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中野重治は、自分自身について、「もともと私は一人の詩人である。ひとがどう思おうと自分でそう思っている。」(労働者階級の文化運動・1947年)と述べているが、これは中野重治に大層ぴったりとした自己定義(?)のように私には感じられる。残念なことに、私は詩の鑑賞力についてほんの微々たるものしかもっていないのだが、それでも中野重治の場合、詩のみならず散文を読んでいても「醇乎たる詩人」と感じることがよくある。石川淳は、太宰治の発言で印象に残っているのは、ある時太宰が「真善美っていうことやっぱりいいね」と言ったことだとどこかに書いていたが、中野重治にも(太宰治とは内容のまるで異なったイメージではあるが)「真善美」は本人に倫理観として明晰に意識されていたのではないかという気がする。小説、評論、雑文、どんな分野の文章でもそのことは感じられ、それが「詩人だなァ」と思うことにつながっているようである(人ごとのようだが)。そして、もう一つ。中野重治が他の詩人との交流や思い出について語るとき、その表情、言葉、動作の叙述をとおして、詩人の人格の一面が眼前に見るがごとくまざまざと感じられるのであるが、これは中野重治が自分も詩人だからこそ掴みえたことではないかと思える。三好達治について語った言葉にもその趣はあるが、萩原朔太郎の思い出を述べた文章を読むと、特にそう感じる。萩原朔太郎という詩人の人物像、そのきわ立った特徴について中野重治が述べているのは、朔太郎の「孤独」や「不器用さ」というようなことや、その他諸々のことも含まれてはいるが、つまるところ「人のよさ」ということに尽きるような気がする。この「人のよさ」というのは、「善良」であるということになると思うが、「人(柄)の美しさ」といってもいいように思う。朔太郎について述べた中野重治の文章を全集から抜粋して以下に3点掲載する。最初の文章には「人のよさの記憶」という題がついているが、どうも朔太郎は中野重治に注意されたり、叱られ(?)たりすることが往々にしてあったようなのである。朔太郎は1886年(明治19年)生まれ、重治は1902年生まれで、東京で二人が知り合った時は中野重治はまだ大学生、朔太郎は16歳年長でもあり、すでに「月に吠える」「青猫」の詩人として広く知られていた。

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① 人のよさの記憶
 わたしたちの知りあつたのは1925年ぐらいだつたろう。つまり今から25年以上まえのことである。それだから、萩原朔太郎ひとりのことではないが、全体としてその時分の人の持つていた人のよさということが、萩原朔太郎その人についても濃く思い出される。
 萩原朔太郎が、わたしを速達で呼びだして、どこかの牛肉屋のようなところへ連れて行って、二人で腰かけて一ぱい飲んでからふところから詩原稿を出してわたしに見せた。弟子が師匠に見せるのとはむろん違うが、まるで対等の人間にするようにして、いくらかはにかみながらそれをしたということをわたしは前に書いたが、そういうことが今でも世間にあるかどうかわたしは知らない。
 文学の世界、詩の世界で、どうもこのごろは、そんなことはありそうにないように見えるが彼にはそういうところがあつた。そのころでも、白秋というような人は、もともと無邪気なものではあつたが偉ぶることの好きな人だつたから、その点萩原朔太郎は当時としても反対のほうの人だつたと思う。
 この人のよさが、彼の場合は妙な具合にその議論好きに結びついていた。萩原朔太郎は理論的な人ではなかつた。むしろ非理論的な人だつたろうと思う。ところが、実地には、彼はよほど議論の好きな人で、理論的でなくつて議論することが好きなのだから、何か理論的なようなことを書けば必ず独断的になつた。これは、彼のアフォリズムなんかにもよく出ている。詩についての理論的著作なんかにもよく出ている。むかしの日本の恋愛の歌を論じたもの、蕪村を論じたものなんかにもよくあらわれている。
 理論的な追究をする人だからといつて、はじめから何の結論も予想されてないわけではない。そこに或る予感のようなものが、論理的な手続きをとびこえてあるのが普通のことだろう。インスピレーションというものも結局そんなようなものだろうと思う。そこでそれから、それに必要な材料が取りそろえられ、それらが一定の方式であんばいされ、正当な論理的手続きを経て結論へとみちびかれる。それだから、材料そのものの示すもののため、あるいは途中の論理の必然から、最初の予想とは反対のところへ結論が出てしまうこともあり得るわけである。しかし萩原朔太郎は、ほとんど必ず予感したところへ結論を持つて行つてしまつた。
 またそれが彼には完全に可能だつた。というのは、彼はそういう面倒なことをすべて無視して進んだからだつた。材料をあつめぬわけではない。しかし自分に気に入つた面からだけ材料をあつめている。論理をしりぞけるわけではない。しかし予感を的中させるに都合のいい面だけで論理を活躍させる。つまり彼は、理論をやる場合にも、全く非論理的で全く詩人的だつた。それだから、彼の理論的な仕事を学問としてみると一種マイナスの感じがくつついてくる。
 しかしまたそこに、一種の愛敬のようなものがあり、ことにその論理の勝手な処理が、何か自分の損得を考えてのことでないことが初手から明瞭だつたから、わが田へ利得のために水を引くものの醜さというものが微塵もなかつた。普通の人が直感として結論だけ言つておくところを、この人の議論好きはそれだけですますことができなかつた。どうしても何とか理窟をつけてみずにはいられない。それだから、この人の理論は、その進行の形、叙述の形が、一種の詩的詠嘆調を必然に取ることにもなつた。これは散文としての力感を弱めることにもなつたろうと思う。しかしそれでも、彼の非論理的な直観はなかなかに鋭くて、当時でも今でも結果として理論的にもおもしろいものがある。
 そういうわけだから、彼の理論や理論的解釈は、材料の上で、また論理の上で、たわいなくくつがえることもないではなかつた。彼の『恋愛名歌集』のなかにもそういうところがあつて、わたしがそのことを言うと彼がすつかり閉口して、その閉口の仕方がきつかつたのでわたしが閉口したことがあつた。一般に知識という点で彼に欠陥(?)があり、中国に関することなどでは彼の読むものにずいぶんムラがあるらしかつた。日本歴史のことなどについてもずいぶん無邪気で、まさか神武天皇が実在していたなどとは考えていなかつたようだつたが、『古事記』などのことを相当程度歴史的真実と取つているようなところがあつた。
 あるときわたしは、どういうときだつたか、室生犀星のところからの帰りだつたかも知れぬが、二人で歩いていて、どこかそば屋のようなところで一ばい飲んで歴史の話なんかをしたことがあつた。――何度かいつしょに飲み食いしたことを考えてみると、会とか個人の家でとかを除けば、いつもそういうそば屋みたいなところばかりで彼と会っている。わたしが場所をえらんだのでなかったから、彼がえらんでそういうところへはいったらしい。たぶん彼は、立派(?)な家やハイカラな家へははいり切らぬような性質だつたのだろうと思う。――そのとき彼がいろんな意見を述べたが、その意見は本や何かで読んだことと自分の気質とをむすびつけたもので、歴史的に真実でなかつたから、そのまま伸ばして行くと、彼の主観的に大きらいな俗流ブルジョアの見地を弁護することるなるのだつたけれども、そんなことと全く気がつかずにしきりに彼はそれを主張した。それでわたしはそのことを言つた。すると彼は、ぼくは何しろそんなことでは無知だからというようなことを言っていたが、そのあとで、そのことをわたしのほうで忘れたころになつて、いつかは君に叱られたがというような手紙が来て、叱られうんぬんは大げさすぎるとしても、何かそんなことがあつたかどうか考えてみて思いあたるふしがない、結局そのときのことだろうかと思つたことがあるが、非理論的なままで議論好きでありながら、必要な材料をねつつこく集めることの生れつききらいだつたこの人は、論理の欠陥をちょつと突かれるとひどく参ることがあつた。
 理論的なものを愛していると目分で思いこみながら、じつはその直感を愛していたので、論理の欠陥をつかれたとよりは、その愛するものが突かれたというふうにこの人には映るものらしかつた。こういうよさも今は世間にあまりないようだ。
 いまは、愛するものを突かれても平然としている人が多い。愛するところを持たぬのだろう。〈1951年)

② 『恋愛名歌集』の出たのがいつだったかとっさに思いうかばぬが、それのちょうど出た時分に萩原さんを訪ねたことがあった。何かのときに伊藤信吉と話していて、そのとき伊藤と私と二人で行ったのだったことがわかつたがそれも不思議だつた。そのとき訪ねたことは私はずつと覚えていたが、伊藤と二人づれだつたことはすっかり忘れていたのだつた。しかし伊藤の話をきくと――伊藤はまた馬鹿に詳しくそのときの空気まで覚えていた。――彼がいつしょだつたことは全く確実だつた。
 萩原さんは、出たばかりの『恋愛名歌集』に署名をして私と伊藤とにそれぞれくれた。私はその場でそれを開けて見た。それは日本の昔の和歌の萩原さんによる評釈で、私はすぐ萩原さんの誤りを見つけてそのことを萩原さんに言つた。
 萩原さんと私とは二つ三つやりとりした。萩原さんの評釈はほんとに独得のもので、それをそれだけで見れば、つまり当の和歌の作者、とくにその時代とかいうことを見ないで読めば、全く筋が通つていてしかも余人のうかがえぬ世界を空中に描いてみせたものだつた。ちようどわれわれが、『万葉』の歌を手あたり次第に取つて、そのころの語法ということも無視し、それが兄弟に贈られたものか愛人に贈られたものかということも無視してしまつて、1950年代の人間感覚と言葉感覚とで解釈していい気持ちになつてうつとりする――そういうのにそれは似ていた。佐佐木信綱も折口信夫もない。その上、あれほど日本語に敏感な萩原さんが、その敏感さに乗せられてしまつて、『月に吠える』などの調子を『新古今』へまでそのままさかのぼらせていたのだから無理は無理だつた。とにかくそんなのが一つ二つ行きなり目にはいつて、私も行きなりそれを言つたのだつたが、萩原さんがほとんど「あやまる」ような調子で言いだしたのには私のほうがまごついてしまつた。
「どうも僕は、文法のことなぞもよく知らぬもんだから……」
 私は、自分の軽率を悔いる暇もない、逆に閉口して、しかしそこを上手に切りぬける才覚もつかなくてどぎまぎした。そのときはそれなりになつたが、自分にたいする教訓のようなものは引きださぬことにしていうと、あれは萩原さんの天性の正直をあらわしたものだつた。萩原さんは子供のように正直な人で、また子供のように嘘のつけなかつた人だつたろうと思う。(1959年)

③ 萩原さんには妄信的なところがあつて、それがまた独学者風に哲学的、論理的な性格を持つていた。二人で酒を飲んだあるとき、萩原さんが日本人の優等性と中国人の劣等性とについて語つて、中国での人身売買の話になり、中国人のあるものは、子供を四角い箱に入れて胴を四角く育ててそれを見せ物に売る。こんなことはどんなひどい日本人にも考えられぬ。民族そのものとして優劣のある所以だというような話をした。そこで私がそれを反駁した。私に根拠があつたわけではなかつた。ただ強く反駁したことだけは覚えている。やはりそのとき、萩原さんは日本の古代のこと、桓武天皇あたり以前のことを論じていろいろと話したが、それは神話と歴史とをごつちやにして、さらにその上に萩原式幻想で美しくそれを統一したものだつた。『恋愛名歌集』のときもそうだつたが、たとえていうと、平田篤胤なんかが丸太か木刀かのようなやぶにらみをしたとすると、萩原さんは、香の煙か絹の糸かのようなやぶにらみをしているのだつた。ここでも私は反駁した。ここでは多少の根拠をもつて、それからやや無政府主義的な反天皇制気分も手伝つて強く反駁した。するとそれから2、3日して、萩原さんから長い手紙が来てやはり私はまごついた。萩原さんは生真面目な学者のように自分の誤りを認めて、私から「叱られて」という言葉を書いていたが、それは皮肉や自嘲なぞではなかつた。私の反駁にはハッタリがあつたのだつたから私はほんとに恥じた。(1959年)
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2010.02.02 Tue l 中野重治 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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