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1946年の末、中野重治は『漱石と漱石賞』という題の文章を書いている。当時、それまで夏目漱石の全集を一手に引き受けていた岩波書店とは別のある出版社が漱石の全集を出すこと、その全集出版に際して「漱石賞」を創設するという発表をしたことがあったらしい。全集刊行も賞の創設も選者の顔ぶれも、何もかもが中野重治には漱石を汚すこととしか思われなかったらしく、これはその動きに関連して書かれた文章である。漱石について中野重治は下記のように書いている。

「 彼は軍国主義を認めたが、それを資本主義に結びつけて考えることはできなかつた。彼はその人生と文学との道で労働者階級を見つけることなしに生涯を終えた。ほかならぬ漱石が自分で推薦した「土」を文学として十分読めなかつたという事情がそこに原因をもつていよう。その日暮らしの労働者には物質上の苦労はあつても精神上の苦労はないという、この人とも思えぬ、しかし決して見のがすことのできぬ考え方の特徴がこの人の実態のなかにあつた。」

漱石の文章を読むと、私はだいたいいい心持ちになる。特に近年はこういう人がいてくれて本当によかった、という気持ちをいつももっているのだが、ただ返す返すも残念に思うこともある。『満韓ところどころ』に明らかな民族的差別表現のことである。これについては、別の場所で中野重治も書いている(この文章が載った本が手元にないので記憶で書くのだが、それは漱石を責めるというような論調ではなかった。中野重治は自らの詩『雨の降る品川駅』にも帝国主義の尻尾のようなものがくっついているのが認められるという趣旨のことを述べているので(「中野重治全集」「著者うしろ書」)、漱石や自分をも含めた日本人全体の意識の問題として認識し、考えていたように思われる)。

こちらのサイトに、「満韓ところどころ」における漱石の民族的差別発言を批判する中国人学者の談話が掲載されている。執筆者は牧村健一郎氏。朝日新聞社勤務の人で、漱石に関する著書ももっておられるようだ。一部引用させていただく。

「漱石は埠頭で働く無数のクーリーを見て、その紀行「満韓ところどころ」で、「大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚らしいが、二人寄るとなお見苦しい」と書く。また「チャン」や「露助」という表現も記している。
(略)
 90歳になるという大連外国語学院の元教授・李成起さんは、中学のころから習い続けた日本語が達者で、日本近代文学を専攻する温厚な老教授だ。/「漱石先生は中国でも文豪として尊敬されています。私はとくに「こころ」に感心しました。人間の深い魂を描いています」という老教授も「満韓」の表現についてはこういった。「先生(漱石)のような偉大な文学者が、言ってはならない言葉を使ったのは大変遺憾に思っています。中国人を、文学者ではなく、戦勝者の目で見ています。あのクーリーたちは今の大連市民の祖先ですよ」/漢文、漢詩を学んだ漱石は中国文化を深く尊敬しており、差別意識はなかっただろうが、帝国主義の時代に入った明治人として、友人同士の気楽なやりとりのつもりで、書いたのだろう。これを中国人が不快に思い、批判するのは、また当然だろうと思った。」

かつて英国留学時、日記に、

「日本人を見て支那人と云はれると嫌がるは如何、支那人は日本人よりも名誉ある国民なり、只不幸にして目下不振の有様に沈倫せるなり、心ある人は日本人と呼ばるるよりも支那人と云はるるを名誉とすべきなり、仮令然らざるにせよ日本は今迄どれ程支那の厄介になりしか、少しは考へて見るがよからう」

と書きつけた人とは思えないようなひどい発言だが、これは相当の見識をもつしっかりした人でも時代の大勢に巻き込まれ、流される恐れは常にあるということを証明しているのだろう。しかし、漱石のこの差別発言は今も日本社会に悪影響を残しているのではないだろうか。「あの漱石にしてこうなのだから、我々が少しくらい差別的発言や行動をしたって仕方がない。あれこれ言われる筋合いではない」というような内心の弁解として作用している側面があるようにも思う。しかしそれは受け取る側の間違いであろう。晩年の漱石が意志として表に現わした行動、生き方を見ると、漱石の過ちや限界の上に現在の私たちが乗っかることは決して許されることではないと思う。中野重治は上述の文章につづき、次のように述べている。

「 しかも彼はあくまで真面目に、正直に、日本人の文学と生活とに真実をもとめて悪戦苦闘した。学習院が講演の礼に届けてきた金十円について、文部省が押しつけてよこした学位について、『太陽』の人気投票で押しつけられた金盃について、また学校教師、大学教授、新聞人としての職業について、世渡り上手からは偏屈とも神経過敏とも笑われるばかりの、むき、生真面目さですべてに対して行つた。くれるという博士ならもらつておけ、西園寺が御馳走するというなら行つて食つてこようというようなさばけた考えに彼は従うことができなかつた。他をもおのれをもあざむかぬことで自己の個性を確立しようと、これが生涯をかけた彼の仕事であつた。彼はそれを、個の確立が具体的に保障される革命と革命階級とから切り裂かれた一人身でやろうとした。ここに彼の暗さ、絶望的な孤独感、家族にまでたいする猜疑が生れ、彼自身は死ぬまでそれにさいなまれることとなつた。彼はそれを尊重しつつそれにひとすじにすがつて行つた。広瀬中佐の愛国詩について、彼はその「俗悪で陳腐で生きた個人の面影がない」(「艇長の遺言と中佐の詩」)ところから、彼の軍人としての「誠実」を疑うことも辞しなかつた。
 彼のこの態度は年とるにつれ、作家として成長するにつれ、読者がふえて世間に名がひろまるにつれて強まつて行つた。そして日本の「家」とその夫婦関係とはその腐敗と虚偽とで最後まで彼を苦しめたものであつた。おそらく、五十歳の彼の疲労と渋面とには、彼の死後三十年してはじまつた民主革命のなかで個の確立をしやべりたてるすべての九官鳥とは別種の人間的誠実が輝いていたであろう。しかも啄木のしたのと裏表の関係でした自然主義批評のなかで彼の求めた「ヒロイック」が、作品として実をむすぶことができなかつたところに彼とわれわれとの悲劇があつたのである。

 しかし一部の日本人は、死後三十年のこの作家を改めて侮蔑しようとするかのようである。紙の出どころについてよからぬうわさのある本屋が新しく『漱石全集』を出し、それに景気つけるために漱石賞をつくり、その選者として石川達三、林房雄、林芙美子、横光利一、武者小路実篤、内田百聞、久米正雄、松岡譲、青野季苦、里見の人びとが発表されたのである。これらの人を総体として見るとき、どこに漱石の生き方、漱石の文学との順直なつながりが見出されようか。一体としての彼らのどこに官僚的なものとのたたかい、それからの脱走、金銭からの芸術の防衛、年とるにつれ名がひろまるにつれて増した世俗との対立、人生と文学とにおける真実追求の苦闘が認められようか。戦争に対する彼らの反応が彼らのすべてを一括して漱石に対置している。まことに、まことに、貧しい小学教師にまつこうから丸太をくれ、そのまま拡声器へ「暴力にはあくまで屈せず」と吹きこむカトリックの文部大臣に花たばの捧げられる新憲法世界にふさわしいかぎりの国柄である。」

   (2)
中野重治がこの文章を執筆したのは第一次吉田茂内閣の時で、「カトリックの文部大臣」とは、後に最高裁長官に就任する田中耕太郎のことである。「漱石賞」の「選者」として名前の挙がっている人のなかには内田百や青野季吉もいて、この人たちが中野重治によって十把一絡げに論難されているように見えるのは私には気の毒に感じられるが(中野重治自身これらの人をみな同列に見ていたのではないと思うが)、それはともかくとして、上の文章のなかで、私が特に感銘をうけるのは、「広瀬中佐の愛国詩について、彼はその「俗悪で陳腐で生きた個人の面影がない」(「艇長の遺言と中佐の詩」)ところから、彼の軍人としての「誠実」を疑うことも辞しなかつた。」という箇所である。漱石は『艇長の遺書と中佐の詩』に次のように書いている。

「 昨日は佐久間艇長の遺書を評して名文と云(い)つた。艇長の遺書と前後して新聞紙上にあらはれた広瀬中佐の詩が、此遺書に比して甚だ月並なのは前者の記憶のまだ鮮かなる吾人の脳裏に一種痛ましい対照を印した。
 露骨に云へば中佐の詩は拙悪と云はんより寧ろ陳套を極めたものである。吾々が十六七のとき文天祥の正気の歌などにかぶれて、ひそかに慷慨家列伝に編入してもらひたい希望で作つたものと同程度の出来栄である。文字の素養がなくとも誠実な感情を有してゐる以上は(又如何に高等な翫賞家でも此誠実な感情を離れて翫賞の出来ないのは無論であるが)誰でも中佐があんな詩を作らずに黙つて閉塞船で死んで呉れたならと思ふだらう。」(『朝日新聞』1910年(明治43)年)

明治末の世相に「軍神」「英雄」として喧伝されている人物の遺書について、新聞紙上でこれほど率直に大胆に自己の感想を披瀝し、しかも読者に対して執筆者の誠実さ、真剣さを疑う余地を微塵もあたえない、このような文章は世に稀なことではないだろうか。しかも漱石の執筆は中佐の死の直後なのである。漱石は中佐の詩について、下記のように「偉さう」「偉がってゐる」とまで書いている。

「其詩は誰にでも作れる個性のないものである。のみならず彼の様な詩を作るものに限つて決して壮烈の挙動を敢てし得ない、即ち単なる自己広告のために作る人が多さうに思はれるのである。其内容が如何(いか)にも偉さうだからである。又偉がつてゐるからである。

道義的情操に関する言辞(詩歌感想を含む)は其言辞を実現し得たるとき始めて他をして其誠実を肯はしむるのが常である。余に至つては、更に懐疑の方向に一歩を進めて、其言辞を実現し得たる時にすら、猶且其誠実を残りなく認むる能はざるを悲しむものである。微かなる陥欠は言辞詩歌の奥に潜むか、又はそれを実現する行為の根に絡んでゐるか何方かであらう。余は中佐の敢てせる旅順閉塞の行為に一点虚偽の疑ひを挟むを好まぬものである。だから好んで罪を中佐の詩に嫁(か)するのである。 」

この一文が朝日の文芸欄に載ったのは、1910年(明治43)年7月20日。この時漱石は胃潰瘍のため長与胃腸病院に入院中であり、翌8月には療養のため修善寺温泉に転地している。いわゆる「修善寺の大患」が起きたのはその8月中のことであった。幸い漱石はこの危機を乗り越え、快復に向かうことができたのだが、もし不幸にもそうでなかった場合、『艇長の遺書と中佐の詩』が遺稿になった可能性もあったのではないだろうか。その辺りの詳細は私には分からないが、かりにそうだったとして、私は、この文章は漱石の遺稿として少しも恥じるところのない、むしろ文学者漱石の独創性を如実に示す、遺稿として相応しいものだったとさえ言えるように思う。

このようなことを思うにつけ、また人間の言葉を受けとめる漱石の命を懸けているかのような一徹な真剣さ、内にもっている揺らぎようのない確固とした信念、飾ることのない率直な表明の仕方などを見たり感じたりするにつけ、佐藤優氏の漱石に関する発言はいつも本当に苦々しい。とりわけ、前回述べたところの『ナショナリズムという迷宮』におけるデタラメでいい気な漱石論や、「私と鈴木宗男代議士との関係についても、「私設秘書」と「恫喝政治家」というような関係ではなく、(略)夏目漱石『こころ』の主人公と先生のような関係であることを検察側にどこまで正確に理解させるかということも、私にとっては重要なことです。」(『獄中記』。版元の岩波書店にはこのような佐藤氏の主張をどう考えるのか、今あらためて訊いてみたい。)という、何の実証も伴わない、その必要性の自覚さえまったく感じられないいかにも唐突な発言は、私にはひとえにうまい世渡りのために漱石を利用しようとするもの、そのことによって読者を騙し、さらに漱石を侮辱するものにしか映らない。

追記-以前私は、文芸評論家の三浦雅士氏の『漱石 母に愛されなかった子』という本(岩波新書2008年)について批判的に述べたことがあるが、ただ決してこの本を佐藤優氏の発言と同列に見ているわけではない。三浦氏の本は、過去に多くの漱石論にすでに書かれている内容(たとえば、大岡昇平の『小説家夏目漱石』)が何倍にも薄められ、しかも事実関係が不正確な点が多いように思えた。それが非常に不満足だったのだが、ただ佐藤氏の場合のように悪意や何らかの思惑など他意のあるものとは全然考えていない。下手な書き方のためにそのような誤解をあたえる恐れがあるのではないかとふと気になったので、一応記しておきたい。


最初の意図と異なり、書いているうちに、なんだかタイトルにそぐわない内容になってしまいました。読者の皆様、申し訳ありません。
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2010.07.24 Sat l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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