もすばらしい小説家である娘の幸田文が晩年にいたっても自分の存在を「露伴の娘」ということに限定しているかのような話し方をしていたのは、実際に少し露伴の書いたものを眺めてみると、文の言葉はそう言わないではいられない実感に支えられていたのであったろうと納得させられるのだった。自分も勉強家である大岡昇平は、全集収録の「明治・大正の作家たち」において「露伴の生涯と作品は、多くの驚異を蔵し、/その文筆活動は小説、詩、歴史、評論、考証随筆に及び、その広さ、豊かさにおいて、鴎外、漱石がわずかに比肩する。/その41巻の全集を理解する人は、ますます数少なく、史前世界の巨獣のような、わけのわからぬ活力と原理を持っていることが、漠然と想像されるだけである。この特異な人物の真価が十分に解明されるには、長い歳月が必要であろう、あるいはその機会はもはやないということが考えられるのである。」と述べている。露伴全集の2、3冊を前にして私はまさしくその本が「わけのわからぬ活力と原理を持っていること」を、「漠然と想像」しただけであった。(露伴に関心のある人には、塩谷賛著「幸田露伴」をお勧めしたい。)

さて、知性や教養に漱石の価値の根拠がないとすれば、ではどこに真骨頂があると加藤周一が考えているのかというと、

「『こゝろ』は、他に例を見ない失敗であった。この小説家だけが、自らの知性をためし、その限界によって、失敗し、その限界を超える可能性を知ったのである。従って、漱石の知性は、その成功のために必要な前提であったが、真の文学的価値を決定する作品は、小説家の「知性人たる本質」に根ざすよりも、知性人たらざる本質に根ざす。/『猫』は今日読む能わず、『こゝろ』は読み得るかもしれないが、我々の文学世界に何らの新しい現実を加えていない。新しい現実は、『明暗』のなかにある。」

と、漱石は「『明暗』によって、又『明暗』によってのみ、不朽である」と言うのである。そして上記のように、『明暗』は、漱石の「知性人たる本質」によってではなく、「知性人たらざる本質」によって生み出されたのだと述べ、それでこそ、その他のすべての小説が達し得なかった、今日なお新しい現実、人間の情念の変らぬ現実に達し得たのだという。また創造のからくりのなかに潜むデモーニッシュな力の大きな役割を述べて、「そのデーモンは、『明暗』の作者を、捉えたのであり、生涯に一度ただその時にのみ捉えたのである。それが修繕時の大患にはじまったか、何にはじまったか、私は知らない。確実なのは、小説の世界が今日なお新しい現実を我々に示すということであり、それに較べれば、知的な漱石の数々の試みなどは何ものでもないということである。」とも記している。

加藤周一がいかに高く『明暗』を買っているかがよく分かる文章であるが、彼は、漱石の内部には強烈に表現と認識をもとめているものが確実に存在し、この『明暗』によってそれを見事に実現しえた、とも述べている。作品のどこにそれが認められるかというと、まず登場人物の微妙な心の動きを執拗なほどに正確に捉える文体に見ている。『明暗』は、作者の鋭い観察と、論理的な分析の鮮やかな協力によって、明治大正の文学史に無双の心理小説だというのだが、しかしそれだけではない。観察に加えて、作者漱石がもったにちがいないはずの内的体験ということを強調している。

「我々の憎悪や愛情やその他もろもろの情念は、しばしば極端に到り、爆発的に意識をかき乱し、ながく注意され、ながく論理的に追求されれば、意識の底からは奇怪なさまざまの物が現れるであろう。我々の日常生活にそういうことが少ないのは、我々の習慣が危険なものを避け、深淵が口を開いても、その底を見極めようとはしないからである。しかし、その底に、我々の行動を決定する現実があり、日常的意識の奥に、我々を支配する愛憎や不安や希望がある。それは、日常的生の表面に多様な形をとって現れるが、その多様な現象の背後に、常に変らざる本質があり、プラトン風に言えば、影なる現象世界の背後に、観念なる実在がなければならない。観念的なものは現実的であり得るし、むしろ観念的なもののみが現実的であり得る。なぜなら、それが、小説家に、深く体験され、動かしがたく確実に直感されたものであるからだ。」

漱石は、上記の「深く体験され、動かしがたく確実に直感された」内的体験を『明暗』によって現実的なものとして恐ろしいばかりに見事に表現しえたのだが、このことはその観察がどんなに鋭く正確でもそれのみでは実現不可能であり、「内的体験」の存在こそがそれを可能にしたということを加藤周一は指摘しているのだと思われる。私は『道草』もとても好きだが、しかし『明暗』を漱石の小説の最高傑作とする加藤説に賛同する。『明暗』では、人間の心理が息苦しいほど鋭く正確に捉えられ、緊密な文体で十全に表現されているように私も感じる。何度か読んだけれども、そのたびにどうして漱石はこれほどまでの心理洞察力を持ち得たのだろうと不思議な気さえするので、加藤周一のこの文章は大変示唆にみちていて興味深かった。ただ、上記の文章のなかで「観念的なものは現実的であり得る」という部分までは理解できるように思うのだが、「むしろ観念的なもののみが現実的であり得る。なぜなら、それが、小説家に、深く体験され、動かしがたく確実に直感されたものであるからだ。」という見解が、観念的でないせいだろう、私はちゃんと消化できない。どなたか教えてくださる方がいれば、ぜひご教示ください。

森鴎外、永井荷風についての評論も独創的で、興味のつきないおもしろさがあると思う。これらについては今日は詳述できないが、加藤周一はその人間や生き方への評価とは区別して(荷風については「惨たる生涯」とも述べている)、この二人の文章を格別に高く評価しているようである。それは、たとえば、「外国文学のうけとり方と戦後」という文章のなかの「文章の変化」の項目の一節にも読み取れると思う。

「明治以後の日本文へ欧文が及した影響は、漢文の影響の最大なるときに、最大であった。すなわち鴎外であり、その次に荷風である。また漢文の影響の最小なるときに、最小であった。すなわち昭和期殊に戦後の諸家である。/日本文が漢文の影響を脱するに従って、欧文の影響をうけるようになったというのは、俗説にすぎない。むしろ逆に、漢文の影響と欧文の影響とは平行し、時と共に減じてきたのだ。/散文の場合には、外国の小説の影響がそれほど破壊的ではなかったかもしれない。しかし翻訳小説は沢山あらわれた。したがって翻訳の文章の大部分は、もはや鴎外訳の場合とはまるで性質の違うものであった。そういう翻訳小説をよむことによってえられるだろう信念の一つは、疑いもなく、小説の文章は週刊雑誌の記事と本来ちがわぬものだということ以外ではないだろう。少くとも荷風はそうは考えていなかった。しかし戦後の小説家の多くはそう考えているらしい。」

永井荷風の文章が並外れて立派である(美しいといったほうがいいかも知れない)ことは私も深く実感したことがあった。私は印刷物の版下を作る仕事を細々とやっているのだが、10数年前のこと、ある時、雑誌(多分、『三田文学』だったと思う)に載せるので、荷風を論じた300枚ほどの手書きの原稿をパソコンに入力してほしいという仕事をうけた。当然のことなのだろうが、そこには荷風の文章が数多く引用されていた。入力してみると、その文章のすばらしいこと! 特に時代が進めば進むほどに、荷風の文章は洗練され、品位をまし、特に「下谷叢話」の場合は、キーをうつ手元から感覚のなかに優美で品格にみちた言葉がひとつながりになって流れ入るようであった。それは読むだけでは実感できないことであったが、このような経験は初めてであり、その後もない。こういう個人的な経験を絶対視するわけではないが、それでも上記の加藤周一の批評はおそらくほぼすべて的を射ているのではないかと思う。この文章は、1960年に書かれたものだが、それにしても、加藤周一の日本の現代文学に対する観方はきびしい。この後、年ごとにさらにきびしくなっていくのは察知できることだが、実はしだいに現状の日本文学についての発言は少なくなっていったように思う。「外国文学のうけとり方と戦後」は次の文章で終わっている。

「文学は思想である。思想はまた感覚から出発するものである。外国文学のうけとり方を正面から問題にするとすれば、思想をとおして感覚にまで到らなければならない。私は外国の思想の影響は、明治以来の日本文学に浅かったといったが、その理由は、第一、当方の社会そのものの含む問題が別のところにあったからであり(管理人注:キリスト教および近代の人権宣言の影響下にある西洋の文学は、天皇制下の日本文化とでは根本的な条件の違いがあった、など)、第二、外国の思想を支える感覚的体験の質が無視されていたからである。第一の点について、戦後におこった変化を、私はすでに述べた(管理人注:天皇制下で社会・生活環境が根本的に異なるなかで西欧の文学を受容した戦前と、彼我の違いが不分明になりむしろ相互に共通点が多いことを前提にして西欧文学を受け入れた戦後。その根本的な違い)。第二の点についても、戦後に大きな変化がおこったであろうか。しかし第一の点は、社会の全体の問題であり、第二の点は、外国文学と接触するその人の個人の問題である。私は後者の点については、戦後の劃期的な成果を、森有正『流れのほとりにて』にみたいと思う。なぜこの本は広くよまれなかったか。劃期的だからである。なぜこの本は劃期的であるか。西洋思想の感覚的基礎をみきわめようとする自覚的な努力を、綿密に記録した例は、開国以来今日に到るまでにまだ一度もなかったからである。同じような努力がなかったわけではない。そういう努力はあった。たとえば鴎外にもあったが、荷風にもあった。しかしこれほど自覚的な努力は多分なかったし、その過程のこれほど綿密な記録もなかったのである。今後外国文学のうけとり方を問題にするときには、どうしてもこの本を通らざるをえないであろう。そうしなければ、どれほどもっともらしい談義をしても、それがこの本のまえで軽薄にひびくことを免れるわけにゆくまい。ヴェネツィアの古い石が自分の感覚とならなければ、フォースターの思想のすべては空文にすぎないということだ。/しかし外国文学はうけとる必要のあるものだろうか。おそらくその必要はあるまい。しかしおそらくそうせざるをえまいと私は考えている。」

この文の[追記]では、本居宣長は自由自在に「漢文」を書くことができたからこそ、無理をしてまでやまとことばで押し通そうとしたことが述べられ、「中国文学の影響は、18世紀の日本に宣長を生んだ。西洋語で書くという習慣がなくて、西洋文学の影響は、20世紀の日本に日本文のなかで外来語を用いることを好む多数の文筆家を生んだ」と記されている。そうすると、「外国文学はうけとる必要はあるまい」、これは皮肉なのだろうか?

加藤周一は成人後の人生の半分をヨーロッパやアジア諸国の大学で教員として生きてきたようで、特にヨーロッパ生活が長かったそうだが、私の知る範囲では、日本文学と欧米文学以外の、たとえばロシア文学やアジアの文学については述べていないように思う。しかし、たとえば、もし亀山郁夫氏のドストエフスキー翻訳本を読んだら何と思うだろう。絶句するのではないかと思われるが、それとももはやあきらめの境地にいただろうか。

最後に、加藤周一著作集の「月報」に大岡昇平が寄せている「加藤さんの印象」という一文を引用して終わりにしたい。この短文にはそっけないようでいてよい味わいがあると思うのだが、上記の加藤周一の文章で取り上げられている、またブログ「こころなきみにも」の萩原氏がよく敬意をこめて触れておられる森有正がでてくる。それぞれがまだ若かったころのパリにおける一挿話だが、大岡昇平によると加藤周一と森有正は当時印象がよく似ていたとのことである。

「 私は復員して1948年まで、明石の疎開先を動けなかったので、『1946・文学的考察』や『マチネ・ポエティク詩集』など、敗戦直後の加藤さんの活躍は知らない。はじめてお眼にかかったのは、1954年、パリにおいてである。彼は当時、医者としてソルポンヌに留学中だった。やはりパリ在住の森有正さんに紹介されたと思う。パリのどこにお住いだったか。私はサン・ミシェル通りがリュクサンブール公園にぶつかるあたりの、リュ・ロアイエ・コラールという横丁の安ホテルにいた。森さんはそれよりもう少し南の、アべ・ド・レペという横丁の、たしか「オテル・ド・フランス」にいた。名前が大きくいかめしくなれば、それだけ汚なくなるのは日本とは反対で、森さんはそういう安ホテルに下宿して、ソルボンヌに提出するのだとかいう、パスカルに関する厖大な未整理原稿をかかえていた。それは見せてもらえなかったが、フランス文化を理解するためには、フランス人と同じくらいその伝統に沈潜しなければならない、という意見で、フランスの田舎をこまめに廻っていた。/私はそれはとてもできない相談だから、いい加減にして、東京の教壇に復帰することをすすめてみたが、てんで受け付けて貰えなかった。しかし私はそういう森さんの頑固さ、30歳を越えても自分の思想形成のために、清貧に甘んずる態度を、尊敬した。彼のパスカル研究はその後どうなったか知らないが、1957年からその滞仏記録『バビロンの流れのほとりにて』などを日本で発表しはじめた。独自の体験の哲学を打ち立てた。/森さんのことばかり書くようだが、当時、私が加藤さんから受けた印象は、極めて森さんに似ていたからである。/加藤さん、森さんから、私の学んだことは、へんに身なりを飾らないこと、余分の金を稼ごうとしないことである。外国語をやること、教養を大事にすること――これは戦争のため欧米との文化的格差がひどくなっていた1954年頃では、不可欠なことであったが、そこに金持へこびる、成上り者みたいな生活態度が加わると、鼻持ちならなくなる。知識人は貧乏でなければならない――これが加藤さんから学んだ第一の教訓である。/加藤さんは1957年に『雑種文化』を出した。森さんと同じ講談社の「ミリオン・ブックス」だったのは、変な縁だが、加藤さんの方が少し先だったはずである。これは帰国してから書いたものだが、外国滞在の成果であることは共通している。
 「私は西洋見物の途中で日本文化のことを考え、日本人は西洋のことを研究するよりも日本のことを研究し、その研究から仕事をすすめていった方が学問芸術の上で生産的になるだろうと考えた」「ところが日本へかえってきてみて、日本的なものは他のアジアの諸国とのちがい、つまり日本の西洋化が深いところへ入っているという事実そのものにももとめなければならないと考えるようになった」。
 その結果、加藤さんは日本文化を「雑種文化」と規定した。このあまりに有名になり、多くの人の手に渡って俗化してしまった概念が、以上のような体験と考察の末に出たものであることに注意を喚起しておきたい。」(大岡昇平)
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2009.12.04 Fri l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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