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松川事件が起きたのは1949年だったから、昨年(2009年)は発生から60周年の年であった。このことについてブログですこし触れたところ、その後、週に一、二度だが、検索によるアクセスが切れ目なくある。松川事件への関心は細いながらも今も依然として続いているようである。事件の重大さ、いまだ解明されない真相への興味関心によると思われるが、それだけではなく、松川事件にはこれについて読んだり調べたりしていると、不思議と元気づけられる要素がいろいろあるのだ。たとえば、20人の被告人のうち、自白をとられてでっち上げ調書を作られた人が赤間被告をはじめ半数近くもいたのに、最後まで誰一人として闘争から脱落しなかったことにも心を打たれる。

裁判員制度が始まったが、これには私は賛成できない。常識や市民感覚を裁判に取り入れるなぞ、何のことだか分からない。専門の裁判官には常識や普通の市民感覚が備わっていないというのだろうか。刑事裁判に望むことは何よりも誤りのない判決であり、そのための丁寧な証拠調べである。被告人の防御権が守られていないという話をよく聞くが、これが一番恐ろしい。自分には関係ないと思っていても、やがては自分たちに返ってくるのだ。個人の思想・信条による辞退・拒否が許されないという点では憲法違反でもあると思う。

松川事件に学ぶことは裁判一般についても具体的な個々の裁判についても、今でも数多くあると思う。ここ数年新しい現象として気になるのは、裁判の審理の問題とは別に、ある事件の冤罪(国策捜査と呼称される事件も含む)を主張するに際して、その理由・根拠を実証的に明らかにしようとする姿勢を一切抜きにして、あたかも冤罪が自明のことであるかのように話したり書いたりしている人たちが相当目につくことである。これは冤罪の重大な犯罪性を希薄にする結果をもたらしかねず、非常に危険な傾向だと思う。今日は、二審の有罪判決後、徹底的に判決を検討し、月刊雑誌『中央公論』によって批判文を書き続けた広津和郎が、その最中の1957年に名古屋で行なった講演を「証言としての文学」(學藝書林1968年)から抜粋して掲載する。また、広津和郎がそもそも松川事件に関心をもつ契機となった20人の被告たちの文集「真実は壁を透して」からいくつかの文章を後日掲載したいと思っている。

この講演でも、広津和郎は、被告たちから送られてきた文集を読んで、「これはうそでは書けない文章だと感じた」と述べているが、そのことについて別の場所で、「特に赤間くんの文章に対してそのように感じた」と述べているのを読んだことがある。広津和郎のこの発言内容はよく知られていることだが、ただ、今でも往々にして真意は不正確な伝わり方をしているのではないかと思う。「真実は壁を透して」を実際に読んでみると、たいていの人は広津和郎と同じように「被告たちの言うことのほうが本当ではないか」とか「どうもこの事件はおかしいぞ。」などと感じるのではないかと思うのだが(私もそう感じた)、ただそれだからといって、広津和郎はその時点で「被告は無実だ」と決めつけているわけではまったくない。「うそでは書けない文章だと感じた」から、このまま放っておくわけにはいかない、これから丁寧に、徹底的に裁判記録を調べてみようと考えたと解するべきではないかと思う。「被告の目が澄んでいるので無罪だ」と広津和郎と宇野浩二の二人が言ったという伝説についても同じことが言えると思う。

最高裁において辛うじて(採決の結果は7対5の僅差であった!)仙台高裁差戻しが決定されたのは、1959年(昭和34年)8月10日だったから、この講演が行なわれたのはその2年前だったわけである。それでは、だいぶ長くなるが、広津和郎の講演である。(強調はすべて引用者による。単なる可能性の問題が実行済みの行為にされたり、出廷した証人の否定の言葉を肯定にすり替えたりなど、裁判官の恣意的な判断・行動が広津和郎によって指摘されているが、実は「埼玉愛犬家殺人事件」の風間博子さんの裁判でもこれとそっくり同じ事態が数多く見られる。)

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 「松川裁判について」 広津和郎講演

 わたしは講演が苦手なので、文芸講演というようなものだと、此処に立つ気はないのですが、裁判について語れということでしたので承諾した次第であります。裁判といっても日本の裁判全体を調べているわけではなく、この約四年ほど松川事件について調べつつあるので、それについてならば私にも話す材料がありますし、それにこの裁判については、是非皆さんに聞いていただきたい気持もあるのです。それでこの機会に松川事件について少ししゃべらしていただこうと思います。わたしは今『中央公論』、に、松川裁判に対する批判を連載しつつありますが、既に三年半たちますのに、まだなかなか終らないような複雑なものですから、わずかな時間にその全貌を語るということは到底不可能です。ですからそのほんの一部しか語れないと思います。
 大分若い方もいられるようですから、松川事件がどういうものか或は御存じないかと思われるので、大体の輪郭を初めにお話しいたそうと思います。これは今からちょうど八年前の昭和二十四年八月十七日に、東北線の松川駅と金谷川駅との間のカーヴで起った列車転覆事件で、幸い乗客にはけが人はなかったのですが、機関士が三人死にました。そしてそれは自然事故ではなく、明かに誰かが故意に線路を破壊して計画的に列車を転覆させたということは明瞭でした。そこで捜査陣は動き出しましたが、当時の国鉄の首切りに対する反対闘争を行っていた福島の国鉄の労組が、同じく首切り反対闘争中の東芝の松川工場の労組を引き入れて、協力してこの事件を惹起したという想定のもとに、国鉄福島労組から十名、松川労組から十名、都合二十名の被疑者を検挙しました。この二十名はやがて起訴されて被告人となり、第一審、第二審とも有罪と認定され、死刑、無期を始め、十五年、十三年等の重罪の判決を受けましたので、今最高裁に上告中であります。これが松川事件の輪郭であります。
 昭和二十四年といいますと、日本はまだアメリカの占領下にありました。名義は連合国の占領下というわけですが、実質的にはアメリカの占領下と見る方がほんとうだと思います。その年国鉄に大量首切りがありました。実に九万七千人という大量首切りでしたが、それは占領軍の指令によったものでした。シャグノンというアメリカの中佐が当時国鉄を牛耳っていましたが、そのシャグノン中佐の指令でこの大量馘首が強行されたということになって居ります。七月四日の第一次の首切りで、三万七千人が馘首されましたが、非常にお若い方でない方は覚えていらっしゃることと思いますが、その馘首に続いて下山事件というのが起りました。つまりその馘首発表後間もなく、国鉄の下山総裁が行方不明になって、やがて鉄道線路の上に死体となって発見されたのです。その死体は二つの大学で検べましたが、一つの大学では死後轢断、他の大学では、生体轢断と鑑定されました。前者ならば明かに他殺であり、後者ならば、生きている総裁を線路に投げ込んだ他殺とも取れれば、又総裁みずから線路にとびこんだ自殺とも取れるわけです。自殺か他殺かで当時の新聞は沸き立ちましたが、いつかそれは有耶無耶の中に捜査が打ち切られて、今日では謎の事件となって居ります。この事件については、昨年のサンデー毎日に警視庁の捜査課の人たちの座談会が出ていましたが、それによると、第一次首切りの二日前に、夜中にシャグノン中佐が下山邸に自動車を乗りつけ、ビストルをテーブルに置いて、下山総裁に馘首断行を迫ったという事実があるそうです。警視庁の捜査課の人たちの座談会ですからこの事は信用してもよいかと思います。下山総裁の轢死と関係があるかどうかは俄かに断じ得ませんが、併し重要な参考資料の一つにはなると思います。
 この年は妙な年で、列車事故というものがその前から無暗に新聞やラジオで報道されました。殊に六月ぐらいから非常に多くなりました。それがみんな左翼系の人たちのやった仕業であるというように新聞やラジオで宣伝されたのであります。そこに下山総裁が轢死体となって現われたので、それも亦国鉄労組の左翼系の者のしわざであるとか、或は丁度その頃北朝鮮系の朝鮮人が問題になっていましたが、その朝連の人達のしわざであるとか、新聞やラジオで宣伝されたわけであります。そのために三万七千という大量馘首に立上った国鉄労組の反対闘争の出端が挫かれてしまいました。
 それから十日後の十三日に更に六万という大量馘首が発表されました。それに続いて起ったのが皆さん御存じの三鷹事件であります。無人電車が暴走して人を殺し、人家を破壊したのです。これも亦左翼系の労組のしわざであると宣伝されました。そのために国鉄労組の首切り反対闘争の立上りが又しても押えつけられてしまいました。かくして二回合せて九万七千人という驚くべき大量馘首が、スムースに実現された次第です。併し下山事件、三鷹事件によって馘首反対闘争の出端を挫かれた国鉄労組は、その翌月になると再び立上り、全国的に気勢を揚げ始めました。中でも福島の労組支部は最も尖鋭だといわれていましたが、そこに起ったのが松川事件で、この列車転覆事件も、左翼系のしわざであると宣伝されたために、また立上ろうとしていた労組の反対闘争は再びそれによって押えつけられてしまいました。結局九万七千人という大量首切りは、下山事件、三鷹事件、松川事件という三つの稀有な事件が引続き起ったことによって労組の抵抗を受けずに完成してしまったわけであります。この事についてはいろいろいう者があり、かかる幾つかの事件の裏側には何か政治的な陰謀が隠されているという噂が一部に起りましたのも、無理のないことかと思います。というのは、三鷹事件の直後には時の総理大臣の吉田さんがこれは左翼系の者がやったものだという声明をしていますし、また松川事件が起ると、まだ現地で捜査も全然進まないその翌日、官房長官の増田甲子七氏が、「今回の事件は今までにない兇悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他の各事件と思想的底流に於いては同じものである」と声明しているのですから。まだ捜査陣にも何もわからない筈の頃に、時の政治の責任者たちが、こんな声明をしたのですから、左翼弾圧のための政治的工作ではないかという噂が立ったのも止むを得ないことかと思います。しかし、それだからといって、これ等の事件の裏側に政治工作が果してあったという証拠を掴むことは、今のわれわれには出来ません。従って、左翼弾圧のための保守系の計画的な政治工作だなどとわれわれはいうことはできません。証拠がない事についてはわれわれは想像で物を言うことは避けなければならないからであります。私達は証拠による事実だけを述べるに止めなければなりません。 
 以上が松川事件が起った当時の社会的政治的情勢のほんの輪郭であります。さて、わたしがなぜ松川事件に関心をもったかということを少しばかり申しますが、実は最初は何の関心ももっていなかったのであります。というのは新聞、ラジオその他でもって、その年に引続き起った鉄道事故がみんな左翼系のやったことであると聞かされていたので、松川事件もほんとうにそういう思想的傾向の人たちがやったものであると、わたしは簡単に思い込まされていたわけであります。それですから第一審の松川事件の公判が始まったということにも殆んど関心をもちませんでしたし、有罪の判決があってもなんとも思いませんでした。第一審の判決後、被告諸君は刑務所から、無実を訴える手紙を各方面に送っていました。それは随分沢山送られたものと思われます。というのは、その当時ばかりでなく、四年半程の間の統計ですが、刑務所から訴えた手紙や葉書等の郵便代だけで八十万円に達したというのですから、それを見ても想像されます。それ程多方面に送ったのですから、無論わたしのところなんかにも来ていたに違いないと思うのですが、最初わたしは関心をもっていなかったものですから、殆んどそれに気がつきませんでした。恐らく開封しても見なかったのではなかろうかと思います。ところが、そのうちに、被告諸君の文章を集めた「真実は壁を透して」というパンフレット風の小冊子が送られて来ると、私は不図封を切ってページをめくって見たのです。そして読むともなく眼をやっている中に、その文章に惹きつけられ始めました。これは後に世間でわたしたちが甘いといわれた点なんですが――私はこれはうそでは書けない文章だと感じたわけなのです。そこで引き入れられて全部読み通してみると、どうもこの被告諸君は無実だ、としか考えられなくなって来ました。わたしは宇野浩二にその話をすると、宇野は既に読んでいて、自分もあれはひどい事件だ、被告たちの訴えることが真実ではないかと思っているというのです。そこで会う度に二人は松川事件について語り合いましたが、それでは二人で――ちょうどそのころ第二審の裁判が仙台で行われていましたので――傍聴に行ってみようではないかということになり、宇野と一緒に仙台に出かけて行きました。そこで傍聴したり、被告諸君に会ったり、又第一審の法廷記録をできるだけ集めて、第一審の判決文と対照してみたりしました。どうも納得がいかない、被告諸君の主張がほんとうのことに思われる。そういうようにしてだんだんこの事件に関心を深めていった次第であります。
 前に申しました通り、「被告諸君の文章はうそでは書けない」と私たちのいったことは、当時世の中の物笑いになりまして、四十年も文学に携わっているリアリズムの作家たちが、文章がうそでは書けないなんていう言い方で、人間が無実であるか、無実でないかをきめるのは甘過ぎる、というので非難攻撃を受けたわけです。それからこれは宇野が書いたのだったと思いますが、被告諸君の目が澄んでいたと書いたことも、またわれわれの甘さだと言って嘲笑されました。殊に第二審の判決があった時には、それ見ろ、法治国であるから裁判所のやることを信じれば好いのに素人のくせに余計なことを言うから、そんなどじを踏むのだといった調子で、暫く宇野や私は四面楚歌の声でした。

 そんな余談は切り上げて、これから松川の事件について話しますが、八月十七日に松川の列車転覆事件が起りますと、捜査陣は非常にたくさんの町のチンピラたちを洗いましたが、九月十日に至って赤間勝美君というやはり七月四日に首を切られた一人で、永井川信号所の線路工手をしていた当時十九歳の少年を逮捕しました。これも町のチンピラ風の、けんかなどを事としていた少年ですが、逮捕の理由は傷害容疑というのでした。それは前に友達の頭をなぐったとかいうような他愛ないことでしたが、それを翌年の九月の十日に至って逮捕するなどということは、考えただけでもおかしなことです。無論友達の頭をなぐったという問題はただの逮捕の口実であって、目的は松川事件を調べることでした。警察では、事件の起った八月十七日の前の晩は、虚空蔵さんのお祭りの晩でしたが、その虚空蔵の境内で、その晩赤間君が今晩列車転覆があると友達たちに向って予言したろうと言って責めたてたわけです。赤間君がそれを否定すると、赤間君の友達を二人つれて来て、その友達に赤間君が確かに「今晩汽車が転覆するといった」と赤間君の面前でいわせたわけです。二人とも赤間君と同年配で、同じく町のチンピラ少年たちでした。赤間君は如何に否定しても友達二人が警察官の前でそういうので窮地に追い込まれました。それで結局予言したことにされてしまったのです。
 この二人の少年は後に第一審法廷に検察側から、証人として呼び出されています。それは検察側に有利な証言をさせるために検事が召喚したのですが、併し法廷に立った二人の少年は、赤間君が予言したなどという事は嘘であること、それは、自分たちが朝の五時から夜の十一時までその問題で警察で調べられて、赤間が予言したといわないと「今晩泊めるぞ」とおどかされるので、止むなく赤間が予言したなど言ったのだという事を暴露して、召喚した検事をあわてさせました。けれども、第一審の裁判官も第二審の裁判官も、この二人の少年の法廷での証言を斥けて、警察での前の供述を取上げ、赤間君が予言したと認定したのです。そしてこの予言を、被告諸君有罪の緒としたのです。
 また警察では、松川事件について赤間君に自白させるために、赤間君が婦女凌辱をやっているといって、責め立てました。赤間君が否定すると、被害を受けたという娘さんの調書を持ち出して赤間君に突きつけ、この通りお前から被害を受けたと本人が言っているのだ。これでお前は網走行きだ。それがイヤなら松川の事を話せ、そうすればそっちの事は許してやるから。松川の事を話さなければ、お前と娘と俺たちの前で実演させる。それがイヤなら松川事件のことを話せ。これは一種の精神的拷問というべきですが、そんな風にして自白を強制したのです。
 その娘さんも証人として第一審の法廷に立たされましたが、次のように証言しています。「警察官が自分を呼びに来て、赤間からそういうことをされたろうと言って尋ねました。わたしはそういうことをされた事はないので、そういう事はないといいましたのに、わたしの目の前で、警察官が、そういう事をされたと調書に書き、無理にわたしに署名させました」と。つまり警察で嘘の調書を無理に作成して、その娘さんに署名させ、それを突きつけて赤間君を脅迫したわけです。赤間被告を精神的に拷問するためには、手段を選ばずにそういうことを警察でやっているのです。それから更に赤間君を苦しめたのは、赤間君のおばあさんの調書を捏造したことです。そのおばあさんは赤間君と毎晩一緒に同じ部屋で寝ていました。赤間君は両親たちが満州の方に長く行っていたために、おばあさんに育てられたいわゆる「お婆さん子」でした。そのお婆さんが「勝美は一時になっても、二時になっても、三時になっても帰って来なかった」と言っているという調書を赤間君に突きつけて、「お前のおばあさんもこう言っているぞ」と言って赤間君を責めたのです。これが「おばあさんがそんな事を言っているとすれば、もう自分のアリバイを証明してくれるものはない」という絶望にどんなに赤間君をかり立てたか知れません。おばあさんは字が読めません。そのおばあさんの調書をそんな風に捏造して押印させたのです。そのおばあさんも第一審の法廷に証人として立っていますが、自分は勝美がちゃんと一時ごろ帰ったと警察で述べたと証言しています。そういうやり方で警察では赤間君を精神的に拷問したわけです。一人の警察官が短刀を一ぺん突きつけたということはありますけれども、大体は肉体的の拷問よりは以上述べたように精神的に赤間君を拷問して、次第に窮地に陥れて行ったわけです。それと長時間に亘る取調べと睡眠不足と……こうして十日ばかりで疲れ切った赤間君はついに屈服して、嘘の自白をヂッチ上げられることになってしまいました。予言についての二少年の証言も、婦女凌辱についての当の娘さんの証言も、又十六日の晩のアリバイについてのおばあさんの証言も、裁判所によって全部取り上げられていません。そして赤間君は列車転覆の謀議をやったり、線路破壊の実行に行ったりしたことに認定されてしまったのです。

国鉄側の赤間白白と照応するように、東芝側でデッチ上げられたのは太田自白であります。初めは東芝側からも赤間君より一つ年下の菊地君という十八歳の少年を窃盗容疑名目でつかまえました。赤間君の傷害容疑と同じやり方で、その窃盗容疑というのは、工場の配給のタバコを菊地君が盗んだという他愛のない話です。それは工場内の問題で、普通なら警察の干渉するほどの事ではないのですが、そういう名義で菊地君を逮捕したのです。而もそれは事実が相違する問題であって、菊地君が「そんな事はない、それは配給のタバコを配る者がテーブルの上に置き忘れたものだから、自分が戸だなにしまっておいたのだ、工場に問合せてくれれば判る」といいますと、警察官は出て行きましたが、やがて戻って来て、「なるほど、工場に問合せたら、確かにお前のいう通りだった」というので、それでは直ぐ帰して貰えるのかと思うと、そうではなく留置場に入れられて、翌日松川事件の事を調べられ始めたのです。つまり警察では労組の幹部を狙いながら、国鉄側からは幹部でもなければ共産党員でもない赤間少年を傷害容疑で、又東芝松川工場側からは、これも労組の幹部でもなく共産党員でもない菊地少年を窃盗容疑で、それぞれ逮捕し、事件をデッチ上げようとしたわけであります。併し菊地君の方は取調べ中に盲腸炎を起したので、止むなく釈放しなければならなくなりました。その代りにデッチ上げられたのが太田君でした。太田君は、東芝松川労組の副組長でもあり、又年も相当の年配でしたが、当時精神的に非常に動揺していました。組合の副組長になったり、入党したりしながら、思想的にはっきりした自信がなく、それらのことを後悔している上に、細君からも組合運動から手を引くように始終責め立てられていました。そういう風で動揺していたので、会社側からも、労組の切崩しに太田君に目をつけていました。そんなところを警察から狙われたわけです。それで逮捕されると、赤間君同様あの手この手で警察官に強制されて到頭嘘の自白をデッチ上げられるに至ったのです。このようにして、国鉄側の赤間自白、東芝松川側の太田白白というものができ上り、それを裏付ける具体的証拠というものがなんにもないのに、この二人の自白を証拠として、福島の国鉄労組と松川の東芝工場労組とが共謀して、列車転覆を実行したということに認定してしまったのであります。
 以上はほんの粗筋ではありますが、何しろこの事件の法廷記録は非常な厖大なもので、その一部について語っても、長い時間を要しますから、以上で大体を想像して頂くことにして、以下皆さんに興味がありそうな具体的な点を二、三拾って申すことにします。

 赤間自白は以上のようにして出来上ったものですが、それが実際上の事実とどう食違っているかというと、何処も此処も食違っているところだらけなのです。赤間自白によると、十五日に国鉄労組の事務所で列車転覆の謀議を行い、その結果として、赤間、本田、高橋の三君が国鉄側から線路破壊のために出かけることに決定し、翌十六日の晩十二時頃、右三君が永井川信号所附近で落合って、線路伝いに松川・金谷川間の現場に行き、松川から来た佐藤一、浜崎の両君と落合い、この五人で線路破壊を実行したという事になっているのですが、最初に赤間君が本田、高橋の二君と出遭ったという永井川附近の出発点そのものが、途中で変更されたりして、既におかしいのです。初めは永井川信号所の北の踏切に近い路上となっていたのが、約一丁半程離れた鈴木材木店の裏という事に訂正されます。出発した集合点が記憶違いだといって訂正されるなどは、経験則上あり得ないことですが、それはまあ大日に見るとして、次ぎに、その出発集合から間もなくのところで、永井川南部の踏切を通ったということになっています。その踏切を通って、一旦線路の向う側に出、少し行って橋のある横から、線路の堤の上に登り、線路伝いに現場へ出かけたというのですが、この永井川信号所には北側と南側と二つの踏切があります。北の踏切には踏切番人がいますが、南の踏切は普段は番人が居りません。それで最初に出来上った赤間自白では、「永井川信号所の人に見られるといけないから、わざと番人のいない南の踏切を通った」ということになっていたのです。ところがその晩は虚空蔵の祭の晩で、特に人通りが多いからというので、その南の踏切にも臨時踏切番のテントが張られ、そこに踏切番人がいたという事実を警察が後に気がつくのです。
 それでその最初の赤間自白ができ上って、二十日程経ってから、警察官が永井川信号所の線路班を訪ね、その晩に臨時踏切番をやった四人の番人を調べ、そこに臨時踏切番の出来ていた事を確かめ、且つ赤間たち三人が通ったかどうかを尋ねました。(このことは法廷記録に出ています)番人たちは三人の通ったのを見なかったと答えました。
 それから十日程して、今度は検察官が訪ねて行って、同じ質問をしました。番人たちはやはり赤間君等を見なかったと答えました。こういう事実があった後に、次ぎの調書で赤間自白は訂正され、その晩は南の踏切に臨時踏切番が出来ていたという供述が入って来たのです。それは捜査陣が事実に合わせようとして訂正させたということが記録上明瞭です。その訂正された赤間供述によると、「私は永井川線路班に四年三カ月も勤めていたので、正月と虚空蔵のお祭の晩には南の踏切に臨時踏切番のできることを知っていましたし、自分もその番をしたことがありました。併しその晩はそのことを忘れていたのです。そして夜が暗かったので、踏切に近づき、テントにぶつかってハッとしました。しかし幸い踏切に人が出ていなかったので、急いで通り越しました」という事になって来たのです。ところが、この訂正された赤間自白は、その晩の南踏切の情況と甚だしく相違しているのであります。第一審の判決では、その訂正された赤間自白通りに認定されたのですが、第二審になって、鈴木裁判長が、証人として出廷した線路班の人に、迂闊にこれは裁判長として迂闊だったに違いない――その晩の踏切附近の燈火のことを訊ねてしまったのです。すると証人は、その晩張ったテントは、別の場所で半分使っていたので、その踏切に使われていたのは半分で、天井はあるが、三方に幕が垂れていなかったこと――つまり赤間たちがテントに近づいたということになっている方の側にだけ幕が垂れていて、他の三方には幕が垂れていなかったこと。――三方はテントの中から見通しだったわけです――そして天井に合図燈を二つ下げたこと――その光で将棋が指せたというのです――その上更にその晩は特に永井川の駅長から六〇ワットの電球を借りて来て、これをテントの横の電柱につけて、テントの上や踏切や道路を照らし、道を通る人の顔も明瞭にわかったこと等を答えました。これは赤間自白では夜が暗かったので、踏切まで来てテントにぶっつかってハッとしたというのですが、夜は暗かったけれども、踏切の附近は暗くはなかったわけです。法廷記録には踏切までの道がどういう道であるか書いてないので、念のため私はそこに行って見ましたが、それは田圃の中の一間幅の道でした。横幅が私の足で三歩ですから一間幅ということになるでしょう。人の踏むところが一間幅で両端に草が生えてそのまま田圃の中に落ち込んでいる道――よく田舎にあるあの道です。それが田圃の中を通って、汽車の線路と交叉する。線路は田圃より小高い。道がだらだらと昇りになって行って、線路に近づくと、線路の手前が砂利場になっている。その砂利場の左側にテントが張られて、臨時踏切番が出来て、四人の番人が番をしていたわけであります。そこにさしかかる道は今申したように一間幅で、無論木立はないし、隠れるところはありません。そして赤間君たちが近づいて行った方角だけ幕が垂れているが、他の三方は幕がないのですから、そのそばを通る時には、テントの中から見通しのわけです。直ぐ目の前の六十ワットの電燈に照らされたところを、三人の男が通ったというのです。テントと道との間は一間そこそこです。それだのに四人の番人は三人が通ったのを見ないと言うのです。これは三人が通らないと見なければなりません。それも他に人通りの多い時刻なら見紛うということもありますが、十二時前に小雨が降ったので、道行く人が絶えてしまったことが記録上明らかなのです。大体二時まで番をしている予定のところが、通る人がなくなったので、十二時十五分にはテントを片づけてしまったというのですから、赤間君等三人が通ったことになっている十二時五、六分過ぎた頃には、もう人通りが絶えていたということが確かであります。そういう時もし足音が聞えてくれば、番人が四人いたのですから、たとえ四人が四人とも道と反対の方を向いていたとしても、だれか一人位は足音のする方を振り向かなければなりません。赤間自白によれば、暗かったのでテントにぶつかってハッとした、というんですから、そこまで来るのに警戒して足音を忍ぶなどということはあり得ない。自分はズック靴をはいていたけれども、他の二人は皮の靴をはいていたというのですから、どうしても足音はするはずです。ところが、テントの中の四人は三人の足音も聞かなければ通ったのも見ないと証言しているのです。それに赤間君は虚空蔵のお祭の晩と正月とには、ここに臨時踏切番の出来ることを知っていたし、自分もまた番をしたこともあるが、その晩はその事を忘れていたといっても、真暗の中に踏切のところだけ六十ワットの電燈がついていれば、そこだけ明るく浮き上っているわけです。晴ければ暗いほど、そこだけ際立って明るいわけです。田圃の中から二町も三町も先から電燈に気がついて、そうだ、今夜は臨時踏切番ができている晩だ、と考えない筈はないのです。「暗かったので、テントに近づいてはっとした」という赤間自白は、その晩のその踏切の情況とは全然異った情況です。
 これを見ても赤間自白が事実と食違った虚偽であることが明瞭なのですが、第二審の判決文を見ると、裁判長自身燈のことを尋ねながら、その事は素知らぬ顔をして、燈について一言も述べていません。そして踏切のところに人が出ていなかったという赤間自白は、証人の言うことと符合するなどと言っているのです。そして「右テント内にいた工手達(番人)が赤間被告等の通行を気がつかなかったとしても、赤間被告等が通行しなかったとは断定できない」という「可能性」によって赤間君ら三人が通ったことにしてしまっているのです。若し皆さんがその踏切を実際に御覧になれば、そんな可能性で、通ったことにしてしまえるような場所でないことがお解りになると思います。この踏切を通っていなければ、その晩赤間君らが、線路伝いに線路破壊になど行く筈がないのですから、此処一つ見ても、赤間自白が虚偽であることは明瞭です。それを裁判官は強引に可能性で赤間君らを通ったことにしてしまい、被告全員を「黒」に追いやろうとしたのです。実際、言葉の可能性だけならばどんなことでも言えます。ラクダが針のめどを通れないとは限らないとでも言えます。併し事実上、ラクダは針のめどを通れはしない。それと同じように、目の前の燈に照らされた一問幅の道を三人の男が通って行くのを、四人の番人が気がつかなかったとしても、三人が通らなかったとは限らないと、言葉だけなら言えないことはない。併し実際上ではラクダが針のめどを通れないように、四人の番人に気がつかれずに、この踏切道を三人が通ることなど絶対にでき得る筈はない。
 以上は一例に過ぎませんが、肝心かなめのところを、確実な証拠によらずに、可能性で押しきり、それを事実にすりかえて行くのが、この判決文のやり方なのです。この踏切を「可能性」で通してしまったばかりでなく、そこから破壊現場まで行くのに、赤間自白は事実と食い違ってばかりいるのに、それを判決文はすべて「可能性」で通ったことに判定してしまっているのです。こんな事をしゃべっている中に、予定の時間が来てしまったけれども、(時計を見て、主催者にむかって)時間はどうなんです。まだいいんですか――(拍手)それではまだ構わないそうですから、「可能性」の例を二つ三つ。お聞きぐるしいでしょうが、もう少し聞いてください。(拍手)なにしろ私自身が三年半も判決の批評文を書きつづけながら、まだまだなかなか終らないんですから、どこをお話ししていいかわからなくなりますが、今の「可能性」についてだけもう少しお話ししましょう。
 赤間君、高橋君、本田君の三人が国鉄側から線路破壊の実行に行ったということになっている事は前に話しました。その高橋君について少し話しますが、高橋君は前に庭坂駅で転轍夫をやっていたのですが、雪の日にプラットホームと線路の間にすべって恥骨から尿道にかけて大けがをしました。二年も病院に入ったり、病院通いをしたりしても、全治しないので、とうとう廃療ということで病院通いをやめましたが、前のように烈しい労働はできないので切符切りになりました。こういう人ですから、線路の上を往復五里、その上に赤間君や本間君と出会ったところまで、高橋君の家から一里以上あるのですから、高橋君がその晩歩いたとされているのは総計七里十町近いという事になります。それだけの道を歩いて、線路被壊の実行が出来るような身体であるかどうかということも、法廷で論争の的となったところですが、その問題は今は別としても、高橋君は八月九日から細君と生れて半年程の赤ん坊をつれて、郷里に墓参に行ったり、細君の実家に墓参に行ったりしていて、十六日の夕方福島に帰って来たのですから、十五日の謀議などに出席できる筈がない。それであるから、十六日の夜の十二時頃に赤間君や本田君と線路破壊に出かけるなどという約束はしない。それを判決文は、何の証拠も示さずに、「誰かが高橋に連絡した」というのです。誰かが連絡したということは、法廷記録のどこにもないのに、勝手に判決文は「誰かが連絡したので、高橋が鈴木材木店の横の集合地点に集まった」と判定するのですから、目茶苦茶な話です。尚高橋君は最初は赤間自白の中で十五日謀議の列席者の一人にされているのですが、福島にいなかったというアリバイが余り明瞭なために、後に訂正されるのです。それも亦おかしな話で、此処にも捜査陣のデッチ上げのカラクリがあるのですが、そういうことを詳しく喋っている暇がありませんから、一切省くことにします。とにかく高橋君は自分の実家に行ったり、細君の実家に行ったりして、十六日の夕方福島に帰って来ました。帰って来るとその足でミシン屋に寄って、細君のためミシンを買っているのです。高橋君はやはり七月に馘首された人ですが国鉄に勤めていたのが長かったので、退職手当も多く、又次ぎに就職もきまっていましたので、生活には困ってはいなかったのです。一万四千円を一時払いして細君にミシンを買ってやったということを考えても、国鉄の労働者としては生活に余裕があったと見るべきでしょう。それに国鉄は馘になっても、次ぎの仕事は既にきまっているし、生活にさしずめ不安はなし、愛妻との間に生れて半年程の赤ん坊がいるし、線路破壊などというヤケのヤンパチのテロ行為にかりたてられる理由は凡そないのです。こういう点も人を裁判する者はよく考慮すべきであると思います。
実家に帰ったり、細君の郷里に行ったりして、とにかく十六日の夕方に高橋君は、妻子をつれて福島に帰って来て、その足でミシン屋に行って、一万四千円を一時払いして、細君のためにミシンを買い、ミシン屋がリヤカーに積んで、ミシンを運ぶのを後から押しながら、家に帰って行ったのです。家といっても二階借りですが、その二階に帰るとそれから夕御飯を食べ、そして細君と赤ん坊と、その二階を貸して呉れている家主の鈴木セツさんというお婆さんの十歳になる孫とを連れて、盆踊を見に行っています。そして九時半か十時ごろに二階に帰って来ると、細君はミシンを買った嬉しさにガチャガチャやり始めましたが、十一時になったので、高橋君は、ほかの部屋の人に悪いからもうやめろといってそれを止めさせ、そして夫婦は寝たわけなのです。それは生れて半年目の赤ん坊を持った若い夫婦の平和な生活図です。ところが赤間自白によると、この高橋君が十二時頃突如として永井川の近くの鈴木材木店の横に現れて、本田君や赤間君と落合ったということになるのですが、高橋君が鈴木セツ方の二階から下りて行ったのを見た者もないし、高橋君が出て行ったという証拠は何一つありません。それだのに判決文は此処でも亦「可能性」によって、高橋君が二階から下りて、永井川の近くで赤間、本田の両君と落合って、線路破壊に出かけたことにしてしまっているのです。
 その二階の梯子段は検証の結果、ギシギシ音を立てるということが解っています。そしてその梯子を下りて玄関に出て行くのには、家主の鈴木セツというお婆さんが蚊帳を吊って寝ている部屋を通らなければならない。そこを通らないで台所から出ようとすると、台所のガラス戸の敷居は又レールが曲っていて高音を立てる。検証の結果そういうことが解っているのです。鈴木セツは警察に調べられたり、証人として法廷に立ったりしていますが、高橋君が出て行ったのを知らない、と述べています。
 ところが判決文はこういうのです。「夜のことで鈴木セツは寝ていたし、夜遅くお客さんが帰って来ることに気がつかないこともあるということであるから、たとえ鈴木セツが高橋被告が二階から下りて外に出て行くのに気がつかなかったとしても、高橋被告が出て行かなかったとは限らない」と。こういう「可能性」でもって高橋君が二階から下りて外に出て行き、永井川附近で赤間、本田の両君と落合ったと認定しているのです。 出て行ったならば又帰って来なければならない。ところが鈴木セツはその翌朝は夏時間の五時というのですから、普通時間の四時ですが、その頃から起きて働いた、併し高橋君が帰って来たのを見ないと証言しているのです。それを又判決文は、「鈴木セツは夏時間の五時から起きていたのであるから、もし高橋が帰って来れば、当然気がつくはずだという弁護人らの論旨は一応もっともではあるが、併し、朝のことではあり、鈴木セツは働いていたに違いないから、鈴木セツの行動、および高橋被告の行動いかんによっては、高橋が鈴木セツに知られずに家に入り、二階に上らなかったとは限らない」といって、高橋被告が帰って来たことにしてしまっているのです。出て行ったのも可能性、帰って来たのも可能性、その可能性を事実とすりかえて、犯行を認定してしまっているのです。
 その晩高橋君と同じ二階に寝ていた奥さんは、高橋君が一晩中自分の側に寝ていた事、夜中に赤ん坊のおしめを取換えるために何度も目をさましたが、いつでも良人は側に寝ていたことを証言していますが、それは妻の証言であるというために、一顧をも与えられません。それを憤慨した武田久被告(この人は第二審では無罪になった)が、「良人の夜の行動について妻の証言が信用されないというのであれば、われわれは身のアカシを立てるために、夫婦の寝室にいつでも警察官でも寝かしておかなければならないではないか、」と怒鳴ったのももっともであると思います。
 次ぎに本田君の事を述べましょう。本田君は十六日の晩はお盆のことで、武田君の家に先祖の法事があったので、鈴木、阿部、岡田(いずれも被告人)の諸君と一緒にそこに招ばれて行ったことが記録上明らかで、その事は判決文も認めています。武田君の弟さんが田舎から友達と一緒に焼酎一升を持って出て来ました。又他の親類から清酒五合を届けてくれました。その外に合成酒を三合(又五合ともいいます)を後から買い足しました。それを六人(阿部君は飲まない質なので)で飲んだわけです。本田君は元来酒の弱い質でしたが、その時恋愛問題で煩悶していました。それは労組事務所の書記をしている娘さんですが、その好きな娘さんが二、三日前にほかの男と夕方歩いていた後姿を見たということで煩悶していたわけです。そのためにその晩は無暗に飲みました。飲んでその娘さんの事をいい出したので、岡田君がセンチだといってからかったのです。そのために本田君と岡田君は恋愛論を闘わしながら、二人ともむやみに飲んだのです。如何に酔ったかというと、岡田君はそこに酔潰れてしまったので、鈴木君と阿部君とで鈴木君のところまでかついで行かなければならなかった程でした。本田君も酔払って嘔吐したりしたけれども、みんなが帰って行った後、尚武田君の妹さんの久子さんを相手に縁側のところで愛情問題を論じていました。それはその好きな娘さんと久子さんとが学校の同級生だったので、久子さんに向って余計訴えたかったわけなのです。武田家ではあまり酔払っているから泊って行ったらどうかと本田君にいいましたが、どうしても帰るというので、心配した久子さんが途中まで送って行きました。二人は尚も変愛論を続けながら歩いて行き、これから二人でその娘さんのところに行って見ようかという話になり、その方へ向って足を向けましたが、本田君がこんなに酔払っていては失礼になるから止そうというので、止めることにしました。そんな風にして駅に近い辰巳屋という旅館の前まで送って行って、久子さんは「お大事に」といって本田君と別れて帰って来ました。
 以上は武田久子さんの法廷における証言ですが、久子さんの外にも本田君がその晩非常に酔払ったということについては沢山の人の証言があります。併し判決文は、その晩は本田君が赤間君や高橋君と線路破壊の実行に行ったことになっている晩ですから、酔払ったことにするわけに行かないので、珍妙な理屈を並べ立てて、本田君を酔払わないことにしようとしています。此処の判決文は実に面白いのです。先ず判決文は酒の量を計算して次ぎのようにいっています。――各人酒の量を異にするものであるから一概にはいえないが、併し焼酎一升、清酒五合、合成酒三合は、六人の男が会食の時に飲む量としては決して多い量とはいえない、従って泥酔又はそれに近い程酩酊するとは考えられない、とこういうのです。
 如何ですか。焼酎一升、日本酒八合というのは、六人で飲むのに大した量ではないですか。僕は酒の飲めない質なのでよく解りませんが、皆さん、考えて見て下さい。
併し右のような論法は判決文などに使うべき正しい論理ではないと思います。今の論法を逆にすれば、結果はあべこべになってしまうからです。焼酎一升、清酒五合、合成酒三合は、六人が会食の時に飲む酒としては大した量とは思われないが、併し各人酒の量を異にするものであるから、泥酔しないとも限らない、とこういえば泥酔したことになってしまうではありませんか。
 こんな論理の遊戯で、酔ったものを酔わないことにするなどということは、厳正なるべき判決文に用いるべき論法ではありません。更に判決文は本田君を酔わないことにするために、世にもとぼけた三段論法を案出しています。それは武田久子さんが本田君を送って行った情況についてこういっているのです。
 武田宅にいた頃から嘔吐をする程酔っていたとすれば、本田は苦しくて口を利く気力などなかったに違いない。たとえ愛情の問題であっても、議論などするとは考えられない。もし議論したとすれば、それはクダをまいたに違いない。クダをまいたとすれば、水商売でもない武田久子が、盆踊りなどで賑わっている福島の町を、一緒に並んで歩いて行くなどとは考えられない。(逃げ出した筈だというのです。)しかるに武田久子は本田と二人で肩を並べて歩いて行ったというのであるから、本田は一応しゃんとしていたと見るべきである。つまり泥酔してなどいなかった筈だというのです。こんな目茶苦茶な三段論法、四段論法があるでしょうか。何か心にあって酔払った時と、何もなくて酔払った時と、その酔い方が違うものであるなどという事は今更説明するまでもないことです。愛情の煩悶があって酔払えば、他の事は一切解らなくなってもその事だけが頭に冴えて来るものです。――とにかく右の論法によって、本田君が酔わないという証拠は一つもないのに酔わないことにし、「本田が酔払っていたという各証人の証言は措信するに足らず」というのですから、その乱暴さは、驚くべきではありませんか。これが判決文の論法なのです。
 何故こうまでして本田君を酔払わないことにしなければならないかというと、赤間自白によると、その晩本田君は線路破壊の実行に行ったということになっているので、その赤間自白を被告人全体の有罪の証拠とするためには此処で本田君が酔わないことにしなければならないからです。酔えば線路の破壊になど出かけられないからです。かくして本田君は酔わないことにされ、死刑の宣告を受けているのです。
 武田久子さんと別れてから、本田君は家に帰ろうと思ったが、それからまだ三十分も歩かなければならない。酔は益々苦しくなって来た。そして国鉄労組の事務所に行って、そこの宿直室の畳の上にぶっ倒れて寝てしまいました。本田君が労組事務所の畳の部屋にその晩泊ったということを証言している人は九人もいます。その晩その事務所の畳の間には、四人の人が泊っていました。中でも木村泰司という男は、酔払って転がり込んだ本田君に毛布などかけてやったりしました。そして本田君が逮捕されて後、そのことを皆に吹聴していたのです。それが警察に四度喚ばれるに及んで、その頃本田君が酔って転がり込んで来たことはあったが、それが八月十六日の晩ではなかったと、今までいっていたことと違ったことをいい始めたのです。この木村という人物の変更した供述一つによって、本田君は泊らなかったと認定されてしまったのです。木村が警察に喚ばれない前に、大塚弁護人が木村の供述録取書を取って置きましたが、それによると、本田君が酔って来たので、自分が介抱して寝かしつけてやったと述べていますし、警察に喚ばれても、最初は大塚弁護人に述べたのと同じことを述べているのですが? 四度喚ばれるに及んで、それを変更したということを考えて下さい。この人物は警察でご馳走になったという事を友達に得意気に吹聴したり、第一審の法廷で本田君や高橋君に不利な証言をした後では、主任検事から飯坂温泉に匿まって貰ったりしているような奇怪な人物なのです。併しその法廷での証言は、被告人諸君から反対尋問を受ける度に、そのいう事が変って来て、支離滅裂なものになっています。そのために、裁判官は本田君が泊らなかったという根拠を木村証言に置きながら、それを証拠として判決文に書くことはできないのです。それ程それは矛盾だらけなのです。そこで木村証言を蔭に隠してしまって、本田君が泊ったといってそのアリバイを肯定している他の証人たちの証言を、本田君が泊らなかったことの証拠にすりかえようとして、苦心惨憺しています。その例を二つ三つ挙げますと、その晩は事務所の畳の間に、木村の外に、松崎、村瀬、小尾という三人が泊っていましたが、三人とも本田君が泊ったということを証言しているのです。松崎は本田君が酔払ってころがり込んで来たことは眠っていて知らなかったけれども、夜中の一時か二時頃便所に起きると、誰かが毛布をかぶって寝ていたので、便所から帰って毛布をめくって見たら、それが本田君だったので、毛布をかけ直してやって、自分は寝たと証言し、村瀬は夜中に何処からか電話がかかって来て、木村が本田の名を呼んで起していたので、本田君の泊ったことを知ったと証言しています。また小尾は国鉄労組事務所内に同居している地区労に属する娘さんで、前日東京から来たばかりで人々の名は知らないのですが、黒いズボン(本田の服装に符合)を穿いた国鉄の人が、夜中に電話に出ていたと証言しています。これ等の証言は本田君のアリバイを明らかにしている証言です。
 ところが、判決文はこれ等の証言の中から、証人達が寝ていて本田君が来た時を知らなかったという部分を取り、「若し本田が酔って来て、木村に介抱されて寝たような場面があったとしたら、如何に寝入りばなとはいえ、松崎や村瀬が限をさましてそれに気がつくのが自然であり、気がつかないことこそ寧ろ不自然である。然るに松崎、村瀬は本田が酔って来て木村に介抱されて寝た場面を知らないというのであるから、その事はそういう場面がなかったことを示すものである」という理屈を生み出すのです。つまり本田が来た時の事を、松崎や村瀬が知らないということは、本田が来なかったことを意味するものだ、というわけであります。それなら、松崎の、「夜中に便所に起きると、誰かが毛布をかぶって寝ていたので、便所から帰って毛布をめくって見たら本田君だったので、又毛布をかけ直してやり、自分は寝た」という証言をどう見るのであろうか、というと、これには驚くべき強引な否定の仕方をしています。それは「松崎は夜中の一時か二時頃、本田が寝ているのを見たというだけで、その後朝までの本田の行動について述べていないのであるから、その証言は措信するに足らない」というのです。一体法廷に立った証人というものは、自分勝手にただ喋るのではなく、裁判官なり、検察官なり、弁護人なり、被告人なりから質問されたことについてだけ答えるものなのです。それが証人の役目なのです。それであるから質問されないことには、何も答えないのが証人としてはあたりまえであります。その事を誰よりも一番よく知っているのは裁判長の筈です。私はその時の法廷記録を仔細に調べてみましたが、松崎証人に向って、「便所から帰ってきて、本田に毛布掛けて寝かしてやった後、本田は朝までどうしたか」と尋ねているものは誰もありません。検察官も弁護人も被告人も裁判官も誰もそんなことは尋ねていません。尋ねていないのですから、松崎証人が何も語っていないのは当然のことです。そればかりでなく、寝ている本田君に毛布をかけてやって自分も寝たのです。眠らずに朝まで本田君の行動を見守っていたのではないのです。自分も寝てしまったのですから、朝までの本田君のことを知らないのはあたりまえでしょう。
 この松崎の証言は第二審の法廷における証言ですから、若し第二審の裁判長が「朝までの本田の行動について述べていないから松崎証言は措信するに足らず」と判決文に書くならば、自分でそのことを松崎証人に向って尋ねて見るべきでしょう。松崎証人は裁判長の直ぐ眼の下の証人台に立って証言していたのです。尋ねて見て松崎証人の答がアイマイで疑わしいというなら何といってもいいでしょう。併し法廷記録によると裁判長は尋ねていません。尋ねもしないでいて、その証人が何も述べていないから、その証言は措信するに足らずというに至っては言語道断です。
 この松崎証言は何処から見ても本田君のアリバイを証明しているものです。それをこのように歪曲して、本田君のアリバイ否定に裁判官は逆用しようとするのです。
 又松崎証言には、夜中に電話がかかって来て、木村が出たが、本田君は寝ていて電話には出なかったようだということがありますが、それを判決文は又、本田が電話に出なかったということは、本田がそこにいなかった証拠だというように持って行くのです。総てこういう論法なのです。前に話しましたように、本田君がその晩国鉄労組に泊ったことを証言しているのは、九人もいるのですが、それ等の人達の証言を、裁判官はみんな右の筆法で否定してしまうのです。今それを此処で詳しく述べている時間はありませんが、そういうやり方で本田君がそこに泊ったという総ての証拠を否定し、赤間、高橋君らと線路破壊に行ったことにし、第二審の裁判官(第一審の裁判官も)は本田君を死刑と判決しているのであります。
 以上はこの裁判において裁判官が事実を歪曲した例でありますが、単に事実を歪曲するばかりではなく、時によると重大な証拠の捏造さえもやるのであります。
 国鉄労組と東芝松川労組とが共同謀議して、協力してこの列車転覆を行なったというのが、検察側の主張するところであり、裁判所側の認定するところでありますが、その国鉄側と東芝側とが共同謀議をしたということは、太田自白の外には証拠が一つもありません。その太田自白によると、八月十二日に国鉄側から東芝側の杉浦組合長に電話がかかり、翌十三日に相談したい事があるから来てくれと言って来たので、杉浦君が自分が行かれないから太田君と佐藤一君に行ってくれと言ったために、太田君と佐藤一君とが十三日に福島に出かけて行って、国鉄労組の者たちと列車転覆の謀議をした。――これが十三日謀議、つまり第一回の国鉄・東芝共同謀議です。その第一回の謀議が終った時、その謀議の座長を勤めていた武田久君(国鉄労組福島支部委員長)が「もっと具体的なことを相談したいから、十五日にもう一度集まって貰いたい」と言ったので、十五日に集まってまた謀議をした。――これが十五日謀議、つまり第二回の国鉄・東芝共同謀議です。太田自白によるとこの十三日、十五日との二回、国鉄・東芝の共同謀議があったということになっているのです。第一審ではそれがそのまま認定されましたが、第二審では、太田自白が余りに矛盾だらけなので、十二日の電話連絡及び十三日謀議というものはなかったものと認定されました。この十三日謀議が不存在になったので、座長を勤めた武田久君は第二審判決では無罪(第一審判決は無期)になったわけであります。十三日謀議がなかったものとされ、武田君が無罪になったのですから、従って武田君が十五日謀議を召集する筈はありません。即ち十五日謀議なるものの成立の動機がなくなったのであります。従って十五日謀議も存在しなかったものと認定されるのが当然なのでありますが、併し十五日謀議もなかったことになれば、国鉄側と東芝側とが協力して列車転覆をしたということは、空中楼閣に過ぎないことになり、全員無罪ということにならなければなりません。本来ならばそうなるべき道理であります。ところが被告人達を有罪にするためには、どうしても十五日謀議だけでも成り立たせなければならないと、第二審の裁判官は考えたのではないかと思います。何故かというと甚だしい証拠の捏造をやって、あくまで十五日謀議は存在したと認定しているからであります。その事をお話ししましょう。
 検察側の主張でも、又検察側がそれの証拠としている太田自白でも、十五日謀議は十三日謀議の終った時に、武田君が召集したことになっています。ところが十三日謀議は存在しなかったことになり、武田君は無罪になりました。それでは十五日謀議の成立つ動機もなくなるので、何とかしてその動機を案出しなければならないと裁判官は考えたらしいのです。
 十三日謀議はなくなりましたが、太田君が十三日に他の用事で福島に出て行ったことは確かであり、その際国鉄労組に立寄ったことも確かであります。判決文はそこを掴まえて、何とかして十五日謀議成立の動機を見つけようとしたのであります。そしてこういうことを案出しました。
「太田自白は矛盾や食違いが多くて、それによって十三日謀議の存在を認めることはできないが、併し十三日に太田被告が国鉄労組事務所に立寄った際、国鉄側被告の誰かが、十五日に列車転覆の相談をしたいから、東芝側からも参加して貰いたいと太田被告に申入れたという程度においては、太田自白は信用できる」というのであります。これは実に珍妙な言葉であります。これを言い直して見ると、「太田自白は矛盾が多くて、その言ってることは信用できないが、言っていないことでそれは信用できる」ということになるのであります。何故かというと、「国鉄側の被告の誰かが十五日謀議を連絡した」などという事は太田自白には全然ありません。太田自白にあるのは十三日の謀議の終る時、「武田がもっと具体的に相談したいから十五日に再び集まってくれと言った」ということであります。その太田の供述が信用できないので、十三日謀議もないことになり、従って武田君は無罪になったのですが、太田君が言っていない「国鉄側の被告の誰かが十五日謀議を連絡した」という程度には(程度というのはおかしな言葉です)太田自白が信用できるというのですから、これは言葉としても体をなしていません。併し言葉として体をなしていないというだけなら笑って済ましても好いのですが、笑って済まされないのは検察側の起訴理由にもなければ、その証拠とされている太田自白にもなく、又あらゆる法廷記録にもない「国鉄側被告の誰か」というものが、武田君に代って、十五日謀議の連絡者になっている事であります。これは第二審の裁判官が勝手に証拠を控造したものであります。これは一体どういうことになるでしょう。武田君が十五日謀議を召集したという検察側の主張は、法廷で被告人側弁護人側によって十分論駁し尽されたのです。その結果、裁判官もそれを認めることができなくなって、十三日謀議はなかったものとして、座長武田君を無罪にしたのであります。ところが、公判廷での取調はすっかり終ってしまった後になって、判決文の中でいきなり裁判官が「国鉄被告側の誰かが」というものを持出したのでは、被告人も弁護人も、それを反駁することはできない。それは被告人の防禦というものを全然無視揉欄した裁判官の不法措置であります。若し裁判官が「国鉄側の被告の誰か」が連絡したと認める理由を発見したならば、検察側の起訴理由を変更させ、それを法廷に出して、被告人側の検討にまかすべきであります。それを公判が終った後、被告人の防禦権を行使できない判決文の上で、裁判官がかかる証拠の捏造をするということは、憲法の精神を無視した違法行為であります。
 このように驚くべき違法を犯してまでも、証拠のない十五日謀議を成立たして、それによって被告人諸君を有罪にしようというのが、松川裁判の裁判官の魂胆なのであります。
 さて判決文の中に現れたわざとらしい事実の誤認や、意識的な証拠の歪曲、捏造等を挙げているとキリがありません。以上はほんの一部分の例でありますが、裁判官のこの裁決に対する意向はほぼお解りになったことと思います。併しそれは事実の誤認や証拠の歪曲、捏造にとどまらず被告人諸君を不利にするためには、検察側も裁判所も、意識的に法律の意味を曲解しているのであります。私は自分が法律には素人であるという意識から、この裁判を批判するにも努めて法律問題に触れず、事実や証拠の解釈の上で、納得の行かない点を指摘するに止めて来た。私は『中央公論』に批判文を連載するのに、約三年間はこの心構えでやって来ました。併し判決文や法廷記録を調べれば調べる程、やはり法律問題に触れなければならなくなって来たのであります。
 法律というと、皆さんの多くは、甚だ難解で無味乾燥で退屈なものとお考えになるかも知れませんから、憲法何条とか、刑法何条とか、刑訴法何条とか、そういう法律の条文については語らないことにします。併し法律はわれわれの常識で理解できないものではないのであります。先ず松川裁判でおかしいのは、この裁判で最も重要視されている被告人太田や、その他いわゆる自白組の被告人達の公判以前の検事調書や判事調書が被告人以外の者の調書として法廷に出ていることであります。これは松川裁判ばかりでなく、他の裁判でも、こういう手続きが当然のこととして認められているようでありますが、被告人の調書が被告人以外の者の調書として、法廷に証拠として持出されるということは、何としても奇異なことであります。
 それに被告人の供述調書として出されたのでは、自己に不利益なことを述べた場合にのみ、そしてその供述が真実であると認められる場合の外は証拠になりません。そしてそれは被告人自身についての証拠になるだけで、他の被告人たちの証拠にはなりません。そこで被告人の供述調書を、他の被告人らに対しては、被告人以外の者、即ち第三者の供述調書として出して、他の被告人等に対する証拠等に対する証拠たらしめようとするのであります。
 それをどういう手続きでやっているかという事は、私は十月号(三十二年)の『中央公論』の「田中最高裁判所長官に訊ねる」の中に詳しく書いて置きましたから、興味を持たれる方は、それをお読み願いたいと思います。それは担当検察官と担当裁判官との協議の上で、自白した被告人を法廷で他の被告人から分離して、被告人以外の者として証人尋問をし、それが公判以前に検事や判事の前で語ったのと異った事を述べた場合、「被告人以外の者が、公判廷で公判以前に検事や判事の前で述べた事と違った事を述べた場合には、前の検事調書や判事調書を、証拠として出せる」という法律で(刑事訴訟法にそれがあるのです。)被告人以外の者の供述調書として、被告人のものを法廷に証拠として検察側から出して来るのです。併しこれは担当検察官と担当裁判官とが協議の上、手続き上被告人以外の者(証人)として取扱ったというだけで、前に挙げた刑事訴訟法に於ける「被告人以外の者」ではありません。それですから、右の被告人の公判以前の公判調書を、「被告人以外の者」の調書として出す事は、違法なのであります。併しこういう違法を、検察官も裁判官も、無反省に犯しているのであります。こういう事については、国民は法律が正しく運用されているかどうかを、注意深く見守って、それが、裁判官や検察官によって正しく運用されることを要求しなければなりません。
 この検察側が被告人を被告人以外の者として公判廷で証人調べを裁判官に請求し、裁判官がそれを職権で許可するという違法(新しい刑事訴訟法では、訴訟当事者たる被告人を、裁判官が法廷で尋問することはできないのであります。それを証人とすれば尋問できるという勝手な解釈をして、その刑事訴訟法の精神を蹂躙しているのであります)は、法廷ばかりではなく、捜査段階から既に行なわれているのであります。それはこういうことであります。被疑者として逮捕された赤間なり、太田なりが捜査官に自白をすると、その自白調書を検察官が裁判所に送って、裁判官に証人尋問を請求し、裁判所がそれに応じて、赤間、太田を証人として尋問して、その証人尋問調書を作成していることでありますが、予審制度の廃止された今日では、裁判官が被疑者を調べることは許されていないのであります。それを検察側では被疑者以外の者という名義で太田や赤間の証人尋問を裁判所に請求し、裁判官は被疑者以外の者として太田、赤間を証人尋問しているのであります。裁判官は被疑者を尋問はできないが、被疑者以外の者なら尋問できる。そこで被疑者を被疑者以外の者として尋問しているのであります。これも違法であります。――今は詳しく説明している時間がありませんから、興味を持たれる方は『中央公論』十月号に私が書いている文章をお読み願いたいと思います。
 何故こんな違法を犯すかというと、自白以外に証拠がないこの事件で、自白を証拠能力あるものにしたいためであります。検察側と裁判所側とが、協力して、違法を犯してまでも、赤間や太田の自白調書が証拠能力があるということにしようとしているのであります。
 ところがそればかりではない。第二審の裁判官は驚くべき独創的な法律論を案出して、検察側が被告人の調書を被告人以外の者の調書として法廷に証拠調べに提出するのに対応しているのであります。それは「被告人以外の者が、被告人がかくかくの事を喋っていたといって検察官に述べると、被告人の反対尋問を受けずに、被告人に対して証拠能力があると見るべきが刑事訴訟法の精神だ」という驚くべき法律論であります。これはとんでもない事で、誰かが検察官にあなたがかくかくの事をいったと告げると、それがあなた方の反対尋問を受けずに、あなた方に対して証拠能力があるというのですから、これは安閑としてはいられません。いつ検察官に対して、あることないこと密告する者がないとは限らない。そしてその密告が密告された者にとっては、そのまま証拠能力があるというのですから、堪ったものではありません。第二審の裁判官は詭弁によって、そういう法律論をやっていますが、刑事訴訟法の何処を調べても、そんな馬鹿な「精神」などはありません。併しそれを刑事訴訟法精神だとして、佐藤一被告が太田に話したと太田が供述している調書は、そのまま佐藤一被告に対して証拠能力があり、鈴木、二宮、阿部、本田などの諸被告が、謀議の席上でかくかくの事をいったと赤間が述べている調書はそのまま鈴木、二宮、阿部、本田に対して証拠能力があるものだ、と第二審の裁判官はその間違った法律論によって認定しているのです。法律はこれ等の検察官によっても裁判官によっても、正しく運用されてはいないのです。
 日本の法律はなかなか好い法律であります。それが正しく運用されていれば、国民の人権はもっと守られるべきなのです。――それが正しく運用されることを国民は要求し、且つ監視すべきであると思います。これは裁判所に対する侮辱ではありません。裁判所に対する国民の協力であります。私が松川裁判を批判していることを、田中最高裁長官なんかは雑音と称して裁判を侮辱するものだというように解釈しているようですが、とんでもない話で、日本の裁判というものの窮極の公正さを信じなければ、三年半も書き続け、訴えつづけられるものではありません。ですから国民が監視するということは裁判所自身もほんとは協力だと思って、身を締めてやって貰いたいのです。日本で裁判だけは信用できるものにしてくれなければ困ると思います。(拍手)
 法律はどんな風にでも解釈できるというものではなく、ほんとうの解釈は一つしかない、という考え方が検察官にも裁判官にも足りない。それで都合の好い理屈をつけて、前に述べたように松川裁判などはやっているのです。そういう点、国民の協力によって、もっと厳にやって貰わなければならないと思います。私の裁判についての話をこれで終ります。(拍手)
                        
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2010.05.20 Thu l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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