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「富士日記」が中央公論の月刊誌『海』に載ることになったのは、武田泰淳が亡くなった1976(昭和51)年10月、編集部から山小屋でつけていた日記の一部を『海』に出したらどうか、との話があったからだそうである。妻である百合子さんは「ずい分ためらいましたが、供養の心持で」引き受けたことを一年後に出版した「富士日記」単行本の「あとがき」に書いている。日記は武田泰淳や一人娘の花さんも時折書いてはいるが、ほとんどは武田百合子の手になるもの。山小屋が建ったのは昭和38年(1963年)、日記は翌年の昭和39年(1964年)から十数年にわたって書き続けられている。すばらしく精彩に富んだ魅力ある文章だと思うので、そのうちのほんの一部だが、書き写させていただき、二回に分けて掲載する。最初読んで、特に印象に残った場面や出来事、おもしろいと思った会話など(個人的な好みも入っていると思うが、大岡昇平の言動の描写も抜群だと思う)。


「 昭和40年 (1965年)
 8月5日(木) 晴
 后六時、私と花子、外川さんと約束をしておいた河口湖湖上祭に下る。主人、急に留守番するという。
外川さん(引用者注:前回掲載した「日日雑記」の「トガワさん」と同一人物)は三人に来てもらいたい(特にセンセイ)と思っていたのに、私と花子だけということになって、ガッカリしたらしい。
 六時に外川さんの家の前に着くと、もう湖上祭に行く車でつながっていて、道一杯つかってハンドルをきり、大まわりして外川さんの家への小路に入る予定だったのに、そんなことは到底できない状態。すぐうしろには、大きなオートバイのおにいさんが女を乗せて五、六台続き、絶対あとへ退らないし。外川さんは少し先の右側の小さな農家へ入って行き、しばらくして「オーライ」と手を振ったので、少し前進してから、農家の入口めがけて右折すると、そこは車幅一杯の私道で左側は田んぼ。私の車の前にすでに千葉ナンバーの車が一台入っている。私の単が右折したのを見て、すぐ真似してもう一台あとから入ってきたので、私の前に一台、あとに一台、あれよあれよという間に一列に並んで三台入りこんでしまった。
 私が「この前の千葉の車、出られないんじゃないの。私、こんなところへとめて大丈夫かなあ」と言うと「なあに湖上祭終るまじゃ帰らねえ。九時半か十時ずらあ」と平気である。農家の障子窓があいて顔を出したおじいさんは心配そうにしていたが、外川さんが威勢がいいので黙ってしまって「中のもの、とられねようにしてくれやあ」と小さな声でいって窓をしめてしまった。何ともへんなところなので「私の車のうしろの車の人がいる今のうちに道へ戻して、外川さんの家の前にやっぱりとめたい」と訴えたが、外川さんは丈大夫だといって歩きだす。
 外川さんの前庭まできてから、もう一度「千葉の車が出られないだろうから」と言うと「ほっとけ。何もせん方がええだ」と言う。外川さんは前庭から座敷へ上り「暗くなるまで茶でも上っておくんなって」とすすめる。主人から出がけに「外川さんのうちに上りこんで御馳走になったり、酒沢山飲んだら駄目だぞ」と念を押されているので断わるが、暗くならなくては行っても無駄だ、というし、奥さんも庭先に下りてきて、是非、というので上る。
外川さんは私と花子が上るとすぐさま、座敷のテレビをつけて、テレビと話しこむほどの近さに坐りこみ、画面に眼をすえたままになる。水戸黄門をやっている。ときどき「うう」という呻き声を出しては、穴のあくほどみつめている。水戸黄門様が浅はかな殿様をたしなめて悪い家来をやっつける話で、外川さんは鼻水が垂れてきても拭かない。黄門様が終えると、すぐパチンと消して、体の向き包変え、今度は私に話しかけはじめた。わかった。外川さんはこの番組がはじまっていたので、早くこれを見たいから、千葉の車のことなんかどうでもいい、早く座敷に上りたかったのだ。外川さんは黄門様を見ている間、子供がそばにきて首をつっこんで見ようとすると、ゲンコで頭をなぐって向うへ追いやり、自分だけテレビの前で専用にして見ていた。
 さしみ、トマト.酢のもの(いか、くらげ、さば、たこ)をビールと一緒に運んできてすすめられる。
 そのうちに急に思い出したように「重ね重箱」があるから見ろ、という。棚の上のものを払い落して探したり、押入れの中からも、ものを放り出してのぞいたりして、外川さんと奥さんはやっと見つけ出す。カビが一杯生えていたが、五重ねのケヤキの見事なものだ。しかし、二箱はフチがとれている。外川さんは十年前にレークの(湖畔のことらしい)頭バカになった人から「当時の金でサンデンエン(三千円のことらしい)で買った」と言った。奥さんと、東京から花火を見に泊りがけできているらしい外川さんの妹さんも座敷に寄ってきて、坐りこんで話をしはじめる。
 そのうち暗くなってきて、湖畔に出かける時刻となる。外川さんは「さてと」と言って、ゆっくり立上り、用意の出来ている消防の印ばんてん、河口湖町消防団誘導部長と衿に染めぬいてあるのを着て、衿のところをすっとひっぱって姿勢を正し直立不動となる。そして白い日おおいのかけてある制帽を両手で大切そうにかぶる。奥さんは、衿のところを嬉しそうに直してやった。私と花子は手を叩いて「ステキ」と言った。外川さんは、この出動の場面を主人にみせたかったのだ。忠臣蔵の大石内蔵助のようだった。
 湖畔のLホテルに行くと、外川さんが予約しておいたはずだというのに満員だという。どの部屋も、湖に張り出した見物席も満員で、さかんに飲み食いしている。大座敷のようなところでは、東京からテレビでよくみる落語家がきていて、漫談のような司会のようなことをやって、みんな真赤な顔で笑いどよめいている。湖の見えない席で、西瓜とジュースを四本、外川さんは注文してくれた。そして「これから誘導の仕事が待ってるで」と言って敬礼すると、まわれ右をして出かけて行った。私たちは、外川さんにわるいと思っていたので、やっとほっとして、それを食べ終るとすぐホテルを出て、夜店を見たり、音がすると空の花火を見上げたりして湖畔を歩く。

 遊覧船に乗ってみた。船はこぼれ落ちそうに人を乗せて音楽をかけ、湖の中央まで出て、ゆっくりまわって戻ってくる。二十五分、一人九十円。まわりどうろうを買う。二百円。盆踊りの絵がまわると踊り子の手足がふわふわ動いてみえる。
 湖畔で花火を見る席には、人がぎっしりで、新聞紙を敷いて仰向けに寝転んでいる足の間を、踏まないように歩いて、遊覧船の乗り場まで行ったのだ。死にそうな位の年のおじいさんが、家族の人に囲まれて、新聞紙を敷いて寝て、仰向けになって花火を見ている。死んでしまっているのではないかと思うぐらい、じいっとして花火のあがる方角だけ見ている。この敷いている新聞紙は、売り屋がいて、その人から買っている人もある。私たちも、新聞紙があいていたので、それを敷いて仰向けになって、しばらく花火のあがるのを見た。ねころんで見ると、首がくたびれないので、ずーっと終りまで見ていられるのだ。
 花火があがって、音もなくふっと消えてゆくのを、くり返しくり返し見ていたら、梅崎さんのことを思い出して涙がでた。
 九時半頃、卵を六個買って抱えて、車をとめたところに急ぎ足で帰ると、女一人男二人がいて、怒っている様子。千葉の車の人だ。一人の男はやたらにヒステリックになっていて「二時間も待ったぞ。のんびり笑いながらやってきやがって」とふるえ声で噛みつくように言った。「花火見にきたんでしょう。花火見物の人は、花火が終るまで帰ってこないのはわかってるでしょ。あんたたちも花火終るまで見ていればよかったのに。花火見にきてのんびり笑いながら歩いて何が悪い。せっかち」と、あんまりふるえ声でどなるので、いい返したら、その男は私に殴りかかろうとした。もう一人の男が中に入って「こんな田んぼでけんかしたって仕方がない。早く車を出さなくっちゃ」と言って、私のうしろの車を四人で持ち上げて田んぼの所に斜めにうっちゃって、私の車をバックで道に戻し、やっと千葉の車が出られることになる。私のうしろの車は小さかったので、案外軽く持ち上げられたから、田んぼの中に三分の一ほど浸ってしまうこととなり、一番損をした。来年は、もう、こんなところにとめない。
 花子は「おかあさん、ほんとは私たちも少しわるいね。遅く帰ってきたからね。あの男の人ヤクザのおにいさんでしょ。おかあさんがぶたれたら負けるよ」と、単に乗ってから小さな声でいった。私は気分が少し昂揚して「ぶちにきたら、卵全部投げつけて、それから車のチェーン出してふりまわしてやろうと思って」とうちあけた。
 今年の湖上祭は、朝から晴れていたので花火がいつになくきれいに揚がったのだそうだ。その日、一度でも雨が通ると、あと晴れわたっても、空気がしけているし、花火玉の火薬もしとって、煙ばかり多いそうである。湖上祭の日は、朝から快晴ということは少なく、曇っていて雲の上に花火が打ち揚がってしまって、音だけがして見えなかったり、しとしと降って夕方からやっと晴れだすという日が多いらしい。
 「花火が終ると、このあたりの夏は終りだね。盛りを過ぎるねえ」と、外川さんも外川さんの奥さんも、地元の酒屋や八百屋のおかみさんも、ガソリンスタンドの人も、気がぬけたように言うのだ。明日かあさっては立秋なのだから。


 昭和42年 (1967年)
 7月18日(火) 快晴、夕方少し雨、雷鳴
 ポコ死ぬ。六歳。庭に埋める。
 もう、怖いことも、苦しいことも、水を飲みたいことも、叱られることもない。魂が空へ昇るということが、もし本当なら、早く昇って楽におなり。
 前十一時半束京を出る。とても暑かった。大箱根に車をとめて一休みする。ポコは死んでいた。空が真青で。冷たい牛乳二本私飲む。主人一本。すぐ車に乗って山の家へ。涙が出っ放しだ。前がよく見えなかった。
 ポコを埋めてから、大岡さんへ本を届けに行く。さっき犬が死んだと言うと、奥様は御自分のハタゴを貸して下さった(7月19日に書く)。

 7月19日(水) 晴 三時頃より雷雨
 夜一時止む。また小雨となる。
 昨夜、何度も眼が覚め、覚めると、しばらく泣いた。
 朝、陽があたっている。
 朝 ごはん、佃煮、油揚げつけ焼、大根おろし、味檜汁、のり、卵。
 ポコの残していったもの、籠と箱と櫛をダンロで焼く。土間に落ちているポコの毛をとって、それも焼く。何をしても涙が出る。
 昼 ハムサンド、とりスープ、紅茶。
 主人の顔をみないようにしている。主人も私の顔をみないようにしている。お互いに口をきかないようにしている。
 二時少し前、私だけ下る。今日は梅崎春生さんの三回忌の御命日だ(私は前から心づもりしていたのだ。私一人ならポコを座席に乗せて行ってこよう。富士霊園までは人通りも少ないから吠えたてないし、霊園の中は広々しているから、お墓でポコと遊んでこようと思っていた)。一人でお墓参りに下る途中で黒い雲が空一面となる。山中湖までくると雷鳴をともなった豪雨となる。湖面は急にふくらんできて、湖岸の道路は川のようになる。ワイパアをつけても水の中を走っているようで、前は何も見えない。車は全部スタンドや茶店に一時避難して休みだす。私はスタンドに逃げこんだ。しばらくして雨は上ったが、霊園までの赤土の道は水が出てぬかって通れないだろうと そこの人たちの話なので引き返す。(略)
 帰ってきて、主人とビールを飲んでいると、大岡さん御夫妻来る。
「どうしてる? 犬が死んでいやな気分だろう。慰めにきてやったぞ」と、入ってこられる。私は奥様に貸して頂いたハタゴで機織りを教わった。
 御飯どきだったが、へんなおかずだったから、枝豆、ハム、かに、で、皆でビールだけ飲んだ。
 大岡さんは、昔から犬を始終飼っていた。で、いろいろな死に目に遭ったのだ。
 大きな犬を飼っていたとき、鎖につながれていた犬が、そのまま垣根のすき聞から表へ出てしまい、大きな犬だったのに石垣が高いので下まで肢が届かず、首を吊ったようになって死んでしまった。道を通りかかった御用聞きだか配達だかの男の子がみつけて報らせてくれた。「絞首刑だな。自殺というか……」
 大岡さんは、そのほかにも、犬の死に方のいろいろを話された。そして急に「おいおい。もうこの位話せばいいだろ。少しは気が休まったか」と帰り出しそうにされた。
「まだまだ。もう少し」。主人と私は頼んだ。大岡さんは仕方なく、また腰かけて、思い出すようにして、もう一つ、大の死ぬ話をして帰られた。門まで送ってゆくと、しとしととした雨。夜は、釜あげうどんを食べた。
 遅くにゴミを棄てに表へ出る。まだ、ポッリボツリと犯みこむように雨は降っている。
 ポコは、あの濯木の下の闇に、顔を家の方へ向けて横たわって埋まっている。昨夜遅くなってから、よく寝入ったときのすすり上げるような寝息がひょっと聞えたように思ったが、それは気のせいだ。ポコ、早く土の中で腐っておしまい。

 7月20日(木) 晴、昼ごろ俄か雨
 朝 かに、卵、グリンピースの焼飯、スープ。主人が作ってくれた。私の分も。
 車を拭く。トランクも開けて中を拭く。実に心が苦しい。
 いつもより暑かったのだ。一時間ごとにトランクから出してやる休み時間までが待てなかったのだ。ポコは籠の蓋を頭で押しあけて首を出した。車が揺れるたびに、無理に押しあけられた蓋はバネのようにポコの首を絞めつけた。ひっこめることが出来なかったんだねえ。小さな犬だからすぐ死んだんだ。薄赤い舌をほんのちょっと出して。水を一杯湛えたような黒いビー玉のような眼をあけたまま。よだれも流していない。不思議そうにものを視つめて首を傾げるときの顔つきをしていた。トランクを開けて犬をみたとき、私の頭の上の空が真青で。私はずっと忘れないだろうなあ。犬が死んでいるのをみつけたとき、空が真青で。
 埋める穴は主人が掘ってくれた。とうちゃんが、あんなに早く、あんなに深い穴を掘った。穴のそばにべったり坐って私は犬を抱いて、げえっというほど大声で泣いた。泣けるだけ永く泣いた。それからタオルにくるんで、それから犬がいつもねていた毛布にくるんで、穴の底に入れようとしたら「止せ。なかなか腐らないぞ。じかに入れてやれ」と主人は言った。だからポコをじかに穴の中に入れてやった。ふさふさした首のまわりの毛や、ビー玉の眼の上に土をかけて、それから、どんどん土をかけて、かたく踏んでやったのだ。
 昨日、大岡夫人は「庭に犬を埋めると、よほど土を盛らないと、ずんと下りますよ」とおっしゃった。早くずんと下って、もう一ぺん土を盛るときがくればいい。
 昼 おじや、コンビーフ、白菜朝鮮漬風、トマトと玉ねぎサラダ。
 陽がかっと射してきて鳥が噂きだす。どこもかしこも戸を開け放つ。犬がいなくなった庭はしいんとして、限りもなく静かだ。
 ハタ織り少しする。
 管理所に新聞と牛乳を頼みに行く。牛乳は二本ずつ明日から。新聞は(朝日と山梨日日)明後日から。
 ハイライト一個買う。七十円。
 歩いてきたので、大岡家の前を下り、村有林の道を歩いて戻る。林の日陰にこしかけて、ハイライト二本吸う。死んだのがかなしいのではない。いないのが淋しいのだ。そうじゃない。いないのが淋しいのじゃなく、むごい仕打で死なせたのが哀れなのだ。私はポコをいつも叱っていたが、ポコは私を叱ったり意地悪したりしなかった。朝起きた私にあうと、何年もあわなかった人のようになつかしがって迎えた。昼寝から覚めたときだってそうだった。いやだねえ。

 8月21日(月) 雨
 台風十八号が近づいている由。
 九時、宿へ花子たちを迎えに。会計を済ませる。全額四千七百円。中学生割引だそうだ。
 門に大岡さんの車がある。奥様が庭を戻ってこられたところ。「今、お魚を置いてきました」
 黒鯛一尾、イナダ三尾、イセエビ一尾。頂いた。
 黒鯛はカラアゲにする。イナダは煮る。イセエビを茹でる。順繰りに食べることにする。たのしみ!!
 花子たちをのせバスの時間に合わせて下る。花子の友人は土産物店で、お母さんへのおみやげの絵葉書と財布を買った。新宿西口行二時四十五分発のバスに乗り込ませて、見送る。

 夜 黒鯛カラアゲ甘酢あんかけ、焼き茄子、ごはん。
 主人満腹。満足して、はやばやと眠る。
 八時ごろ、花子の友達が無事に帰宅したか、東京へ電話するため出かける。管理所は灯りが消え、入口が開かない。
 先日届いた浅山先生の葉書では、二十一日の午後Sランドに到着予定となっている。明朝行ってみることにしていたが、出たついでに電話を借りがてらSランドまで下ってみる。Sランドのフロントで東京へ電話をすると「迎えに出かけて、まだ戻ってこない」と留守番の人が言う。一寸気がかりなので、三十分後に、また電話してみることにする。待っている間に「今日、京都から女の客が着いたはずだが」と訊ねると、午後にお入りになったと言う。四階の一号室を訪ねて浅山先生と話しているうち、十時半過ぎる。ノックして、フロントの男「今、武田さんにお客様がきている」と告げにくる。一体、誰がきたのだろうと降りてゆくと、主人、蒼い顔をして佇っている。垂らした両手を握りしめている。花子、そのそばに、ぼーっとして随いている。外に出ると煌々とライトをつけ放しにしたジープがとまっていて、管理所の人が大型懐中電灯を持って二人いる。主人、体を震わせていて一言も言わない。ジープのあとをついて車を出して帰る。主人、車の中で「黙っていなくなる。それが百合子の悪い癖だ。黙ってどこかへ行くな」。怒気を含んで低く言う。運転しながら「ごめんなさい。これからは黙っていなくなりません」と言う。まだ怒り足りなくて震えている。「とうちゃんに買ってもらった腕時計もちゃんとします」。常に叱られていることも思い出して加える。「そうだよ。百合子は夜でも昼間と思ってふらふら出かける。時間の観念が全くゼロだ。今にとんでもない目に遭うぞ」「はい」
 ゴルフ場の林の道で、霧除けの黄色い灯りをつけてくる車が、すれちがうところで停った。大岡夫人が運転して大岡さんが乗っている。探しにきたよとのこと。ひたすら謝る。
「どっかで酒でも飲んでるんじゃねえか、心配することはねえと俺は思ってたんだ。しかし武田が蒼くなってやってきたからなあ。ひょっとして死んでたら、大岡はあのとき探しにも出なかったと、後々まで恨まれるからなあ。車を出したよ。あんまり心配させるなよ」。ひたすら謝る。
 霧が深くて、道が雨で濡れていて、滑って走りにくい夜であった。

 8月22日(火) くもり時々雨
 朝 ごはん、のり、納豆、うに、卵とじゃがいも妙め、味噌汁(玉ねぎ)。
 昼 ごはん、イナダ煮付、佃煮、キャベツ酢漬。
 夜 ごはん、豚肉衣揚げ、サラダ、さつまいもから揚げ。
 午前中、管理所に行き、昨夜、捜索のジープを出してもらったお礼とお詫びを言う。
「この辺じゃ、夜、二時間もめえに出たが、まだ着かねえというときに探しに出ることがある。林の中に車をとめて運転手が眠っていることがよくあるだ。武田さんの奥さんは、まさか、そんなこともあるめと思ったけんど、ジープを鳴沢方面とゴルフ場の方へ手分けして二台出した」
「ガスが湧いたし、道も濡れていたで。山の道には馴れてる奥さんのこんだから、まさかとは思ったが、車が沢に走りこんでひっくりけえってることもあるだからなあ。探照灯で沢や窪みを照らしながら走った。先生はジープに一緒に乗りこまれたで、そんなこんなを見ているうちに、なおのこと心配になったずら」。昨夜、捜索に出てくれた人たちは、寄ってきて、笑いながらそう言った。
 帰りがけ、大岡家に寄って、昨夜のおわびを申し上げる。大岡さんは、玄関へ出てこられて「あんまり人騒がせなことしないでくれよ」と言われる。「はい。ごめんなさい。今度、奥様がいなくなったとき、私が一生けん命探します」と、心からお詫びする。今日、朝日新聞の黛さんがくるから夕飯に来い、とのこと。
 工事の職人、一寸やってきて、すぐ帰る。雨が降り出すと仕上げは出来ないから、天気をみて仕上げ塗りをするという。
 夕方、大岡夫人迎えにこられる。三人ともいらっしゃい、といわれるが、私と花子は遠慮して、武田だけ、夕食に作った肉の衣揚げを少し持って行く。黛さんの前に三人お客があったので迎えが遅くなったとのこと。とても忙しかったらしい。
 夕食のあと、花子の二度目のハタ織りのタテ糸を作る。花子はハタ織りをしながら留守番しているという。
 八時半過ぎて、私だけ大岡家へ迎えに行く。私もビールを頂く。黛さんに昨夜の騒ぎを説明しながら、また繰り返し、皆で笑う。
 私がビールを飲みだすと「盲合子、おいとまするぞ」と、いつも口癖の主人は、今夜はそんなことを言わない。子供のようにはしゃいで上機嫌でおしゃべりだ。
「武田さん。昨夜のお顔とはまるでちがいますね。昨夜、花子ちゃんと玄関に現われたときの顔つきといったら……」。大岡夫人がからかうと、また、その話に戻って、皆大笑いした。
 車を降りると、向いの沢の寮に向かって、主人はながいながい、バシャバシャという、ビールのおしっこをする。しながら「百合子オ。松茸エ、マツタケエ」と大声を出す。
 庭の萩、オミナエシ咲き盛る。夜でも見える。 」
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2010.08.26 Thu l 文芸・読書 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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