QLOOKアクセス解析
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top
明けましておめでとうございます。昨年は、拙文を読んでくださり、ありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願いします。

お正月でもあることだし、たまには何か楽しいことを書きたいと思いつつ、残念ながらあまり思い浮かばないのが現状で、下記の文章も楽しい話とは言いがたいと思いますが…。

もうだいぶ昔の話です。図書館の棚の前で何気なく一冊の本をとりだしてパラパラめくっていたところ、ふとこんな文字が目に入りました。「その人のことを思い出すと、いつでも心が明るくなり、思わず口もとに笑みが浮かび上がってくるというような存在の人がいる。」
これは記憶で書きました。決して正確な写しではありません。何しろその時一読したきりであり、ついでにいうと、この本の作者名も私はいつの間にか忘れてしまって、記憶していないのです。が、これを読んだ時は、何かしら興味を惹かれ、ちょっと推理しました。さて誰のことだろう。恋人? そんなことを漠然と思ったのですが、つづきを読むと、答はなんと「神」だったのです。私は心底驚いてしまいました。神様、というと厳めしい裁き手のごとき存在としかその時まで感じとることができていませんでしたから。きっと無意識のうちに自分をよほど罪ある人間、救われない悪人と感じていて、心の底では罰があたらないかと常々ビクビクしていたのかも知れません。

それでも、これは後々じわじわと感じたことなのですが、この文を読んだ(知った)ことは私にはとてもよい経験でした(著者はもしかするとキルケゴールだったかも知れません)。神様をそのようにうけとめる余地があるということを知ったこと自体がとても心やすまることで、嬉しい気持ちがしたものです。実際にそれ以後はそれまでに較べると格段に楽な気持ちで、少なくとも怯えることなく、神についての人の話を聞いたり、読んだり、少しは考えたり、感じたりすることができるようになった気がします。不思議なことですが。 たとえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』という小説などは、読んでいると、それも時によることではありますが、上の言葉がじつは真理かも知れないと感じさせてくれるようにも思います。

それにしても、「その人のことを思い出すと、思わず口もとに笑みが浮かんでくる」と書いてあるのを読んで、「恋人」を思い浮かべるということは、「恋愛」についての考えがまったく足りなかったと思います。大抵の場合、「恋愛」はおそらくそういう性質の感情ではありませんね。多かれ少なかれ力に余る激情を伴うもので、明るい気持ちになったり、笑みがうかんでくるというような平安・静謐な感情とはほど遠いというのが本質ではないかと思います。それでその後、「思い出すと思わず笑みが浮かぶ」というような存在の人物、あるいはその人物にまつわっての出来事が自分にもあるだろうか、あるとしたら何だろう。おりにふれてあれこれ思いをめぐらしてみました。

たとえば、わが子が赤ん坊の時、または4歳頃までの幼児だった時期には、上の文章がそっくり該当するようなことがずいぶんあったような気がします。それから自分自身の子どもの頃を思い出すと、やはりそういう存在をもっていましたね。プロ野球の長嶋茂雄選手。正確にいうと、長嶋選手のプレイですね。走塁、守備、打撃といろんな場面を頭のなかにたくさん蓄えていて、好きなときに好きな場面を呼び寄せては(というより勝手に浮かんでくるのですが)、うっとりしたり、気持ちが活気づけられたり、伸びやかな、豊かな感情を味わったりしていたような気がします。今、日本プロ野球はもとより、大リーグのどんな選手のプレイに対しても、いま一つ物足りなさを感じてしまう(無意識のうちにあれ以上のプレイがあるはずがないとハナから思い込んでいるのかも知れません)というのは、長嶋選手の数々の記憶がこれ以上はないほど完璧な姿で頭に焼きついているためなのでしょう。さて、現在ですが、散歩している時などに思い出すと、思わず気持ちが明るくなるようなものがあるかといえば、「赤と黒」の作者として知られるスタンダール、そしてスタンダールの自伝である「アンリ・ブリュラールの生涯」のなかのいくつかの文章はそう言えそうです。

スタンダールは生前まったく売れない作家でした。たとえば「恋愛論」は10年間で10数冊しか売れなかったそうで、スタンダールが売れ行きを問い合わせると、本屋は「あの作品は聖別されているのでしょう。だれも手に触れようとしません」と返答してきたということがスタンダールの原稿の端っこに記されていたそうです。「赤と黒」も「パルムの僧院」もほとんど誰にも読まれませんでした。「アンリ・ブリュラールの生涯」は当分刊行する予定も意思もないままに半ば退屈しのぎに書かれたもので(とはいっても、スタンダールは50年後、80年後の読者との邂逅を本のなかで約束していますが)、それだけにこの本には、スタンダールの性格や思想が何の飾りもなく素朴に率直にあらわれていて、飽きることのない尽きぬ味わいがあるような気がします。たとえば、こんな場面は何度読んでもおもしろいと思うし、好きな箇所なので下記に2点引用しておきます。未読の方には、ある種のおもしろさを感じていただけるかも知れません。(「キュブリー嬢」とはスタンダールが12、13歳の頃、彼が住むグルノーブルに公演にやってきた劇団の、喜劇を演じ、歌う若い女優のこと)

「 私は、一時間前から、書くことに、キュブリー嬢のころの自分の印象を正確に描こうとつとめることに大いに喜びを感じているようだ。しかし、いったい誰が私とか我とかをやたらにつめこんだこんな書きものを読む勇気をもつだろうか? 自分自身にも鼻につく。こういうのがこの種の書きものの欠点で、それにこういうつまらぬ書きものに、山師的な味つけソースをかけて供するすべを私は知らない。つけくわえていいだろうか? ルソーの『告白』のように、だ。いやいけない。いくらそういう非難が馬鹿ばかしくても、人は私が羨望しているか、それともこの大作家の傑作と自分との非合理でばかばかしい比較をこころみようとするのだ、と考えるだろう。
 私は改めて、もういちどだけ、抗議しておく。私はペリゼ、サルヴァンディ、サンマルク・ジラルダンのような『討論』紙おかかえの偽善的衒学者を、心から、最高度に、軽蔑している。しかし、だからといって、自分を大作家に近いなどとは信じてはいない、ということだ。私が自分にすぐれた才能があると認めているのは、ある瞬間瞬間に非常に明らかに自分に見える自然をよく似ているように描くこと。第二に、真実にたいして私は完全な誠意と尊敬の念をもっていること。第三には、書く喜びということ。ミラノのジャルディーノ通りのペロンティ氏の家で1817年に狂気に達するほどの喜びを、もったことである。」

「 だが、キュブリー嬢のことにもどろう。そのころは、なんと私は欲望から遠かったことだろう。そして、欲望で非難されることを恐れる気になったり、どんなやりかたであろうと他人のことを考えたりすることからいかに遠かったことか! 私のために人生ははじまりかけていたところだった。
 この世にただ一人の人しかいなかった、キュブリー嬢。ただ一つの出来事しかなかった、彼女はその晩舞台に出るだろうか、それとも翌日なのか?
 彼女が出ずに、出しものが悲劇だったときの、なんという失望!
 広告に彼女の名を読んだときの、純粋で、やさしい、勝ちほこったような恍惚感はどうだったか! 私の目には、まだあの広告が見える。その形、その紙、その文字。
 この広告の出ている三、四カ所へ、このいとしい名をつづけさまに、私は読みに行った。ジャコバン門のところ、公園のアーケード、祖父の家のそばの町角。私は、ただ名を読むだけでなしに、その広告全部を何度も読む喜びを味わうのだった。この広告をつくった悪い印刷屋のすこし磨滅した活字が私には愛しいもの、神聖なものになった。そして、長い年月のあいだ、私はもっとも美しい活字よりそれをもっと好きだった。
 つぎのようなことさえ、私は思い出す。1799年11月にパリに到着したとき、活字の美しさが私には不愉快だった。キュブリーの名を印刷してあったような活字ではなかったから。

彼女は出発した。それがいつごろか、私には言うことができない。長いあいだ、私は二度と劇場へは行けなかった。……」(岩波文庫・桑原武夫・生島遼一訳)

「真実にたいして私は完全な誠意と尊敬の念をもっている」というスタンダールの言葉について、大岡昇平は、「このような姿勢を持ち続けていれば、人はそう大きく誤った方向には行かないことが分かる」というような趣旨のことをスタンダールに関して述べていますが、私もこの考えに全面的に賛成です。最初に述べた「神」とは何ら関係のない話になってしまいましたが、どうぞお許しを。
関連記事
スポンサーサイト
2010.01.01 Fri l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top

コメント

コメントの投稿












トラックバック

トラックバック URL
http://yokoita.blog58.fc2.com/tb.php/41-69c9a6a3
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。