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ここ1、2年、中野重治の全集を一冊ずつ図書館から借りてきてはぼちぼち読んでいるが、どの巻も大変おもしろい。中野重治に対して私は昔からずっと尊敬の念はもっていたし、「歌のわかれ」や「むらぎも」などの小説や詩は好きではあったが、ほぼ同時代の作家のなかでは戦後に現れた大岡昇平や埴谷雄高などに比べるとあまり親しみは感じていなかった。なんだか人間が立派すぎるというか、いかめしい印象があって近づきがたいという気がしていた。でも、こうして実際に評論や文芸時評や中野重治自身は「雑文」と称している時事的な文章などを読んでいて、いつのまにか読者を懐のうちにいれてしまう大きさや説得力や離れがたい人間的魅力をもった作家であることを実感させられている。

中野重治は、1938年に国家により執筆禁止処分をうけたといわれてきたし、私もそう理解していたが、中野自身によると、実際は内務省から雑誌社・新聞社に対してこれこれの人間(中野重治の他、宮本百合子など)には執筆依頼をしないようにという達しが行ったのであり、作家本人に直接その旨の通告があったのではなかったそうである。そうであっても実際にはこの達しにより雑誌などへの文章の寄稿は不可能になったわけで、困窮した中野重治は、東京市の「小額給料生活者失業応急事業」の臨時採用に応募して雇われたこともあったそうだ。

その職を世話してくれたのは朝鮮人の金子和という人物だったそうで、これから取り上げるつもりの文章『三畳以下に住む2800世帯』が書かれたのは、一つにはそのような縁があったせいかも知れない。また、この文章が執筆されたのは1973年だが、そのころ朝鮮高校などの若い在日朝鮮人に対する日本人の襲撃事件が頻発していて、そのことについても中野重治は別の場所できびしい怒りをこめた一文を書いているので、そのような現実を見るにつけ、遠い過去の記憶が鮮明に呼び起こされ、過去と現在の連続性の問題なども痛切に感じたのだったかも知れない。中野は自身が東京で臨時採用された1938年の6年前、1932年に大阪府がやはり失対事業の一環として行なった調査事業の記録『在阪朝鮮人の生活状態』を基に、当時の在日朝鮮人が置かれていた環境や経済の実態を考察する文章を書いたのだった。これが上述した『三畳以下に住む2800世帯』で、このエントリーの最後に抜粋して掲載する。大阪府はこの事業に50名の臨時雇員を当てたそうだが、その他に通訳者として大阪市内居住の朝鮮人知識階級失業者20名をも臨時採用し、調査には計70名が従事したそうである。

この調査記録を読んだだけで、日本にやって来た朝鮮人の大多数が、植民地支配下の朝鮮で飢渇状態に追いやられ、生死をかけても自国を出ざるをえない切羽詰まった状態だったことが理解される。何しろ、日本に来るにあたり、その68パーセントもの人が所持金なしだったというのである。中野重治も、植民地支配の全般的な実態について、ひどいと知ってはいたが、これほどとは思わなかった、という趣旨のことを何回も書いているが、これは私などはもっともっとそのように思う。この問題とは離れるが、たとえば、「笞刑」という刑罰について、ドストエフスキーの「死の家の記録」にその実態が克明に描写されている。芸術的なほどの残忍な笞の使い手である刑吏がでてきて罪人に笞を振るう場面は一度読めば決して忘れられないものだが、読んでいるそのとき私は日本が朝鮮で「笞刑令」を作り、植民地支配に抵抗する数千の朝鮮人を死ぬ目にあわせているなどは全然知っていなかった。中野重治はこの刑罰についても他所で書いているので、「これほどとは思わなかった」ということのなかにはこのことなども含まれるかと思う。

朝鮮人が見舞われたこのような災厄、信じがたいほどの過酷な生活実態を知ると、学費の助成金を朝鮮学校のみ除外するなどということを平然と言い、平然と実行しようとさえしている日本の政治・社会の異常さが身にしみて感じられる。このようなことを言い出す政治家がいて、それを聞いた政治家のなかに「とんでもない!何という恥さらしなことを言うのだ。」と一喝する者も、強硬に反対する者もなく、実際に朝鮮学校を除外して法案を通過させる行為をすることのできる政府が世界中さがしていったい幾つあるのだろうか。人権に関する重要な問題で、原理原則を外して突っ走ると必ず禍根が残り、災いが生じる。これは歴史を見ると歴然としていると思うが、そうするまでもなく、現実の社会生活のなかで私達の誰もが日常的に経験していることではないだろうか。ましてや、その対象になるのは自国が一方的に踏みつけにし、災禍をあたえつづけてきた当の相手である。在日朝鮮人のほとんどは、中野重治の表現によると日本が「連れこんだ」朝鮮人の子孫の人々である。日本以外の他国はそのことをみんなちゃんと知っている。政府は、一刻も早く、無条件に朝鮮学校の除外政策を撤回しなければならない。それは何ら特別なことではない。ごく普通、最低限に当たり前のことのはずである。

中野重治は、『日本共産党50年史』という、日本共産党発行の記念誌についての感想を述べるなかで、次のような批判をしている。

「じつは私は、あの『第1章 日本共産党の創立』、その第1項『創立当時の日本の支配的制度』、その書出し7行目でそもそも引つかかつたのだつた。日本の『労働者は植民地同様の低賃金』、こう書いたとき、この筆者たちは、学説のことはさておき、在日朝鮮人労働者のことをてんで肉感的に思い出さなかつたのだろうか。日本人労働者が『植民地同様の低賃金』だつたとして、そのとき朝鮮人労働者は、朝鮮で、また日本で、何的低賃金だつたとこの筆者たちは言いたいのだろうか。だいたい、『日本の支配的体制』が、どれだけの朝鮮人を日本へ追いたて、ほとんど強制的に連れこんでいたかが一行も書いてない。関東大震災で、『何千人という朝鮮人も〔「も」ではない。「も」では付けたり扱いになる。〕虐殺された』のならば、何万人もの朝鮮人が、すでにそれまでに連れこまれていたという事実をそれは語つているだろう。それがないだけでなく、それがからだで感じられていない。」『在日朝鮮人の問題にふれて』(1973年1月)

そして、日本政府が「日本へ追いたて、ほとんど強制的に連れこん」だ朝鮮人の実態に関して、先に述べた『三畳以下に住む2800世帯』(『新日本文学』1973年4月号)という一文が書かれている。植民地時代、朝鮮人が好き好んで、あるいは選択の余裕をもった上で日本にやってきたようなことをいう人も少なくないようなので、長くなるが、引用しておきたい。


「50名の臨時雇員」、「20名の朝鮮人通訳者(臨時採用)」と私は書いたが、あわせて70人のこの人たちのこともちょつと書いておきたい。70人のうち、日本人50人は「小額給料生活者失業」者というものだつた。朝鮮人20人は、「大阪市内居住の朝鮮人知識階級失業者」というものだつた。またそもそものところ、「在阪朝鮮人の生活状態」調査というこの仕事が、大阪府の、「昭和7年度小額給料生活者失業応急事業の一として」「行」なわれたものなのでもあつた。つまりそれは、「応急」の「失対事業」の一つだつたわけである。
 むろんそこに正面の大目的はあつた。それは決して名目だけのものではなかつた。それは堂々と、正面から、あるいはあけすけに掲げられていた。
「大阪府管内に在住する朝鮮人は近来夥しく増加して他府県に其の比を見ない。而も其の後年々増加して之が為種々の社会問題を惹起し、住宅問題を始め労働問題、融和問題等は年と共に益々其の重要性を高め、殊に朝鮮人労働者は労働貸銀の低廉等の関係から内地人労働者の失業率を高め更に近時に於ては彼等自らの中に失業問題を発生し朝鮮人の保護救済は其の要が益々切なるものとなつた。而して其の問題の解決は極めて微妙な問題であって、先づ彼等の生活状態、生計状態を知るは勿論、彼等の渡来に関する事情、渡来当時の状態等をも熟知して彼等に対する内地人の理解を深め以て之が対策を講ぜなければならん。本調査は彼等の生活の真相を如実に知る基本的資料を得るために実施したのであつて、内鮮融和並に朝鮮人保護の参考に資するを得ば幸甚である。」
 ここで、「其の要が益々切なるものとなつた」、その「解決は極めて微妙な問題であつて」というのは、問題が非常に厄介な性質のもので、その解決となれば手も足も出ぬような気がするということであつただろう。とにかく、代々木50年史のいう日本人労働者の「植民地同様の低賃金」、さらにそれを下まわる朝鮮人労働者の低質銀、それが「内地人労働者の失業率を高め」ている事実、ところが、「更に近時に於ては」、この朝鮮人労働者「自らの中に失業問題」が出てきた事実をそれは語つていた。それは、日本人労働者の「植民地的」低質銀、朝鮮人労働者のそれ以下の、学問上何というか私は知らぬが「農奴的」とでもいうべき低質銀、つまり近代的な意味で「貸銀」の概念からはみだしてしまう際まで来たひどい報酬制、そして今度はそこでさえもの「失業」のあらわれ、むかし三浦周行が、室町期の土一揆、国一揆について書いたような事情の近代的に大がかりにされた状況、それの部分的到来の告白ということにそれは繋がつていたかも知れない。そうして、それの解決の、つまりそれの予防事業の「参考に資するを得ば幸甚である」という調査事業が、ほかでもなくそんな状態のもとでの日本人下級サラリーマンの失業者、おなじく「朝鮮人知識階級失業者」を対象とした「応急」失対事業の一つとして実施された事実を、にがにがしくも、非常に興味ふかいことにも今私は思う。当時私は、この種の事実を知らなかつた。この種の事実を、文学上の仕事仲間たちがろくすつぽ知らなかつた事実についても知つていなかつた。私たちがごそつと逮捕された時期だつたからでもあつたろう。「昭和7年」、つまり1932年といえば、プロレタリア的、革命的、民主的文化運動がかなり基礎的に弾圧を受け、小林多喜二たちはほとんど完全に非合法生活に追いこまれていた。触手をひろく伸ばして問題をとらえ、その意味を理解し、応急策をたて、それを実行に移す時間をあたえずに支配的政治勢力側が我が方を駆り立てた時期にあたっている。そこでひと口に言って、当時われわれは朝鮮人問題を十分に理解していなかつた。これを、ここで私は個人として言う。誤りがあるかとも思う。その節は教えてもらいたい。私は、私個人のせまい経験から書く。その中心の一つには、日本へ連れこまれた朝鮮人の生活について、私たちがろくすつぽ知つていなかつたという事実、日本の共産主義・社会主義運動も、いくらか知つていたにはしても突きこんでは知らず、またこれを中心問題の一つとしては扱つていなかつたらしい事実について私個人の貧しい記憶を書きつける。むろん私は、ある何ごとかに私が直接携わつていない場合、そのことのため、またそれに直接関係ある仕事で人がどれほど苦労して働いていてもそれがわからぬという事実、そしてそんな苦労をしているものがどこにもいないと思いこみかねぬ事情を知つている。しかしとにかく、そんな条件のもとでいえば、当時あるいは「先進的」な――この言葉を私は好かぬが――日本人労働者、知識人さえ、朝鮮人問題になかなか内側までははいつて行かず、ある点では、反動的な民族主義イデオローグたちよりさえ部分的に後れていはしなかつたかと思うことがある。ある極端な場合には、日本のプロレタリア的革命家、その運動さえ、そのなかに朝鮮問題軽視、朝鮮人蔑視、すくなくともそれに近い何かを含んでいはしなかつたか、その点いくらか心もとなく思う瞬間があるという私個人の感じを記録しておきたいと思う。
 第二大戦後、あの東京裁判のとき、旧満州帝国の溥儀元皇帝(注)が検察側証人として法廷に立つたことがあつた。そのときの模様を、日本のほとんどすべての新聞類が、この傀儡皇帝を浅ましい人間として描くやり方で扱つた事実を私は覚えている。アメリカ勢力の支配のもとでだつたには違いないが、傀儡を傀儡として仕立ててこき使つてきた日本の天皇主義、軍国主義の姿はほとんどすべての日本新聞類がひた隠しにして押し通した。まして朝鮮と朝鮮人とに関しては、国土と人民とを日本が奪つたことについて何ひとつ、ひろく正規には事が明らかにされなかつた。新聞もラジオも学校数育もそれをしてこなかつた。関東震災での組織的朝鮮人虐殺などをひた隠しにして押し通したのは勿論のこと、それと裏表の関係で、朝鮮王族と日本「皇族」方面との政略婚姻の事実についても何ひとつ恥じた姿勢はそこに見られなかつた。まして、朝鮮人から朝鮮語を奪った事実、朝鮮人の苗字、名まえを日本式に暴力的に改めさせた事実などなどについて何ひとつひろく公けにすることはこれを完全に圧服して押し通した。人の名のこの問題は、近年の日本人のある層、「タレント」とか藝人とか水商売の人たちとかの外国名まえ採用とは完全に質がちがつている。そしてそれは、日本の「領土」問題での政治的鈍感(しばしば全く意識的な)と裏表の関係で、「南鮮」と「北鮮」との「国境」問題、「南ヴェトナム」と「北ヴェトナム」との「国境」理解(誤解)に結びついている。早い話が、1973年現在、北ヴェトナムと南ヴェトナム とのあいだに、また北朝鮮と南朝鮮とのあいだに、「国境」があるという考えは相当多くの日本人のなかに事実としてあると私は思う。日本人が日本人について、また国としての日本について、「東海の君子国」だの、「くはしほこちたるのくに」だのと、これつぱかりも考えていないという証拠はいまだに一般的にはない。旧溥儀皇帝、旧朝鮮王族、それとの関係で、日本の今の天皇が、どれだけ何かの責任をもつて階段に立つ力があるか日本人一般は自分自身に明らかにしていないと私は思う。「日本人一般は」などと言わなくてもいい。日本の労働者階級、日本の「先進的」な人びと、私たち自身とも言つていいと私は思う。
(略)
 「睦仁天皇の日本政府が閔妃を殺したとき、ジョンソン大統領のアメリカ政府がゴ・ジン・ジェムを殺したとき、殺害者の側には侮蔑と計算とだけがあつた。伊藤博文をたおしたとき、安重根には熱烈で透明な憎悪があつた。」
 問題のここの関係を、われわれ日本文学者があまりにかすかすにしか見てこなかつたと私は思う。「戦後」についてみても、たとえば小林勝の作品の受けとり方などにもそれが見られ、近年の、日本語で書いている朝鮮人作家たちの仕事の受けとり方にもそれが見られはしないか。1928年の日本で、全く抜け目なく治安維持法と結びあわせにして普通選挙制がしかれることになつたとき――この結びあわせにそれ自身の問題があつたが――ここから一般に女がはずされただけでなく、具体的にも原則的にも朝鮮人、台湾人がはずされていた事実、これをどれだけ切実なものとして私たちが肝に銘じてきたろうか。日本共産党が、「日本帝国主義の植民地であつた朝鮮、台湾の解放の旗を敢然と」掲げたこと、「日本と朝鮮の労働者は団結せよ」と呼びかけたことは正しかつた。この旗を掲げてこう呼びかけたのが日本共産党だけだつたことも事実だつた。しかしそれが日常のたたかいにまで具体的に実現されなかつたことも残念な事実だつた。
(略)朝鮮の歴史、それも日本との、日清戦争、日露戦争、日韓合併以後の時期だけでもの関係史についてのわれわれの一般的無知、むしろ一般的忘却がそこにあるだろう。もしかすれば、「戦後」に来て、朝鮮の「独立」以後、特にこの十年来、この一般的忘却が意識的に組織され養成されてきたと見られるフシさえなくもないと私は思う。(略)東京その他での、朝鮮人学校生にたいするここ何年来の暴行連続にたいする一般の無反応にもそれは見られる。青年・学生運動方面に見られるこれにたいする無反応、小学校から大学までの教職員組織に見られるこれにたいする無反応にも重畳してそれは見られる。その底に幾重にもたたみこまれた因子があるにはちがいないがやはりあの「調査」へ帰ろう。そこでの第一の問題は「貧」のことである。
 当時大阪市には警察管区が33あつた。そのうち水上署関係3管区が調査から除かれ、「調査上地理的に不便な柴島、大和田」2管区が除かれ、「朝鮮人居住者の極めて僅少な船場、島之内」両管区が除かれた。「極めて僅少」、つまり船場、島之内は金持ち区域で、朝鮮人は一般に、金持ち区域でないところに住んでいたという事実からこれは来ていたのだつたろう。いろいろの表がある。「渡来当時ノ所持金ニヨツテ分チタル世帯主数」表を見ると、世帯主の68パーセントほどが所持金「0円」である。17パーセントほどが「10円」以下、5パーセントほどが「20円」以下、2パーセントほどが「30円」以下、1パーセントほどが「40円」以下、何パーセントか、図表では黒の横線一本ほどが「50円」以下である。「世帯使用の畳敷によつて分ちたる世帯数」表を見ると、一世帯で「一畳以下」「二畳以下」に住んでいるのが770世帯、「三畳以下」が2082世帯、「四畳以下」が618世帯、「五畳以下」が1799世帯、「三畳以下」の2082世帯が百分比17・59で最高である。 」


(注): 元満州国皇帝・溥儀が東京裁判に検察側証人としてやってきた時の日本のマスコミ、天皇を含めた政府役人の溥儀への酷薄な対応・処遇について、中野重治は、1946年のその当時から晩年にいたるまで、『五勺の酒』を初めとした小説においても、随筆や感想文のような文章においても、執拗なくらいに繰り返し書き、飽くことなく批判している。中野重治が日本人の人格の度し難く厭な面をそこに象徴的に見ていたのは間違いないように思う。
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2010.04.04 Sun l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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