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4月23日追記
本エントリーで、木下豊房氏の文章を引用させていただいたが、その引用文について木下氏から一部訂正があるとのコメントをいただいた。訂正箇所は、亀山郁夫氏の訳文の箇所で、「なぜならそれは神の愛の姿であり」は引用の誤記であり、実際の亀山訳は「なぜならそれは神の愛の似姿であり」になっているとのことである。(下線は管理人による)
木下氏のサイトにおける文章はすでに訂正されているので、本エントリーでも引用文を差し替えさせていただいた。


先日、木下豊房氏のサイトで「亀山訳引用の落とし穴」という一文を読んだ。佐藤優氏は大分前から文芸雑誌「文学界」に「ドストエフスキーの預言」というエッセイを連載していたようである。そういえばどこかでそんな話を聞いたような気もするが、どうやら相変わらずあやしげなことを書いているらしい。「あやしげなこと」などと言うのはいかにも言葉が過ぎるようだが、しかしもうそうとしか思えないのである。私の知識などは何事においても狭く小さいものでしかないが、それでも関心があるなどの理由で多少の知識をもっていることについて佐藤氏が書いているのを読んでみると、必ずといっていいほど腑に落ちない点がある。述べられている事実関係に誤りがあったり、解釈が頓珍漢だったりで、書いている事柄に関して正確な知識をもち、全体を把握した上でものを言っているとはとうてい思えないことがしばしばなのだ。このことは、他のブログなどでもよく指摘されていることである。たとえば、

http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-fd39.html (数学・自然科学系)
http://clio.seesaa.net/article/143204107.html (歴史系)
http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A1R23I7DNMSHYT/ref=cm_pdp_rev_title_1?ie=UTF8&sort_by=MostRecentReview#R2RRKQ8CVLNMLH (「国家の自縛」書評・経済系)、等々。

今回、木下氏の文章を読ませていただいても、これまでとまったく同じ感想をもった(掲載号を図書館で探してみたが、借り出されているのか見つけることができず、残念なことに今のところ参照していない)。まず、長くなるが、下記に木下氏の文章を引用させていただく。

「……佐藤は文芸誌「文学界」に連載中の「ドストエフスキーの預言」というエッセイで、ゾシマ長老の説話の次のような一節を含むかなり長い文章を亀山訳から引用し、それに対する自分のコメントを付けているのである。

「兄弟たちよ、人々の罪を恐れてはいけない。罪のある人間を愛しなさい。なぜならそれは神の愛の似姿であり、この地上における愛の究極だからだ。神が創られたすべてのものを愛しなさい。<以下省略>」(亀山訳2巻451頁)

この個所で佐藤優はこうコメントする。「ここでゾシマは、罪ある人間を<神の愛の似姿>としている。これは神学的に間違っている。確かに人間は<神の似姿>である。しかし、神は罪を有していない。従って、罪まで含めた人間を神の似姿とすることは、罪の責任を神に帰すことになる」云々。ここで佐藤はあたかもゾシマ長老の考え方を訂正する役回りを演じているかのようであるが、実は亀山訳の不正確さを踏まえての佐藤の解釈そのものが見当はずれなのである。ロシア語原文を見てみよう。(括弧内の訳は亀山訳に沿いながら、ポイントの個所を傍線で示す)

 «Братья, не бойтесь греха людей, любите человека и во грехе его, ибо сие уже подобие божественной любви и есть верх любви на земле. Любите всё создание божие, <・・・> »(14-289)(兄弟たちよ、人々の罪を恐れてはいけない。罪ある人間を愛しなさい。なぜならそれはもはや神の愛に似た行為であって、地上における愛の極致であるからだ。神が創られたすべてのものを愛しなさい)

 亀山は「罪ある人間を愛しなさい」を受けての「神の愛に似た行為」(«подобие божественной любви»)を「神の愛の似姿」と訳したことによって、佐藤の見当違いの解釈の原因を作った。早とちりした佐藤は原文を確かめることもなく、前文を受ける 「それは」(«сие»)を「罪ある人間」ととらえ、「神の似姿」に重ね合わせた。まともにロシア語を読める者ならば誰にも明白であることであるが、「それは」(«сие»)は文法的に中性形で、「罪ある人間を愛すること」という「行為」を受けているのであって、男性形である「人間」(«человек»)を受けるはずがないのである。

 ちなみに先行訳は、「罪ある人間を愛すること」を受けて。「なぜなれば、これはすでに神の愛に近いもの」(米川訳)、「なぜならそのことはすでに神の愛に近く」(原訳)、「なぜと言うて、それこそが神の愛に近い愛で」(池田健太郎訳)、「なぜならば、これはすでに神の愛に近いもので」(小沼訳)、「なぜなら、それこそが神の愛に近い形であり」(江川訳)となっていて、亀山のようなまぎらわしい誤訳をしているものは一つもない。」

木下氏が参照できなかったという小沼訳、江川訳を見てみたところ(管理人注:木下氏の最初の文では小沼訳、江川訳はまだ参照されていなかった)、次のとおりであった。

「 江川卓訳(集英社 p360)
 お坊さま方、人間の罪を恐れず、罪あるままの人間を愛されるがよい。なぜなら、それこそが神の愛に近い形であり、この地上での愛の極致だからである。神のすべての創造物を、その全体をも、一粒一粒の砂をも愛されよ。一枚の木の葉、一条の光をも愛されよ。動物を愛し、植物を愛し、一切の物を愛されよ。一切の物を愛するとき、それらの物のうちにひそむ神の機密を会得できよう。いったんそれを会得したならば、あとは美ますます深く、たゆみなくそれを認識していくようになろう。」

 小沼文彦訳(筑摩書房 Ⅱ p128)
 諸師よ、人間の罪を恐れてはならない。罪あるがままの人間を愛するがよい。なぜならば、これはすでに神の愛に近いもので、この地上における最高の愛であるからである。神のあらゆる創造物を、その全体をも、そのひとつひとつをも愛するがよい。一枚の木の葉、ひとすじの日光をも愛すべきである。動物を愛し、植物を愛し、ありとあらゆるものを愛さねばならない。あらゆるものを愛するならば、あらゆるもののうちに神の秘密を見出すであろう。一度それを発見すれば、あとはまいにちまいにち、いよいよ深く、いよいよ多くのものを認識して疲れを知らぬようになるであろう。そしてやがては、今度は完全な普遍的な愛で、全世界を愛するようになるに相違ない。」(下線は引用者による)

以上のように、江川訳、小沼訳ともに、確かに木下氏が引用している他の先行訳と事情はほぼ同じであった。そして、前後の文脈からして、この訳は大変自然だと思う。死を前にしたゾシマ長老は自分の弟子たちに人間どうしが互いに愛し合うことをさとし教えているのだから、この場面でゾシマが「罪ある人間」を「<神の愛の似姿>と」述べるなどは、内容が不自然であるばかりでなく論理的にもおかしいだろうと思う。佐藤氏は、亀山訳の「罪ある人間を愛しなさい。なぜならそれは神の愛の姿であり」を読んで、「ゾシマは罪ある人間と神の愛とを同一視している」と受け取り、そういうゾシマは神学的に誤っている、と指摘しているわけだが、おかしい・誤っていると思ったのなら、そのときなぜまずもって他の訳文を参照してみなかったのだろう。手間を厭わず米川訳でも原訳でも見ていれば、すぐに自分が誤読していることに気づいたと思うのだが…。そもそも、もし佐藤氏の指摘していることが事実だったとしたら、しごく単純な内容の疑問なのだから、厖大な数のこれまでの読者・研究者が誰も気づかなかったというようなことがそうそうありえると思っているのだろうか。これからはまず最初に自分の読解力をこそ疑ってみるのがいいのではないかと思う。このようなことでは読者に迷惑がかかるばかりである。

私は、「文学界」(2010年1月号)の連載第九回「無神論者ゾシマ」を図書館で読んでみたが、冒頭から大変不愉快な印象を受けた。佐藤氏は、こんなことを書いている。

「 ドストエフスキーは愉快犯である。神などまったく信じていない。神を信じたいと思っても信じることができない現代人の一人である。『カラマーゾフの兄弟』におけるテーマも無神論者について描くことであった。」

自分には『カラマーゾフの兄弟』の何もかもが分かっていると言わんばかりのなんとも傲慢なものの言い方だと思うが、「ドストエフスキーは愉快犯」とはどういう意味だろうか。ドストエフスキーは神を信じていないにもかかわらず、信じたふりをして読者を欺き、その状態をおもしろがっているとでも言いたいのだろうか。ドストエフスキーは「神を信じたいと思っても信じることができない現代人の一人である」とか、『カラマーゾフの兄弟』のテーマは「無神論者について描くことであった」と躊躇なく言い切っているが、その理由を述べるのは評者の当然の務めだと思うが、それは書かれていない。下記の場合も同様である。マサリクというチェコの学者について、佐藤氏は、

「大審間官もゾシマ長老も、同じような無神論者なのである。マサリクは、このことに気づいた数少ないドストエフスキー研究家なのである。」

と述べているが、「大審間官もゾシマ長老も、同じような無神論者」であるという見解は初めて聞いた。佐藤氏がこのように断定する根拠は何だろうか。「マサリクは、このことに気づいた数少ないドストエフスキー研究家」と述べているところを見ると、佐藤氏は、自分自身をこれまでドストエフスキーとその作品について述べてきたマサリクを含む多くの論者の一段高みに立たせて、大審問官やゾシマを信仰者と見るのは誤っているという判断をくだしていることになる。このような兆候は佐藤氏には常に見られる特徴なのだが、自分自身を知らなさすぎると言えるだろう。それにしてもこういう重大な断定をするからには、その理由をここでしっかり説明することは発言者の当然の責任のはずである。しかしいつものように佐藤氏は決してそうはしない。ただ、えんえんとマサリクの文章を引用するだけである。これでは根拠もなく思いつきで、あるいは好き勝手に、「大審間官もゾシマも、無神論者」と決めつけていることにしかならないのではないだろうか。佐藤氏も雑誌社もこうやって読者を騙るのはもういい加減にしてほしい。

音楽家の坂本龍一の父親は、長年文芸雑誌の編集者を務めた人だったそうだが、辺見庸との共著「反定義 新たな想像力へ」(朝日新聞社2002年)において、坂本龍一は父親のこんな発言を紹介している。

「うちの父がいま八十歳です。「どうしてこんなになっちゃったんだろう」というんですよ。「日本人ってどうしてこんなになっちゃったんだろう」って。原発で人為的な事故が起こったでしょう。しかも誰もきちんと責任をとらない。ぼくにポロっと言ったことがありますよ。「日本人は、こういうことだけはやらなかったのにな」って。父の時代の日本人は、こういう事故は起こさなかったと。もう生きていたくないという気持ちもあるでしょうね。見たくないっていう。」

想像するに、最近の出版・編集のあり方についても、もし聞かれたならば、この人は原発事故に関する発言と同様のことを言うのではないだろうか。いくらなんでも亀山郁夫氏のドストエフスキー翻訳や佐藤優氏の評論などの言説内容が一切の批判を封じ込める形でほぼ全マスコミによってもてはやされている現状はあまりにも異様であり、見ていて、つい一昔前までの出版・編集者は「こういうことだけはやらなかった」という感想が湧いてくるのを禁じえないのである。
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2010.04.22 Thu l 文芸・読書 l コメント (2) トラックバック (0) l top

コメント

訂正お願いします
「亀山訳引用の落としし穴」の筆者、木下です。森井氏(ペンネーム)から先ほど指摘を受けて、古いバージョンをアップしていたことに気づきました。最初、福井氏の間違った引用を鵜呑みに書いたためそうなったのですが、亀山訳の「愛の姿」は「愛の似姿」が正しいのです。佐藤の見当違いな理解を誘う曖昧さには変わりはないので、基本的な論旨には間違いありません。早速、新しいバージョンでアップし直しましたので、ご一読の上、該当箇所の訂正をお願いします。ご迷惑をかけました。
2010.04.22 Thu l 木下豊房. URL l 編集
木下さま
木下さま
訂正の件のご連絡、ありがとうございます。文章を引用させていただき、大変ご面倒をおかけすることになってしまいましたが、先程記事に書き加えました。たしかに、「神の愛の姿」と「神の愛の荷姿」とでは相当に意味がちがってきますね。森井さまは本当によく気がつかれる方ですね。どうぞよろしくお伝えください。

前々から木下さまか萩原さまにお聞きしたいと思っていたのですが、この機会に一つ質問をさせていただいてよろしいでしょうか。「小説宝石」に亀山氏が『悪霊』の翻訳をされていましたが、一読して、気になっているところがあります。ステパン氏がワルワーラ夫人と一緒にペテルブルグに行ったときのことを9年後に回想する場面です。江川卓訳(上巻・p32~33)では次のようになっています。

「 そうした公開の文学講演会の一つで、彼がはじめて講師として登壇したときには、熱狂的な拍手が五分間も鳴りやまなかった。九年後、彼はよくこのことを追想して涙したものだが、これは感謝の涙というより、むしろ彼の芸術的な性情に由来する涙であった。「誓ってもいい、賭けてもいい」と彼はよく私に言った(ただし私一人にだけ、それも内密にだが)。「あれだけの聴衆のなかに、ぼくのことをほんのちょっぴりでも知っている人間が一人としていなかったのだからねえ!」この告白は注目すべきものだ。つまり、もし彼がすでにあのとき、壇上にあって、感激に酔いしれながら、しかも自分の立場をそれほど明確にわきまえていたとするなら、彼は鋭い知力の持主ということになるし、また、もし彼が九年を経てなお、屈辱感なしにあのことを回想しえなかったとするなら、彼について鋭い知力をうんぬんできるわけもないからである。」

問題は文の最後の「屈辱感なしにあのことを回想しえなかったとするなら、彼について鋭い知力をうんぬんできるわけもないからである。」という部分なのですが、亀山訳では、「屈辱感なしにあのことを回想できたとするなら、……」と訳されていました。この部分はステパン氏の性格を読み解く大事な場面だと思うのです。もともと意味を正確に理解することがかなり難しいところではないかと思いますので、亀山氏はおそらく意識的にこのように訳したのではないかとは思いましたが…。米川訳も参照してみましたが、江川訳と同じように「九年もたった後、侮辱の感なしにこれを回想することができなかったとすれば、彼には犀利な機知がないということになる。」となっています。

全然急ぎませんが、そのうちに教えていただければ大変嬉しく思います。
2010.04.23 Fri l yokoita. URL l 編集

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