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ブログ「連絡船」の木下和郎氏が、「亀山郁夫氏に呼びかける」というタイトルで、「(亀山氏は)『悪霊』の翻訳にかかっているらしい。ついさっきネットでこの情報を読んで、声をあげてしまいました。最悪です。」、「『悪霊』翻訳は中止してください。/そうして、できるだけ早く謝罪と撤退をしてください。」と書かれていたのは、9月30日のことだった。直後に少しこの情報を探してみて見つけられなかったのだが、数日前、ようやくというべきだろうか、あるブログにその情報が載っているのを読んだ。もっとも、この記事が木下氏の読まれたネット情報と同一であるかどうかは分からない。私が見たのは、こちらのブログで、この方は亀山氏出演の深夜のラジオ番組をタイマー予約しておき、それを翌日聴いたのだという。

「亀山先生は、今「悪霊」を翻訳しているという。そして、「タイトルを『悪魔』とか『悪鬼』とかに変えて読者にはげしく迫ってみようと思う」という爆弾発言があった。」

テレビやラジオの音声には、聞き違いということが起きがちだ。言葉の意味の聞き誤りもあるし、ニュアンスの受け止め方の違いということもある。しかし、記事によると、ブログ主の方は「3回くらい繰り返して聴いてしまった」ということだから、上記の発言は正しく亀山氏が述べたものと受け止めていいのではないかと思う。そう判断し、この発言から感じたことを述べてみる。

「タイトルを『悪魔』とか『悪鬼』とかに変え」るという亀山氏の発言が本気なのかどうかは分からない。もしかすると冗談なのかも知れないが、しかし公的な場所での発言なのだから、本気と受け止めることにする。『悪霊』の原題は「Бесы」らしいが、これがロシア語で正確にどのような意味をもっているのか、ロシア語の分からない私には判断がつかないところだが、それでも日本語で考えると、悪霊、悪魔、悪鬼、はそれぞれの単語が持っている意味が異なるのは明らかなように思う。題名に『霊』という字が入るのと入らないのでは大変な相違があるのではないだろうか。日本文学史上広く世に知れ渡ったこのタイトルの変更を口にする亀山氏はそのことについてこれまでにどれだけ掘り下げた多面的な考察をしたのだろうか。

また、タイトルを変えて「読者にはげしく迫ってみようと思う」という発言はまったくいただけないと思う。亀山氏は『悪霊』がドストエフスキーの作品であること、翻訳者の使命は原作者とはまったく異なることをどれだけ自覚しているのだろうと思った。亀山氏のこの言葉に品位がないと感じられたのは、おそらくそのことについての亀山氏の認識が疑われる、もっというと発言にドストエフスキーおよび原作をないがしろにしている印象すら漂っているからではないだろうか。

ドイツのある作家が翻訳および翻訳家について述べた文章で、「翻訳の読者は原作を理解できない人々なのだろうか?」と書いているのを読んだことがあるが、これは、そうではあるまい、という意味をこめての記述だったに違いないと思っている。というのも、翻訳者の姿勢は本当にそうでなければならないだろうと想像できるからだ。この論理のとおりに、つまり翻訳者は読者が作品を理解できるという前提で翻訳をしなければならないのだとしたら、当然翻訳者が作品を一般の読者より高次元の水準で理解していることは当たり前のこと。こんなことは本来言うまでもない基本的なことに違いないのだが、でも情けないことに、率直にいって亀山氏には木下氏同様、私も読者としてこの点に疑念をおぼえる。

亀山訳の『カラマーゾフの兄弟』では、ホフラコーワ夫人、その娘リーザ、カテリーナ、グルーシェニカという4人の女性が、アリョーシャとの会話において自分の行動なり考えなりを説明するのに、全員揃って「私、○○したってわけ。」という普通めったに聞くことのない大変特異な話し方をしていた。これらの女性たちは『カラマーゾフの兄弟』の登場人物のなかで一人として欠くことのできない重要な人物ばかりであり、言うまでもなくそれぞれに個性的な性格の持ち主である。年代も10代、20代、40代とそれぞれに異なる。小説の場合、登場人物の物の言い方、言葉遣いは、行動と同じようにその人の性格や個性を表わす最重要要素のはずである。逆方向から言うと、読者は、作者によって描き分けられたそれぞれの人物の物の言い方によってその性格や個性や人生を理解していくのだ。だからこれは物語の筋や進行ともふかく関わっているはずである。亀山氏の訳本で、4人の女性全員が「私、○○したってわけ。」という物の言い方をしているということは、亀山氏は一人ひとりの人物像を個別に把握し切らないままに『カラマーゾフの兄弟』を訳したと判断されても仕方のないことだと思う。

亀山氏の『カラマーゾフの兄弟』訳は誤訳・不適切訳が多数指摘されているが、私が最も驚き、かつ、その後もふと頭に浮かんできて、いまさらのように呆れてしまうのは、上記の件であった。その上に伝聞の形で知ったことではあるが、今回の発言である。『悪霊』についていうと、亀山氏は翻訳より前に、この困難な作品(私自身はこの作品をちゃんと理解しているという自信がない。だからこそ翻訳者にはいっそう信頼のおける訳をしてほしい、そうでなければ困るという気持ちがある)を正確に読みこなす力があるのかどうか、どうしても疑問を感じてしまうのは、これではやむをえないのではないだろうか。
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2009.12.08 Tue l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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