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前回の記事のタイトルはどうも内容に即していないように思われるので(いつものことで恐縮だが)変更して①とし、さらに中野重治のこの問題に関連する文章を②として新たに紹介したい。ちょっと長文だが、時間のあるときに読んでいただければと思う。中野重治が死去したのは1979年だが、晩年になればなるほど、彼の朝鮮および在日朝鮮人に触れた文章の量はそれまでと比べて格段に増えているし、文章に込められた熱意の度は異様なほどにふかまっているように感じられる。私自身、読んで教えられることが多かったので、以下にその全集から、1973年執筆の「在日朝鮮人の問題にふれて」と「日韓議定書以来」という二つの文章を抜粋掲載する。


 在日朝鮮人の問題にふれて

「……(略)事の本質は、志賀直哉の『震災見舞』のなかにも見つけられると私は思う。」
 こう書いたとき、私は「震災見舞」そのものは引用しなかつた。ここで一部分引用する。この年春志賀は我孫子から京都粟田口へ移つていた。6月には有島武郎が自殺した。そして9月の大地震が来た。志賀は見舞のため束京へ出た。「震災見舞」は何とかいう雑誌に発表されたがそれが発禁になつた。「震災見舞」のために発禁になつたのか今確かでないが、鳥がたつようにして京都を出て――しかしばたばたはしていない。――東京へはいつて、それからちよつとしての部分をここへ引く。志賀は年41だつた。
「山〔上野の山――中野〕から見た市中は聴いてゐた通り一面の焼野原だつた。見渡すかぎり焼跡である。自分はそれを眺める事で強いショックを受けるよりも、何となく洞ろな気持で只ぼんやり眺めて居た。酸鼻の極、そんな感じでは来なかつた。焼けつつある最中、眼の前に死人の山を築くのを見たら知らない。然しそれにしろ、恐らく人の神経は平時とは変って了ってゐるに違ひない。それでなければやりきれる事ではないと自分は後で思った。それが神経の安全弁だと思つた。此安全弁なしに平時の感じ方で、真正面に感じたら、人間は気違ひになるだらう。入りきれない水を無理に袋に入れようとするやうなものだ。」
「自分はそれからも悲惨な話を幾つとなく聴いた。どれもこれも同じやうな悲惨なものだ。どの一つを取つても堪らない話ばかりだ。が、仕舞にはさういふ話を自分は聞かうとしなくなつた。傍でさう云ふ話をしてゐても聞く気がしない。そして只変に暗い淋しい気持が残つた。」
「そして大手町で積まれた電車のレールに腰かけて休んでゐる時だつた。丁度自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者とが落ち合ひ、二人は友達らしく立話を始めた。
『――叔父の家で、俺が必死の働きをして焼かなかつたのがある!』刺子の若者が得意気にいつた。『――鮮人が裏へ廻ったてんで、直ぐ日本刀を持つて追ひかけると、それが鮮人でねえんだ』刺子の若者は自分に気を兼ね一寸此方を見、言葉を切ったが、直ぐ続けた。『然しかう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから、到頭やつちやつたよ。』二人は笑つてゐる。ひどい奴だとは思つたが、平時さう思ふよりは自分も気楽な気持でゐた。」
 異常な状態がわかる。しかしここで、「然しかう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから……」が、「……迫ひかけると、それが鮮人でねえんだ」から来ていた事実に問題はあるだろう。
「鮮人」が確かなら、「かう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから……」がそもそも出て来ない。日本人が日本人の手で、ただ彼が朝鮮人とまちがえられたということただ一つで、それがそうでないとわかつた後でそのままナグサミに殺される。「鮮人」にまちがえられたのが運の尽きということになる。まちがえられるに事欠いて、なにしろ「鮮人」とまちがえられたのだからなアということが大前提にある。まちがいとわかつても、何にまちがえられたかといえば朝鮮人にまちがえられたというその「朝鮮人」に原罪の原罪がある。それは、上から、ほとんど凅疾的に吹きこまれてきた日本帝国主義側のインフェリオリティー・コンプレクスと裏表になる。そこに亡霊が生きている。そこにほとんど黙阿弥ものめいた世界が現出する。共産主義者と見まちがわれたために、それが見まちがえだつたことが明らかになつたあとでも残酷に殺されて殺した本人が罪悪感をまぬかれる。まぬかれた側の根源的弱さがそこで暴露される。そしてそれが暴露されればされるほど残忍が出てくる。インフェリオリティー・コンプレクスが大きいだけ残忍が大きくなる。救われようのない頽廃がそこに出てくる。アメリカ軍のヴェトナム行為がそれを証拠だてている。そこを、ここで、われわれが自分に引きあてて直面に見なければならぬというのがわれわれの問題であるだろう。
 関東大震災と朝鮮人との関係でいえば、ここで私は今東光を引くこともできる。『小説新潮』、1972年9月号、「青葉木菟の欺き」で今は佐左木俊郎のことに触れている。佐左木俊郎を直接知つている人も少なくないにちがいない。今はこう書いている。
「……幸いにして彼はずつと後(昭和5年)になつて『熊の出る開墾地』という作品を世に問うまでに至つたのである。
 ところが、佐左木俊郎は大正12年9月の関東大震災に命を失うことなく助かつたが、あの混乱の中で朝鮮人虐殺事件が起つた時、彼は朝鮮人に間違われて電信柱に縛りつけられ、数本の白刃で嬲殺しに近い拷問を受けたのだ。彼は、
『日本人という奴は、まつたく自分自身に対して自信を持つていない人種ですな。僕の近所の奴等が僕が自警団員のため額や頬をすうと薄く斬られ血まみれになり、僕は彼等に日本人だということを証明して下さいと叫んでも、ニヤリと笑うだけで首を振つて保証してくれる者が一人もないのですよ。男ばかりでなく親しい近所の女房どもさえ、素知らぬ振りなんです。僕はこの時ほど日本人だということが恥ずかしく厭だつたことはありません』
『其奴等は今どうしてる』
『なあに。ケロッとしたもんですよ。あの時、口を出したら自分等も鮮人と思われるから怖かつたつてね』……………」
一つの事実とともに、佐左木の「近所の女房どもさえ」、確かに朝鮮人ならば殺されても然るべきものとする勢いに抗しえぬ状態にあつたことが語られている。それは直ちに、佐左木俊郎がまたその状態にあつたということではない。佐左木自身ならば、朝鮮人とまちがわれて日本人が刃物の拷問を受ける不当を不当としただけでなく、朝鮮人が朝鮮人だからといつて、それだけで日本人から殺されさいなまれることの不当を不当としたにちがいない。ただ一般的に当時の日本で、「破戒」のなかで藤村が描いたように、ポグロームをけしかける勢力のもとで、けしかけられるのを待ちうける状態に通常の国民がおかれていた事実はここで語られている。そしてこのことを、1972年、3年のわれわれが陰に陽に承けついでいることを私は否定できぬように思う。日本共産党五十年史は、この点、そこをマイナス方向で代表しているものの一つとして見られるというものであるだろう。
 その責めは、終局的には日本人民に来る。日本文学にも来る。(略) 」(73年1月20日)

「 
 日韓議定書以来

 1932年下半期の「在阪朝鮮人の生活調査」のことで、「そこでの第一の問題は『貧』のことである。」と私は書いた。この「貧」のことを、ここでこれ以上には書いていることができない。しかしとにかく、「渡来当時ノ所持金」についてみると、世帯主が所持金「0円」、つまり文無しで来た場合が68パーセントだつたことをわれわれは知つておきたい。そしてそれらの世帯のうち――というのは、文無しで来た世帯だけを指すのではない。所持金「10円以下」その他の世帯も含めてのことである。――合計約2800世帯が「三畳以下」に住んでいたことを知つておきたい。一世帯あたりの人数をしらべると、最高が三人の2889世帯、次ぎが四人の2365世帯、次ぎが二人の2242世帯、次ぎが五人の1648世帯だから、ここから直線で類推することはできぬにしろ、およそこのへんの世帯が「三畳以下」に住んでいたろうと見当をつけることは許されよう。大阪と東京とはちがうが、32年当時の東京の模様から推すと、一般日本人の場合これほどのことはなかつたろうと私は思う。私個人の知識で書くことで、正確なことを知つている人には教えてもらいたい。つまるところ、2863世帯が、日本警察の留置所でほど狭くそこに住んでいなければならなかつた。そして留置所では、そこに坐つていれば飯が、どれほどひどいものにしろ配られたが、ここでは、主人は働きに出かけねばならなかつた。細君は台所を処理するうえ、赤ん坊があればそれを育てねばならなかつた。そしてその彼らを、「植民地」なみの貸銀を日本人労働者に支払うために、日本資本家陣がそれだけ余計苛酷にしぼつていたのだつた。しかしそこが、当時の日本の労働者運動、社会主義・共産主義運動の上でどれだけ自覚的に取りあげられていたかいくらか覚束なく私は思う。この手のことを感じで言つてはならぬにちがいないが、当時、「日本帝国主義の植民地であつた朝鮮、台湾の解放の旗」をかかげ、「日本と朝鮮の労働者は団結せよ」と呼びかけていた側が、在日朝鮮人勤労者の「無条件の政治的、経済的平等――殊に社会的平等のため」、不断に日常的にたたかつていたかの点いくらか私は覚束なく思う。なるほど言葉としての原論はあつた。しかし日常具体的に各論がなかつたという記憶は今のところ消すことができない。
 文学に関係するものとしていえば、当時の在日朝鮮人の実態に即して、文学上の主要問題の一つとしてこれを取りあげる点、まつたく私たちが質量ともに弱かつたと私は思う。文学方面について言つて、この点でわれわれの知識が極端なほど狭く、またそれさえも、上からの忘却政策によつて押しながされていた形が強かつたのではないかと思うことがしばしばある。ここで私は徳永直の言葉を引きたい。徳永の言葉は彼自身を描きだしているが、同時にそれは私たち総体の無知、鈍感を描きだしているともある意味で言えはしないか。むしろ言わねばならぬだろう。
 1932年より大分あとのこと、徳永が何かの関係で「満州国」へ出かけて行つたことがある。彼はいわばほうほうの態で帰つてきて、かなり不自由な形で若干のことを書いた。その行きしなのときに彼が私にハガキをくれた。彼はそれを朝鮮通過のときに書いていた。このごろそのハガキが出てきたが、いま文面どおりに写すことはできない。ただ確かにこんな意味のことがそこにあつた。
「いま朝鮮を通過しつつある。朝鮮の労働者はひどい状態で働かされている。朝鮮人労働者がほとんど奴隷的な状態で働かされているのは日本でだけかと思つていたが、本国へ来てもまつたく同様だ……」
徳永は、労働者、勤労者の生活状態に実質的に敏感な作家だった。当時の戦争進行が、政治イデオロギーの上でいろんな揺れを徳永に与えていたにしても、そしてこの揺れがこの敏感に再び揺れを与えていたにはしても、彼のこの実質的敏感はとにかく一貫したものだつた。その徳永にも、代々木五十年史にいう日本人労働者の「植民地的」低貸銀、そしてその際の朝鮮人労働者のそれ以下の実情の忘失ということはぽおつとした状態で事実としてあつた。1920年代から30年代へかけて、日本「内地」の警察留置所で「朝鮮刑法」という言葉が通用していた事実を覚えている人はまだいるにちがいない。留置所のなかで、何かの場合警察官によるリンチが行なわれたが、特に残忍な形のものがこの名で通つていた。日本「内地」の警察留置所で、日本人、「内地人」にそれが加えられる場合それがこの名で呼ばれたということは、朝鮮で「鮮人」にたいして加えられるときは、ことさらそれがこの名では呼ばれなかつたことを意味していただろう。たとえば東京の留置所で、日本人にたいしてわざわざ「日本刑法」でやつつけてやるぞといつてことさら残忍なリンチが加えられなかつたことにそれは見合う。労働条件、労賃の件にしても、朝鮮人労働者の朝鮮内での実態が、日本「内地」なみ、それ以上だつたとすれば、彼らがわざわざ「植民地的」労賃の日本「内地」へそれほどに連れこまれたはずがないと考えることは誰にしろできる。侵略戦争の進行中、それがいつそうそうであることも誰にしろ想像することができる。しかしそれが、一般に本国人に忘れられ勝ちだということも争えぬ事実としてあるだろう。植民地の搾取から来るもののおかげで本国小ブルジョア層(植民地で、たとえば朝鮮で生活する本国人層を含めて)がそこへ引きこまれるだけでなく、本国人労働者階級も一般にそこへ引きこまれるということは事実としてある。東京の留置所で、「本国人」、「内地人」にたいして「朝鮮刑法」リンチが加えられてならぬだけでなく、朝鮮人にたいしてそもそもそれが加えられてならぬことについての「本国人」の感覚が鈍らされる。この呼び名そのものの含む朝鮮人侮蔑にたいする鈍感がそこで養われて蓄積される。それが、関東大震災のときの朝鮮人虐殺にたいする日本人われわれの鈍感につながつていただろう。朝鮮人とまちがわれて殺された日本人の不運には同情しても、まちがわれないで、朝鮮人とわかつて殺された朝鮮人の不幸はこれを頬かぶりで見送るという精神が養われてきたにちがいない。まして、自分とまちがわれて(まちがいとわかつたときでさえ)殺された日本人にたいして、ある朝鮮人たちの感じた深い同情、名状しがたく憤ろしい悲痛の念は想像してみることさえ不可能という日本人精神が養われてきただろう。私は軍国主義植民者勢力、搾取者・圧迫者勢力によつて養殖されてきたこの日本人精神が、混濁した愛国主義と入りまじつて今の現在まで陰に陽にわれわれ自身のなかに残つてきているように思う。
 これ一つをわめきたてて言おうとは私は思わない。けれども、日米安保条約にたいするわれわれの反対闘争のなかにさえそれのなごりがなかつたかは考えて見ていいと思う。
 あのとき、社会党の黒田議員が日韓議定書の件を持ちだした。国会はどよめいた。多くの日本人がわがこととしてそれを受けとつた。しかしあのとき、どれほどのことをわが日本が朝鮮にたいしてしたかにたいする国民の怒りはそれほどには湧かなかつたと私は記憶する。うろ憶えの気味でよくないが、あのとき私たちのなかで、暴慢で本国顔、主人顔をするアメリカ政府側と、卑屈で属領顔、家来顔をする日本政府側とにたいして燃えあがつた国民の怒りのなかに、日韓合併、日本人による「韓国併合」のときの朝鮮人民の怒りと悲しみとがどこまで溶けこんでいたか私ははつきり指摘することができない。あのとき日本側が押しつけた条々、それが沖縄返還のときにも、ヴェトナム問題の今も、なまなましく日本国民に思い出されていたか、いるかについて私は弱々しくしか答えられぬように思う。
「韓国駐箚軍司令官長谷川大将」の押しつけた条々がどの程度われわれの頭に今も出てくるか。
「-軍事行動に妨げなき限り内外人の権利は保護す。
 -軍政地域内に於て軍事行動を妨害したる者は軍律により処分す。
 -軍政地域内に多数人員を集合する場合は予め軍司令官の許可を経るを要す。
 -許可なき外国人は軍政地域内に出入滞在するを許さず。
 -軍政地域内にては次の条項を執行す。(以下略)」
「日本国政府及び韓国政府は韓国警察制度を改善し、財政の基礎を鞏固にするの目的を以て左の条約を締結せり。
第1条 韓国の警察制度の完備したる事を認むる時に至る迄、韓国政府は警察事務を日本国政府に委任す。
第2条 韓国皇室警察事務に関しては……」
『亡国秘密 なみだか血か』の著者は、このヘん、「……警察権は警務総監によつて統べられ、憲兵本位の警察制度を布き……警務機関の統一と共に憲兵の新に増派せられたる者2000余名に及び、是等を主たる機関として十三道の各要所要所に配置したる外、補助機関として従来の巡査を其儘使用し、是に加ふるに多数の密偵諜者を用ひたれば、韓国内至る所警戒陣頗る厳密を極め細鱗と維も漏らさざる網の如きものありき……」と書いている。二人の著者村上、後藤はこうも書いている、「翻て統監側に於ける策戦は如何、智謀半島の邦人中随一と称せらるる少将明石元二郎氏は憲兵司令官に兼ぬるに韓国警務総督の重職に在り、寺内統監を助けて画策至らざるなし、陰然として統監参謀長の態あり、統監の旨を受けて……」
 日韓議定書の件はこうして順調に「韓国を日本帝国に併合する」「併合条約」締結へと進んだ。「日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其の后妃及後裔をして各其の地位に応し相当なる尊称威厳及名誉を享有せしめ且之を保持するに十分なる歳費を供給すへきことを約」した。それからこの仕事で「勲績ある者に対して授爵式」があり、朴泳孝その他に侯爵が、李完用その他に伯爵が授けられた。そこで「寺内総督は併合顛末奏上の為め10月20日帝都に帰る、陛下総督の偉功を嘉みし給ひて特に儀仗兵を賜ひ……」となる。ここに来る経過がどうわれわれに知りつくされているか。それをどうわれわれが新しく思い出しているか。憲兵司令官明石についてなども、このときの彼の働きよりも日露戦争のときの働き、ストックホルムを根拠地にロシアの1905年革命に働きかけたといつた話の類が日本でおもしろおかしく話されているのではないだろうか。
 日本と中国との関係は発展し定着しようとする勢いを見せている。その種の動きは朝鮮とのあいだにも見られる。しかしそこに多少のちがいもある。たしかにそこに原因も理由もあるにはちがいない。ただ私は、日本が朝鮮を完全に「併合」していたことからくる問題、あの「併合条約」の第1、2条に規定された問題とその後のその実施実情、第二大戦後の日本帝国主義からの解放、独立の問題があると思う。「併合条約」の第一条、第二条はこうなつていた。
「第一条 韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す。
 第二条 日本国皇帝陛下は前条に掲けたる譲与を受諾し且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す。」
 ここからして、「全然」また直接に「在阪朝鮮人の生活状態」も出てきたに違いない。端的にいえば、日本帝国の無条件降伏、日本天皇の例の「終戦の詔勅」は、それまでの敵側諸国にたいしてことごとく平伏したものではあつたが、朝鮮・韓国にたいしては全く平伏していなかつた。むしろそれは、朝鮮をわが内へ引きいれておいて他の一連の国々に無条件降伏をしたものだつた。加害者が被害者を、加害者自身に加えておいて他に対するという非道で恥知らずの性格をそれは持つていた。そしてこのことにたいして、日本人民のたたかい、活動は非常に不十分なものだつたように私は思う。そしてそれがそのまま今に及んでいはしないか。隣国中国について見れば、南京事件その他が明らかにされている。あるいは明らかにされつつある。花岡のことなども明らかにされている。無論すべてが明らかになつたのではない。しかし朝鮮と朝鮮人との問題に比べては相対的にそう言えるだろう。朝鮮と朝鮮人との問題は、その点全く手つかずだと言わねばならぬにちがいない。『統一評論』二月号の「沖縄における日本帝国主義の蛮行」(上)を見てあらためて私はそう思う。この種の問題を私はろくに知らなかつた。これには、沖縄への「朝鮮人強制連行と虐殺の記録」と副題がついている。この「連行」は日本「内地」からだけでなく朝鮮白身からのものを含む。沖縄で日本軍は地元の人びとを残酷に扱い、全く残酷に死に追いやつた。同時に、朝鮮人をそれ以上残酷に扱い、言いようなく残忍に死に追いやつた。
 残忍な朝鮮人殺しは慶良間列島でも行なわれた。ずつと前、私は自分の書いたものに「慶良間は見えても睫毛は見えぬ」という沖縄の諺をつけていた。しかしそこで、時はおくれるにしろ、これほどのことがあつたことを私は全く知らずに今に来た。『統一評論』の記述は尾崎陞、藤島宇内たちの調査に基いている。朝鮮と朝鮮人との問題は、ほとんど新しく、あらためてそこに近づかねばならぬ性質のものとしてわれわれの足もとにあると思う。(73年3月22日)
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2010.04.06 Tue l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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