QLOOKアクセス解析
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top
東本高志氏は金光翔さんの「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利を(も)強調すべき――朝鮮学校排除問題」という記事への批判文を書かれたが、これに対する金さんの「東本高志氏への反論」に対しては、もう一週間以上経ったが、直接的には何も反応されていないようである。私は東本氏のブログを今回はじめて拝見したのだが、ブログタイトルが、「「草の根通信」の志を継いで」であることを知り、ちょっとした感慨をおぼえた。「草の根通信」といえば、大分県中津市在住の作家の故・松下竜一氏。私は「草の根通信」は読んだことはないが、松下氏の著書は『豆腐屋の四季』をはじめわりあいよく読んでいて、数年前氏の死去を知ったときは「もう少し書いてほしかった」と残念に思うと同時に、病身をおしての長い間の地道な奮闘努力に対し、しみじみ「お疲れさま」という気持ちをもった。そういう松下氏の志を継ぎたいという東本氏の意思がブログタイトルにも表われているのだと思うが、今回の文章およびそれをめぐる言動を拝見するに、残念ながら、松下氏ならば決してこういう行動はしないのではないかと感じることがあった。それは次の2点で、一つは文章の読解について、もう一つは、意見の交換や議論の際の、それこそ東本氏自身の言葉を用いていえば、「作法」ということについてである。

 1.文章の誤読の問題

東本氏が批判の対象にした金光翔さんの記事が、授業料実質無償対象から朝鮮学校のみを排除しようとする政府方針に反対し抗議する声明文などを見て、「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」への言及が非常に少ない、それはもっと強調されるべき、と述べているものであることは明白であり、この点については東本氏もその趣旨を理解しておられるようである。ただし、東本氏の目には、声明文の多くが「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」を十分に含んでいる、そのことをもきちんと主張しているように映ったということで、この点金さんと観方が異なったわけである。しかしそれならば、東本氏が自身の記事で引用提示している声明文について、「これ、このとおり。歴史的経緯に触れた声明文もたくさんありますよ。」と述べるだけでよかったのではないか。なぜ、「仮定の論」、「マッチポンプ的な論文作成の手法」、「自らが仮定したいわば架空の論でしかない論」、あるいは「仮定上の問題への作為的反論」というような認識を示すことになったのだろう。

金さんが記事中で植民地支配や歴史的経緯に触れていない声明文や抗議文の実例を挙げなかったことをもって、東本氏はそれを「仮定の論」「架空の論」と受けとめたようだが、実例を挙げない理由が、声明文を出すという行為そのものに対して「一定の評価をしている」からであると読まなかったのだとしたら、それは東本氏の読解力不足を示しているに過ぎないのではないだろうか。普段金さんのブログを読んでいる人なら分かることと思うが、これまで金さんが意見を述べる場合に根拠や理由を曖昧にしたり明示しなかったりというようなことはまずなかったように思う。したがって、今回具体的な実例をあげない理由は、「在日朝鮮人の歴史的経緯に基づいた権利」を強く訴える文が少ないことへの懸念を一方で持ちながら、しかし声明文のようなかたちで抗議の声を挙げることに対しては「評価をしている」からこそであることは、一読すればまずたいてい理解できたのではないかと思うのだが。

それから、東本氏は金さんの「懸念」を「マッチポンプ」と認識したようであるが、これも誤読、あるいは読み取りの浅さを示しているのではないかと思う。ここ数年の朝鮮総連への弾圧に対する社会的容認や黙認、佐藤優氏のような国家主義的・排外主義的言説が岩波や週刊金曜日をはじめとしたリベラルと広く社会に認知されている集団や個人に黙認され、高く評価されつづけてきているという現状について、これまで金さんはつよく異議申し立てをし、批判をつづけてきた。こういう金さんの経験、日本社会への観点からすると、今回の「懸念」があるいは杞憂であれ、声明文に歴史的経緯への言及が少ない(と金さんに思える)ことが意図的・戦略的なものではないかという懸念を持たざるをえなかったということは、東本氏も感じとってもよかったのではないだろうか。

 2.議論における作法の問題

以上、東本氏の読解に対する疑問を述べたが、次は議論における作法、対応の仕方ということについてである。東本氏は、金さんのブログ「私にも話させて」をご自身のブログで「お気に入り」に登録しておられるようであり、普段からよく金さんの文章を読んでいるはずなのに、今回明確な根拠も示さずに、いきなり「架空の論」とか「マッチポンプ」などの強烈な言葉を用いていることには、自分が正確な読み取りをしているかどうか一旦立ち止まって内省を試みてみたという痕跡や気配が見られないこともあいまって、批判や議論をする場合の作法に疑問を感じた。松下竜一氏には人一倍その種の繊細さ・慎重さが身に備わっていたと思うのだが。またそれ以前に、金さんのあの文章を読んで、松下氏ならば東本氏のような読み取りは決してしなかったと思う。そのような点で私は松下竜一氏を信頼できた。だからこそ乏しい財布をはたいて新刊本を購入したりもしたのである。

あるいはこれは東本氏の意図的な行為ではないかも知れないが、たとえ意図的でないとしても、これが読者にどのような受けとられ方をするかという点を考えなかったのだとすれば、やはりその姿勢は疑念をもたれても仕方のない行動だと思えるのだが、東本氏は、金さんの反論を受けた4日後、そのことには一切触れることなく、他のブログに掲載されていたという吉野弘の詩と茨木のり子の文章とをブログに掲載し、次のように述べている。

「…(略)… 私も吉野弘さんの「祝婚歌」という詩と茨木のり子さんの「祝婚歌」という文章を紹介させていただこうと思います。私がなぜおふたりの詩と文章を載せたくなったのか。その理由はおふたりの詩と文章を読んでいただければご了解いただけるものと思います。」(下線は引用者による)

金さんの記事に対する東本氏の批判文がブログに公開されたのは3月27日、これに対する金さんの反論は30日、そして「祝婚歌」という詩と文章が東本氏のブログに載ったのは4月3日だった。私は、東本氏は金さんの反論に自分の言葉で答える代わりに、この詩と文章をブログに載せたと思ったのだった。そして詩や文章など文学作品を東本氏が自己の行為の弁明のために利用しているのではないかとも感じたのだが、ちがうだろうか。もしそのような意図や思惑なしにこの行動がなされたのだとすれば、あまりに鈍感過ぎる。どちらにせよ、ひどく文学精神に反する行為のように感じた。

東本氏のブログには、ブログタイトル「「草の根通信」の志を継いで」のすぐ下に、「大分在住者の政治的・文学的発信」との言葉がある。この行為も「文学的発信」だとすればこれはその種のものとして最悪のケースではないだろうか。他人のある文章に対して自分の方から批判を行ない、それに対して相手はすぐさま精緻な反論を率直に行なった。それならば、批判した当事者としては自分の言葉でその反論に応えるしか方途はないはずである。それをしないで、「私がなぜおふたりの詩と文章を載せたくなったのか。その理由はおふたりの詩と文章を読んでいただければご了解いただけるものと思います。」などと曖昧とも思わせぶりともつかない言葉を添え(いったい読者は何を了解すればいい?)、他人の文学作品を掲載し、これでもって議論に代えようとするのなら(少なくとも読者はそのように読むし、読まれても文句は言えないだろうと思う。)、東本氏の批判に自分の言葉で応答した金さんに対して大変非礼であると同時に、この詩と文章およびその作者に対しても失礼ではないだろうか。また松下竜一氏がこのことを知ったら何と言うだろうか。こと、この問題に関するかぎり、私には東本氏がとられた対応・姿勢には感心できない面が多かった。
関連記事
スポンサーサイト
2010.04.08 Thu l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top

コメント

コメントの投稿












トラックバック

トラックバック URL
http://yokoita.blog58.fc2.com/tb.php/62-938ca6ec
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。