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6月13日の日曜日、朝日新聞の読書企画「ゼロ年代の50冊」に『国家の罠』(佐藤優著)と『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー著、亀山郁夫訳)がそろって取り上げられていた。太文字の見出しは、下記のとおりで、

【国家の罠】 不条理と戦い権力の本質に迫る 
【カラマーゾフの兄弟】 視界開けた、古典は新しい

執筆者は近藤康太郎記者である。私は現在朝日を講読していないので、こういう企画が立てられていると知ったのも、13日にブログ「連絡船」がこの件を取り上げていたのを読んだからだった。ブログ主の木下和郎氏は、選ばれた「50冊」のなかに亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』が入っていることを知り、「感想募集」に応じて投稿をされたそうである。2年にわたって今もブログに書き続けておられる労作「亀山郁夫批判」(四百字詰め原稿用紙にして1000枚以上)を添付した上で。詳しくはぜひ「連絡船」でこの件についての記事を読んでいただきたいと思う。

近くのコンビニで新聞を買ってきて読んでみると、なんとも気がめいるだけの記事であった。亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』には、ブログ「こころなきみにも」の萩原俊治氏の投稿原稿も「厳しい指摘」として採り上げられているが(萩原氏も木下氏同様、労を惜しまずわざわざ投稿されたのだ。)、紙面に載っているのは「文学作品の翻訳は日本語として条理の立った読みやすいものであると同時に、緻密なものでなければならない」という言葉だけである。これでは、「厳しい指摘」というより、単に翻訳についての一般論を述べているようにしか思えない。ヘンだと思っていたのだが、やはりこれは下記に引用させていただく投稿原稿(ブログに公開されている)とは相当に異なっていたのである。

上述の萩原氏のコメントのすぐあとに近藤記者は、「指摘の成否はおくとして」と記し、誤訳問題に自分は関知しない、中立の立場に立つかのように装う。すでにほうぼうで指摘されているように、今後の出版文化を占う上において決定的に重要だと思われるこの誤訳問題(さまざまな指摘があるが、その内容を見れば、重要さの度合いは誰にも分かることと思う)に、中立的立場などというものが誰かにありえるのかも非常に疑問であるところに、まして「指摘の成否はおくとして」というような姿勢は単に無責任なだけなのだが、近藤記者はそう言っておいてすぐさま、「以下のような感想は、本と文化にたずさわるだれにとっても、重いのではないか」とつづける。この「以下のような感想」というのは「重厚で難解な印象のロシア文学が、驚くほど明快だった」という亀山訳を称讃する読者の感想である。これが記事の結論部分なのだった。

萩原氏の投稿原稿の全文は以下のとおりである。

「「超訳」にすぎない亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がベストセラーになったのは、メディア(朝日新聞、毎日新聞、NHK、集英社など)の強力な後押しがあったためだ。このことは、たとえば太平洋戦争の頃と同様、今も、メディアがスクラムを組んで大衆を操作すれば、大衆はコロッと欺されるという事実を私たちに示している。戦慄すべきことだ。それに、メディアの宣伝文句に踊らされ、その超訳をつかまされた大衆の何割が全巻を読みとおしただろう。このような疑問を抱くのは、その超訳は読者による緻密な読みを拒否するものでもあるからだ。ドストエフスキーの作品だけではなく、文学作品は筋を追うだけでは面白くない。緻密に読んで初めてその面白さが分かる。従って、文学作品の翻訳は日本語として条理の立った読みやすいものであると同時に、緻密なものでなければならない。超訳『カラマーゾフの兄弟』はこの二条件のいずれも満たしていない。」

ブログを読ませていただくと分かるように、萩原氏はドストエフスキーの研究者で、大学でドストエフスキー作品の講義をされている方だが、投稿原稿は、①亀山訳の『カラマーゾフの兄弟』のベストセラーは多くのメディアの後押しで生まれたもの、②文学作品の翻訳には日本語として条理の立った読みやすさが必要だが、亀山訳にはこれが欠けている、また緻密に読んで初めておもしろさが分かるというのが文学作品であり、したがって当然翻訳にも緻密さが求められるが、亀山訳にはこれもない。つまり翻訳に必要不可欠の二点を亀山訳は欠いている、というように要約できるのではないかと思う。ところが、朝日の記事を見ると、萩原氏のコメントの前に、「新訳で読みやすくなり、視界がさあっと開けた」(作家の高山文彦さん)とか、近藤記者自身の「飛躍的に分かりやすくなった同書」という記述があるため、萩原氏のコメントは亀山訳の「読みやすさ」を全面否定しているにもかかわらず、「読みやすくはなったが、緻密さに欠ける」というように、読者に全然別の意味に解されかねない文脈に変化させられている。これは「さして重大な批判ではない」と読者に思わせるための意図的な語句の選択・配置・操作ではないだろうか。

……と、悲しいことに、私は最近メディアの姿勢に狡猾な策略(本来の思考力のほうは正直に言ってひどく衰退しているように感じるが)のようなものを折々に感じるもので、ついこうして疑心暗鬼におちいってしまうのである。けれども実際、近藤記者は「同書には、しかし「誤訳」という批判もつきまとう。」と述べていながら、すぐ「指摘の正否はおくとして、」と平然と誤訳問題を打ち捨てているのだから、こちらが疑いふかくなるのもあながち無理はないのではあるまいか。もちろん「ベストセラーは、メディアの強力な後押し」という指摘についてはおくびにも出さず、触れていないのだし。近藤記者にかぎらず、私は新聞記者や編集者や出版者の、批判(文化や学芸にとって死活的に大事な問題に関してさえ)を決して謙虚に真剣に受け止めることのできないこういう姿勢は文学の本質に反している、むしろ文学が分析・批評の対象にするべき現象の一つのように感じる。

亀山訳『カラマーゾフの兄弟』を読むのは、小沼文彦訳、原卓也訳などを読んでいた私には苛立たしくも奇妙奇天烈な経験だった。ブログに感想を書いておこうと思ったので、なんとか全体の三分の一余りを努力して読んだ。そして優れた文学作品の翻訳としてある水準に達していると信じることができる、そのため心安んじて繙くことのできる訳本を他にもっていることをつくつく有り難いと思った。推測するに、もし『カラマーゾフの兄弟』を亀山訳によってはじめて読み、そうして感動したという読者が確かにいるのなら(たとえば「ゼロ年代の50冊」にコメントを寄せた読者のように)、それも原作の力に負っているのではないだろうか。亀山訳はどのページも呆れ返るしかないような稚拙な日本語で充ちあふれているように私には思えたが、そしてその原因は、「連絡船」が

「亀山の誤訳を、どんな翻訳作品にもつきものの表層的な誤訳として考えてはいけない。読みやすい日本語を心がけたために生じた誤訳などという亀山の弁解にごまかされてはならない。そもそも亀山に原作をまったく読めていないことこそが、夥しい誤訳として現われているのだ。これは深層的・構造的なものだ。どんな読者も亀山より作品を深く理解するだろう。亀山ほど狂った、素っ頓狂な読解はありえない。」

と述べているとおりだと私も思うのだが、それでも原作がもっている底力はどんなにお粗末な翻訳をも突き破り、断片の一つひとつであってもなお読者の心にひびくところがあった、ということではないかと考えたりもする。亀山訳(だけ)を読まれた人にはぜひ先行訳のうちのいずれかの『カラマーゾフの兄弟』を新たに読まれることをお勧めしたい。それを実行さえすれば、大方の人は翻訳の出来映えの歴然とした差異に気がつくと思う。その上でなお亀山訳を称讃するという人はそうはいないはずだ。

しかしこれは、亀山訳を称讃する既存の作家や書評家や編集者・出版人には当てはまらない。彼らは彼らなりの意図や思惑で発言し動いているのであり、本来自分たちが負っているはずの文学作品と読者と文学の世界への責任を放棄していると思う。そうではない、心底亀山訳を優れていると信じて称讃しているのだというのならば、その人は普通当たり前の読解力さえもっていないことになり、どちらにしろ、このようなことでは将来はかぎりなく暗い(注)。朝日新聞の文化部は、せめて、この企画を機会にこの件について真剣な検証を行ってみてはどうだろうか。

「ゼロ年代の50冊」選出のもう一つの話題作「国家の罠」については、次回に書きたい。



(注) 先日、とあるブログで沼野充義という人の次の文章が引用されているのを読んだ。

「 最後に、翻訳論となると誰もが引用するベンヤミンの「翻訳者の使命」を少し引き合いに出してみよう。(中略)

 そう考えた場合、私なりの見方では、翻訳には3種類の基本的なストラテジーがありうる。第一に翻訳先言語に焦点を合わせ、異質な要素を翻訳者の文化の文脈に「適応」させてしまうもの(これをアメリカの翻訳理論家ローレンス・ヴェヌティは「馴化」と呼んでいる)、第二に、あくまでも言語への忠実さを目指すもの、第三にいわばその両者の間にあって、両者を媒介するもの。第一のタイプは「カラマーゾフの兄弟」の新訳に代表されるような、いわゆる「こなれた」翻訳で、「同化的」と呼ぶことができる。第二のタイプは学者やある種の文体的実験を目指す翻訳家によって実践されるもので、「異化的」な作用をもたらす。第三の「媒介的」なタイプは、翻訳者の母語と外国語の間を媒介し、そこにいわば第三の言語を作ろうとするものだ。無論、この第三の言語とはユートピア的なもので、現実にはベンヤミンのいう「純粋言語」同様、存在しないのかも知れないが、私はその媒介的な場で展開するものこそが「世界文学」と呼ばれるに相応しいと考えている。」

亀山訳を「こなれた」翻訳と言っておられる。どういうところがそうなのか、沼野氏にはぜひ教えを乞いたい。とても関心がある。
ベンヤミンの「翻訳者の使命」が亀山訳を肯定的に語るのに引用されているのはちょっと…。


6月18日 「上述の萩原氏のコメントのすぐあとに 云々」の段落には、やや強引な表現がありましたので、訂正しました。
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2010.06.17 Thu l 文芸・読書 l コメント (2) トラックバック (0) l top

コメント

翻訳の品格
前略

突然書き込みをする無礼をお許し下さい。
亀山氏の所業については各方面で批判がなされ、疑問を投げかける声も多いのに、これを紙面や印刷物で講評することは非常に難しくなっています。
 亀山訳ドストエーフスキーにとどまらず、岩波文庫、光文社古典新訳文庫に収められたトロツキーの訳も恐るべき代物です。

 私と藤井一行氏(ロシア思想史研究者)はこの現状を何とかしたいと考え、『翻訳の品格――"新訳"にだまされるな』という書物を自家出版いたしました。

 本書をぜひご一読戴き、この問題に関心をもっておられるであろう方々にお知らせ下さい。
 本書については以下のUPLで紹介しております。
http://8913.teacup.com/naknaktono/bbs
2012.06.19 Tue l nak. URL l 編集
nak様
『翻訳の品格――"新訳"にだまされるな』をいま少しづつですが、拝読しています。内容の充実した大変な労作であることを読みすすめるにつれ痛いほどに感じております。明治以来の翻訳の歴史、これまでの歩みについても、素人ながらにはたしてこれでよかったのだろうかなどと考えさせられたりしています。読了しましたら、ブログに感想を書き、ぜひ他の人にもお知らせいたしたいと思っているところです。もう少しお待ちくださいませ。
2012.08.06 Mon l yokoita. URL l 編集

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