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 「ジューチカの贋もの説」と「マトリョーシャのマゾヒスト説」- 発想の根は同一

前回、「ペレズヴォンはジューチカに非ず」という亀山氏の説を取り上げ、あれこれ思いをめぐらしたり、記事を書いたりしているうち、亀山氏が著書「『悪霊』神になりたかった男」で『悪霊』のマトリョーシャについて述べていた説を思い出してしまった。マトリョーシャが母親に布きれやペンナイフを盗んだ疑いで折檻される場面について、マトリョーシャはその時泣きながらマゾヒスト的な快感を覚えていたのだと言うくだんの説である。もともとこのような読み方は私には突拍子もないことにしか感じられなかったし、以前からドストエフスキー研究者の木下豊房氏や萩原俊治氏などからつよい批判や反論が発せられていたわけだが、別の犬をジューチカに似せるために誰かがその顔に傷を付けた可能性があると述べているのをあらためて読んでいるうち、これはスタヴローギンに凌辱され、その結果首を吊って死んでしまった少女マトリョーシャをマゾヒストと見るのと同じ質の発想であり、二つの説には同じ幹から生え出た二本の枝のような関係があるのではないかと思った。マトリョーシャは12歳、コーリャは13歳である。マゾヒストとかサディストなどというフロイト学説に依拠した亀山氏の作品解釈自体に私はとてつもない違和感を覚えるし、亀山氏の述べるところを聞いてもあまり根拠をもっての説とも感じられないのだが、「解題」を読むと、亀山氏は、ペレズヴォンとジューチカの関係をめぐってコーリャに対してもその説を適用しているように見える。「解題」で開陳されている「ペレズヴォンはジューチカに非ず」という亀山氏の解釈をあらためて見てみる。

「コーリャは、結核で死にゆこうとするイリューシャの「傷」の原因を推しはかり、ジューチカ(?)を探してきて徹底的に仕込むのだが、非情なしごきに似たその訓練ぶりは、彼の冷徹な意志を思わせる。/ こうして、片目がつぶれ、耳に裂け目のはいったペレズヴォン(改名されたジューチカ)は、コーリャに完壁に奉仕する存在となった。文字通り「ございます犬」の誕生である。コーリャをめぐる、このあたりの微妙な設定のもつ重層性を理解するには、くどいようだが、「第二の小説」の知られざる構想にまで想像の翼を広げて考えないことにはおぼつかない。犬のジューチカとペレズヴォンが同一かどうかという問題は、複雑きわまりない連想の糸をたぐり寄せてしまう。もし同一の犬でないとしたら、だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか。」(「解題」。下線は引用者による。以下同じ。)

上の文章を読むと、亀山氏はここで、ペレズヴォンとジューチカとは同一犬ではない、コーリャがペレズヴォンの片目をつぶし、耳に裂け目を入れてジューチカに似せたのだと主張していると見て差し支えないと思われる。亀山氏は、いや自分は同一犬ではないと断定しているわけではない、単に疑いがあると述べただけだと言うかも知れない。しかしそのような弁解は成り立たないと思う。このような作品全体の秩序を根幹から揺るがしかねない重大な新説を述べる以上、亀山氏にはロシア文学者として、また『カラマーゾフの兄弟』の翻訳者として、発言に責任が生じるのであり、これはその覚悟がないかぎり公言すべき性質の説ではないはずだからだ。また、自分は「だれが片目をつぶし、だれが耳に裂け目を入れたのか」という文のとおり、決して片目をつぶし、耳に裂け目を入れたのがコーリャだと断定しているわけではないとも言うかも知れない。けれども、コーリャは犬(ジューチカ)を探し出したことを誰にも打ち明けていない。家の中で一人で隠密裏に飼育し、芸を仕込んでいたのだから、犬の顔に傷をつけることができるのはコーリャしかいない。まさか二人暮らしのコーリャの母親はそんなことをするなんぞ考えも及ばない性質の人である。

コーリャがジューチカそっくりの犬を作り上げるために、別の犬の顔にナイフで傷を付けたという解釈がどんなに重大であるかは、その場面を想像してみるだけで分かろうというものである。亀山氏は、登場人物の誰彼についてあれはマゾヒストだとかサディストだとか断言しているが(管理人注:リーザやイワンの名が挙がっている)、スメルジャコフについて、下記のように述べている。

「小説のなかでのきわめつきのサズィストは、むろんスメルジャコフである。猫の葬式ごっこをして遊んだ彼は、やがてイリューシャをそそのかし、犬への残虐ないじめを実行させた。」(「解題」)

柔らかいパンの中にピンを入れて飢えた犬に食べさせ、それがどうなるか見物しよう、というのは残酷な趣味である。スメルジャコフにそそのかされたとはいえ、自分もスメルジャコフと一緒にその行為をやってしまったために、イリューシャは重い病気になるほど苦しんでいた。コーリャに事情を打ち明けた時のイリューシャの様子は、コーリャによると、

「犬は、すぐにとびついて丸呑みにするなり、悲鳴をあげて、ぐるぐるまわりだすと、やにわに走りだし、走りながらきゃんきゃん悲鳴をあげて、そのまま消えてしまったんです。これはイリューシャ自身の言葉ですけどね。あの子は僕に打ち明けると、おいおい泣きながら、僕に抱きついて、身をふるわせていました。『走りながら、きゃんきゃん悲鳴をあげるんだ』と、そればかりくりかえしてましたっけ。」(『カラマーゾフの兄弟』原卓也訳。以下同じ)

イリューシャの心のなかは「きゃんきゃん悲鳴をあげて」いたジューチカで占められていたのである。そういうイリューシャの苦しみをコーリャは隅々まで十分には理解していなかった。理解していたならば、探し出したジューチカに芸を仕込むなどの計画を思いついたり、実行したりなどしないで、すぐにイリューシャの元に連れて行っただろう。コーリャはそのようにして真っ先にイリューシャを安心させるよりも、ふっくらと犬を太らせ、芸のできる完璧な犬に仕上げたいという自己の欲望の方を優先したのだ。それは何事においても自分本意の考え方から抜け出せない彼の性質のためであろうが、それだけではなく13歳という少年らしい子どもっぽさ、幼さのせいでもあっただろうと思う。それにもう一つ、その方がイリューシャをより喜ばせることができるとも考えたのだろう。このようなコーリャが見知らぬ犬の「片目をつぶし、耳に裂け目を入れる」行為をするなんぞ現実的に想像できるだろうか?

そのような発想・行為は、パンの中にピンを入れてそれを呑み込んだ犬がどうなるか見物しようと言い出したスメルジャコフのそれとどう違うだろうか。スメルジャコフが「きわめつけのサディスト」ならば、犬の顔に傷をつけるコーリャも「きわめつけのサディスト」になるだろうし、事実、亀山氏はそのように主張したいのだろう。これを、犬の立場になって考えるとどうなるだろうか。ピンの入ったパンを投げあたえられることと、口や耳にナイフを刻まれることとの間に苦しみにおいてどのような違いがあるだろうか。またコーリャがそのようなことをしてジューチカの贋ものを作り上げたとして、もしイリューシャがその事実を知ったならば、彼は絶望してその瞬間に死んでしまうのではないだろうか。コーリャははたしてそのようなことを理解できない少年だろうか? またペレズヴォンがジューチカでなかったのなら、日夜ジューチカのことで頭を一杯にして、父親のスネギリョフに、

「僕が病気になったのはね、パパ、あのときジューチカを殺したからなんだ、神さまの罰が当たったんだよ」(『カラマーゾフの兄弟』)

とアリョーシャの前で三度もくりかえして言っていたというイリューシャが、コーリャが伴ってきた犬を見てそれがジューチカでないことに気づかないなどということがありえるかどうか、亀山氏は考えなかったのだろうか? またアリョーシャがそのような出来事の不自然さに気づかないということがありえるかどうかについても思いをめぐらせなかったのだろうか? コーリャは、自分が引き起こした衝撃のために布のように顔を蒼白にしているイリューシャに向かって無邪気にこう言うのだ。「どうしたの? こいつを君のベッドへ上がらせりゃいいよ。こい、ペレズヴォン!」。そして、

「コーリャが掌でベッドをたたくと、ペレズヴォンは矢のようにイリューシャのところにとびこんだ。イリューシャはやにわに両手で犬の首をかかえこみ、ペレズヴォンはそのお返しにすぐさま頬を舐めまわした。イリューシャは犬を抱きよせて、ベッドに身を伸ばし、顔を房々した犬の毛に埋めてみなから隠した。 」(『カラマーゾフの兄弟』)

この後、コーリャは、鞄からブロンズの大砲を取り出してみんなに見せるのだが、そのときのコーリャの心情について、ドストエフスキーは下記のように叙述している。

「急いだのは、彼自身も非常に幸福な気持だったからだ。これがほかのときなら、ペレズヴォンのひき起した効果のおさまるのを待ったにちがいなかったが、今はあらゆる自制を軽蔑して、急いだ。『これだけでも君たちは幸福だろうが、もう一つおまけに幸福をあげよう!』と言わんばかりだった。彼自身もすっかり陶酔していた。」(『カラマーゾフの兄弟』)

コーリャは常に自分というものの価値について過剰に意識しないではいられない、従ってその行動がどうしても自分本意になりがちの少年ではあるが、同時に利発で愛情のふかい善良な少年であることにも疑いの余地はないだろう。コーリャはイリューシャが寝ている部屋に入ってきた時、下記のような様子を見せた。

「 だが、コーリャはもうイリューシャのベッドのわきに立っていた。病人は目に見えて青ざめた。ベッドに半身を起し、食い入るようにまじまじとコーリャを見つめた。コーリャは以前の小さい親友にもう二カ月も会っていなかったので、突然すっかりショックを受けて立ちどまった。こんなに痩せおとろえて黄ばんだ顔や、高熱に燃えてひどく大きくなったような目や、こんな痩せ細った手を見ようとは、想像もできなかったのだ。イリューシャが深いせわしい呼吸をしているのや、唇がすっかり乾ききっているのを、彼は悲しいおどろきの目で見守っていた。一歩すすみでて、片手をさしのべると、まったく途方にくれたと言ってよい様子で口走った。
「どうだ、爺さん‥…具合は?」
 だが、声がとぎれて、くだけた調子はつづかず、顔がなにかふいにゆがんで、口もとで何かがふるえだした。イリューシャは痛々しい微笑をうかべていたが、相変らず一言も言えずにいた。コーリャがふいに片手を上げ、何のためにかイリユーシャの髪を掌で撫でてやった。
「だいじょぶ、だよ!」小さな声で彼はささやいたが、それは相手をはげますというのでもなく、何のために言ったのか自分でもわからぬというのでもなかった。二人は一分ほどまた黙った。」(『カラマーゾフの兄弟』)

そのコーリャについて、今、コーリャの連れてきた犬を抱いているイリューシャがどのように感じているかと言えば、

「彼はつきない興味と楽しみをおぼえながら、コーリャの話をきいていた」(『カラマーゾフの兄弟』)

イリューシャとコーリャに対するこのような描写を見れば、亀山氏の想像がいかにありえないことであるか、愚劣であり、残忍でさえあるかが一目瞭然であろう。亀山氏は、コーリャがジューチカに似せるために、どこかから連れてきた犬の耳や口にナイフを入れている場面を具体的に想像してみたことがあるのだろうか。それともそんなことは考えもせず、ただ自分の思いつきに夢中になってそのような読解が現実に成立しえることかどうか検討することもなく述べたのだろうか。どちらなのか私には分からないが、亀山氏のこの見解は、『悪霊』のマトリョーシャについて述べたマゾヒスト説とよく見合った、同一の発想によるもののように思う。

『悪霊』の主人公、ニコライ・スタヴロ-ギンは、ある時期、女性との逢い引きのためにゴロホワヤ街の大きな建物のなかの一部屋を、ロシア人の町人夫婦からまた借りしていたが、マトリョーシャはその夫婦の娘である。

「母親は娘を愛してはいたのだが、よくぶつことがあり、町人によく見られるように、〔何かにつけ〕ひどくどなりつけることもあった。この少女は私の女中代りで、衝立のかげの片づけもしてくれた。」(『悪霊』江川卓訳。以下同じ)

と、スタヴローギンはチホンに見せた告白の文書に記している。亀山氏が「マゾヒズム」説を唱える根拠にしている場面の文章を『悪霊』から下記に引用する。(下線は引用者による。)

「ある日、私の机の上からペンナイフがなくなった。それはまったく不必要なもので、なんということもなく、そこに置きっぱなしになっていたものである。まさかそのために娘が折檻されるなどとは思いもしないで、私はそのことを主婦に話した。ところが彼女はたったいま、何かのぼろきれがなくなったのを、娘が〔人形を作るために〕盗んだにちがいないと考えて、娘をどなりつけ、髪をつかんでお仕置きまでしたところだった。そのぼろきれはまもなくテーブル掛けの下から見つかったのだが、少女は〔自分が非もないのに折檻されたことに対して〕文句ひとつ音おうとはせず、ただ黙って目をむいているばかりだった。私はそのことに気づき、〔彼女はわざと文句を音おうとしなかったのだ〕またそのときはじめて少女の顔に目をとめた。それまでは、ただちらちら見かけるという程度だったのだ。彼女は髪や眉の白っぽい、顔にそばかすのある子で、ごくふつうの顔立ちをしていたが、表情にはほんとうに子供子供した、もの静かなところ、いや、度はずれにもの静かなところがあった。母親は、理由もなくぶたれたのに娘が口答えをしないのがおもしろくなくて、なぐりこそしなかったが、人形をつかんで娘の頭上にふりあげたところだったが、ちょうどそこへ、私のペンナイフの一件がもちあがったのである。[事実、その場に居合せたのは私たち三人だけで、私の部屋の仕切りのかげにはいったのは、少女一人だけだった。]おかみは、最初の折檻が自分の手落ちであっただけにすっかり逆上してしまい、[箒にとびついて]箒から小枝の束を引抜くと、娘がもう数えで十二歳だというのに、私の見ている前で、みみずばれができるほど娘を打据えた。マトリョーシャは打たれても声をあげなかった、おそらく、私がその場に居合せたからだろう。しかし、打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた。
[ところが、実はその前にこういうことがあったのである。おかみが鞭を作るために、箒のほうへとんでいったちょうどそのとき、私はたまたま自分の寝台の上に、何かのはずみで机からそこへ落ちたのだろう、例のペンナイフを見つけたのである。私の頭にはそのとき、娘をぶたせるために、このことを言わないでおいてやろうという考えがうかんだ。私は即座に決心を固めた。こういう際、私はいつも息がとまりそうになる。しかし私は、何ひとつ秘密の残らないように、いっさいをできるかぎり明確な言葉で語っておくつもりである。
(略)
少女は、泣いたあと、いっそう無口になった。私に対しては、悪感情をもっていなかったと確信している。もっとも、私の目の前であんなふうに折檻されたことを恥ずかしく思う気持は、たしかに残っていただろう。しかし、こういう羞恥を感じながらも、彼女は、従順な子供らしく、自分一人を責めていたようである。」(『悪霊』)

亀山氏は、「打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた。」というマトリョーシャの態度をマゾヒスト説の根拠にしているようである。しかし、これについては、上述の木下氏や萩原氏からロシア語の解釈を含めた明確な反論が出ているが、私も翻訳の一読者としてそのような解釈はまったく成立しえないように感じる。まず、スタヴローギンは、マトリョーシャが母親からみみみずばれができるほどに打据えられても声をあげなかった理由について、「おそらく、私がその場に居合せたからだろう。」とちゃんと書いている。また、マトリョーシャの普段の様子について、「表情にはほんとうに子供子供した、もの静かなところ、いや、度はずれにもの静かなところがあった。」とも記している。彼女はつよく自己主張するような性質ではまったくなく、自分一人で我慢する性質であり、この時もよその人であるスタヴローギンがいたこととともに我慢して声をあげなかったのだろう。そのことは、この事件の後のマトリョーシャの様子についてスタヴローギンが「私の目の前であんなふうに折檻されたことを恥ずかしく思う気持は、たしかに残っていただろう。しかし、こういう羞恥を感じながらも、彼女は、従順な子供らしく、自分一人を責めていたようである。」と述べていることでも明らかだと思う。

次に、「打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた。」というマトリョーシャの態度は、どんなに彼女が忍耐つよい従順な性格であっても、これは確か萩原氏がブログ「こころなきみにも」で述べていたことだと思うのだが、なんの落ち度もなく濡れ衣をきせられ、打ち据えられたのが口惜しかった、納得できなかった、同時に切なく悲しかったからだろう。実はマトリョーシャにかぎらず、子どもはふとこのような姿態をかいま見せることが往々にしてあるものなのだ。子どもはたとえば可愛がっていた生き物に死なれたり、親に理不尽な怒られ方をしたり、年長の友達にいじめられたりして、幼くして人生の不条理を切々と感じることがある。そんな時、どうかすると1時間や2時間、あるいはそれ以上の長い時間、沈黙のうちにただえんえんと泣きじゃくったりすることがあるのだ。そういう時の子どもの姿は孤独感や物悲しい神秘的な気配さえ醸し出していることもある。このことは自分自身や兄弟姉妹やわが子の幼年時代を思い出してみると、誰しもふと思い当たることがあるのではないだろうか。打たれても声をあげなかった、しかし、打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた、この時のマトリョーシャの態度を私は特に不思議にも不可解にも感じないし、むしろ既視感を覚える。ドストエフスキーはこのようなことを十分に知り尽くしていたのではないだろうか。

またスタヴローギンはぼろきれやペンナイフが紛失した事情をこと細かに説明しているが、これはマトリョーシャが受けた打擲は紛れもなく濡れ衣であること、それとともにマトリョーシャの忍従的な性格の表現ということがスタヴローギンのみならず、作者の意図にもあったのではないかと思うのだが、その点についての亀山氏の解釈はどうなのだろうか? モノが紛失した事情がこんなに丁寧に描かれている理由も考えに入れるべきではないだろうか。ここにマゾヒズムの入り込む余地はないように思う。なにより、マトリョーシャがマゾヒストなら、スタヴローギンに凌辱された後、彼女はなぜ病気になるほど一人で苦しみ、「神さまを殺してしまった」とうわごとを言い、顔には「子供の顔には見られるはずのない絶望があらわれ」、ついには首を吊って死んでしまうようなことになったのだろうか。スタヴローギンは文書に、この後、納屋で首を吊って死んでしまうマトリョーシャについて、死の直前の様子を次のように書いている。

「マトリョーシャのほかにはだれもいなかった。彼女は自分の部屋の衝立のかげの母親のベッドに横になっていて、ちらと顔をのぞかせたのが見えたが、私は気がつかないふりをしていた。窓はあけられていた。空気はあたたかく、暑いほどだった。私はしばらく歩きまわってから、ソファに腰をおろした。このときのことは、ほんの一瞬にいたるまで、はっきりと記憶している。私は、なぜか知らぬが、自分がマトリョーシャに声をかけようとせず、彼女を苦しめていることに、すっかり満足しきっていた。私はたっぷり一時間ほど待った。すると、ふいに彼女が衝立のかげからとびだしてきた。彼女がとびだした拍子に、その両脚が床にふれてことんと音を立てたのが聞え、それから、かなり足早な足音が聞えて、彼女は私の部屋の戸口に立った。[彼女は突っ立ったまま、黙ってこちらを見ていた。卑劣にも私は、辛抱しとおして、彼女のほうから出てくるまで待ちおおせたことがうれしくてたまらず、心臓がどきりと躍ったほどだった。]私はあのとき以来、一度も彼女を間近で見たことがなかったが、たしかにこの間に彼女はひどくやつれていた。顔はかさかさに乾き、頭はたしかに熱をもっているらしかった。(管理人注:この前に、スタヴローギンは、マトリョーシャの母親から、「マトリョーシャがもう三日も病気で、毎晩熱を出し、うわごとを言う」と聞いていた。どんなうわごとを言うのかとたずねると、それは「おびえた」うわごとで、「神さまを殺してしまった」というようなことを口走るのだと。)
 目は前よりも大きくなって、じっと私を見据え、最初そう思えたのだが、鈍い好奇心を浮べているようだった。私はすわったまま相手を見返し、その場を動こうとしなかった。そして、そのときふたたび、ふいにまた憎悪を感じた。しかし、すぐとまた、彼女が全然私をこわがっていないで、ひょっとすると、熱に浮かされているのかもしれないと気がついた。しかし、熱に浮かされているのでもなかった。やがて彼女は突然私に向って、しきりと顎をしゃくりはじめた。無邪気な、まだ非難の仕方も知らないような子供が、相手を強くとがめるときの、あの顎のしゃくり方である。それから、ふいに彼女は私に向って小さな拳を振りあげ、その場所から私を脅しはじめた。最初の瞬間、私にはそのしぐさが滑稽に思われたが、じきに耐えきれなくなってきた。[そこで私はふいに立ちあがって、恐怖をおぼえながら足を踏み出した。〕彼女の顔には、子供の顔には見られるはずのない絶望があらわれていた。彼女はなおも脅すように私に向って手を振りあげ、とがめるように顎をしゃくった。私は[立ち上がり、恐怖をおぼえながら彼女のほうへ足を踏み出し]、用心深く、小声で、できるだけやさしく声をかけたが、彼女が何も理解しそうにないことに気づいた。それから彼女はふいに、あのときと同じように、両手でさっと顔を覆うと、その場を離れて、私に背を向けて窓ぎわに立った。……](『悪霊』)

コーリャが犬の耳と口にナイフで傷を付けたのではないかという説も、マトリョーシャが母親の折檻にマゾヒスト的快感を覚えていたという説も、私は現実的な検証にとうてい耐ええない単にグロテスクな読解だと思う。コーリャとイリューシャとジューチカ(ペレズヴォン)とは物語のなかでたがいに緊密な関係をもって存在している。スタヴローギンとマトリョーシャの関係についても同じことが言えると思う。それに対して、亀山氏は一人遊びのような感覚でできるだけ刺戟のつよい思いつきを考え出しては、それらをほとんど吟味もしないで公開の場で披露しているように思える。亀山訳の『カラマーゾフの兄弟』は、ネットで検索してみたところ、どうやら朝日新聞の『ゼロ年代の50冊』のうちでも上位に選出されているようである。私は「ペレズヴォンはジューチカにあらず」という説は『カラマーゾフの兄弟』という作品の根幹を揺さぶる重要な読解の一つだと思うので(管理人注:「解題」にはこの他にも重大な場面に対する摩訶不思議な読解が多数あると思う。)、この作品を選出し、推称している選考委員の人々には、亀山氏のこの読解をどのように考えるのか、このような読解がこれまでに指摘されてきた夥しい質量の誤訳と関係はないのかどうか、一人一人に考えを聞いてみたいと思うのだが、望めないだろうなぁ。でもこの程度の読者の質問にも応えられない専門家の存在というのも思えば物悲しいものではないだろうか。本来、このような問題は、人に質される前に、出版・編集者をはじめとした関係者は確固とした自分の考えをもっていて然るべき範疇のことのはずなのだが……。
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2010.07.10 Sat l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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