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朝日新聞の読書企画「ゼロ年代の50冊」に亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』が選ばれていることに関連して、読者として感じていることをもう少し書いておきたい。いろいろ考えても、否、考えれば考えるほど、この翻訳が識者、編集者、読者によって朝日新聞の紙面に見るごとく絶讃されている状況(注1)は異様で、これは文学作品の基本的な味読や読解力の面で、また出版・編集関係者の熱意や誠意の面でも、致命的な衰退・腐敗・歪みをきたしていることの表われのように思えてくる。なぜそのように思ってしまうのか、その理由・根拠について『カラマーゾフの兄弟』に対する亀山氏の読解の一例を具体的に細かに見てみることで探ってみたいと思う。

亀山氏は『カラマーゾフの兄弟 5』に「解題」を載せていて、そこで『カラマーゾフの兄弟』を自分がどのように読んだかを登場人物とその行動に即して述べている。その内容には思わず唖然としてしまう説が少なくないのだが、その一つに、コーリャ少年が十分に芸を仕込んだ上で病床のイリューシャの元に連れてきた犬ペレズヴォンは、イリューシャが待ち焦がれていた犬ジューチカではないという示唆をしていることがある。亀山氏は「もし同一の犬でないとしたら、だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか。」とまで述べている。これがどんなに驚くべきまた恐るべき読解であるかは、あの場面を実際に読んだことのある者なら誰でも感じることではないかと思うのだが、日本の文壇(今も存在するのかどうかは知らないが)や雑誌・新聞を含む読書界においては、あるいはもうそうではないのだろうか?

イリューシャはまだ元気で学校に通っていたころ、スメルヂャコフにそそのかされて飢えた犬にピンを埋め込んだパンを投げ与えるという残酷ないたずらをした。この事件についてイリューシャからすべての事情を打ち明けられていたコーリャが後にアリョーシャに語ったところによると、

「あの子は何かのきっかけで、あなたの亡くなったお父さん(そのころはまだ生きてらっしゃいましたけど)の召使スメルヂャコフと親しくなって、あの男がばかなあの子に愚劣ないたずらを、つまり残酷な卑劣ないたずらを教えこんだんです。パンの柔らかいところにピンを埋めこんで、そこらの番犬に、つまり空腹のあまり噛みもしないで丸呑みにしてしまうような犬にそれを投げてやって、どうなるかを見物しようというわけです。」(引用は新潮文庫の原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』から。以下同じ。)

そこで二人はそういうパン片をこしらえて、片目がつぶれ、左耳が裂けているむく犬のジューチカに投げてやった。

「犬は、すぐにとびついて丸呑みにするなり、悲鳴をあげて、ぐるぐるまわりだすと、やにわに走りだし、走りながらきゃんきゃん悲鳴をあげて、そのまま消えてしまったんです。これはイリューシャ自身の言葉ですけどね。あの子は僕に打ち明けると、おいおい泣きながら、僕に抱きついて、身をふるわせていました。『走りながら、きゃんきゃん悲鳴をあげるんだ』と、そればかりくりかえしてましたっけ。」

イリューシャからこの話を聞き終えると、コーリャは次のような態度をとったのだという。

「あの子を鍛えてやりたかったもんですから、実を言うと、ちょっと芝居をして、実際は全然それほどじゃなかったかもしれないのに、すごく怒ったふりをしたんです。僕は言ってやりました。『なんて卑劣なことをしたんだ。君は卑劣漢だぞ。もちろん僕は言いふらしたりしないけど、当分君とは絶交だ。』」

コーリャは数えで13歳、イリューシャはコーリャより3つか4つ年下である。悲しみと苦しみに苛まれていたその時のイリューシャにとって、誰よりも慕っていたコーリャのこのような態度はどんなに大きなショックだったろう。その上、この出来事の直後、イリューシャは学校帰りに父親のスネギリョフがドミートリーにあご鬚を掴んで往来を引きずり回される場面を目撃することになる。その時イリューシャは二人の間に割って入り、父親を許してくれるようにドミートリーに懇願さえしている。愛してやまない父親のその時の惨めな様子を友だちから「へちま、へちま」とからかわれると、イリューシャは父親をかばってみんなに一人真っ向から立ち向かうが、このようなつらい境遇は、イリューシャにナイフでコーリャの膝をついて血を出させたり、友だちと石の投げ合いをするような事態に追い込むことになる。その結果、イリューシャは完全に孤立してしまうのだが、彼が重い病気に罹るのは、このようないくつもの心労が重なった後のことだった。

イリューシャが病気になり学校を休むようになると、アリョーシャの絶妙なタイミングの助言や仲立ちもあり、友だちはみんな次々にイリューシャを見舞い、仲直りをした。ところが、コーリャは訪ねて行こうとしないのだ。イリューシャと真っ先に和解したスムーロフ少年に、コーリャは「病人を見舞いに行くのなら、《自分なりの計算》がある」とか、「ジューチカが生きてさえいるなら、犬一匹探しだせないなんて、揃いも揃って間抜けばかりだ」と謎のようなことを言うのだったが、実は、後にコーリャ自身が述べるところによると、彼はジューチカを探し出して、この犬にペレズヴォンという名を付け、家で懸命に芸を仕込んでいたというのである。完璧な芸を覚えさせた後に、イリューシャの元に連れて行き、驚き喜ばせようという計画を練っていたというのだ。後にそれを聞かされたアリョーシャはそのようなやり方をやんわりと咎めるのだが、ともかくコーリャはそういう少年なのだった。

「少年たち」のなかで、コーリャ・クロソートキンの肖像は誰もが口を揃えるように飛び切り明確であり、美しくもあり、印象ぶかい。それは確かなことだが、イリューシャという少年もまた固有の重みと希有な存在感を備えた、作品になくてはならない登場人物である。そのことは亀山氏も認めていて、「カラマーゾフの兄弟には、魅力的な「脇役」が数かぎりなく登場する。」と述べ、下記のようにつづけている。

「 脇役のなかでもとくに印象的なのは、スネギリョフ二等大尉と子どもたち、ことにその息子イリューシャと、友だちのコーリャ・クロソートキンである。/スネギリョフ二等大尉と息子イリューシャが織りなす数場面、第4編「錯乱」、第10篇「少年たち」、さらに「エピローグ」は、ドストエフスキーのもっとも豊かな人間的想像力が発揮された例といってよい。」

上述の亀山氏の見解には私もまったく異論はないのだが、この後ジューチカとペレズヴォンが同一犬ではないことを示唆する発言が飛び出したのには、呆然としてしまった。

満足の行くまで犬の訓練をなし終えたコーリャはようやくスネギリョフ家を訪ねる。そこで彼は二ヶ月振りに会ったイリューシャが病のためにすっかり痩せおとろえているのを見て衝撃を受けるのだが、やがて部屋のなかに犬を呼び寄せる。この場面を描いた文章を上記と同じく原訳『カラマーゾフの兄弟』から引用する。その後、亀山氏の「解題」からこの場面を解釈した文章を紹介する。はたして亀山氏の言う「ペレズヴォンはジューチカにあらず」という説が成立する余地があるかどうか、作品と解題の両方を併せて読むことで、読者はこの問題に関する自分の判断を確認できると思う。(注2)

長くなって恐縮なのだが、その後にさらにもう一つ、森有正の著書『ドストエーフスキー覚書』からこの問題に関連する場面の文章を抜き出して掲載したい。森有正という人とドストエフスキーとの関係については昨年ブログ「こころなきみにも」ではじめて教えられたのだが、読んでみると、確かにこの『覚書』は今後もそうそう現れるとは思えないすぐれたドストエフスキー論だと感じた。内容は深く繊細、丁寧な分析は興味ぶかく教えられるところが大変多かったのだが、有り難いことに、この本には、今ここで問題にしている「コーリャとイリューシャ」そして「ジューチカとペレズヴォン」をめぐる関係性についても詳細な論述がなされていた。読み比べることで、私たち読者は大抵「ジューチカとペレズヴォンが同一犬ではない」という説が如何なるものであるか、自ずと、しかも確実に知りえるのではないかと思うのである。ではまず作品の引用から始めたい。


   

 『カラマーゾフの兄弟』「少年たち」からの抜粋 (原卓也訳。下線は引用者による。)

「 コーリャはイリューシャのベッドのすそに腰をおろした。おそらく、ここへくる途中、どんな話題からくだけた会話をはじめるか、準備してきたのだろうが、今や完全にその糸口を見失っていた。
「いいえ……僕はペレズヴォンを連れてきたんです……僕は今、ペレズヴォンという犬を飼ってるんですよ。スラブ的な名前でしょう。向うに待機してますから、僕が呼び子を吹けば、とびこんできます。僕も犬を連れてきたんだ」ふいに彼はイリューシャをふりかえった。「なあ、爺さん、ジューチカをおぼえてるかい」突然彼はこんな質問でイリューシャにすごいパンチを浴びせた。
 イリューシャの顔がゆがんだ。彼は苦痛の色をうかべてコーリャを見た。戸口に立っていたアリョーシャ眉をひそめ、ジューチカの話はせぬようにと、ひそかにコーリャに合図しかけたが、相手は気づかなかった。あるいは気づこうとしなかったのだ。
「どこにいるの……ジューチカは?」張り裂けるような声で、イリューシャがたずねた。
「おい、君、君のジューチカなんか、ふん、だ! 君のジューチカはどこかへ行っちまったじゃないか!」
 イリューシャは黙りこんだが、また食い入るようにまじまじとコーリャを見つめた。アリョーシャは、コーリャの視線をとらえて、必死にまた合図を送ったが、相手も今度も気づかなかったふりをして、目をそらした。
「どこかへ逃げてって、そのまま行方知れずさ。あんなご馳走をもらったんだもの、行方不明になるのも当然だよ」コーリャは無慈悲に言い放ったが、その実、当人もなぜか息をはずませはじめたかのようだった。「その代り、僕のペレズヴォンがいるさ……スラブ的な名前だろ……君のところへ連れてきてやったよ……」
「いらないよ!」突然イリューシャが口走った。
「いや、いや、いるとも。ぜひ見てくれよ……気がまぎれるから。わざわざ連れてきたんだもの……あれと同じように、むく毛でさ……奥さん、ここへ犬をよんでもかまいませんか?」だしぬけに彼は、何かもうまったく理解できぬ興奮にかられて、スネギリョフ夫人に声をかけた。
「いらない、いらないってば!」悲しみに声をつまらせて、イリューシャが叫んだ。その目に非難が燃えあがった。
「それは、あの……」坐ろうとしかけた壁ぎわのトランクの上から、ふいに二等大尉がとびおりた。「それは、あの……また次の機会にでも……」彼は舌をもつれさせて言ったが、コーリャは強引に言い張り、あわてながら、突然スムーロフに「スムーロフ、ドアを開けてくれ!」と叫び、相手がドアを開けるやいなや、呼び子を吹き鳴らした。ペレズヴォンがまっしぐらに部屋にとびこんできた。′
「ジャンプしろ、ペレズヴォン、芸をやれ! 芸をやるんだ!」 コーリャが席から跳ね起きて叫ぶと、犬は後足で立ち、イリューシャのベッドの前でちんちんをした。と、だれ一人予期しなかった事態が生じた。イリューシャがびくりとふるえ、突然力いっぱい全身を前にのりだして、ペレズヴォンの方に身をまげると、息もとまるような様子で犬を見つめたのだ。
「これは……ジューチカだ!」ふいに苦痛と幸福とにかすれた声で、彼は叫んだ。
「じゃ、君はなんだと思ってたんだい?」よく透る、幸せそうな声で精いっぱい叫ぶと、コーリャは犬の方にかがみこんで、抱きかかえ、イリューシャのところまで抱きあげた。
「見ろよ、爺さん、ほらね、片目がつぶれてて、左耳が裂けてる。君が話してくれた特徴とぴたりじゃないか。僕はこの特徴で見つけたんだよ! あのとき、すぐに探しだしたんだ。こいつは、だれの飼い犬でもなかったんですよ!」急いで二等大尉や、夫人や、アリョーシャをふりかえり、それからふたたびイリューシャに向って、彼は説明した。
「こいつはフェドートフの裏庭にいて、あそこに住みつこうとしかけたんだけど、あの家じゃ食べ物をやらなかったし、こいつは野良犬なんだよ、村から逃げてきたんだ……それを僕が探しだしたってわけさ……あのね、爺さん、こいつはあのとき、君のパン片を呑みこまなかったんだよ、呑みこんでたら、もちろん、死んでたろうさ、それなら終りだ! 今ぴんぴんしてるとこを見ると、つまり、すばやく吐きだしたんだよ。ところが君は、吐きだすとこを見なかった。吐きだしはしたものの、やはり舌を刺したんだね、だからあのとききゃんきゃん鳴いたんだよ。逃げながら、きゃんきゃん鳴いたもんで、君はてっきり呑みこんだと思ったのさ。そりゃ悲鳴をあげるのが当然だよ、だって犬は口の中の皮膚がとても柔らかいからね……人間より柔らかいんだ、ずっと柔らかいんだよ!」 喜びに顔をかがやかせ、燃えあがらせて、コーリャは興奮しきった口調で叫んだ。
 イリューシャは口をきくこともできながった。布のように青ざめ、口を開けたまま、大きな目をなにか不気味に見はって、コーリャを見つめていた。何の疑念もいだかなかったコーリャも、病気の少年の容態にこんな瞬間がどれほど苦痛な、致命的な影響を与えうるかを知ってさえいたら、今やってみせたような愚かな真似は絶対にする気にならなかったにちがいない。だが、部屋の中でそれをわかっていたのは、おそらく、アリョーシャだけだったろう。二等大尉となると、まさにごく幼い子供に返った感があった。
「ジューチカ! じゃ、これがあのジューチカかい?」 世にも幸せな声で彼は叫びたてた。「イリューシャ、これがジューチカだってさ、お前のジューチカだよ! かあちゃん、これがジューチカなんだよ!」 彼は危うく泣きださんばかりだった。
「僕は見ぬけなかったな!」スムーロフが情けなさそうな声を出した。「これでこそクラソートキンだ。この人ならきっとジューチカを見つけるって、僕は言ってたけど、やっぱり見つけたね!」
「ほんとに見つけたね!」さらにだれかが嬉しそうに応じた。
「えらいや、クラソートキンは!」さらに別の声がひびいた。
「えらいぞ、えらいぞ!」少年たちがみんなで叫び、拍手をしはじめた。
「まあ待ってくれ、待ってくれよ」コーリャはみなの叫び声に打ち克とうと努めた。「こうなったいきさつを、今話すからさ。問題はほかのことじゃなく、こうなったいきさつにあるんだから! 僕はね、こいつを探しだすと、家へ引っ張ってきて、すぐに隠したんだ。家には鍵をかけて、最後までだれにも見せずにいたのさ。ただ一人、スムーロフだけは二週間ほど前に嗅ぎつけたんだけど、これはペレズヴォンだって僕が思いこませたもんで、見破れなかったんだよ。そこで僕は合間をみてはジューチカにあらゆる芸を仕込んだってわけさ。今すぐ見せるよ、こいつがどんな芸を知ってるか、見てやってくれよ! 僕はね、爺さん、すっかり芸を仕込んで、艶々と太ったこいつを君のところへ連れてくるために、教えていたんだよ。どうだい、爺さん、君のジューチカは今こんなに立派になったぜ、と言うつもりでさ。あの、お宅に牛肉の細片か何かありませんか、こいつが今すぐ傑作な芸を見せますからね、みんな笑いころげちまいますよ。あの、牛肉は、細片でいいんですけど、お宅にございませんか?」
二等大尉は玄関をぬけて家主の家へまっしぐらにとんで行った。
(略)
「それじゃ、ほんとに君は、犬に芸を仕込むだけのために、今までずっと来なかったんですか!」アリョーシャが不満げな非難をこめて叫んだ。
「まさにそのためです」 コーリャはいたって無邪気に叫んだ。「完全に仕上がったところを見せたかったんですよ!」
「ペレズヴォン! ペレズヴォン!」 突然イリューシャが細い指を鳴らして、犬を招いた。

「どうしたの? こいつを君のベッドへ上がらせりゃいいよ。こい、ペレズヴォン!」 コーリャが掌でベッドをたたくと、ペレズヴォンは矢のようにイリューシャのところにとびこんだ。イリューシャはやにわに両手で犬の首をかかえこみ、ペレズヴォンはそのお返しにすぐさま頬を舐めまわした。イリューシャは犬を抱きよせて、ベッドに身を伸ばし、顔を房々した犬の毛に埋めてみなから隠した。

原訳による作品の引用は以上である。次に、亀山氏の「解題」を掲載するが、上の作品を読んだ後で、イリューシャという少年に対する亀山氏の解釈や、ペレズヴォンは本当にジューチカなのかと本気で疑っているらしい記述を読むと、正直なところ、亀山氏の翻訳がなぜ先行訳の水準とは次元を違えて誤訳や不適切訳が多いのか、つくづく納得させられる思いがする。亀山氏の「解題」は以下のとおりである。


   

 亀山郁夫「解題」

「 スネギリョフの息子で早世するイリューシャが、まだ元気に通学できたころに見せたふるまいは、やはり常軌を逸している。仲良しのコーリャにナイフを突き立て、アリョーシャの背中をねらって石を投げ、スメルジャコフのそそのかしで飢えた犬に針を含ませたパンを食べさせた。すべてに、どこかに癒しがたい恨みをかかえ、だれかれかまわず「仕返し」したいという衝動があったにせよ、針を含ませたパンを犬に与えるなどの行為の是非がわからないほど、幼かったとはとても思えない。やや飛躍するが、そこに色濃く未来のテロリストの面影がちらついているとみるのは、うがちすぎだろうか。
 コーリャとイリューシャは、先生と生徒、さらには主従関係、強力な支配者と非支配者の関係にあった。コーリャは、この年齢にしては天才的といえるほどの知能・教養、カリスマ性を備え、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールまで読んでいることになっている。あるいは、生半可ながら社会派の批評家ペリンスキーや、当時の革命民主主義者ゲルツェンの思想にも親しんでいた。
 自称「社会主義者」である彼は、目的成就のためには頑として意志を通すところがあり、イリューシャに対する鉄のような教育も、「社会主義者」に彼を育てたいという強烈な願望の現れだったにちがいない。
 いっぽうイリューシャは、専制君主的な少年コーリャの足下に屈し、絶対的ともいえる主従関係を結ぶことになるのだが、彼自身もきわめて自尊心が強く、対等でありたいという願望にとりつかれていた。その背伸びした思いが、先ほどの犬いじめにつながるのである。イリューシャにとってそれは、たんなる悪ふざけであったというより、むしろ意志的な行為、すなわち自分が大人であることを示す、あるいは大人になるために自分に課した試練でもあったように思えてならない。
 しかし、犬いじめの一件は、思いもかけずイリューシャの心の「傷」となり、コーリャとのあいだに決定的な亀裂を生んだ。コーリャは、結核で死にゆこうとするイリューシャの「傷」の原因を推しはかり、ジューチカ(?)を探してきて徹底的に仕込むのだが、非情なしごきに似たその訓練ぶりは、彼の冷徹な意志を思わせる。/ こうして、片目がつぶれ、耳に裂け目のはいったペレズヴォン(改名されたジューチカ)は、コーリャに完壁に奉仕する存在となった。文字通り「ございます犬」の誕生である。コーリャをめぐる、このあたりの微妙な設定のもつ重層性を理解するには、くどいようだが、「第二の小説」の知られざる構想にまで想像の翼を広げて考えないことにはおぼつかない。犬のジューチカとペレズヴォンが同一かどうかという問題は、複雑きわまりない連想の糸をたぐり寄せてしまう。もし同一の犬でないとしたら、だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか。 」 (下線は引用者による)

上述の亀山氏のイリューシャ観と後にその文章を引用する森有正のイリューシャ観とを読み比べると、二人のイリューシャに対する評価はまったく対照的である。亀山氏の目には、アリョーシャがスネギリョフ家を訪ねるやすぐに見抜いたイリューシャの心根の優しさ、父親への愛情のために一身をなげうって闘おうとする勇気などは目に入っていないかのようである。もし亀山氏が小学校の教師だったら、イリューシャのような悪童的振る舞いをする子どもがいたとして、その心中の苦しみなどには目もくれず、同僚教師などに「あの子は異常ですよ」「あれでは、将来はテロリストですよ」とでも言い出しかねない短絡、軽率、そして洞察力の致命的な弱さなどを感じる。

さて、もし亀山氏が述べるごとくにジューチカとペレズヴォンが同一の犬でないとしたら、『カラマーゾフの兄弟』は、これまで読者を魅了してきた美しい場面の一つがたちまち一転、醜悪な姿に変貌してしまうだろうと思う。『カラマーゾフの兄弟』は、かれこれもう百年以上もの間、世界中で読まれてきた作品だが、普通人並みの理解力をもった読者のなかで亀山氏のような読解をした人物はこれまでどこかにいたのだろうか? 私はいなかったと思うのだが……。コーリャがイリューシャにジューチカだと思わせるために、どこかから拾ってきた犬の片目をつぶし、耳に裂け目を入れるようなことをしたのなら、そのような行為に至る少年の心の不健康さ、醜悪さは想像するさえ耐えがたいものがある。これでは、コーリャという少年がもっている生気溌剌としたイメージは消え、まったくコーリャも作品も別様のものに一変してしまうことになるだろう。亀山氏の翻訳を称讃する文学関係者には(もちろん「ゼロ年代の50冊」企画関係者も含まれる)、亀山氏のこのような読解をどのように考えるかを明らかにする責任があるだろうと思う。亀山氏の意識はどうであるにしろ、その解釈は作品の本質そのものへの指摘だと思うからだ。

またイリューシャはペレズヴォンが部屋に飛び込んできたとき、「これは……ジューチカだ!」と苦痛と幸福とにかすれた声で、叫んだ」のだが、この時イリューシャは見誤って「苦痛と幸福とにかすれた声」を上げたのだろうか? また、イリューシャのその叫びを聞いたコーリャも、「じゃ、君はなんだと思ってたんだい?」と「よく透る、幸せそうな声で精いっぱい叫」んだのだが、この時コーリャはイリューシャを騙すために、芝居をして「幸せそうな声」を張り上げたのだろうか? 亀山氏のこの読解には、思慮や思考力を欠いた粗雑な思いつき、その思いつきへの頑なな固執と欲望、などというものばかりが感じられてならない。


   

次は、森有正の文章の引用である。イリューシャを、コーリャを、筆者がどのように考察しているかを読んでみたい。

 森有正『ドストエーフスキー覚書』 (筑摩書房1967年)(作品の引用文は米川正夫訳)

「 イリューシャ対デューチカ対クロソートキン

デューチカは、もともとイリューシャにとって、単なる一匹の犬、どこにでもいる平凡な番犬にすぎなかった。しかしかの事件に際しての邂逅において、デューチカはイリューシャにとって他の犬とおきかえることのできない存在となってしまった。イリューシャにとって、元気なデューチカを目前に見ること以外に慰めはなくなってしまったのである。それがかれにとっての罪の赦しなのである。殺したものの復活、これ以外にかれの赦し、かれの慰めはないのである。アリョーシャは言う、「とにかく、わたしたちはどうかして、デューチカはちゃんと生きていて、どこかで見た人があるというように、あの子を信じさせようと骨をおってるんです。このあいだ子どもたちがどこからか、生きた兎を持って来ましたが、あの子はその兎を見ると、ほんの心持にっこりして、野原へ逃がしてくれと言って頼みました。で、わたしたちはそうしてやりましたよ。たったいま親爺さんが帰って来ました。やはりどこからかメデリャン種の仔犬を貰ってきて、それであの子を慰めようとしましたが、かえって結果がよくないようでした……」(第三巻三四九頁)。デューチカが元気で生きていること。この新しい事実に邂逅することだけが、イリューシャの赦し、赦し以上の赦しとなるであろう。この赦しがあれば、病気の苦痛も、死も何ものであろう。イリューシャは今は死ぬこともできないのである。「駆けながら鳴いているデューチカ」はかれが死んでもやはり存在しつづけるであろう。かれは分裂したままで存在しつづけるであろう。それがかれにとって唯一の現実なのである。倦怠は死によって消滅する。しかし罪は消滅しない。科学的事実より他の現実を信じない現代人にとって、これは神経衰弱症の思いすごしにすぎないかもしれない。しかしドストエーフスキーはこの現実の中に生きている。かれはそれに邂逅したのだから。
 コーリャが捜しあてて飼っているペレズヴォンは、実は、デューチカだった。デューチカは死ななかったのである。しかもコーリャは、イリューシャがデューチカの生を熱望しているのを知りながらそれをかれの所へ連れて行って見せようとしないのである。それが生きていたことを知らせようともしないのである。かれは。ペレズヴォンに、十分、芸を仕込んで、その上でイリューシャのところへつれて行って、その芸でイリューシャをびっくりさせようというのである。これはイリューシャの現実に対する完全な無知からでた、気楽な思いつきであった。しかしその原因は決して気楽なだけとは言えないものを含んでいる。すなわちコーリャの所業の裏には自分の手柄を幾倍にも美化しようとする自己中心的な願いがひそんでいる。さらに、イリューシャの安心を完全に自分の意志の下におこうとする、支配欲が潜んでいる。かれはペレズヴォンにいろいろな芸をしこむ。そのしこみ方、扱い方がかれらしいのである。「かれはおそろしい暴君のような態度で、さまざまな芸を教え込んだ。とうとうしまいにはこの憐れな犬は、主人が学校へ行った留守じゅう唸り通しているが、帰ってくると喜んで吠え出して、狂気のように跳ね廻ったり、主人のご用を勤めたり、地べたに倒れて死んだ真似をして見せたりなどして、一口に言えば、べつだん要求されるわけでもないのに、ただ悦びと感謝の情の溢れるままに、しこまれた芸のありったけをして見せるようになった。」(第3巻314頁)。かれはずいぶん残酷と思われるような芸をも平気でしこむのであった。かれとペレズヴォンとは無類の仲よしになるが、支配権は完全にいつもコーリャの手中にあった。コーリャは、ペレズヴォンの存在を愛するよりも、そのしこんだ芸を自慢しているのであった。かれはペレズヴォンにおいて無二の存在に邂逅していないのである。

 クラソートキン対アリョーシャ

 スネギーレフを含めて、少年たちの群に対して、アリョーシャは独特の立場にたって活動している。すべての人はかれに自分の心の奥底を打明ける。スネギーレフも、少年たちも、クラソートキンさえも。しかしイリューシャは少し違う。かれは自分のデューチカに対する罪を打明けない。かれはデューチカの復活以外の慰めを欲していないのである。イリューシャは真に男らしい少年であった。
 クラソートキンはかねてからアリョーシャに深い興味を抱いていたが、例の独立の欲望から、あくまで対等の立場にたって、アリョーシャと話そうと望む。かれは内心さまざまに工夫を凝らして自分に威儀を附そうとする。はじめてアリョーシャに会う時にも、わざわざスムーロフをやってアリョーシャを凍りつくような往来まで呼び出させるのである。それに反してアリョーシャはなんの飾るところもなく、気軽に出てくるのである。クラソートキンはアリョーシャに、イリューシャとの関係、デューチカ事件のことを巨細にわたって述べたてるが、それは自分がどんなにイリューシャを支配し、イリューシャを「陶冶」しているかを知ってもらうためである。アリョーシャは『ああ、実に残念です。君とあの子の関係を前から知らなかったのが、わたしは実に残念です。それを知っていれば、とっくに君の処へ行って、一緒にあの子のとこへ来てもらうように、お願いする筈だったのに。……わたしは君があの子にとって、どのくらい大串な人か知らなかったんです。』という。しかしアリョーシャの意味はおそらくクラソートキンには通じない。アリョーシャは、クラソートキンがイリューシャを教えることではなく、慰めるのに、大切なかずかずの条件を具えた人であることを知ったのである。アリョーシャはまっさきにデューチカのことを尋ねる。しかるにクラソートキンはペレズヴォン(実はデューチカ)を現につれているのに、そのことを秘して語らない。しかしクラソートキンはアリョーシャとの話にひどく満足した。なぜかというとアリョーシャは「まったく同等な態度でかれを遇し、まるで『大人』と話をするように物を言う」からであった。クラソートキンは人から対等におとなとして扱われることを欲しながら、他の子どもたちに対しては暴君として臨むのである。かれはその矛盾に気がつかない。かれは、ペレズヴォンをイリューシャの傍につれて行って、びっくりさせようとして、『カラマーゾフさん、ぼくはいまあなたにひとつ手品をお目にかけますよ』という。(略)
 やがてデューチカは、元気で生きたまま、イリューシャの傍に帰ったが、これについては、後述する。ただアリョーシャは、『じゃあ、君はただ犬を教え込んでいたために、いままで来なかったんですか?』と思わずなじるような調子で叫ぶ。
 それからコーリャを中心にして一同の話がはずむ。コーリャは、その才智ともの慣れたしかし確信のある態度で、完全に一座を支配してしまう。ただアリョーシャだけが押し黙って、真面目な顔をして、沈黙を守っているのである。不安になったクラソートキンは、やっきとなって、アリョーシャと話を始める。コーリャは世界歴史を尊敬しない。かれの尊敬するのは数学と自然科学だけである。古典語に関しては、それは狂気の沙汰であり、たかだか秩序取締りの政策以上のものではない。ただ「いったんはじめた以上、りっぱにやり遂げた方がいいと思う」からそれをやっているにすぎないのである。かれはまた神を信じていない。それは「世界秩序といったようなもののために」考えだされたものである。話はヴォルテールから社会主義に転じ、かれは自分を社会主義者であるという。かれはラキーチンからそれを教えこまれたのである。しかしこれらの話に際して、アリョーシャは一歩も妥協せずに、コーリャの思い上った態度を自ら自覚させてゆく。かれはその社会主義もラキーチンから吹きこまれたものであり、ほとんど本も読まずに知ったかぶりをしていることが、曝露される。そしてイリューシャの姉、びっこのニーチカがコーリャに『なぜあなたもっと早くいらっしゃらなかったの?』といったということから、アリョーシャは『君もこれからここへ来ているうちに、あの人がどんな娘さんかということが判りますよ。ああいう人を知って、ああいう人から多くの価値ある点を見いだすのは、あなたにとって非常に有益なことです。それがなにより具合よく君を改造してくれるでしょう』と述べる。われわれはここにソーニャとラスコーリニコフとの関係を想起する。コーリャはニーチカのように、まったく自ら求めるところなく、純愛を人に注いで忍従することのできる人との接触によってのみ、自己を改造することができるであろう。コーリャはついに悲痛な調子でいぅ、『ええ、実に残念ですよ。どうしてもっと早く来なかったろうと思って、自分を責めているんです。』さらに、『……ぼくが来なかったのは自愛心のためです。利己的自愛心と下劣な自尊心のためです。ぼくはたとえー生涯苦しんでも、とうていこの自尊心から遁れることはできません。ぼくはいまからちゃんとそれを見抜いています。カラマーゾフさん、ぼくはいろんな点から見てやくざ者ですよ!』と告白する。しかしかれは、アリョーシャがかれを軽蔑してないこと、を感ずる。『ああ、カラマーゾフさん、ぼくはじつに不幸な人間ですね。ぼくはどうかすると、みんなが、世界中の者がぼくを笑っているんじゃないかというような、とんでもないことを考えだすんです。ぼくはそういう時に、そういう時にぼくは一切の秩序をぶち壊してやりたくなるんです。』という。コーリャは自分を苦しめていたのであった。しかしかれは、自分を軽蔑しない、真率な、アリョーシャに対して、深い慰めと愛とを覚える。『じつにりっぱだ! ぼくはあなたを見損なわなかったです。あなたは人を慰める力を持っていらっしゃいます。あぁ、カラマーゾフさん、ぼくはどんなにあんたを慕っていたことでしょう。どんなに以前からあなたに会う機会を待っていたでしょう!』コーリャはアリョーシャに対する限りない愛を告白する。
 なぜこのようにクラソートキンの態度が変化したのか。それはアリョーシャの、人を軽蔑しない、人を同等に扱う、尊敬にみちた、態度によるばかりではなかった。またアリョーシャがかれの内心の苦しみに触れたからばかりではなかった。病いに疲れたイリューシャとの会見がかれに重大な影響を及ぼしていたのである。かれは、イリューシャを一目見て、自分の態度がまったく誤っていたことを直観したのである。

 クラソートキン対イリューシャ(下)

 クラソートキンは、イリューシャの病室にはいって来た時、社交上の礼儀作法の驚くべき知識を示した。かれは「おとな」としてはいって来たのである。「けれど、コーリャはもうイリューシャの寝床の傍に立っていた。病人はみるみるさっと蒼くなった。かれは寝台の上に身をおこして、じつとコーリャを見つめた。こちらはもう二カ月も、以前の小さい親友を見なかったので、愕然としてその前に立ちどまった。かれはこんなやつれて黄色くなった顔や、熱に燃えてなんだかひどく大きくなったような眼や、こんな痩せ細った手などを見ようとは、想像することもできな かったのである。かれはイリューシャがおそろしく深い、せわしそうな息づかいをしているのや、唇がすっかり乾ききっているさまなどを、悲痛な驚きをもってうちまもった。」。病みやつれたイリューシャの姿。かれがのんきにデューチカをしこんでいる間に、イリユーシャは、病気と心労とのために、まったく変ってしまった。「コーリャは急に手を上げて、なんのためかイリューシャの髪を掌で撫でた。」かれは自己支配を失って、イリユーシャの姿とひとつになってしまったのである。かれは自己の誤りを覚り、同時にイリューシャに深い愛、本当の愛を感じたのである。しかしかれはその時、一つ憎むべき芝居を打ってから、ペレズヴォンを呼び入れた。「『跳ねるんだ、ペレズヴォン、芸だ! 芸だ!』コーリャはいきなり席を立ち上ってこう叫んだ。犬は後脚で立って、イリューシャの寝床の前でちんちんをした。と、思いがけないことがおこった。イリューシャはぶるぶると身震いをして、急に力いっぱい体を前へ突きだしペレズヴォンの方へかがみ込んで、茫然感覚を失ったようにその犬を見た。
『これは……デューチカだ!』かれは苦痛と幸福にひび割れたような声で叫んだ。」。かれはペレズヴォンの芸などには見向きもしなかった。『見たまえ、どうして君は見ないんだね? ぼくがわざわざ連れて来たのに、イリューシャは見てくれないんだからなあ!』とコーリャは不平を言った。イリューシャはベッドに飛び上ったペレズヴォンの頭を両手で抱き、その房々とした毛の中に頭を埋めてしまった。ここにイリューシャの苦悩のひとつは完全に解決した。このイリューシャを前に見て、コーリャの心中には新しい愛が生れ、それはアリョーシャによって、さらに深められるのである。コーリャはここにイリューシャとアリョーシャとのふたりに邂逅したのであった。そしてそれはかれ自身の罪を明らかにした。かれはおもむろにひとつの系譜からいまひとつの系譜へと転換しはじめる。それは、しかし、かれの内における内的闘争の新しい開始を意味する。アリ㌢-シャは『ねえ、コーリャ、君は将来非常に不幸な人間になりますよ。』という。コーリャ自身もそのことを知っている。コーリャはこのように新しい生命の閾の上まできた。しかしかれはまったく新しくなることはできないであろう。内的闘争の開始。しかしかれはまったく新しくなることはできないであろう。内的闘争の開始。しかしそれで地上においては十分なのではないであろうか。新しい生命が芽生えはじめたこと。これは非常に重大なことではないであろうか。クラソートキンは来合せた医者と口論の末、『お医者さん、ニコライ・クラソートキンに命令することのできる者が、世界じゅうにたったひとりあるんです。それはこの人なんです(とコーリャはアリョーシャを指さした)。ぼくはこの人に従います、さようなら!』と叫ぶ。かれはまた病室から玄関へ走りだして泣いた。かれのなかに新しい現実が生れた。『……ああ残念だ、どうしてぼくはもっと前に来なかったんだろう』と、「コーリャは泣きながら、しかもその泣いていることを恥じようともせずに呟いた。」

 死。イリューシャの死。その埋葬。私はこれ以上に深く美しい叙述を知らない。二、三をひろってみよう。花で飾られた椅麗な枢の傍で、コーリャは、アリョーシャにきいた、「『あなたの兄さんは罪があるのですか、それともないのですか? お父さんを殺したのは、兄さんですか下男ですか? ぼくたちはあなたのおっしゃることを本当にします。話して下さい。ぼくはこのことを考えて、四晩も眠らなかったんですよ』
『下男が殺したんです。兄に罪はありません』とアリョーシャは答えた。
『ぼくもそうだと言ってるんです!』スムーロフという少年がだしぬけにこう叫んだ。
『そうしてみると、あの人は正義のために、無辜の犠牲として滅びるんですね』コーリャは叫んだ。『でも、たとえ滅びてもあの人は幸福です! ぼくはあの人を羨ましく思います!』
『君はなにを言うんです? どうしてそんなことができますか? なんのためです?』とアリョーシャはびっくりして叫んだ。
『でも、ぼくはいつか正義のために、自分を犠牲にしたいと思ってるんですもの』とコーリャは狂熱的にこう言った。
『しかし、こんなことで犠牲になるのはつまりませんよ。こんな恥曝しな、こんなおそろしい事件なんかで!』とアリョーシャは言った。
『むろん……ぼくは全人類のために死ぬことを望んでるんです。でも恥曝しなんてことはどうだって構いません。ぼくらの名なんか、どうなったって構やしない。ぼくはあなたの兄さんを尊敬します!』」
 コーリャは、すでに新しい現実に足を踏み入れた。かれ は人のために辱めをも喜んで負う気になっている。無条件で、アリョーシャの言葉を信ずる気になっている。これにはなんらの理由づけをすることもできない。イリューシャの姿とアリョーシャの姿が、かれを、変化させたのである。
  しかしこの美しい人々も、美しくなかった人々も、すべて、やがてイリューシャのように死ぬであろう。それではすべては無意味になるのか。シュストフのニヒリズムは真実であるのか。
  コーリャは言う、『ぼくは悲しくってたまりません。もしイリューシャを生き返らせることができれば、この世にありったけのものを投げだしても、ぼく惜しいとは思いません。』 コーリャは、イリューシャのなかに、まったくかけがえのない存在に邂逅したのである。かれの心にひとつの現実が生れたのである。
  「『カラマーゾフさん!』とコーリャは叫んだ。『ぼくたちはみんな死から甦って命を得て、またお互いに見ることができるって――どんな人でも、イリューシャでも見ることができるって、宗教の方では教えていますが、あれは本当でしょうか?』
『きっと甦ります。きっとお互いにもう一度出会って、昔のことを愉快に楽しく語り合うでしょう』アリョーシャはなかば笑いながら、なかば感動のていでこう答えた。
『ああ、そうなればどんなに嬉しいだろう!』とコーリャは思わず口走った。
 
ラスコーリニコフにも、スタヴローギンにも、ドミートリーにも、イワンにも、生れなかった、真の現実への転換が、コーリャに生れた。ドストエーフスキーはそれを真実に信じていたであろうか。すべては死をもって終る。人間はそれ以上のことを言いえない。かれは、ありえないことを、無邪気な少年たちの物語のなかに、象徴的に措いたのではないであろうか。
邂逅! それのみが真実を開示する。人間の新生も、死よりの復活も、偉大なる邂逅として以外には絶対に把握されない。ドストエーフスキーの全作品に充ち満つる人間の苦悩は、人類を救う偉大なる現実の邂逅へ、終末的に、指向されているのである。かれは絶望している。しかも絶望していない。 」

上の文章を読むと、ペレズヴォンがデューチカでないことの可能性など森有正の頭のなかには片鱗もないことが分かるだろうと思う。作品の全体から眺めても、またジューチカとペレズヴォンが登場する具体的場面に即して見てみても、それは当然のことだと思う。亀山氏のような読解をしたのでは、『カラマーゾフの兄弟』を根本から崩壊させることになるだろう。指摘されている夥しい誤訳の表出は、このような読解力と密接不可分のものだと思う。

ちなみに森有正は、「あとがき」に、次のことを述べている。最後に、この言葉を紹介して終わりにしたい。

「本書は、文字どおり、ドストエーフスキーの作品についての貧しい『覚書』である。専門も異なり、また原文をも解さない私が、このような『覚書』を公けにすることは、はなはだしい借越ではないかということをおそれている。もちろん、体系的なドストエーフスキー研究ではない。そこには多くの誤謬や思い違いもあるであろう。しかし、私の心はまったくかれに把えられた。神について、人間について、社会について、さらに自然についてさえも、ドストエーフスキーは、私に、まったく新しい精神的次元を開いてくれた。それは驚嘆すべき眺めであつた。私にとって、かれを批判することなぞ、まったく思いも及ばない。ただ、かれの、驚くべく巨大なる、また限りなく繊細なる、魂の深さ、に引かれて、一歩一歩貧しい歩みを辿るのみである。」

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(注1) 6月13日の朝日新聞「ゼロ年代の50冊」では、亀山氏の翻訳『カラマーゾフの兄弟』と並んで佐藤優氏の『国家の罠』も取り上げられていることは前回も書いたが、その佐藤氏もあちらこちらでこの翻訳を絶讃している。これに関して佐藤氏が問題なのは、氏は亀山訳を称讃するに際し、「(亀山訳は)語法や文法上も実に丁寧で正確なのです。これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している」「それ以前の訳では、「大審問官」の舞台を15世紀の中世と受け取りがちですが、新訳のおかげでプロテスタント誕生直後の16世紀だということがはっきりします。」(『ロシア 闇と魂の国家』文春新書2008年)などと虚偽の発言をしていることである。先行訳に対し存在しない誤訳を指摘し、その虚偽を基にして亀山訳を褒めあげているのだ。ここには想像を絶する知的不誠実があると思う。これは文学作品と先行翻訳者に泥を塗り付け、読者を欺く行為に他ならない行為だからだ。佐藤氏は同趣旨の発言を原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』を出版している新潮社の文芸雑誌「小説新潮」でも行なっている。これを黙認しているのだから、新潮社はもう出版社としての最低限の矜持も誠意ももちあわせていないのだろう。しかし過去にこれまでどんな著作家、どんな出版社がこのような破廉恥な行為をしたことがあっただろうか? 率直に言って、私は佐藤氏のこのような言行に、焚書を行なう精神と通底するものを感じる。何度もこの件を取り上げてしまうのはそのためである。こういう行為をあえて行なえるということは、私にはことに際して自分を律しうる、歯止めになるような著述家としての倫理観をなんらもっていないということを現わしているように思える。

(注2) 実は、この問題については、ブログ「連絡船」でとても緻密な分析がなされている。また当ブログでもこちらで言及している。

 
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2010.07.04 Sun l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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