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金光翔さんの裁判の争点の一つは、論文「<佐藤優現象>批判」に佐藤優氏が言ってもいないことが書かれているかどうかという点だと思われる。この点につき、被告側の主張は、論文に言ってもいないことが書かれているのは事実である。それは何かというと、「人民戦線」という言葉である。この言葉を被告自身はこれまで一度も使ったことはなく、また「人民戦線」に該当する内容の主張をしたこともない、ということのようであるが、この他にも、被告側は、九項目の「曲解していること」という争点を出している。この「曲解していること」という主張は、「被告準備書面(4)」に、「(論文には)被告佐藤が言っていないこと、あるいは曲解された事実が多数記載されている……云々」とあるように、「曲解」は「言ってもいないこと」と並んだ形で出されているので、これは「私が言ってもいないことを、さも私の主張のように書くなど滅茶苦茶な内容です」のなかの「など」に相当するということになるのだろう。佐藤氏は、「目茶苦茶な内容です」の発言の後、「絶対に許せません」とも発言しているが、「曲解していること」も、「言ってもいないこと」同様、「目茶苦茶な内容であり、絶対に許せない」ということになるのだろうか。

けれども、『週刊新潮』の記事中に「曲解」云々はまったく出ていないのだから、金さんがブログで述べているように、唐突の感は拭えないし、実際に書面の「曲解していること」を読んでみると、説得力はほとんど感じられないようである。「人民戦線」云々の主張だけでは自らの正当性の主張として如何にも弱いので、一応言ってみようということで裁判用に急遽付け足したのではないかという推測も案外当たっているのかも知れない。被告側は、「曲解していること」の実例として九項目をあげているが、このなかで私が驚きもし呆れもしたのは、七項目目の例とその主張であった。この部分を被告側の書面から以下に引用する。

「(7)「論文」149頁上段5行目~12行目

 《ところで、佐藤は、「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。

 日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている。佐藤は、リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の防衛、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。》との記述がある。

 しかしながら、これも曲解である。

 被告佐藤は、フジサンケイビジネスアイ「地球を斬る」2007年7月4日「愛国心について」(乙7号証)において、 「日本の現状に対して、怒りや嘆きは当然ある。しかし、愛国心とはそれの別の位相から出てくる感情である。かつてイギリスの作家ジョージ・オーウェルが「右であれ左であれわが祖国」と言ったが(注1)、筆者もそう思う。 一部の有識者からおしかりを受けることを覚悟した上で書くが、仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べており、右派・左派を問わない、愛国心という感情についで述べた箇所であって、自らの政治信条について述べている訳ではない。」(「被告準備書面(2)」)(下線は被告側によるもの、(注1)は管理人によるもの。)

被告側は、あえてこの主張をすることによって自ら墓穴を掘っているのではないだろうか。「曲解していること」のなかにこの箇所があがっているのを見て、私はこれをはじめて読んだ際の不快な印象を思い出し、あらためてイヤ~な気分になった。上の文章を読んで、これを「右派・左派を問わない、愛国心という感情について述べた箇所であって、自らの政治信条について述べている訳ではない。」という被告側の言い分を素直に得心できる人が何人いるだろうか。だいたい、「右派・左派を問わない、愛国心という感情」とはどんな感情なのか、丁寧に具体的に説明してみよ、と言いたいところだが、

「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」(「地球を斬る」2007年7月4日)

という佐藤氏の発言についての論文の分析は、被告側の引用にもあるように、

「佐藤は、リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の防衛、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。」

というものである。これは、論文のなかで秀逸な分析の一つだと私は思っている。金さんは「原告陳述書」のなかで<佐藤優原書>成立の事情について次のように述べている。

「 ……過去数年間のリベラル・左派の論調や、同時代の、当時の『世界』編集部内部でのやりとり、知人とのやりとり、市民運動やリベラル・左派系の雑誌の論調、各種団体や言論人の主張等を見るにつけて、被告佐藤の主張がリベラル・左派の一部に強く好まれ、また、起用が表立っては批判されないことは、単なる一過性のものではなく、極めて根が深いものであると考えるようになりました。そして、その背景には、リベラル・左派による、改憲(解釈改憲も含む)後に備えて「現実的」な勢力となっておきたいという動機が強く存在し、そのために、リベラル・左派の一種の「改変」という現象が、なし崩しの形で進展していると考えるに至りました。」(原告陳述書)

おそらく論文の主題だと思われる、<佐藤優現象>の背景に、「リベラル・左派による、改憲(解釈改憲も含む)後に備えて「現実的」な勢力となっておきたいという動機」が存在している、という判断については、今と違って、当時私はあまりピンとこなかった。雑誌の傾向や市民運動や言論人の主張などを含めた全体の流れやその変化が見えていなかったのだろう。しかし、佐藤氏の「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」という言葉については、私も金さんと似た受け取り方をしていた。

私は1930年代から敗戦までの十数年間の日本の状況に佐藤氏の発言を置いて考えていた。アジアに対する侵略戦争や、米国に対する悲惨な結末が最初から見えているような無茶な先制攻撃に対し、大衆が喜んで参戦しているのなら、かりに自分にはその行き着く先が見えていたとしても、止めたりはしない、皆と一緒に誤った道を歩むと述べているのだが(信じがたいことだが、どう考えてみてもこの発言にその他の読みとりをさせるものはないだろう)、これは良識の通じるまともな神経をもった人から出る言葉ではないだろう。

「日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっ」た時、その正しくなさを指摘しないで、「自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩」みだしてしまったら、その後どうやって「自分が「正しい」と考える事柄の実現を図」ることができるというのだろう。佐藤氏はそのような行為が「愛国心」だと述べ、「正しい」道を指摘しないことに対する良心の呵責について述べるどころか、なにやら得々としているのである。これは単に虚偽であり、愚劣で浅薄な言葉の羅列に過ぎない。戦争に反対して、あるいはそのように見なされて、拷問されたり、獄死させられたり、官憲に付け狙われて苦しめられた人のことなどは頭の片隅にもないようである。危険なのは、この人のこういう明白な詐術、それによる煽動が見過ごされ、なんだかわけも分からないままに褒めそやされ、その言説が人心に浸透していっているように見えることである。もしかすると、このような性質のレトリックも人を惹きつける要因の一つになっているのかも知れないとさえ思えるのだが、被告・弁護側がこのようなタチの悪い例をもちだして「曲解」と主張するのは、鈍感過ぎるとしか言いようがないと思う。

この発言は、こちらこちらで書いたことだが、高橋哲哉氏の「靖国問題」を批判して『正論』誌に記されていた

「「悲しいのに嬉しいと言わない」、「十分に悲しむこと」、この倫理基準を守ることができるのは真に意志強固な人間だけだ。悲しみを無理をしてでも喜びに変えるところから信仰は生まれるのであるし、文学も生まれるのだと思う」

という発言と、発想の根が同じではないかと思う(同一人物のものだから、当たり前か)。戦争や靖国の肯定の主張を持って回った小利口な(あるいは深遠な考えのありげな)言い方で述べ、本人がさも得意然としているところがよく似ているように感じる。

上述の件は佐藤優氏の言説に関する問題点のほんの一例、氷山の一角(注2)に過ぎない。私は金さんが『世界』編集部で佐藤氏の起用について問題提起をしたのは、真面目に現実的にものを考える編集者として、当然のことだと思う。そうしなければ後々までずっと現在とは別の苦しい事情をかかえることになっていたのではないだろうか。たとえば、読者の存在にしてもそうである。岩波書店は、佐藤氏が書いている文章の内容、また雑誌によって主張を微妙にあるいは露骨に操作し、使い分けている姿勢などを恐るべきことだとは思っていないらしいが、佐藤氏自身だけではなく、これを許容する出版社の姿勢も読者を欺く恐るべきことだと考える人間もいるのだ(注3)。金さんが編集部で問題を提起したとき、編集部の人たちにそういう読者の存在(私もその一人なのだが)は頭になかったのだろうか。読者からもし質問や強硬な批判が出てきたらどう対処するつもりだったのだろうか。これは、編集長だけではなく、編集者一人一人も問われることになる問題だろうと思うのだが、完全に無視・黙殺するつもりだったのだろうか。読者から自発的にそういう声が起こるとは考えなかったのかも知れないが、これは今も大きな疑問である。
 
     ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

(注1)ジョージ・オーウェルは「右であれ左であれわが祖国」と言ったことがあるそうである。この言葉がどこに書かれているのか私は知らないのだが、佐藤氏はこの言葉を自分の主張の補強として用いている。が、肝心なのはそれがどんな文脈で言われたかであろう。佐藤氏のこの文章を見るかぎり、ジョージ・オーウェルだろうと他の作家だろうと、一定の敬意を評すべき作家のうちいったい誰が佐藤氏のこのような主張を肯ったり、評価したりするだろうか。2003年に、イラク派兵を前に小泉首相が、日本国憲法の前文の一部を読み上げ、これによって派兵の正当性を主張するという呆れた行動をとったが、私は佐藤氏のこの引用もあの場合と同類のことではないかと疑う。何しろ、佐藤氏は、亀山郁夫氏の翻訳(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」)を褒めあげるために、いくつもの先行訳にありもしない誤訳を押しつけているのだ(これは出版社・編集者の責任のほうがより大きいと思うが)。畏れを知らないというべきで、世の中にこういうことができる人はそうはいないと思う。ここからして、佐藤氏の倫理観は普通一般とは大きく異なっていると判断しないわけにはいかない。

(注2)佐藤氏が媒体によって、主張の使い分けをしているという例には、たとえば次のようなことがある。拉致問題や北朝鮮などについて佐藤氏は下記のように大変抑制的な態度をとっている場合もある。

「拉致問題で日本ナショナリズムという「パンドラの箱」が開いたのではないか。ナショナズムの世界では、より過激な見解がより正しいことになる。日本ナショナリズムが刺戟されれば、日露平和条約(北方領土)交渉も一層困難になる。ナショナリズムは経済が停滞した状況では昂揚しやすい。」(「国家の罠」2005年)

「既存のメディアが、インターネットの言説に引っ張られているということの象徴でしょう。メディアを覆う一連の反中国、反北朝鮮の排外的な言説なんかまさにそうではないかと思いますよ。」(「ナショナリズムという迷宮」2006年)

上記で特に何らかの具体的な意見が述べられているわけではないが、態度は見るからに冷静である。この態度が次のような文脈に飛躍するとは誰しもなかなか考えつかないのではないだろうか。

「なぜわれわれが北朝鮮と取り組まなくてはならないかというと、朝鮮半島に平和をもたらす必要があるからではなく、拉致問題が存在するからでしょう。拉致事件は日本人の人権が侵害されたのみならず、日本国家の領域内で平和に暮していた日本人が北朝鮮の国家機関によって拉致されたという、日本国の国権が侵害された事件です。日本人の人権侵害と日本国家の国権侵害を原状回復できない国家というのは、国家として存在する意味がない。」(「インテリジェンス武器なき戦争」2006年)

「国家の自縛」(2005年)では、版元が産経新聞社であることを意識し、またインタビュアーの期待にこたえようとするせいか、下記のごとき発言までしている。

斎藤 その韓国ですが、歴史・教科書問題での執拗さ、謝罪要求のしつこさには本当に閉口させられますね。

佐藤 そう思いますよね。ですから「斎藤さん、確かに斎藤さんと手切れの約束をしてあのとき百万円いただきました。しかし、斎藤さんとの子供が今度中学に入るんです。私立にも入れたいんであと二百万円ください」そんなふうに言ってくるような女性と一緒ですよね。(略)これは国際社会のゲームのルールと合致しません。だから実はそんなに怖くない。
 理不尽なことやったらそれは国際社会の中で受けいれられないから、そこは淡々と「いろいろとおっしゃられるんですけども、賠償の問題についてはすでにけりがついております。日韓基本条約に即した形で私たちやっておりますので。何かあります?」こういうふうに言えばいいと思うんですよね。日韓共通の教科書で歴史認識の問題を片付けようというのであれば、「まず北朝鮮と韓国の間で共通の歴史認識を作ってから日本に持ってきてください」と、こう対応をした方がいいんですよ。」

これらの発言はみな2005年、2006年頃、同時期のものである。

(注3)「だから文章はたいへん下手でも、嘘だけは書かないように気を附ける事だ。」と太宰治も言っている(「十二月八日」)。が、実は太宰治に限らず、私の知るかぎりこのように虚偽・ごまかしを忌避する内容のことを述べたり示唆したりしていない文学者も思想家も存在しないように思う。佐藤優氏は、よくマルクスについて書いたり話したりしているが、友人のリープクネヒトという人によると、マルクスは「彼は自分の思想と感情を完全に腹蔵なく語り」「マルクスほど正直な人間はいなかった-彼は真実の権化であった」「けっしていつわったことはなかった」(「世界の名著」中央公論社)というようにまっ正直な人物だったようである。マルクスをあまり読んだことのない私のようなものでも、これはまったく「そうであろう」とふかく納得のいく証言である。

また、岩波書店の創業者の岩波茂雄氏も、岩波文庫発刊にあたって、「読書子に寄す」として、「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。」と述べている。こういう文言は読者の胸にうっすらとではあってもイメージとしていつまでも残っているものである。中野重治も、戦後、どこかでこの文章について、いいことを言っている、と述べたあと、岩波書店は大体この言葉どおりにやってきたと思う、との評価をしていた。「大体この言葉どおりにやってきた」という部分こそが貴重だと思う。もちろん、誰もそんなに立派なことばかりできないのだし、望みもしないのだが、ただ最低限どうしてもやってはいけないということがあると思うのである。
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2010.06.13 Sun l 裁判 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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