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昨年(2009年)は、1949年(昭和24年)に発生した松川事件から60年が経過した年で、10月17日と18日の二日間にわたり福島大学で「松川事件60周年記念全国集会」が開催されたそうである。報告文を読ませていただくと、1200名という多数の参加者があったそうだが、松川国鉄労組10名、東芝松川労組10名の元被告人20名のうち、東芝関係の元被告はすでに全員他界、国労のほうは2名の方が亡くなり、集会には5名が出席されたとのことである。十数年の長い裁判の全過程において東芝労組の杉浦三郎氏とともに被告団の中心的役割を担われた国労側の鈴木信氏は集会で矍鑠として挨拶をされたとのことである。もう89歳になられたとのことだが、気力にあふれた発言内容に驚きと敬意をいだかされる。20世紀が終了する時期だったと思うが、鈴木氏は同じく元被告の阿部市次氏とともに新聞社の取材に応じ、今このような時代になっているけれども、私たちは人々の深部にあるものは変化していないと何の疑いもなく信じている、という趣旨のことを語っているのを読んだことがある。岡林辰夫弁護士とともに事件発生の直後から一貫して弁護人を務めつづけた大塚一男弁護士は、松川裁判の無罪獲得運動について、著書のなかで「60年安保、三池闘争とともに日本の偉大な三大運動の一つ」と述べ、また「偉大な松川の運動」という表現を何度も記されているが、鈴木氏が新聞で語っていた「私たちは人々の深部にあるものは変化していないと信じている」という発言はそのような闘いを経験している人だからこその本心からの言葉だと感じたものであった。「60周年記念全国集会」では、鈴木氏は下記のように語っておられる。

「これだけ無罪を示す証拠がそろっているのだから自分は無罪になるに違いないという甘い考えを持っていた。当時、増田甲子七・官房長官が『この事件は、思想的には下山・三鷹事件と同じ。日本の国を存続させるために多少の犠牲はやむを得ない』と公言していた。私は国民のひとりとしてこの事件の真相を究明しなければならない。自分の一生の問題として今後も闘い抜く」

当時の増田甲子七官房長官が「多少の犠牲はやむを得ない」とまで述べていたとは初めて聞くことである。しかし、この官房長官が遠い松川で列車転覆が起った8月17日の翌日に、記者会見の席で下記のように語ったことは紛れもない事実である。

「今回の事件は今までにない凶悪犯罪であり、三鷹事件をはじめ、その他の各種事件と思想的底流に於いては同じものである。」

下山事件が発生したのは同年の7月5日(下山国鉄総裁が行方不明になった日。翌6日朝、常磐線五反野付近の線路上に轢死体となって発見される)、三鷹事件は7月13日、これにつづいて起きたのが8月17日早朝の金谷川・松川間での列車転覆事件であった。当時、定員法による国鉄労働者の大量馘首が始まり、国鉄労組が馘首反対闘争に立ち上がっていたことは事件を見るうえで必ず抑えておかなければならない重要な事実だと思われる。3、4年前から始められたという俳句に鈴木氏が「広津文乾いた喉に滲みわたり」と詠んでいる、松川事件と裁判の実態を広く世に報せ、20人の無罪獲得に大きな貢献をした作家の広津和郎は、「中央公論」連載の『松川裁判』で、上述した3つの大事件が発生する前に、新聞にさりげなくしかし断続して列車妨害の記事が載っていたことを印象ぶかく記している。

「昭和24年(1949年)という年は、この国はまだアメリカの占領下にあった頃であったが、鉄道関係で大小いろいろな事件が起った。6月中旬頃から、全国の諸所方々で、線路に石や材木が載せてあったとか、信号機が破壊されていたとか言ったような列車妨害の報道が、頻々として新聞に掲載され、国民の心に何とも知れない不安を与えていた。」

このような過程があったため、松川事件が発生した翌日の増田官房長官の談話にも、広津和郎は(広津和郎でさえ、というべきか)違和感をいだかなかったそうである。『松川裁判』のなかで次のように述べている。

「後になって考えれば、17日に事故が起った翌日の18日では、特に何かの予断を持たない限り、現場に於いてもまだ五里霧中で何者がかかる犯罪を行ったかその見当さえついていたはずがないし、したがって現場から261粁離れた東京の吉田内閣に、事故の真相が解るはずがないから、内閣の重要な地位にいる官房長官が、そういう談話を発表したという事が、如何に軽率で乱暴であるかという事に思い当たるが、当時に於いては、筆者なども迂闊に官房長官の談話を信じ、それを思想犯罪と思い込まされたものであった。それには6月半ば以来の列車妨害の新聞報道や、下山、三鷹と続いた事件についての宣伝が、いつかわれわれの心に、増田官房長官の談話をそのまま鵜呑みにするような下地を作っていたということが考えられる。

振り返って見ると、一カ月前の三鷹事件の時も、事件の翌日吉田首相が、「定員法による馘首がもたらした社会不安は、主として共産主義者の煽動による」という声明を発したものであった。」

松川事件の被告人が無実であることは裁判で完璧に証明され、20人全員が無罪を勝ち取ることができた。けれどもいまだに事件の真相は闇に隠されたままである。当時最高裁長官であった田中耕太郎は、裁判所内での訓示においてメディア上で健筆をふるう松川裁判の広津和郎や八海事件の正木ひろし弁護士らを指して(名指しはしなかったが、状況からみるとそう考えて間違いないと思われる)、「世間の雑音に耳を貸すな」と雑音呼ばわりしたり、松川事件の最高裁判決においては、高裁への差戻しを主張する多数派の裁判官らを「木を見て森を見ざるもの」と批判し、自らは上告棄却を強力に主張した。これまで田中長官については、資質的に反動的な裁判官だったのだろうと単純に考えていたが、よくよく増田官房長官や吉田首相の言動を見てみると、果たして単にそれだけのことだったのだろうかという気もする。田中耕太郎が最高裁長官に就任したのは昭和25年(1950年)だが、これは吉田茂首相時代のことであり、田中耕太郎自身、最高裁長官への推挙について「おそらく吉田茂氏の意向ではなかったかと思う。」と語っているのを私はどこかで読んだことがある。その時は「二人とも同じ程度に反共主義者だからだろう」と軽く思っただけだった。ところが、最高裁長官を退官後、田中耕太郎は、吉田茂元首相をノーベル平和賞に推挙する運動を小泉信三などとともに展開しているのである。私はこのことを、最近になって、「一体、吉田茂にノーベル平和賞をとは何事であろうか」と語気するどく批判している中野重治の文章を読んで知った。私は昔から松川裁判には関心をもっていて関連する本などは目につく範囲でずいぶん読み、啓発されることが大変多かったのだが、吉田茂と田中耕太郎との関係が直接的に頭に浮かんだのは今回が初めてだった。増田官房長官は吉田内閣の主要閣僚だということの意味は解っているつもりで、増田氏の談話の背後に吉田首相の存在を考えてはいたが、吉田内閣と最高裁長官とを結びつけて考えたことは今回が初めてである。

田中耕太郎が最高裁長官に推挙された理由や経過についてはもっと関心がもたれていいことなのかも知れない。いや、あるいは、事件の周辺の人々にとっては吉田茂と田中耕太郎の間柄に関するこのような関心というか、疑念は共通認識としてずっと存在していたのかも知れないとも思う。事件翌日の増田官房長官の談話についての広津和郎の叙述は上述したように「軽率」「乱暴」と記していて主観を抑えたさりげない書き方だが、事件から十数年を経ての1961年における中野重治の語調は大変厳しい。

「 しかし私は、そもそも列車転覆のあくる日、何で増田があんな発表をしたのだったか、それは今日の話として増田本人から聞きたいと思っていた。ついうっかり、あんなことを言ってしまった。つくづく後悔している。あるいは、あのときああ発表したのは、内閣官房長官として当然だった。今日かえりみて、何らやましいところはない。いずれにしろ、それを聞きたいとほんとに思うが増田はどうだろうか。理由を衆議院に出している、日本一教育程度の高いという長野県人の考えはどうであろうか。」(フィクションと真実)

中野重治とともに私も増田元官房長官に「列車転覆のあくる日、何であんな発表をしたのだったか」、今さらながらではあるがぜひ聞いてみたい。松川裁判闘争が裁判史上空前の盛り上がりをみせ、市民運動における「日本の偉大な三大運動のひとつ」と称せられるほどの闘争が展開されてなおその後の司法のあり方を変えることはできなかった。昨今の裁判の現状を見ていると私などもそのことを痛感させられるのだが、これは松川裁判のような大きな事件でもなお真相が明らかになっていないこと、でっち上げをなした側で責任をとった人間が皆無であることと無関係ではないだろうと思う。

国労側の謀議・実行の首謀者として、鈴木氏と同様、一審・二審ともに死刑判決をうけた本田昇氏は、今年の4月2日、毎日新聞夕刊の「裁判員制度」についてのインタビュー取材で次のように述べておられる。

「私は1949年に福島県で起こった「松川事件」で汽車転覆致死容疑で逮捕・起訴された20人の一人です。東北線金谷川~松川駅間でレールの継目板などが外され、列車が脱線転覆し、乗務員3人が死亡した事件で、当初から捜査当局は国鉄などの労働組合員を狙った見込み捜査を行い、一部の逮捕者に自白を強要しました。私は最後まで無罪を主張しましたが、1、2審は死刑判決。拘置所で近くの房の確定死刑囚に刑が執行され「自分もそうなるのか」と全身が震えました。/その後、作家の広津和郎先生が雑誌上で判決批判を展開したり、被告のアリバイを示す証拠を検察が隠していたことが報道されたことで、審理は差戻しとなり、無罪判決が確定。胸をなで下ろしましたが、拘束された23歳からの10年間は戻ってきません。/事件当時は米軍占領下で、今とは状況が違いますが、03年の鹿児島県議選をめぐって買収などで起訴された12人全員の無罪が確定した志布志事件をみても、捜査当局によるでっち上げのやり方は変わっていない。過去の過ちを総括し、捜査をもっと可視化するなどの対策が必要です。検察が不利な証拠を隠さない仕組みも重要。裁判員になる国民が当局の誤った判断にお墨付きを与える制度にならないよう願っています。」(「カウントダウン裁判員制度」施行まで49日)

上で本田氏が述べておられることを箇条書きにしてみると、

� 捜査当局によるでっち上げのやり方は変わっていない
� 過去の過ちを総括すること
� その上で可視化などの具体的な対策をとること
� 検察が不利な証拠を隠せない仕組みづくりの重要性
� 裁判員になる国民が当局の誤った判断にお墨付きを与える制度になりかねないとの懸念

いずれも重要な指摘ばかりであることは間違いない。�については、松川事件の場合、佐藤一被告のアリバイを証明する「諏訪メモ」が検察によって隠匿されていることが発覚したおかげでかろうじて最高裁による差戻し判決はなされたのだ。もしこれがそのまま隠し通されていたならば、と考えると寒気がする経過である。上述のとおり1・2審で死刑を判決されていた本田氏は、最高裁判決を迎えるにあたって、もし上告棄却の判決がでたならば、世を覆っている高い抗議の声を抑えるためにも自分たち4名(国労側の鈴木・本田、東芝側の杉浦・佐藤一、の各氏)に対しあるいは早期の死刑執行がなされるのではないかという悪夢が日夜脳裏を離れなかったと、後日手記のなかで述べていた。鈴木信氏も「死か生か日日ゼロ点に立つ死刑囚」という死刑を詠んだ俳句に添えて、次のように書かれている。「午前9時が近づくと確定死刑囚のいる獄舎は針を落としてもピリピリするほど静まりかえる。毎日生か死の瞬間を迎え、ある死刑囚は骨と皮だけになり「生ける屍」とはこの姿だと思った」。検察が自分たちに不利な証拠を隠せる仕組みが許されてきたということは、国家が不公正な裁判の温床を認めつづけてきた、今も現にそうしているということに他ならない。「埼玉愛犬家殺人事件」の風間博子さんの裁判経過を見ても、同様のことが平然と行われている。裁判を一歩でも健全なものにするには、誤りをおかしたこれまでの裁判の真相を公的に明らかにし、反省すべきことを深刻に真摯に反省し、それを具体的な対策に活かしていく地道なやり方以外にないだろうと思う。
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2010.01.08 Fri l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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