QLOOKアクセス解析
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top
佐藤優氏の言論活動の最大の特徴は、その価値判断や主張が二重基準をもって展開されているということではないかと思う。これはそもそもの最初からそうだったのではないだろうか。佐藤氏の文章で私が最初に読んだのは氏を言論界で一躍重きをなすことにした本「国家の罠」だったが、ここでは、2002年9月17日に判明した北朝鮮による日本人拉致問題について、このことを獄中のラジオニュースで知ったという佐藤氏は、下記のように記していた。

「拉致問題で日本ナショナリズムという「パンドラの箱」が開いたのではないか。ナショナズムの世界では、より過激な見解がより正しいことになる。日本ナショナリズムが刺戟されれば、日露平和条約(北方領土)交渉も一層困難になる。ナショナリズムは経済が停滞した状況では昂揚しやすい。日朝首脳会談の成果が日露関係にもつながることを、何人の外交専門家が気付いているであろうか」(p14~15)

上記では特にこれといって具体的な見解が示されているわけではないが、その後の佐藤氏が見せるような北朝鮮へのあからさまな敵愾心は見えない。表現されているのは、慎重に事の本質を見極めようという抑制的な態度のように思う。同書の別の場所では、次のような記述も見られる。

「ナショナリズムには、いくつかの非合理的要因がある。例えば、「自国・自民族の受けた痛みは強く感じ、いつまでも忘れないが、他国・多民族に対して与えた痛みについてはあまり強く感じず、またすぐに忘れてしまう」という認識の非対称的構造だ。また、もうひとつ特筆すべきは、「より過激な主張がより正しい」という法則である。」(p295)

このような記述を見ると、佐藤氏の主張は、非道な侵略で他国を苦しめた日本の過去の歴史、加害の歴史を正確に見据えた上で日本人拉致事件をふくめた物事の判断を慎重に冷静にすべきである。そう主張しているのかと推測するのが自然であろう。

ところが、その次に私が読んだ佐藤氏の文章は、「とても同意できない高橋哲哉著『靖国問題』の罠」という『正論』誌に載った文章だったが、これには以前にも述べたことだが、心底驚かされた。「国家の罠」で見られたナショナリズムに対する抑制的な態度はどこへ行ったのやら、その後に読んだ「国家の自縛」ともども、排外的日本ナショナリズムの鼓吹、国益一辺倒の主張ばかりがアクのつよい調子で述べられていた。そしてその後は、金光翔さんが論文「<佐藤優現象>批判」で指摘したように、「「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工している」言論活動が展開されるようになった。媒体による読者の違いに合わせて、自己の主張を相手が抵抗なく受けとれるようなテクニカルな工夫をしているのだ。これは頽廃的・詐欺的手法ではないかと思うが、なんともう5年近くもこのやり方がつづけられ、それで立派に世に通用しているのである。なかには、亀山郁夫氏翻訳の「カラマーゾフの兄弟」に関連して見せたようにデタラメを完全に露呈している場合もある。これは明確に一個の文学作品を対象にしての言説だったので、読者の知りえない著者の個人的な経験などと称してうまく物語をつくったり、曖昧かつ適当な意見を述べたりするするわけにはいかず、そうならざるをえなかったのだと思われる。

佐藤優氏の文学作品や作家に関するデタラメ発言は何もドストエフスキーに限らない。2008年6月には、阿佐ヶ谷ロフトでの講演で、下記の内容の話をしゃべったらしい。「アジェンデの叫び」というブログから引用させていただく。

「今、小林多喜二の「蟹工船」が流行っているが、あの小説は、インチキ小説で、当時の小樽で偏差値高い一番「良い」学校卒業して、一番良い就職口である地元の信用金庫(だったか)に就職したインテリの小林多喜二が、底辺の漁業労働者の生活なんかを実体験として知っている筈もなく、小説の最初の部分は他の小説からの盗作で、それ以外の部分も、当時の漁業労働者他からの取材もしないで「想像」だけで書いたような話だからそこいら中矛盾だらけで、あの小説から、当時の漁業労働者の悲惨な生活を想像する事など出来はしない。と言っていた。」

当日の講演内容については、他にも下記のような感想のコメントがネット上にでている。

「佐藤 優氏は、蟹工船が今、流行っているが、実は、あれはインチキ小説であり、当時の小樽で、一番偏差値の高い学校出て、良い会社に就職した多喜二なんかに底辺漁業就労者の過酷な生活なんか理解出来るはずも無く、小説の最初の部分は他の小説の盗作であり、他の部分も全て取材もせんで書かれたものだ。と、言っていた。 その傍には安田好弘氏と佐高信氏がいたが、何も言わんで聴いていた。」

双方ともにほぼ同一の内容が述べられているので、上のブログに引用されている佐藤氏の発言内容がそのとおりであったことは確かだと思われるが、ここで佐藤氏が述べている小林多喜二の経歴内容は誤りである。多喜二の生家は父親が病弱だったために大変貧しく、多喜二が小樽商業学校から小樽高等商業学校へ進学できたのは、伯父からの学資援助がうけられたからである。学費を出してもらう代わりに、多喜二は就学中ずっと伯父の経営するパン製造工場で寝起きし、そこで朝と晩は工員として働いた。これはかなり厳しい労働だったらしく、多喜二の母親は伯父に対して「(息子を)何もあそこまで使わなくても」と不満に思ったこともあったと三浦綾子の「母」には記されている。彼の弟は、中学にも進学できず、高等小学校卒業後すぐに洋服屋の丁稚奉公に出ている。「蟹工船」を「他からの盗作」とまでいうのなら、根拠は何かを明言すべきである。佐藤氏のデタラメ話を、多喜二をテーマにあちこちで講演までしている佐高信氏は黙って聞いていたらしい。そもそもこの挿話は多喜二の経歴のなかで有名なものなのだから、佐藤氏もちゃんと知っていた可能性もある。知っていたにしろ、知らなかったにしろ、デマカセを大勢の人前で話しても自ら何ら痛痒も感じないし、また他から指弾されることもない、という絶大な自信があるのだろう。なんとも暗澹とする話である。

このような状況なので、当然のことに、佐藤氏の文章を読むと細部をふくめて何かとひっかかることがでてきて、「これは本当のことだろうか?」「デタラメではないか?」という疑いが兆すことが大変多い。これは何とも言えず不快な経験だが、二重基準を用いているということ、読者に合わせて自己の主張・内容の細工をしているということはそれ自体嘘をふくまないわけにはいかないので、実際の真偽はどうあれ、私はこのような疑いが生れるのは必然のことと考える。

『週刊金曜日』のサイトに公開されている文章に、「佐高信の現代を読む」という連載があるが、次の一文もその一つである。

「 2005年6月10日号の本誌「読んではいけない」欄で書いたこの本を挙げて、驚く読者もいるかもしれない。しかし、私は「読み方注意!」的に取り上げたのであり、官僚が動かす「国家」がどういう生理と病理を持つかを描いたこの本は10年に1冊出るかどうかと言う貴重なドキュメントである。私はこれについて、”外務省のラスプーチン”と呼ばれた著者が守ったのは「国益」ではなく、「省益」だったのではないかと指摘した。それは客観的に正しいというのが著者からの返事で、官僚は省益と国益が一致するとの擬制において行動するからであり、それをチェックするのは議会とマスメディアだという。
 それにしても、私が前記の欄でこの本を俎上にのせた時、著者のところに、「『金曜日』と何かトラブルがあったのか」と尋ねてきた友人がいたというのは嘆かわしい。すべて賛成。すべて否定でなければ気がすまない人たちにこそ、この本をすすめたい。」

上の佐高氏の文章によると、2005年(佐藤氏が『週刊金曜日』に連載をもつはるか以前の時期である)に、佐高氏が『週刊金曜日』で「国家の罠」を批判的にとリあげたところ、その文章を読んだ友人から佐藤氏は「『金曜日』と何かトラブルがあったのか」と尋ねられたというのである。まるで「国家の罠」は賞賛以外の批評はありえない本のはずだというように聞こえるが、これについて、「アンチナショナリズム宣言」というブログは、2008年5月14日の記事において下記のように記していた。

「「<それにしても、私が前記の欄でこの本を俎上にのせた時、著者のところに、「『金曜日』と何かトラブルがあったのか」と尋ねてきた友人がいたというのは嘆かわしい。>
(略)
 確かに、わざわざ週刊金曜日とトラブルでもあったのかと心配するのも「変」なのだが、その心配する友人がそんなに嘆かわしいのか? 佐高が嘆かわしいと言ったのは、「読んではいけない」で佐藤優の著書を批判したことに言い訳するためではないのか?

 それにしてもこの不自然さはなんだろう?
 この友人の話自体が佐高を懐柔するための佐藤がよくやる作り話ではないのか。佐高はこのインチキくさいエピソードを聞いてすっかり嵌められたと思う。いや、佐高は自分の書評を打ち消すために、この作り話にのったのかもしれない。」

私も佐高氏の文章を読んでこのブログ主の方と同じように、「それにしてもこの不自然さはなんだろう?」という感想をもったが、私自身が経験したこれによく似た類のことをいくつか以下に書いてみる。

(1)
佐藤氏は、2007年に角川学芸出版から「地球を斬る」という本を出している。これは産経新聞グループのウェブサイトに連載されたものを集めて一冊にまとめたもののようだが、この本に「思想犯としてのテロリズムとの戦い」というタイトルのもと、下記の文章が掲載されている。

「 最近、外国のテロ対策専門家が筆者を訪ねてきた。北朝鮮が行う可能性があるテロに対する日本の政治エリート、マスメディアの感覚が鈍いのに驚いていた。その専門家は、「日本警察のテロ対策部門は有能で、取るべき予防措置や広報についてもきちんとした問題意識を持っているのだが、世論の後押しがなく、政治家の理解がないところでは十分な対策をとることができない」との感想をもらしていたが、筆者もその通りだと思う。(略)
 思想戦としてのテロリズムとの戦いを軽視してはならない。この観点から見ると日本は対テロ思想戦の準備が全くできていない。外国のテロ対策専門家は、「日本の原子力発電所の多くが日本海に面しているが、北朝鮮の工作員が上陸して生物・化学兵器で攻撃をした場合の防御策は十分とられているか。原発の警備は民間会社が行っていると承知するが、北朝鮮情勢の緊張を考慮するならば自衛隊が警備するのが国際スタンダードではないか。それから貯水池に対するテロ対策は十分にできているのか」と言う。もちろん関係当局はそれなりの対応はとっているのであろうが、テロの脅威に対する認識は不十分だと思う。
 イスラエルの水資源公団幹部を務めた人物が水の安全保障についてこう述べていた。
「ハマス(パレスチナの原理主義過激派)が貯水池に毒物を混入させるという確度の高い情報が入ってきたのでイスラエルはユニークな対応をとった。エレフアントフィッシュをすべての貯水池で飼うようにしたのである。この魚は、人間にとって有害な物質が水に混入すると、直ちに反応する。貯水池には24時間体制で監視員を置いて、エレフアントフィッシュの動きに少しでも異常があれば、直ちに給水を中止して調査する」
 これがテロ対策の国際スタンダードなのである。北朝鮮が日本に対するテロ攻撃を仕掛ける場合、貯水池、原発、新幹線などが標的になるのは明白だ。十分な対策をとるべきだと思う。
 2007年1月25日から第166通常国会が始まるが、テロ対策については党派的利害や駆け引きを超えて、国家的見地から本気の議論を展開し、目に見える対策をとることを望む。」(2007.1.25)

日本の原子力発電所に対して、「北朝鮮の工作員が上陸して生物・化学兵器で攻撃」したり、「貯水池、原発、新幹線などが標的になる」テロ攻撃をしかけたりする可能性があると佐藤氏は述べているのであるが、一体、何のために北朝鮮がそんなことをする理由があるのだろう? 自国を絶対的危機に追い込むだけのそのような暴挙をあえてなす必然性があるというのなら、佐藤氏はその根拠を懇切丁寧に記すべきであるが、それは一切していない。上の文章は、単に悪質なデマを振りまいて北朝鮮の敵愾心を煽り、日本人の危機意識を煽情し、ひいては在日朝鮮人の生活と立場をますますの苦境に追い込むことにしかならないのではないだろうか。

「最近、外国のテロ対策専門家が筆者を訪ねてき」て、その人物は上記のように佐藤氏にむかって「北朝鮮の工作員が上陸して生物・化学兵器で攻撃をした場合の防御策は十分とられているか。原発の警備は民間会社が行っていると承知するが、北朝鮮情勢の緊張を考慮するならば自衛隊が警備するのが国際スタンダードではないか。それから貯水池に対するテロ対策は十分にできているのか」と問うたというのだが、この「外国のテロ対策専門家」とは一体どこの国のテロ専門家なのだろう。そもそもこの人物は本当に実在するのかという疑問も浮かぶ。専門家であればあるほど、北朝鮮が日本の原子力発電所や貯水池にテロ攻撃をしかけたりすることなど現実的にはまずありえないと考えるのではないだろうか。それでなくても、このようなことを他国にやってきて軽々しく口にする専門家がいるのだろうか。実話とすれば、あまりにも軽率すぎないだろうか。佐藤氏は元対露交渉の外交官だった人であり、今は休職中の一著述家である。そういう人になぜ外国の「テロ専門家」がこのような具体的に踏み込んだ発言をするのだろう。それとも、佐藤氏は表向きの顔とは異なり、過去「テロ」についての専門的関わりをもった実績でもあるのだろうか? また佐藤氏は、第166通常国会でこの問題を取り上げて議論しろというのだが、北朝鮮が日本海に上陸して生物・化学兵器を使ったテロ攻撃をする可能性について国会で侃々諤々の議論をせよというのだろうか? テロ専門家という人物の話も、これに対する佐藤氏の受け止め方も、信憑性に乏しい荒唐無稽な話であるように感じられるとともに、大変悪質な発言のように思えてならない。

(2)
前回の記事中に、「文章(注:メール文)には追加して具体的に述べてみたい点もあるが、いま現在、時間の余裕がないので、そのうちゆっくり書いてみたいと思う。」と記したが、以下に述べるのが、その件である。

佐藤氏は、2007年の10月、「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」の主催による「死刑廃止デー」にゲストとして招かれ、「日本の刑事司法は死刑制度に耐えられるか」という演題で、鈴木宗男氏・安田好弘弁護士とともに鼎談を行なっている。私は、その後送付してもらった「フォーラム90」の機関紙でその内容を知ったのだが、会の冒頭、佐藤氏は、「安田さんと付き合うな」という電話をもらった、と話していた。会および演題の趣旨からすると大変唐突な発言だとも、言わずもがなの発言だとも感じたが、同時に「これはホントのことかなァ?」とも思った。

とは言っても、この時点ではそのことに特に拘ることはなく、それで終わっていたのだが、この発言が気になるようになったのは、この会の2、3ヶ月後、金光翔さんがインパクションに発表した論文に関連して、著者を蚊帳の外に置いてインパクションの編集長・安田弁護士・佐藤優氏の「話し合い」が行なわれるという出来事があったからだ。佐藤氏は、2008年3月刊行の「正義の正体」(集英社)という田中森一氏との対談本でも、下記のように述べている。

佐藤 先日、安田さんの主催する死刑問題の討論会をしたが、前後に数人から電話があり、「安田みたいなのとだけは付き合わないほうがいい」と言われた。
 田中 世間の人はみんなそう言うだろう。」

「死刑廃止デー」の集会は、「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」の主催であり、安田弁護士はその有力な会員ではあっても、安田氏個人が集会を主催するわけではないはずだが、そのことはさておき、「正義の正体」によると、佐藤氏には集会の前だけではなく、終了後にも同じく「安田弁護士と付き合うな」という電話が入ったというのである。対談相手の田中氏も「世間の人はみんなそう言うだろう。」と素直に応じているが、さて、どうだろうか。

2006年早々、「光市事件」の裁判で急遽弁護人に就任した安田弁護士などが弁論の準備ができないということで最高裁の弁論を欠席したことに対し、世論の反発は凄まじかった。その後の裁判の経過においても、バッシングはつづき、光市弁護団は安田弁護士をはじめ大変な苦労をしたことと思う。だから一見佐藤氏が述べている話は辻褄が合うように思えるのだが、しかし少し細かに考えてみると、世論のバッシングと、佐藤氏の周辺の人が「死刑廃止デー」に出席する佐藤氏にわざわざ電話をかけて「安田弁護士と付き合うな」と忠告をすることとの間には乖離があるように思う。その理由の一つには、この集会のゲストとして佐藤氏とともに鈴木宗男氏が出ることがあらかじめ発表されていたことがある。鈴木・佐藤の師弟コンビ(?)が揃ってパネリストとして会に出ることが分かっているのに、この期におよんで佐藤氏に「安田と付き合うな」という電話をかけるというのはヘンではないか。その人物は、佐藤氏に欠席を勧めて鈴木氏に一人で会に出席せよと言っているのだろうか? それでは鈴木氏が困ることになることは分かるはずと思うのだが。

それから安田弁護士はマスコミやウェブ上で大変なバッシング攻撃を受けたが、これはあくまでも裁判における弁護士業務の過程に限って発生した非難であった。もし安田氏が実は暴力団員であるとか、怪しげな宗教団体の幹部であるとか、あるいは金銭面などでよからぬ噂が絶えないとかいうのなら、なるほど「付き合うな」という忠告も来るかも知れない。しかしそうではない。れっきとした一人前の弁護士であり、ましてこの会は「死刑廃止デー」という毎年行なわれている周知の集会であり、何ら怪しげなものでないことは佐藤氏の周辺の人々はちゃんと知っているのではないのだろうか。そして佐藤氏自身、それまでにマスコミのあちこちで「私の死刑廃止論」などという死刑廃止の弁をかなり書いたり話したりしていたはずである。周辺の人が佐藤氏にむかってあえて「安田と付き合うな」という必然性はほとんど感じられないのである。2006年10月に佐藤氏が「神保町フォーラム」をともに立ち上げた宮崎学氏とか魚住昭氏などという共通の知り合いも存在するようだし。

もう一つ、これも疑問の大きな理由になると思うのが、佐藤氏のパーソナリティである。ただでさえ、人は他人にむかって明確な根拠もあげずに「誰それと付き合うな」というような忠告はしにくいし、しないものである。相手がまだ学生だったり人生経験に乏しい年少者である、あるいはひどく気弱な性格であるとかいうならともかく、人はめったなことではそのようなことは口にしない。これは家族関係においてでさえ遠慮する性質の微妙な問題であるが、なかでも、佐藤氏はそのような忠告が最もしにくいパーソナリティの人ではないかと思う。前に書いた『AERA』の記者への対応に関してだが、佐藤氏はきびしく本人を責め立て、『週刊新潮』に怒りをぶちまけた上に、『AERA』とその記者に対し事柄からするとなんとも執拗な内容の「公開質問状」を送り、これを『週刊金曜日』のサイトにアップまでしている。このような剣幕、態度をみて、それでも佐藤氏に「安田氏と付き合うな」というような忠告をする人が会の前後を通じて複数名いたということはなかなか信じがたいことではある。

何かと金光翔さんの発言を引用させていただいて恐縮だが、金さんはこちらで、

「佐藤の文章には、(柄谷行人のように)根拠を示さない、または、(落合信彦のように)情報の出所が不明確な断定が非常に多い。佐藤の言明が事実であるかどうかは、佐藤を<信>じるしかないのである。」

と述べているが、 本当にこのとおりである。特に佐藤氏を信じる理由のない者としては、その文章を読むとデタラメ、嘘、偽りを騙られているという不快感につきまとわれることになる。この不快感は佐藤氏ひとりに対してのものではないこと、そのことこそが問題なのである。
関連記事
スポンサーサイト
2010.02.27 Sat l 言論・表現の自由 l コメント (0) トラックバック (0) l top

コメント

コメントの投稿












トラックバック

トラックバック URL
http://yokoita.blog58.fc2.com/tb.php/55-cf972b6a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。