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ブログ「私にも話させて」の金光翔さんは裁判に訴えた自身に関する『週刊新潮』の記事について語るとき、別の2つの『週刊新潮』の記事について言及することもよくある。2007年、半年余の間に佐藤優氏を批判したり、佐藤氏本人を怒らせる記事を書いた執筆者を『週刊新潮』が取り上げ、中傷を含めた記事を書くということが金さんを含めて3件つづいて起きたからだ。このことを単なる偶然とは誰にしろなかなか思えないのは無理のないことであろう。そしておもしろいことに、金さんがこのことをブログで取り上げ、これは佐藤氏と『週刊新潮』の連携プレイではないのかと厳しい批判を始めたら、とたんに『週刊新潮』にはバッタリこの類の記事が出なくなった。これもやはり偶然と考えることは難しい。

上述の経過で『週刊新潮』に記事を書かれた三人についてだが、金さん以外の一人は原田武夫氏(原田武夫国際戦略情報研究所代表・元外務省職員)であり、もう一人が、『AERA』の大鹿靖明記者であった。『AERA』の特集で佐藤優氏を取り上げたところ、内容が佐藤氏の気にいらなかったらしく、つよい怒りを呼び、この経緯が『週刊新潮』に取り上げられた。この出来事はただ一回きりのものであり、学校や職場における「イジメ」のような連続性はない。もしこの出来事を報じる『週刊新潮』の記事を読まなかったならば、私もイジメとか、集団による個人のつるし上げ、というようなことを連想することなく、単に『AERA』と『AERA』に記事を書かれた佐藤優氏の間のもめごとと受け止めていただろう。そういう意味でこの場合、『週刊新潮』の記事の影響は私には大きかったということになる。金光翔さんから提訴が行なわれたという背景があるとはいえ、2年以上もたってから、こうしてブログに記事を書こうという気にさせられるのだから。

最初にこの出来事を知ったのは、2007年の春頃、「私にも話させて」の記事でだったと思う。その他にもブログでこの問題を取り上げている人が数名いて、遅ればせながら私も『AERA』と『週刊新潮』の両方の記事を読んでみた。『AERA』のほうは、「佐藤優の「罠」」というタイトルで、佐藤氏の人物像を探ったもの。執筆者の大鹿氏自らが「活字メディアは佐藤の張った蜘蛛の巣に、私も含めて次々と飛び込んでゆく。」と記すように、自らも魅力を感じている佐藤優氏の吸引力の源泉を追求するという趣旨の下に書かれた記事だったようだ。読んでみて、筆者に佐藤氏が述べるような悪意などの他意があったとは思えない。ただし、取材を重ねることで、佐藤氏への批判的な見方も世の中には相応に存在することを明白にした記事になったとは言えるのではないだろうか。執筆者は佐藤氏に好意・敬意をもっていたことは事実のようなので、おそらくはその意図を超えて。

たとえば、大学の恩師という人物は、佐藤氏が細やかな気遣いのできる人柄であることとともに、「彼の書くものには昔も今も「きな臭さ」を感じる」とも述べている。佐藤氏の書くものにうさんくささを感じる私などには、恩師のこういう批評は興味ぶかく感じられる。また、大鹿氏が、東京地検特捜部の「国策捜査」という言葉の生みの親とも言える取調べ検事から「しょせん彼は」という言葉を引き出し、「しょせん」という言葉に検事の憤懣を感じた、と記しているが、この箇所にも感じるものがないわけではない。いくら官僚同士のなれあい的取調べ風景の叙述として読んでも、あの関係はヘンではあるのだ。「国家の罠」を読むと、あの検事はまるで佐藤氏の高潔・高邁な精神性の証言者として登場させられているようにも読める。佐藤氏は小谷野敦氏の「言論界の「みのもんた」」とか「日本の知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」というような表現にも苛立ちを募らせたのだろうが、この激怒の程度は記事全体の内容からすると異常に激しくて、前回の記事に書いた吉本興業タレントの怒り具合に匹敵するかもしれない。小谷野氏によると、激怒した佐藤氏は大鹿氏にたいし「右翼に言うぞ」とも言ったとのことである。

で、その『週刊新潮』の記事タイトルは、「朝日「AERA」スター記者が「佐藤優」に全面降伏」というもので、リードには、

「朝日新聞の『AERA』(4月23日号)が、佐藤優氏(起訴休職外務事務官)の人物ルポを掲載した。しかし、これに当の佐藤氏が異を唱えている。その“抗議”に対し、執筆した記者は、ロクな釈明もせず全面降伏。余りにお粗末という声がしきり。」

とある。本文に入ると、「4月18日。都内で佐藤氏ら主催のマスコミ人を対象とする勉強会が聞かれた。」ということで、事件が起きた場所は「勉強会」だったことが分かるのだが、この「勉強会」というのは、「神保町フォーラム」の会とみて間違いないだろう。魚住昭氏や宮崎学氏らと共に佐藤氏も中心となってマスコミ関係者相手に何やらかにやら活動しているらしいのだが、『週刊新潮』の記事にはこの日の勉強会に参加したという人物がでてきて、次のように話す。

「冒頭、司会役が、この記事を“悪質だ”と言って取り上げたんです」/「すると佐藤さんは“書いた人は一番前の席にいます”といって、参加者は当事者がその場にいることを知った。で、その後、佐藤さんの母親の名前を間違えたり、佐藤さんが裁判のために多額の借金をしたとか、事実誤認や疑問点について、一気に話し始めた」/「件の記事が出た直後ということもあり、参加したのでしょう。記事について触れたのは40分程。大鹿さんは、じっと聞き入っていましたが、まさかこんなことになるとは夢にも思わなかったのでは」

このようないわば内輪の出来事を、『週刊新潮』にむかって具体的に打ち明け話をするこの「参加者」が誰なのかは、同じく『週刊新潮』で金光翔さんについてデタラメ混じりの話をしゃべっている「岩波関係者」同様皆目分からないが、私はこのような内容を『週刊新潮』記者に滔々と話す人がいること自体大変不思議に思う。『週刊新潮』は「反人権雑誌」として世間に知れ渡っている週刊誌である。その週刊誌から、勉強会で発生した一事件についての取材がくれば、誰にしろ警戒するのが当然ではないかと思うのだが、「岩波関係者」がそうだったように、この人物の話しぶりにもそんな気配は毛頭感じられない。安心しきって話しているように見える。『週刊新潮』はこのような出来事が発生したことを、そしてこの『週刊新潮』に登場している人物が当日会に参加していたことを(もしかすると毎回参加している人なのだろうか)誰から聞いたのだろう。あるいは、この会に『週刊新潮』の記者も参加していたのだろうか?

「参加者」が語るこの出来事の様子は驚くことの連続だが、司会者がこの記事を“悪質だ”と言って取り上げたのは、もちろんあらかじめ佐藤氏と打ち合わせ済みだったのだろう。びっくりするのは佐藤氏が「一気に話し始めた」というその時間の長さである。40分! それは、母親の名前を誤記されたら不快ではあろう。また借金問題は、佐藤氏が『AERA』に送った公開質問状に対する編集長の返答によると、佐藤氏の「国策捜査で逮捕されると、逮捕から最高裁まで約2000万円かかる。しかし、裁判費用は税控除対象とならないので実際には4500万円くらい稼がなければならない」という内容を大鹿氏が誤って受け止めて記事にしたのなら、それも不快ではあるだろう。でもたとえば、借金問題については、取材の際に、「借金」という言葉が使われた可能性はないのだろうか? いずれにせよ一方的に40分も責めたてられたら、そりゃあ誰だって参るよ。この40分もの間、「勉強会」のほうはどうなっていたのだろう。外部からの参加者もいるだろうに、これは佐藤氏による会の私物化ではないのだろうか。それとも、もともと私物だからこれでいいのか。 

「 佐藤氏がひとしきり話した後、無論、大鹿記者にも反論の機会が与えられた。/大鹿さんは座ったまま、“佐藤さんによかれと思って書いたことが、全然そうなっていなかった。申し訳ない”といきなり謝っていました。声のトーンは普通だったが、完全に打ちひしがれた雰囲気だった。明らかに疲れた表情でしたね」

「無論、大鹿記者にも反論の機会が与えられた」という言い方には驚かされる。40分もの長い時間(こういう場合の40分は普通の時間の5倍にも10倍にも感じられるのではなかろうか。)、一方的に責めたてられた方を指して、「反論の機会が与えられた」と言える神経はすごい! こういう言い分を聞かされると、否応なく佐藤氏が40分話している間のその場の空気を想像させられる。おそらく、無言のうちにほぼ全員一致して佐藤氏に同調し、大鹿氏を冷やかに眺めていたのではないだろうか? しかしこの参加者はこう言うのである。

「大鹿さんは、取材はこういうものだとか、もっと反論するべきだった。情けないし、意地がない。自分のスタンスがないというのか、記者としてこれからやっていけるのかと思いました」

この場で反論したらどうなっていたのだろうか? 大鹿氏が自由に反論できるだけの空気がその場にあったのだろうか? 大鹿氏は敵地に一人でいるような孤立状態にさせられていた、精神的なリンチ状態に置かれていたということはないのだろうか? この参加者の言葉は一応もっともな発言のようでいて、その一番肝心のことについて触れていない。「右翼に言うぞ」という発言が本当にあったのかどうかについても聞きたかったな。誰もかれも金光翔さんのようにつよい人ばかりではないのだ。そもそも弱いものイジメの常習犯『週刊新潮』にむかって大鹿記者の名誉を傷つけ、トドメを刺すような内容の話をしゃべる参加者とは一体何者なのだろうか。『週刊新潮』は佐藤氏についてこのように述べている。

「 佐藤氏は、ネガティブな記述が多いことに腹を立てているのではない。」

そうなの? では佐藤氏自身の発言について見ることにする。

「批判的に書かれることは全然かまいません。ジャーナリズムとして当然でしょう。ただ、事実に基づき、論理的に説明できることが最低限の前提です。この記事には、その前提がない」/「(略)スカス力な取材と相当飛ばした書き方、そんな手法でいつもやっているとするなら、書き手として大いに疑問です」

「事実に基づき、論理的に説明できることが最低限の前提」だというのなら、佐藤氏は小谷野氏の批判・反論に対し「事実に基づき、論理的に説明」すればよかったではないか。「AERA」における小谷野氏のコメントについて大鹿氏に文句を言っても仕方がないだろうに、佐藤氏はこれについても小谷野氏には何らものを言わずに「コメントを掲載した」という理由で大鹿氏を責めているのだ。大鹿氏は気弱なので黙って打たれていてくれるが、小谷野氏はそうはいかないので、「事実に基づき、論理的に説明」できず、大鹿氏をサンドバックにしたのではないかと疑ってしまうのだが、もしそうだとしたら、これも一種の弱いものイジメではないだろうか。

そもそも、佐藤氏に「事実に基づき、論理的に説明できることが最低限の前提」などと他人に説教する資格はないのではないか。なぜなら佐藤氏ほど平気でデタラメを書く物書きはめったにいないと思えるからである。少なくとも私ははじめて見た。これはおそらくこういう人物はいつの時代にもいることはいたにちがいない。しかし、これまではこういう存在が佐藤氏のようにもてはやされることはなかった。そのため読者である私などの目に触れることはなかったのだろうと思う。だから私は、佐藤氏の文章にデタラメを見るたびに、佐藤氏だけでなく出版社や編集者からも騙されているように感ずる。これは読者として当然のことであろう。ここであらかじめ言っておきたいのだが、故意に二重基準を用いる言説はそれ自体嘘であるということである。佐藤氏の嘘はこの二重基準、つまり二枚舌と、もう一つ事実関係の明確なデタラメという、ここでも二重構造をもっていることを指摘しておきたい。金光翔さんの論文「<佐藤優現象>批判」によると、佐藤氏の『獄中記』を企画・編集したという岩波書店の馬場公彦氏は、

「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、(略)雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」

と述べているとのことだが、佐藤氏の言論活動は、金光翔さんが論文で「佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である。」と具体例をあげて記述しているとおりで、「立論は一貫していてぶれていない」などの評価はまったくの誤りである。編集者が事実を見抜けないのか、それとも見抜いていながら読者を欺いているのかは分からないが、もういい加減にしてほしいものである。ここでも述べたことだが、亀山郁夫訳「カラマーゾフの兄弟」に関する佐藤氏のデタラメ発言についてあらためて書いておきたい。

ロシア文学者の木下豊房氏は、亀山郁夫氏の「カラマーゾフの兄弟」翻訳について、ご自身のサイトなどで厳しい批判を続けている方だが、佐藤氏についても次のように触れている。

「佐藤優のような、ご追従の人物が現れて、いわく、「亀山訳は、読書界で、「読みやすい」ということばかりが評価されているようですが、語法や文法上も実に丁寧で正確なのです。これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している」(文春新書『ロシア 闇と魂の国家』38頁)などと、ロシア語を知らない読者を欺くことをいうので、マスコミもたぶらかされているのである。」

佐藤氏の発言はことごとく私たち読者を欺く非常に悪質なものである。たとえば、次の発言、

「亀山先生の翻訳の強さの一つは、キリスト教がわかっていて、そこから外れないように訳していくところにあります。(略)/亀山訳は「大審問官」の冒頭を、「ドイツ北部に恐ろしい新しい異端が現れたのはまさにそのときだった。『松明に似た、大きな星が』つまり教会のことだが、『水源の上に落ちて、水は苦くなった』」とキリスト教の正確な理解に基づいて訳すことで、このくだりがルターの宗教改革を表わしていることがわかる。それ以前の訳では、「大審問官」の舞台を15世紀の中世と受け取りがちですが、新訳のおかげでプロテスタント誕生直後の16世紀だということがはっきりします。」

ひどいデタラメの文面である。米川正夫、小沼文彦、江川卓、原卓也、これらの「カラマーゾフの兄弟」の先行翻訳者のなかで「時代は16世紀」「舞台は16世紀」というように、場面を「16世紀」と明記していない翻訳者は一人もいない。私は一通り上記の翻訳者の訳文を確かめた上でこのように書いているのだが、しかし、佐藤氏の上記の文章を見ただけで、これがほぼ間違いなく嘘であることは確信できるのである。なぜかと言えば、上記の翻訳者はみな70年頃までの文学者を含めた厳しい読者の目に耐えて一定の高評価をかち得てきた人々であり、作品中最も広く世に知られかつ大事な場面の舞台を「15世紀」と訳すようなそこつ者がいるはずがないのである。かりに「15世紀」と訳されていることがあったとしても全翻訳者のうちのせいぜい一人、それも公正ミスか何かの不手際のせいでしかありえない。このことは、日本文学の歴史やドストエフスキー作品の受容の歴史を多少なりとも知り、ごく普通の人生経験と人並みの読書経験があれば、そこで自ずと身につく常識が教えることなのだ。文学作品の読解力をまったくもたない人物、あるいはデタラメを言って平気な、いわば恥を知らない人だけが上記のように「有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している」とか「以前の訳では、「大審問官」の舞台を15世紀の中世と受け取りがちですが、新訳のおかげでプロテスタント誕生直後の16世紀だということがはっきりします」などと口にすることができると思う。

このようなデタラメが、先行する翻訳者たちを侮辱する行為であることの自覚もないのだろう。私は、こういう発言は読解力の問題やいい加減さに限定されるのみならず、それ以上に文学にも文学者に対しても、また文学を含んだ文化的遺産に対しても愛情や敬意の片鱗も持たない人だけがなせることだと思うが、このような実態を見てみぬふりをしている出版・編集者も同罪、あるいはそれ以上の責任を負っているのではないだろうか。それからまた文学と思想や哲学とは別の分野のものではあるが、互いに関連があることもまた事実だと愚行するが、このような文学的不感症の人物が語る思想がいかなる性質・水準のものでありえるのかという考察も一考にあたいするのではないかという気も最近しきりにする。どんなものであろうか。

「名詞と名詞を重ねるという誘惑に、翻訳者は陥りがちです。そうすると「銀座の和光の五階の時計売り場の角で待つ」というような文章をつづっても抵抗感がなくなってしまいます。亀山訳の「大審問官」は、正確であり、読みやすく、思想的深みがあるという点で翻訳の傑作だと思います。」

「銀座の和光の五階の時計売り場の角で待つ」文章がいけないなどの説教は、中学生相手になら相応しいかもしれないので、そういう機会にやればいいのではないか。大人を相手にした文章指南にしては低次元すぎて誰に対しても非礼と思うのだが、「亀山訳の「大審問官」は、正確であり、読みやすく、思想的深みがあるという点で翻訳の傑作だと思います。」という発言は、「舞台は16世紀」と訳したのが亀山氏だけでないことがはっきりした以上、取り消されるのだろうか? また、「亀山先生の翻訳の強さの一つは、キリスト教がわかっていて、そこから外れないように訳していくところにあります。」という断定もまったく根拠不明である。「AERA」の大鹿記者に、「事実に基づき、論理的に説明できることが最低限の前提です。この記事には、その前提がない」と言うのなら、私には佐藤氏の上記の文章のミスのほうが大鹿記者の記事のミスよりずっと重大だと思うので、まず佐藤氏こそ「事実に基づき、論理的に説明」してみたらいかがだろうか。「スカス力な取材と相当飛ばした書き方、そんな手法でいつもやっているとするなら、書き手として大いに疑問です」という言葉を、私は佐藤氏にそのまま投げかけたい。
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2010.02.14 Sun l 社会・政治一般 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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